感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど。主観の瞬間的垂れ流し。

姿勢 筋と筋の伸縮による均衡 誤ったイメージ

段々と蓄積されていた腰へのダメージが深刻になってきたので、最近は姿勢を意識してストレッチや軽いトレーニングをしてます。

 

昔から猫背で、それを直すためには巻き肩や仙骨座りが干渉しているので、それも平行して直さなきゃ。それを直そうと首の前傾や顎が…って全部繋がってる。

様々な筋肉が普段の姿勢を維持するために天秤のように緊張・弛緩がバランスを取り合っていて、それを全てニュートラルに戻すという作業はものすごく難しいものだと思った。

 

ズレた状態で均衡を保っている。姿勢は崩れているのに、ある個所に負担は集中しているのに、それぞれの筋肉はその崩れた姿勢を維持するために骨を支え、釣り合いを図り、膠着状態に陥っている。 

重力下で行動するだけでなく、ただ体勢を、姿勢を維持する為だけに、どこかしらの筋肉が弛緩し、その対が緊張している。これって凄いことだと思った。

姿勢が崩れていても常にバランスは取られている。面白い。

 

顎を引き、首を直立させるためには緊張し、凝り固まった胸鎖乳突筋及び前斜角筋を伸ばすと共に、それらが頑張ってる陰で使われずに弱まっている頸部屈筋を鍛えなければならないらしい。

でもこれは前傾する首だけの話で、連鎖する巻き肩や猫背も同時に調整しなければいけない。意志が弱いからもうこの時点で無理な気がする。でもそろそろ気を付けないと本当に腰のダメージが本格化してきたので、頑張らないと…

 

昔から色んな人のアドバイスを受け、背中は伸ばすように心がけてた。でもその皆にとって普通の姿勢って僕にとってはとても辛いものだった。背筋を伸ばすと呼吸が苦しいし、食べ物も飲み込みづらい。その辺は理解されなかった。でも恐らく単純なことで、肩が前に出て背中が丸まった姿勢においては背筋かそこらへんの筋肉が緩んで弱っている代わりに、逆側が緊張して硬直しているということだろう。

その緊張し、硬直した、力をつけた筋肉(こう言うとかっこいい)が、背筋を伸ばした体勢だと横隔膜が上手く作動しないようにブロックするのだと思う。

 

これって小学校時代の、酷い鼻炎と喘息でしょっちゅう呼吸が辛かった僕にとっては死活問題。背筋伸ばすと本当に苦しかったんだもん。その筋肉の硬直が咳やくしゃみによって引き起こされた可能性もなくもないと思った。詳しく調べてないからわからないけど、とにかくどこかで作用し合い、連鎖して均衡を保っている。

 

これは大発見。

猫背は僕の努力不足で直らなかったのではなく、身体の状態的に直せないどころか、その状態での膠着は起きて然るものだったのだ!また自分の悪い所を正当化してしまった。

でもね、本当に、「直しなさい」「背中を伸ばしなさい」って言われてもそれが続けられない自分を責めていた。ただ背筋を伸ばせと言われても無理だなんて知らないから、出来ない自分が悪いのだと思っていた。そういった思考からはその論理武装による正当化は僕を自責から、かけられた言葉、そして自分自身にかけたの呪縛から解放してくれるものなのだろう。

 

 

何でこの筋肉の釣り合いのことを誰も話してくれなかったんだろう。1人だけ、たった1人だけ猫背を直すためには巻き肩を直すように、肩を後ろに引っ張るように教えてくれたけど、それも部分的にしか正しくなかったからできなかった。

肩を後ろに引くには腕を外側に回すと知ったのは5年ほど前だ。それも当時は、僕にとっては大発見だった。それも意識してやってたけど、やっぱり駄目だった。そこだけストレッチしても気持ちいいだけで意味なかったんだもん。

 

重要なのはElasticだ。筋と筋の伸縮を意識させてくれる人は誰もいなかった。背筋を伸ばすこと、脊椎のことばかり意識させられるから、そっちを意識することは全くなかった。

提供されてきたイメージは全て骨だった。

骨が身体を支えているのではなく、筋と筋の伸縮が骨を支えているのに。理屈では分かる筈なのにどうしてその誤ったイメージに引っ張られてたのだろうか。はずかちい

 

