感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

大人になったなと感じるとき から

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

今夜書こうって思ってた内容があったんだけど、いざ夜になったらやっぱり今はいいやってなってね。丁度お題が目に留まったから書いてみようと思った。

お題とか初めて書くかなぁ。昔やってた別の所だと結構やってたんだけど。

 

成人式は行かなかったなぁ。当時いつも遊びに来てた中学時代の友達が成人式の帰りに遊びに来たのは覚えてる。「スーツしわしわだし似合ってないなぁ」って思っちゃったのも覚えてる。

成人してもあんまり大人になった実感ってなかったな。小学校の学童で指導員の仕事した時は大人っていうより大人側の子供って感じだったし。感覚はね。

 

正直言って子供ができても大人になった実感ってあまりない。

でもずっとちゃんとしようとはしてたんだよ(出来ているとは言ってない)。ずーっと。周りからはそう見えてなかったと思うけど。それはなんか大人側を意識してたかな。

 

だからなのかな。大人っていうのに今も反感じゃないんだけど、自分が物理的に大人であることを意識したくないっていう感じの何かはある気がしてる。大人と子供の違いがどこまでのものなんだろう。見方によっては子供なのに大人より大人な子もいれば大人でも子供より子供な大人もいる。それに良い悪いはないでしょ。

晴れの日を迎えそういう自覚を持つのは何か意味があるのかもしれないけれど、でもやっぱり押し付けられるのは好きじゃないから僕はいいやってなる。

晴れの日は楽しめる人は楽しんで、成人の境界は自分なりに捉えてもいいんじゃないかって。

 

自分が大人だって意識すると「何が大人だバーカ」ってなる。反抗的な脊髄反射。何に反応してるんだろうな。何をそんなに認めたくないのだろう。押し付けられるから?押さえつけてきたから?

うーん、多分だけど、大人であろうとする側の自分、それを放棄したけど、許せてないのかな。だから反射的に蔑もうとする。嫌悪、若干の怒り。頭ではわかってるようでいつものようにちゃんとわかりきってはいないんだろうね。

戻る事への不安がそうさせるのかな。不安かぁ。

 

何で不安かって、それだけ大人であろうとする側ではない自分が定まってなくて弱いからそうなるのだろう。Existential Crisisは越えたつもりなんだけど、トンネルはまだ完全に抜けきってないのかな。

どうしたら全部が自分だと認められるほど強くなれるのだろう?認識?信念?僕にはまだ足りない。僕は昔ばかり掘り起こして見ているようで、それでもまだ足りていない。核心が見つからない。でも何を探してるのだろう。何で生きてるんだろう。そんなことばっかり考えてしまう。意味ってなんだろう。

いや、暗い意味じゃないよ。今の気持ちは灰色に近いピンク色かな。灰色ではない。

 

大人や子供を年齢的な見方をするなら、Age fluidっていうのも感覚的によく分かるし、更に言えば色んな年齢の自分が自分の中で自分とは別に残っている感覚もある。つい最近そんなようなことを書いた気もする。

だから僕は年齢っていうのも、それで区切る大人と子供もあんまりしっくりこない。これは脊髄反射とは別でね。僕はどうしても感覚ばかりを優先してしまうから。

今大人モードだなとか、(内側で)大人君がうるさいなぁとか、そういうのはあるかも。

 

あと、大人と子供を動物のように性成熟で区切るとしても僕は14歳後半くらいだったかな、肉体は変化してもそんなに成体になるって実感もなかった。

首でも狩って証明すればちょっとは違うのかもしれないけどね。

 

ああ、でもおっさんになったなと思うことは増えてきた。油ものがあんまり食べられなくなったり、腰痛になりやすくなったり、集中力も落ちたし、生え際が怪しいのはコロナの後遺症ってことにしとこう。

でもさ、おっさんは大人なの?おばさんは大人?幼児退行したおじいさんは?おじいさんと共鳴する5歳児は?

