手を眺めていて思う。この手は本当に自分なのだろうか。手に触れる空気の感触は誰のものなのだろう?手を動かしてみて思う。なぜ手は動くのだろう。僕が動かしているのだろうか。手が動き、僕が動かしていると後付けで思ってるのではないだろうか。そもそもこの手は本当にあるのだろうか。本当にあるとは何なのだろう。手を僕が動かし、その手を僕が見ている。と思っている僕を見ている僕は、今この胸のざわめきを感じた僕を見ている僕と同じなのだろうか?
なんてことを考え出すとキリがないのだけど、僕は流体かもしくは場であり、その中に浮かび上がる点くらいに思っておけばいいかなと思う。ってことを考える僕は、そう、割と外側の点。でも、素朴な疑問に答えを見つければいいというものでもない。少なくとも僕は、素朴な疑問の方を大切にしたい方だ。多分それは、直接的な知覚に近いものだから。目に映る手のようなもの、空気の感触、それを感じている僕というのは、割と知覚に近いものだ。でも段々と疑問を撫で続ける内に主体は外に動いている。それはそれでいいのだけど、なんだろうな、疑問の純粋さというのか、子どものような素直さというのは、やっぱり知覚に近い部分にあるような感じがして。まぁ、外に外に行ったとしても、知覚していることには変わりがないのだけど、知覚している対象、つまり客体が、内的なものだからかな。意識の中で知覚の入れ子が連鎖していくような感覚。何かを知覚する、何かが知覚されるということは、そこに主体、つまり感じる主体としての僕が居るわけなんだよね。だから感じれば僕がそこにある。丁度潜水艦のような感じだろうか。アクティブにしろパッシブにしろ、ソナーで何かが浮かび上がる。音波で感が広がる。するとそれを受ける僕がそこに居る。
Cogito, ergo sumと少し違うのは、感じると僕があるというのは常に結果論になるからかも知れない。確かに知覚している時は知覚しているという事実に僕が浮かぶのだけど、受動か。結果論と言うより、受動なんだよね。能動でも結局感受になる。何かに触れたとしてもそう。思考でさえ、思考が走ったとして、それを認識、つまり内的に知覚するから思考している僕が見えるわけだから。
疑っている自分自身の存在は否定できないと言われても、そもそも自分自身とは何か分からないし、存在ってなんだろうってなる。まぁ否定できないことは否定しないとして、それは肯定を意味しない。とかいう面倒くさい思考をするのだけど、実際自分自身とか言われてもどれのことだか、どこからどこまでなのか、どの現象を指すのかわからない。この皮で覆われた僕のことを言うのか、何かを知覚している時の僕のことを言うのか、それを見ている僕を言うのか、その他のどれかなのか、その複合としての自己の集合的なものなのか。外側は?僕が構成要素となっているより大きななにか。それは自分自身ではないの?だって、おかしいと思わない?この肉体、意識の内部で僕が点在しているわけで、その一部も全体も僕と捉えようとする。じゃあそれを外に反映しないのはダブルスタンダードじゃないの。でもこれを始めると、今度は僕の中の腸内細菌も僕とするか、そうじゃないとするかみたいなことまで始まるけど。
まぁ総括すれば、僕という言葉が色んなものを内包しすぎているからなんだけどね。って感じ。じゃあ分解すればいい?違うんだよねー。だって外から入ってくる僕・自分というものに関する言葉に対する応答なわけだから。要するに、僕にはそれらを分解して一々色んな僕というものを定義することは出来ても、それをするまでの理由がない。それをすればスッキリするだろうけど、切り分けを言葉にして固めてしまうという、大きな代償を払うことになる。外から入ってくる僕・自分というものに関する言葉に対する応答だったんだなという部分で十分納得したことにして、よしにしておけばいい。だって、外からあーだこーだ言葉が入ってこなければ、僕はその曖昧で煩雑な僕という何かに居心地の良さも抱いているわけだからね。
天井に手をかざしていて思う。この手は僕なのかなって。でも、何かが手に触れている時、それを感じているのはやっぱり僕なのだと思う。でも、これはこの手が僕であるということを意味しない。なぜなら、僕が感じているのは、感じられている感触だから。そこに隔たりがある。僕は手を通して布切れの感触を感じている。これは解釈だ。まず、統合してしまっている。目で見たものと、手で触れたものは別なのだから。布切れという認識も、後付けのものだ。僕は手を通して何かを感じている。これも解釈だ。僕の手が感じているという情報と、感じられている感触は別なのだから。僕が感じているのは、この感触だから。ざらざらしているとも、すべすべしているとも、乾いているとも、少しまとわりつくとも言うことは出来るけど、この、感触。見えている景色、手のようなもの。手なのだけど、景色。見えるものはが何にせよ、見えているのはいつも景色だから。
これ、別野加奈さんのアルバム、もう、見たくないよ、と言いつつそっと硝子の中に閉じ込めた 展のトレイラー動画らしいのだけど、すごく好き。アルバムも素敵だけど、この動画は本当に好き。
こっちは彼女の自主制作映画。色々好き過ぎて多分10回近く観てる。
なんかね、映画って疲れたりもするのだけど、これは心地よくて何回も観ちゃう。
もっと早く知りたかったな。