 

固まった筋肉を伸ばすのはとても気持ちがいい。血流が行き届き、疲れ切った繊維たちが喜びの声に震えるのが分かる。

使われていない筋肉を鍛える作業も続かないだろうけど楽しい。自分の姿勢を維持し、身体を動かす一つ一つの筋肉を知り、意識すること。それは何よりも楽しく、意義深いと感じる。

僕は自分の身体のことすら何も知らない。指や手、それぞれのパーツたちがどうして動くのか、誰が動かしているのかは多分死ぬまで分からないだろうけど、メカニズム的にどのようにして動くのか、そして動かないでいられるのかを知ることは出来る。そんな意味のないことを知ることもまた楽しい。

 

今はもう喘息も鼻炎も治ったので、ちょっとずつ矯正していこうと思う。

腰を痛め、それを庇う姿勢を続けるようになれば、ドミノ倒しのように崩れていくだろうから。

 

 

あ、性格的に縮こまってるっていうのも確かにあるんだろうけど、どの程度影響しているのだろう。それはまた別の機会に考えてみる。

イクメンへの違和感 婚姻と子育て 父親の自覚

イクメンという言葉に凄く違和感がある。

子育てに父親が積極的に参入するのは、『核家族』という現代的かつ特殊な家庭環境において、母親の育児負担を軽減するという目的においては正当性があると思う。前提が核家族というのも、流れ的には致し方ないのかもしれない。

でもそれを前提として、そういったブームとしてヒトの動物的な生理、本能を無視した役割作りを推し進めることにどの程度のリスクがあるのかは考えられていない。

 

父子手帳というものも配られて、親子、家族の在り方を作り上げようとしているようにも感じられるが、父親にどこまでのことを求められるのだろう。今まで求められてきた父性という父親の役割ですら怪しいのに、母性的な役割の一端をその父親に担わせることになる。

 

父親という存在の在り方は文化によって大きく異なる。文化的な群れの形態による『役割』に就く人間の面白いところだと思う。それでもその役割は本能的なものを含んだものになっている。イクメンというのは、それを超えた部分を父親に担わせるという社会的な試みだと思う。それ自体は悪いことではないと思うけど、それがスタンダードだという意識を植え付けることによる社会的、精神的、生理的な弊害は無視できるものなのだろうか。

そして、その父親の在り方がスタンダードという意識を広めることに、副次的な問題、例えば男女というものの認識の違い、価値観の変容はどの程度意識されているだろう?そういったものの積み重ねもまた、レッテルの張り合い、男女間のヘイトに繋がるものだと思う。

 

父親の役割は文化によって大きく違う。近代的な価値観の多くは欧米文化の影響もあり、キリスト教的であり貴族的でもある単婚の核家族が元になっているが、それでもまだ父親にその役割を求めない文化も多く残されている。

子育てにおいては男は単なる生殖の道具でしかない(女性が種を選び共同体の力を借りて育てる)形態も稀ではないし、妻問婚のような形態が残ってる場所もあるし、夜這い文化が残る場所もあれば、逆にイスラム圏のようにより強固な父親の役割による女性・子供の庇護がベースになる場所もある。子育ては共同体の文化、そして婚姻が密接に関わってくるものだろう。

 

この辺は僕の勝手な想像だけど、現代の子育ての価値観は、父系の財産管理によって育まれたものであり、その相続を自らの血筋に行うために作られた妻・子供も財産の一部という男性による社会的な価値観がベースになっているのだと思う。

子供を財産と判断する上で、(複数の目的のために)それ以外の財産の将来的な相続者を自らの血を受け継いだ子供に限定するためには、単婚によってその母親となる妻の行動を抑制する必要がある。そしてその妻もまた、それを甘んじることで子供を確実に育て上げるというより上位の目的を達成できるため、婚姻という契約を許容するのだと思う。

この価値観がベースにある上に核家族という最小の群れがベースとなる現代社会において、父親にとって何より重要なのは子が自分のものであるという認知だろう。女性に対して生まれる多くの偏見が、この無意識的な社会的、文化的価値観がベースにある男の様々な本能的な『恐れ』に端を発しているのだと思う。