性別と似たようなもので、順序的な問題でそういう見え方になるんだろうな。

 

お題無視で突っ走った気もするけど楽しかった。何書いたんだろう。上手く日本語になってなさそう。

でも見直すのは怖いからいつも通り投げっぱなし。

 

「大人になったなと感じるとき」って題だった。どうしめようかな…

人は流れ熟していくらしいからね。成熟という意味なら大人が深くなっていくのかな。いや、それは薄くなったり深くなったりするからやっぱり大人は別軸だと思う。

もういいから僕はポニーになりたいよ。

記憶 から 過去にいる自分、未消化の感情

経験は積み重なるけど 記憶ってどうなんだろう。保存されるっていうのは書き物やデバイスのデータのように保存されるものから着想されたのかもしれなくて、そういったデータと同じように保存されているとは限らないのではないだろうか。

 

記憶の奥底に残っている感情の残渣は残渣というには生々しい。記憶として残っているもの、その時々の僕は今の僕からの繋がりの濃淡は違えど別の僕であって、それぞれが感情の籠の中に閉じ込められているような感じがある。その僕であり僕でないものと重なる度に繋がり、記憶は当時の知覚の再現として再生されるわけだけど、それは置いてきた僕を介したシアターのようなもので、彼はずっとそこに囚われ続けているんじゃないかと思う。

何が書きたいのかさっぱり分からない。

 

経験は連続していて、僕自身もそう記憶してるけど、記憶の中の僕は今も存在し続けてるんじゃないかって。単なるデータとしてではなく。データの定義によると言われればそれまでだけどさ。

無限増殖バグみたいな感覚があるわけなんですね。記憶の中や意識の中に色んな僕がいっぱいいて、でもそれぞれ別の僕であってこの僕じゃない的な。これって僕がおかしいんだろうか。ちゃんと意識的には統合は保ってるよ?多分。ややこしくなるから今は記憶の話だけね。

ほら、ドラえもんだってタイムマシン使うと物理的に色んなのび太が出てくるわけじゃないですか。あれが記憶の中にある感じ。この主観から見たら他人だけど、辿れば主観の中で繋がるし再現できる。再体験になるともっと直接的なんだけど、あれはもっと引き戻される感じというか、タイムスリップというか。

過去は本当に僕らが思うような過去の形で存在し、過ぎ去ったものなのだろうか?うまく言葉にできないけれど、過去もその時の自分も終わらずに存在し続けているんじゃないだろうか。っていうといかにもPTSDっぽいけど、そういうことが言いたいんじゃなくてね。

 

さっき感情の檻と書いたけれど、それは僕から見た時の見え方であって、内側から見るとそれは檻ではなくその時の自分が抱いたのであろう未消化の感情であったりする。トラウマ程じゃないものでもね。

その未消化の感情が消化されて初めてその時の僕にとっての時間は動き出す。っていうことを考えると、やっぱり囚われていて時間は流れておらず、よってそれは過去ではないっていうか。

そうでなくとも過去は同時に存在してるような気もするし。時の流れが一直線とか樹形状とかそっちの方が無理がある気がしない?まぁ、そもそも別に答えが一つである必要もないわけですよね。本当に大きなところから見れば一つであっても。

 

記憶の中の、未消化の感情の中(?)の自分って、それが消化されたらどこへいくのだろう?自己に統合されるのかな。それともどっか行っちゃうのかな。なんかそれって満足して成仏する幽霊みたいだよね。そう考えると幽霊とか怨念っていうのもあるのかなぁって気になる。

 

 

僕はかなり感情を押し込める方だから、多分溜めたものに翻弄されてる部分があるんだと思う。怒りを出すのも苦手だし、涙はお漏らししても泣くことは出来ないし、喜びなんかは感じても外に出すのは苦手だし、楽しいっていうのもワンクッション挟むからどこか白々しい。一緒にいる相手によってはうまくできたりもするけど。

 

感情のコントロールって調べると抑制する方法ばかり出てくるけど、それはコントロールって言わないと思うんですよね。コントロールって言うなら出したい時に出したり、意図的に解放させたり、抑制も抑制したい時に抑制するってことができないと違うよねって思う。

 

怒りを抑制できない人やすぐ泣いてしまう人を僕がどこかで羨ましく感じてしまったりするのは、外に出すのに難があることの裏返しなのだろう。抑制できない人にはそれなりの辛さがあるんだろうし、だから調べるとそういう方法がいっぱい出てくるんだろうけどね。何かと外に出すのは良くないとか、そういう風潮は良くないと思う。被害者ぶりだしそうだから話を戻そう。

 

