悲しみにもいろいろな色がある。
表面上は水色であっても、内に行けば行くほど深みのある青になっていったり、時にはどこか温かい桃色が隠されていたり。それは広く深い海のようなものだろう。
その温かさはどこか、人類の営みが繰り返される中で積みあがってきたもののような感じがする時があるし、それよりも遠い景色の中に眠っているものと感じることもある。
悲しみに秘められた様々な色、それは鬱の底で世界の色がどこか褪せている時には見つからないし、水色の悲しみに浸ることが目的になっている時も見つからない。
苦痛を遠ざけることと同じく、悲しみも遠ざける対象とされることがある。でもそれは、同じく生と密着した感覚を遠ざけるという意味で、苦痛を遠ざけることと同じ結果を生むことになるだろう。
少なくとも水色の表面だけを見て遠ざけるのであれば、奥深くに隠されるオーロラを見つけることは出来ない。それは、外側の水色と同じ温度に身を溶かさなければ感じることは出来ないからだ。
避け、遠ざけられているのは深く鮮やかな世界への入り口である。それは、僕らが日の下の世界に見る明るく鮮やかな世界の対極にあるようで、実は繋がっているのだろう。だからどちらを求めるにせよ行きつくのは同じ場所ということではないか。
悲しみを悲しみとして見なければ、共有されている、言葉で表すことができる表面的な部分ばかり見た観念など捨ててしまえばいいのではないか。
そうすれば、その中を探索することは趣味の悪いことでもおかしなことでもないはず。
例えば人と人の関係の中にあっても、ある種の扉を開けるためには悲しみが必要なこともある。それはドアを解錠する為の鍵ではなく、内から開かせるものだ。
それは城主がその相手の訪問を許すために見定める空気。
そしてその交流は、晩餐を共にする歓び。共振。
外と内が、そして意識と無意識が、そして僕固有のものとそうではないものが、瞬間と残渣が繋がっているというのなら、深い部分の色に触れるということは、僕自身にとってすべての色の見え方に関わる問題であろう。便宜上色と書いているけど、それは感覚全般のこと。知覚から認識、思考、記憶まで繋がるものである。
フィルター、色付きグラスが嫌いな人間として、より純粋でクリアな見え方を取り戻すことに執着するのはある意味当然のことだろう。多分、僕?は、それはそこにあると感じているのだと思う。
例えば、僕がより知りたいと思う、優しさや強さというものも、その先のハッキリとした目で見ることで、その球体の輪郭や色の広がりが見えるのかもしれない。
探求には衝動がある。衝動には目的をあてがい、それそのものを意味づけ、何かを関連付けることが許される。でもそれ自体に意味はない。
意味があるのは、僕がその先に何かを求めているのだろうと想ったことだろう。
と思った。
らしい。
だから僕は悲しみの観念には従わない。やーい、あっかんべーだ!