 

対となる女性はどうだろう。女性の場合は何人の男と性交をしたところで自分の子供の母親であるのだから、強い母性が変わることは中々ないのではないだろうか。重要なのは子供を育てるための男の力(財力・権力)だ。共産圏のように経済的な子育てのハードルが低ければ離婚率は上がることからも、女性が婚姻という契約を甘んじる本能を生むものは、子育てにあると言えるのではないだろうか。

女性がこの社会形態下で男性にそれを求めるのは至極当然のことで、それはいくら包み隠さなければならないとされいても隠せるはずのない本能に根ざすものだ。男はそれを感じ取って更に恐れを増し、この事実を良しとしない男女の中で、互いのヘイトは深まるのではないだろうか。

ヒトのメスは生殖においてオスを騙し、惑わすことで確実に子育てを行ってきたとまで言う人もいる。(でも僕は、それは最近の話なのではないかと思ってる。少なくとも万年単位の話ではないと思う。)

 

逆にそれを乗り越えた感覚、群れの感覚に身を置くことができる人は、性差による感覚の原因に違いはあるものの、群れの本能に従って自らの血を受け継いでいない事が確定的である子供も、群れの中の1人として愛情を感じ、育てることが出来るのではないだろうか。

 

群れの本能、チンパンジーもまた、オスが自分の子供を認知しない動物だ。それでも群れの中の子供に対し、子育てに参画することはある。それが社会性なのだと思う。

メスもまた別のメスの子育ての手助けはするが、自分の子供を最優先する。自らの子を守るためなら他の個体をも殺す。それが母性なのだと思う。

 

人とチンパンジーが近いとはいえ全く同じに扱うことは出来ない。それでもその本能を人が持ち合わせていると僕が主観的に思える程度に、人の社会、文化の多くが同じような本能に根ざして出来たものであるという共通点は様々なところに見られる。明治以前の日本もまた、そういった要素が多分に見受けられるものだと思う。

 

 

という観点からすると、『イクメン』というものを推し進めたい社会の求める『父親の役割の変化』による『子育てにおける家族形態の変化』とは、結局のところ1つの問題を解決するという短絡的な目的であって、イクメンはそのために作り出されたブームなのではないだろうか。

 

僕はそれを悪いと言いたいわけではないけれど、問題解決のために強引に綱を渡してそこを渡らせようというなら、危うさも意識したほうがいいと思う。これが現代的に正しい子育ての在り方だとしても、将来的にそれが正しかったと判断される保障はない。他の施策同様、簡単には後戻りできなくなる可能性もある。

例えそれを政府や自治体が推し進めているとしても。彼らの打ち出す政策の短絡さは少子高齢化をはじめ様々な社会問題に嘆く現代人なら分かって然るものだと思う。渡れと言われて綱を渡るのなら、あんまり文句は言うなとも思うけど。

 

 

この社会環境の中のこの家族形態における母親の負担軽減のため、先ずは『父親の自覚』を必死に植えつけようとしてる。

母親に比べて父親になる自覚が生まれづらいと不思議がってるけど、そもそもそんな自覚がヒトのオスに備わっているのだろうか?それがないのなら、他のどんな本能、衝動、情動を基礎にその自覚を作り上げさせる気なのだろう?基礎もない欠陥建築じゃないだろうか。

少なくとも今まで求められてきた父性というのは、チンパンジーのオスとの共通点もある、オスの本能に基づいた伝統的な価値観に基づくものだった。それは父親としての自覚が薄くても可能だったものでもある。それを逸脱した領域に踏み込ませる概念がイクメンだと思う。

 

社会的な責任としてその自覚を持たせることは可能だけど、そんな個人の感覚に丸投げすることを育児という場面に押し付けることに、正当性はあるのだろうか。新しい社会問題をばら撒くこと、既存の問題を複雑化させることにならないだろうか。育児に積極介入することで、精神的、生理的、更には肉体的にも変化を与えるのではないだろうか。疑問が尽きない。

 

 