でね、僕の内側には色んな感情の未消化物があるなぁと気づいたわけですね。去年かな。それはもう悍ましい消化不良のペリットのようなものが闇鍋のように…

それで色々と感情を外に出したり消化する方法を探していてこの動画を見かけたわけですよ。感情解放って言うらしい。

 


感情解放ワーク

 

何回かやってみたのだけどこのワーク僕にはとても有用だと思う。単純明快で効果も実感できる。波動とかちょっと分からない単語はあるけど。

未消化の感情に伴った自分に働きかけて能動的にやり直させ、それを見届けるってことだと思うから色々と応用が利くと思う。

嫌な相手を脳内で殴ったり刺したりしちゃうって悩む人もいるみたいだけど、こういうのから考えるとそれも大切な機能なのかなとも思う。

まぁ、自分なりに色々試してうまく使えるようにしていきたいな。

 

はい、以上。土曜日かぁ。久々にSimcity 4でもやろうかな。

うたた寝と幻聴

夕方疲れてうたた寝。気持ちよく落ちかけている時に紺色の中に回転しながら吸い込まれる感覚がした。その時にハッキリと女性の笑い声が聞こえて、「こっちだよ」「そのまま」って呼ぶ声もあった。

変性意識状態の時って変な恐怖感がある。その声も不気味に聞こえた。でも疲れていたし、身を任せたらどうなるだろうという興味が勝ってそのまま落ちていった。

結果、不思議なトリップを味わったような気がするけどさして記憶に残らず、ただ気持ち良いお夕寝をして終わったのでした。

 

ここまではっきりした幻聴って初めてだったかも。同じような状態で囁くような声は何度も聞いたことがあるのだけど、色んな声がもにょもにょしてるだけで聞き取れたことはなかった。

 

今日はそれとは違ってはっきり聞こえたのだけど、それが現実(少なくとも僕らが知覚している)ではないとも分かりながら聞いているから、なんかこう、境界が曖昧になるような感じがして楽しかった。僕の意識が向こう側に飛び込んでいくのか、既にある別の何かと重なっていくのか、タイミングで干渉するのか、意識と無意識の関係ってどうなっているのだろう。

 

ちょっと不気味に感じた声だったけど、もしその声の主が本当に居たら、それはそれで嬉しいんだけどな。それが何であれ。だってそうであれば僕は常識の外側に出ることができるのだから。この煩わしさの外側。

本当はそのまま連れて行ってもらえたらって期待もあったのかも。

夜の写真お散歩 11/Jan/2021

夜のお散歩で望遠レンズも楽しい。傍から見ると変質者だろうけどね!


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ボロボロなカーテンだなぁと思ったら星型だった。日中は良さそう。

 

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今日のお気に入り1

 

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下にも上があるのが好き。上にも下がある?境界ってなんだろう。

 

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今日のお気に入り2

 

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おしまい。

照らされて反射されるから見えるし写る。電灯って凄いなぁって思った。

自己肯定感 から 自己否定、オーバーシンキング

自己肯定感って言葉は雑多な感じがする。色んな似たような言葉がごちゃ混ぜになってるような感じ。僕の場合自己肯定感が高いとか低いとかって言われてもぱっと来ない。自己否定は凄くしっくり来ていて、(肯定され得る)存在が百なら否定も百で来る感じ。抱える相反っていうのかな。

行為に対する自己否定も存在に係る。っていうのは多分、存在と行為は僕の中で自然に結びついている。だから「何であんなことしちゃったんだろう?」じゃなくて「何で僕はこうなんだろう?」になる。その部分が僕にとっては盲点となっているから、気を付けないと傲慢になるだろうしそれに恐れを持っている。

 

注意を否定として捉える人って時々聞くけど、僕はそのタイプなんだと思う。行為を注意や批判する時どんな気持ちで批判するだろうか。多分、行動は努力すれば改められるという前提をもって、その人のためという気も時に込めて批判するのだろうけど、その部分の感覚が既に違うと思う。

僕の場合その努力して改めるという部分が既に苦手で、たとえ改めたとしても苦痛を伴ったりもする。何ていうんだろう。難しいな。

自らの存在と行動の関係性というのかな。勿論行動=自分ではないし、誤りがあれば分かるけど、でもその行動は自分の内にあって、こうするのが自分の中での自然というのかな。流儀とかそんなものではなく、こうなって然る的な。自分の中ではね。だからちょっと極端に言えば「そうですね。左利きでごめんなさい。」って感じに受け取っちゃう。「努力しても治らねーよ」という気持ちが既に入っていて、全力で存在肯定しつつその一方で全力で自己否定が来る。「やっぱりお前の存在が間違いじゃないか」って。

あ、左利きっていうのは単なる例だよ。僕はどっちでも使いやすい方使えるのが一番だと思う。

 

これって自分にとっては本当に盲点なので、他人に指摘されて分かるものではないと思う。そんな人が非難された挙句「気遣って言ってるんだよ」なんて言われたらふざけてるとしか思えない。だってそれってダブル否定。本当に気遣っているとしてもそれが受け手によっては全否定になり得るのだから人間関係って地獄だと思う。

 

だから僕の場合自分が否定された時ワンクッション置かないと気遣って言ってくれたって気づかない。ほら、もうナチュラルに自分が否定された時って書いてる。実際主観的に見れば否定されてるから、相手の気遣いを見ようとするか(そもそも自分から見れば)無い物と断じるか的な部分。でもその微かにしか見えない気遣いをしっかり見るためには自らの盲点に目を凝らさなければならない。これって本当に難しいし疲れるし辛い。正直そこまでして理解し合うのが難しい相手を見つめる必要があるとは言い切れない。でもそこに価値を見るなら、また違う見方で色々なものを見れると思う。自分も含めて。

批判的な人にとっては盲点というよりも分からない部分だから、なぜ理解されないのだろうなんて思わない方がいい。自分が理解の努力をするしかない。

 

この盲点は僕にとって積み重なった自らの怖れにも繋がっている。そしてその怖れは行動選択にも繋がる。僕は人を注意することが苦手。それは自分を重ねるから。『注意が相手の否定になる』という怖れ。同時にその盲点から『行為もその存在から生まれるものだし、じゃあ注意する必要があるのか』という見方(そういうものなんだしいいじゃん?的な)も併せ持ってる。ダブルで注意するのが苦手。

無関心なわけじゃないんだけどな…そういう個人的なこと言う立場だと僕は思わないから。関係にもよるっていうか…

 

行為を注意するのは否定ではないっていうのは聞くし頭ではわかるけど、自分の中ではその限りではないというのも分かるから、単なる怖れとは違う気もする。言い方や正当性どうこうではなく傷つき得る相手は実際に存在するんだよ?それだけ傷つくことが怖いってことだね。そうだよ!えーん。最近はぴえんっていうんだっけ。

まぁ注意のハードルが高いってことだね。

 

そうそう、自己否定は百で来るって書いたけど、最近は割と薄まったし頻度も減った。百っていうのは、存在は0か百の問題だからっていう意味だろう。じゃあ1でもいいかな。0か1。でもそれだとなんか違うんだよな。存在は0か1なのにその否定は百ってなんか面白いな。へんなの。でも感覚と思考の違いならそんなに変でもないのかも。

 

自己肯定感に関して書こうと思ったら前置きの自己否定で長くなってしまった。

僕が書きたかったのは、自己肯定感が低いという人に対してどうサポートできるだろう?ってこと。自己肯定感が高い・低いが分からない僕は、知らず知らずのうちに相手の柔らかい所を踏み躙ってしまわないだろうかって。

僕にとっては相手は紛れもなく存在していて疑いの余地はないのだし、あらゆる方策をもって百として肯定され続けて当然の存在になる。1であり百。

 

それって自己肯定感が低いと悩んでいる人に対してはどうなんだろう。端からその悩みは見えないという態度で、例えば「そんなこと悩むまでもなく君は存在してるよ」とか「人が存在してはいけない理由などないよ」とか言ってしまったりそんな態度が透けて見えたりしたら、傷つけてしまったりするのかもって。そう思うと急に怖くなった。その辛さには寄り添えても手前にある部分には寄り添うことができない。

 

何ていうんだろうな。承認を求める人が居て、その人に向かってそんな承認なんて必要ないって態度に出ちゃったらどうしようとか。

 

 

ここまで昨日の夜書いたのだけど、この先何書こうと思ってたんだか忘れちゃった。

まぁ、考え過ぎても仕方ないんじゃないですかね。日を跨いでからのちゃぶ台返し。最近下書きがこんな感じで溜まっていくから晒して供養。

オーバーシンキングって思考のループの中にいる時はオーバーシンキングな気がしないんだよね。不思議。

 