そもそも何故いつまでもその核家族が基本にあるのだろう。今更変えられないと踏んでるのか、それとも変えたくないのか、変える必要性を感じていないのか。この大きな日本という社会の中の核家族という作り上げられた基本構造こそが色んな問題の根底に近い部分にあると思うのだけど。その問題だらけの土台の上で問題解決を図ることの意義が感じられない。それについては今は置いておく。

 

 

積極的に育児に関わる父親が居て、母親の負担が軽減される家庭もあるだろうし、それはある種の理想かもしれない。でもその父親たちにどんな父親の自覚があるか、その原動力は何かを聞いてみて欲しい。ベースにあるものは全く別のものである場合が多いのではないかと思う。

 

『イクメン』、なんだか嫌なもの、気持ち悪いものを感じる。勿論育児において女性を助けること、子育てを共同作業とすることは大切だとは思うけど、それとは別の部分で何か気持ち悪い。

「思考に気をつけなさい~」から マザー・テレサ 押し付けられる格言

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから~」というクォートを時々目にして、その度にこの人の考え方は合わないなぁと思ってた。

そういう人も確かに居るのだろうけど、誰もがそうだったら苦労しないんだよなぁ。それを運命に繋げるのも何か嫌だなぁって。

マザー・テレサの言葉だということで、マザー・テレサとサイババが頭の中でごちゃごちゃになって記憶されてる僕は整理しようと思ったわけです。チャリティをする人がこの考え方なのもちょっと納得いかなかった。

 

ということで先々週かな、マザー・テレサ関連のクォートを色々探してみたけど、冒頭のは見つからなかった。興味深いことに彼女のクォートを読んでいるうちに、共感を持つ部分が多かったわけです。それまでは冒頭のイメージとサイババのイメージで全然良い印象は無かったのだけど。

 

批判もそれなりにあるけど、言葉に含まれる成分からは友達になれそうだと感じた。もう死んでしまってるけど。愛という言葉が好きだけど過信しているわけではないと感じたし、セイントでありながら、神を信じることが即ち内側の声に従う事という感覚を持っている人。冒頭の短絡的な格言と相反してるものだ。

 

それでもって結構調べたのだけど、冒頭のはいくら探せど出てこない。そこでふと、日本語で調べようと閃いて「思考に気をつけなさい 原文」で調べたら、これがマザー・テレサの言葉ではないことをまとめてるブログが出てきた。

結論的には、この言葉はマザー・テレサではなく別の人の言葉であって、日本でしか流布されていないということ。

 

可哀想。いつものことだけど、人は有名になると言ってもいないことで全然関係ない外国人に勝手に人柄について判断されるようになってしまう。その言葉が彼女の性質とはかなり食い違ったものだけに、僕だったらその恥辱に耐えきれないだろうなと思った。死んでるんだけど。

 

言葉には手垢がつくものだけど、誰の物かわからない言葉に色んな手垢が付いてできた力太郎を、死後勝手に自分の子供と押し付けられ、「あれ力太郎の母ちゃんだぜ」って言われる内に自分=力太郎の母になってしまった的な。かなり強引な例えだ。

無情な世界。

 

せめてその格言に心を動かされたなら、それを言ったとされる人本人について少しでも調べるのは普通ではないのだろうか。人が分からなければその言葉の重みが深まることもないと思う。言葉に求めるものが人によって違うのはいいとして、でもあまりに言葉や情報ばかりが独り歩きする。言葉を武器にばかりしようとするからではないだろうか。

まぁいいや。

 

サイババとごっちゃにしてたことと、冒頭の格言で嫌なおばちゃんのイメージを持ってしまってごめんね。

サイババも興味出てきたから近いうちに調べてみようかな。

 

最後に気に入ったのを二つ貼ってみる。これらも本当はこの人が言ってなかったりもするんだろうな。翻訳の問題はあるだろうけど、より確実なのは著書をあたる事なのだろう。そんな気力ないけど。

 

これ好き

“We need to find God, and he cannot be found in noise and restlessness. God is the friend of silence. See how nature – trees, flowers, grass- grows in silence; see the stars, the moon and the sun, how they move in silence… We need silence to be able to touch souls.” – Mother Teresa

 

https://everydaypower.com/quotes-by-mother-teresa/

 

この人、孤独に関して似たような言葉をいくつか残してるけど、もしかしたらこの人が利他的に、チャリティに、そして与える愛に生きようとした理由の一つなのかもしれないなと思った。

“Being unwanted, unloved, uncared for, forgotten by everybody, I think that is a much greater hunger, a much greater poverty than the person who has nothing to eat.” – Mother Teresa

 

https://everydaypower.com/quotes-by-mother-teresa/

 

この種の愛を語る人は強い孤独の世界を知っている。そして内側の静寂を求めている。面白い共通点。何か鍵があるかもしれない。

クラクションに見る攻撃性 正当防衛 感情の発散

車を運転してて、咄嗟にクラクションを鳴らすという行為がとても苦手なことに気付いた。

クラクションは全く使わないわけではないけれど、やっぱり最小限。僕が使う時はいつも無意識に線を引いてるんですね。相手が車でも歩行者でも、何となく「怖いなぁ」と事前に僕が察知していることが条件で、その時に鳴らす条件を作っているようだ。

そういう時はいつも右手の親指をクラクションに添えて「来るなよ…来るなよ…」と念じてる。攻撃性を見てるのだろう。

 

映画やアメリカ警察のボディカム映像にある、武器を拾おうとする相手に向かって念じてるやつ。ブラックホーク・ダウンでマイクが「Don't do it lady!」って言ってる場面とか、そういうのが頭に浮かぶ。

仕方なく鳴らしてる。少なくとも正当防衛だ、そう思いたいんですね。

クラクションというもの自体の認識が既に攻撃的なもので、武器のような感覚があるんだろうな。

 

それだけ鳴らされた時に精神的な攻撃を受けたと認識しているのだろう。

こっちが悪い場合はいいのだけど、示威的に使う人と行き場のない感情エネルギーの捌け口に使う人が多いから、それが嫌。

こっちが悪い場合でも、加減ってものがあると思う。自分の正しさを主張したいがためにワーワーワーワー言う人も好きじゃなくて、多分それと同じものもクラクションの世界に見てる。

あ、それらと同じに見做されたくないというのもあるのか。いつもの…

 

だから舐められる?

そうなんだけどさ…でもそれで僕がいいんならいいんじゃないって思う。

ダブルパークされて駐車場から出られない時も、まぁクラクション鳴らせば早いんだろうけど、別に急いでないしなって思っちゃうし。急いでてもトラブルと天秤にかけるとまぁ遅れる方を選ぶだろう。

 

事なかれ主義なんだよね。

以前同居してる人が、自分の駐車スペースに知らない車があるのを見て、運転していた僕にクラクション鳴らせと言ってきて。仕方なく鳴らしたら出てきた持ち主と怒鳴り合い始めるし。

別に他の駐車スペースあるんだからそこに置いといて、後でやんわり言えばいいじゃん?って思っちゃう。実際は結局言わないんだけどね。

ダブルパークにせよ無断駐車にせよ、相手にも事情があるかもしれないじゃん?それなりのリスクを冒さなきゃいけない状況かも知れないし…そうじゃないことの方が多いんだけど。

 

まぁでも怒鳴る人、クラクションも似た物として、そのハードルが低い人、そういう人たちは感情のエネルギーが有り余ってるのかな。外に出すってすごい。

 

僕はなんか感情に振り回されてるくせに外に出すのは苦手。

あ、外に出す人はそれで発散できるんだよね。発散する機会をう伺っているとすら思えることがある。僕を巻き込まないでくれればどうでもいいんだけど。

 

発散、僕は外に出しても発散になるどころか増幅した挙句負に反転して返ってくるから。良いことがない。まぁ苦手なだけなんだけど。

コントロールを解き放って放出したら気持ちいいのかな?と一瞬思ったけど、出来ないものを想定しても仕方がない。

 

やっぱりクラクションは嫌い。せめてこう、もう少し茶目っ気のある可愛い音ならいいんじゃないかな。

気付いて注意が向けばいいんでしょ?可愛い音なら受ける側も変なダメージ負ったり、無駄なこと考えたりしないし、増してやパニックを起こして余計危ないことになることもないだろう。

音に感情を乗せる側も可愛い音なら感情が乗らないと思うから、使いどころをもう少し考えるようになると思うんだけどな。

 

そもそもクラクションの目的は何なのか。そこなんだろうな。

多分、多くの、特に車好きには僕の今思いついた意見は嘲笑された挙句却下されるのだろう。パラリラパラリラやってる兄ちゃんとそんなに変わらないんじゃないかなって思ってしまうけど、まぁ彼らにも『かっこいい車』に特別な想いがあるのだろうしね。そうじゃないと特定の層には売れないのだろうし。

 

そういう人達からしたら、可愛い音のクラクション鳴らされると逆に腹が立つんだろうなぁ。中学生の頃不良くんに、にやにやしてんじゃねえぞ!って連れて行かれてプールの陰で殴られたけど、それと同じことが起きそう。不愛想にしてると怒る人もいるし、何なんだ。

人間とはつくづく面白い生き物だと思う。

 

めんどくさ。

風邪気味から 宝くじのこと

微熱に喉の痛み、鼻炎に目のかゆみ。症状は軽いのだけど軽いから辛い。

もっとこう、バーッと動けなくなるくらい熱が出てくれると「何もしないで寝ていい」という確証を得られたようで、気持ちよく休むことが出来るのに。

 

暫く鼻炎で寝不足だったけど、昨夜は少し熱があったせいか割としっかり眠ることが出来た。ベッドに入ったそばから、自分が早めの口呼吸をしていることくらいしか意識できないくらいに深く深く落ちていった。頭の中にワームホールができて、そこから恒星間を航行しているような眠り。

 

そのなによりも心地よい、母の胎内のような時間は一瞬で過ぎ去り、今朝はもっと眠りたい身体に鞭を打って起きた。相変わらず喉が痛い。くしゃみが治まったことだけが救い。

なんかこう、ストレスのせいなんじゃないかなという気がしてくる。

森に帰りたい。

 

やっぱり街の生活は合わない。足の甲のアトピーが復活してきたのを見ても、やっぱりなとしか思わない。

旅に出るか隠遁したい。

 

こっちの人たちはLoto6のような宝くじが好きだ。大当たりが当たったら何するか、そんな話ばっかりしてる。

僕も聞かれたので、「子供の学費と生活費を取っておいて、残りでボートの15hpのエンジンと刺し網を買って村にこもる」と答えたら、冗談で言っていると捉えられた。心底まじめな回答なのだけど。まぁ買わないから当たらないんだけどね!

 

皆その金を元手にビジネスをしたいらしい。殊勝なことだなぁと思う。

 

僕は楽をするためにお金を稼ぐという考え方ができない人間だから、まじめな発想が彼らには冗談に聞こえてしまう。ビジネスしたらなんだかんだ忙しいだろうし、不労所得を得たとしても管理とか面倒くさそうだし、人間関係とかぐちゃぐちゃに巻き込まれそうだし。ってすぐそういうことを考えてしまう。お金が欲しくないわけじゃないけど、全般的に面倒くさいが勝る。

 

結局森に籠るのが一番楽なんだよなぁ。楽しいしね。

あ、世界旅行はしたい。行動力ないから色んなところには行けなさそうだけど。

眼窩痛が… 画面見るのはおしまい!

人類の川 想いの種 祈り

我々の祖先の中で、鳥を見て空を飛びたいという想いを初めに抱いたのはいつの誰だろう?その思いは他の者と共有していたのだろうか?

 

月をより近くで見てみたい、月を掴んでみたいという想いを抱いたのは?

 

僕の内側にあるその憧れ、その願望、その夢は、僕とその人達を一本の流れとした場合、上流から流れてきたものなのだろうか?僕はこの感覚は僕が自分で得たものだとは感じない。受け継いだのかは分からないけれど、もしそうだとしたら、夢見ることもより華やかな意味を持つようになるのではないだろうか。

それは川の上流から流れてきた胡桃が、下流で芽を出し、育ち、実を結ぶように、上流からの想いが、流れ着いた先で土壌を見つけ、いつしか木となり実を結ぶかもしれないという意味で、一つの大きな祈りのように感じることもできる。

 

空を飛びたいという想いは、全ての人ではないけれど、我々の中で芽生える可能性のあるものである。それが数ある人の中で、時には養分を分かち合い、いつしか実を結ぶ者が出る。

熱気球で飛んだモンゴルフィエ兄弟だったり、ライトフラーヤーで飛んだライト兄弟だったりと考えると特別な天才が作り出したようにも見えるけれど、飛ぶことへの情熱や意志は、創造という壁を乗り越えて大きな実をつけた彼ら以外にも、いたるところで花を開いている。それらの意志が別々に生まれたのではなく、それぞれの川を上流へ遡れば、太古の一人に繋がるとしたら。

川それぞれは繋がりが見えないとそれぞれが支流・分流だとは気づかないものだから、そういった願望、意志も気づかないだけで繋がっているのかもしれない。

インド人の彼も、モロッコ人の彼女も、タイ人の彼女も、ジャマイカ人の彼も、スペイン人の彼女も、ハンガリー人の彼女も、日本人である僕も、血の川を遡ればそれぞれが分流であると気づくように。

 

関係ないけど、血を繋ぐ行為はどう足掻いても分流から支流を生む行為だ。それが近親交配であれ、亜種を跨いだ国際結婚であれ、距離の問題でしかない。その距離と次の世代に託す想い、それを生み出す衝動や気持ちは(恐らく多くの場合は)関係がないものだ。

飛翔への想いも血の川と同じように、実になった物体、例えば飛行機を通して体系を形作り、小さな支流たちが本流となる川へ合流していく。

なんかとってもロマンチック。

それはまた、我々の仲間を月へ送り出した想い、深海へ送り出している想い、様々なものに似た物があるのかもしれない。

 

そんなことを想像している時間が楽しい。

 

 

僕も何か夢を、憧れを、願望を、そういった想いを生み出して、祈りを込めて下流に流すことは出来るだろうか。中継地点でもいいけど、やっぱり一個ぐらい自分のを流したいな。

下流で誰かが拾ってくれると信じて。想いが実る日が来ることを信じて。

 

そうであれば、僕の夢たちもより主観を超えた意味を持って浮かばれ、祝福されるだろうから。

内的経験を元にした自己 人間像と基準 現象としての自分

臓器が、そして腸内細菌が、その他の細胞や細菌、ウイルスが、個々にそれぞれ生存意志を持っていて、彼らの存在が思考に影響を与えるとするなら、僕自身はやはり環境の中に在る環境として、複数の環境を構成して成り立っているのだろう。

僕の意識も無意識も一つの、または複数の複雑な環境が集合として生存するために生み出す現象に過ぎず、集合知的な結果に過ぎないのかもしれない。

 

それはまたより大きな環境という視点、小さな環境という視点、そして更には宇宙規模の環境という視点まで共通の、環境の連鎖という認識のもとに繋がるものだ。

そしてそのニヒリズム的な視点は、人間本位という欺瞞的思考によって様々なものが成り立つ世界における苦悩から僕を解放してくれるものでもある。

それは楽観的でも積極的でもなんでも良くて、ただ内的な経験を通しての見方から、その視点はぴったり。なぜ皆の見方が人間が中心になるのかは小学校時代からの疑問だった。自然の中の自分なのにって。

虚無主義という名前が付けられる意味が分からないぐらいに僕にとっては当たり前の世界の見え方。初めて知った時はそうじゃない人が居ることに驚いた。

 

内観を通し自己の内側の世界の儚さを経験し、それを通し外側の世界における自己の存在に迷うような人にとっては、『確固たる自分』という自己認識が難しいのかもしれない。それもまた捉え方、性質によるものだろう。

 

そういった人は、気質的に優位な機能を主体に、自分の内側の世界の経験を基礎として物事を捉えている。その感情や本能的衝動、またはそれ以外のものによる影響を強く受ける(影響そのものでもある)その世界の脆さ、掴みどころのなさ、変わり易さ、繊細さ、美しさ、重苦しさや軽さ、様々なものが同時に混在し得る、常に移り変わる世界。

 

様々な地形をもってしても止まらず流れ続ける川の水のようであり

おおらかさを持ちながらも常に顔色を変える海のようであり

風に舞い不規則に揺れ落ちる枯葉のようであり

暗闇の中景色を焼き付ける雷の閃光のようであり

何かを回る銀河を回る太陽を回りながら回転する地球のようであり

長い年月のスパンで脈動する地殻のようであり

色んな匂いを鼻先に運び肌をくすぐる風のようであり

潮が満ちると見えなくなってしまう岩礁のようであり

透明で存在しないようでもその流れを感じさせる空気のようであり

谷間に流れる霧の中を歩く一匹のイノシシのようであり

森の向こう側に見える色の境目のない一本の虹のようであり

硬い殻に包まれていても中身はぬめぬめして生臭い牡蠣のようであり (食べると高確率であたる!)

 

食べ物シリーズに移行するとキリがなくなるので終わり

僕はこのような主観を通して世界を、そして自分を見ている。

 

でも一般的な世間の認識の人間像は全く別だ。もっとハッキリとしている。

客観的な世界を反映した『確固とした人間像』、そしてそれを基礎として築き上げる様々な言葉、意識、態度、前提、人というもの。

 

強要され続けるそれを理解しようと試みれば試みるほど、捉えようのない自己が否定されていく上に、外からの言葉全てに攻撃を受けるようになるんじゃないかなって思う。

そのはっきりとした基準からすると、僕は人間ではないわけで。その(彼らの言う)人間の基準に満たない自分は、その基準に居る限りは否定され続けなければいけなくなってしまう。そんなハッキリしてないんだもん。

だから僕は人間じゃなくていい。寧ろその基準が人間なら人間でありたくないわけです。

その基準を受け止めようと生きる人、更には比較に苦しむ人は想像を絶する苦しみを受けているのだろう。凄いなって思う。僕には真似できない。

 

自分が当たり前に自分として存在し得ないことが起こるのも、ある種の自己認識が当たり前となっているからであって、そしてそれを基礎として色んな物事の共通認識が出来上がって通念的に散布されてるからだと思うんですね。さっきのハッキリとした人間像のような。

その考え方のフィルターを通すと僕という存在はテクスチャー表示エラー的なものを起こすわけです。それで自己否定するなという方が無理があるわけで。

それは認識がおかしいとか、しっかり認識できてないとかの問題じゃなくて、その認識自体があってないんだと思う。

 

その辺はニヒリズムのような視点に立つとスッと楽になる人が世界中に大勢いることから(Youtubeのコメントなんか見てもそう。例えばこの動画)も見て取れる気がする。

それだけその基準に、その人間主体の考え方やはっきりとした人間像に無意識の負担を強いられている人がいるのだろう。

 

 

止め処なく浮かび上がる幻想を見ながらそれを元に世界を見て、自分をも見ている。

それが悪いとは感じない。むしろ数年前に認めてから楽になった。

なら、自分の存在もいっそ単なる現象や連鎖する環境として捉えたっていいのではないだろうか。意識も自我も経験も存在も行動も含めて、そういうものだと。できないことをやろうとすることも、何かを目指すのも、夢ばかり見ていることも、単なる現象であり結果。それ自体の無意味に立って初めて、自分という集合知としてでも、人類という群れの一部としてでも、魂としてでも心としてでも本能としてでもなんでもいいけど、自然と意志を持って生きて然る世界が見えるのではないだろうか。

 

勿論どこかの国の政治のように、一枚岩じゃないどころかぐちゃぐちゃだから迷いも沢山あるだろうけど、先ずは自分の中のそれぞれが基本的に共有する個体としての生存という部分から始めればいいだろう。生きる為の行動から、自分の内側の様々な意見を整えていけばいいと思う。いずれ、自分の内側の自分たちが納得する、情熱を燃やすことが出来る、群れの中の個体としての役割、集団の中の人としての役割も見えるかもしれない。

外の干渉を元に自分という存在を個体としてジャッジする前に、自分の内側の構成要素たちの意見を聞いてあげることで、徐々に一人の人間としての一体感を築いていけるかもしれない。

 

大体一般的な言説の逆をやると良いことが分かってきた。機能的に逆、裏、影を主体に生きているから、その逆が合うのは理に適う。

 

 

前提として気質による捉え方の違いや優先する機能の違いがあるので、全ての人に勧められるわけではないけれど、僕と似たようなタイプの迷子さんはいっそ現象の複合になってしまったらどうでしょう。合わなければまた変えればいいだけだしね。