ところで唐突に話は変わるんだけど、僕、新居昭乃さんの歌大好きなの。続き何書いていいか分かんなくなったから好きな歌貼り逃げする。


Ame no Hi niwa

 


Ekleipsis

 


Ningen no Kodomo

 

肌触りっていうのかな。空気?色?感触?そういうのがとても好き。忘れてきたものを呼び起こしてくれる感じ。聞き心地がいいっていうより居心地がいい。

 

こういう歌聴いてると考えてたことがどうでもよくなってくるね。

2021年初夢 から

初夢、一晩に3シーンあったけど順番は覚えてない。

記憶の片隅にある光景が支離滅裂な内容と混ざり合っていて面白いけど、あんまりおめでたい感じはなかった。

 

・何故か昔住んでた家の2段ベッドの上の段から魚の仕掛けを垂らし、中くらいの根魚3匹と小魚、エビが多数捕れた夢。捕れたエビを1匹猫にあげた。(こんな家だったら楽しそう)

 

・これも昔住んでいた家の夢。そこは祖父所有の雑居ビルの3階で2階には塾が入っていたのだけど、夢の中ではそこの人と思われる人がうちの玄関前まで掃除に来てる(過去そんなことは1度もなかった)。向こうは気づいていない。僕は鍵を閉めようとするのだけど、ドアの種類がかみ合っていなくて鍵が上手く掛からず、警戒から鼓動が速まる。

その家では布団で寝てたのだけど、子供?弟?が僕に気を遣ってか寝る場所を代わってくれた。

 

・これは全然関係のない夢。原風景は自分の記憶にも全くない。でも一番印象に残ってる。

僕は少女(非実在)の家で本を借りる。僕はその子に気があって、その子は僕に気があるけど、お互い恥ずかしいのか自制的で距離は詰まらない。少女は僕が好きなことを姉に知られることを恐れていた(からかわれたり馬鹿にされるのが怖い)。この時夢の主観は少女と僕をいったり来たりする。我ながら中々斬新な夢だった。よく考えると肌の色とか身体的な特徴は僕に似てる子だった。色々深読みしたくなる。

僕に本を貸した時、ベッドに寄りかかって本を読んでいる姉に僕が居るのが見られそうになるのだけど、その時少女側はとても焦る。姉は誰か来てるのかと僕が見える位置で本を読んでいる弟に尋ねるのだけど、無関心な弟は表情も視線も変えずに誰も来てないと答えてくれて、僕もその子もホッとする。

それも束の間、今度はその子の両親と遭遇する。ここからはずっと僕視点だった。お父さんはやせて顔色が悪く、具合が悪そうだった。「最後に会ったのは去年の2月だったから1年とちょっと前だね」って言ってた。(ってことは夢の中は初春頃?)おじさんはその頃からずっと具合が悪いと言っていて、僕は心の中で「(もう長くないのかな)」とか、「(コロナにかかったら危なそうだな)」と思い、ちょっと寂しく、悲ししい気持ちになった。

 

ようやく外に出て、少女と別れた所で夢が終わり。家と外は境界があるようでないような世界だった。でも廃墟とかではなく、緑や清水がいろんな所にある。淡く、明るい世界。

お互い好きな気持ちに気付いていて、でもそれを表すことがない。それでもこのいつもと変わらない、お互い笑顔のバイバイが心地良く嬉しかった。

だからそれが大切で、壊したくないのかもと今になって夢の中での気持ちを振り返って思う。

 

 

1つ目の夢はなんかこう、内容的には小吉!って感じ。

 

2つ目の夢はちょっと怖かった。原風景があって、そこでの感情劇のような感じだった。何でドアが違ったのだろう?

あと、寝る場所を代わってもらった時、気を遣って譲ってくれたと僕は感じたわけだけど、その時に譲るという行為をした子供か弟は僕に対して気を遣ったのであって、それは推測でも共感でもなかった。

多分だけど、夢を作る側の意識と僕の個人としての意識はやはり繋がっていて、だからわかるという感じ。いや、当たり前なのだろうけど、あらためて体感したという感じ。なんだろう、夢の世界のワンネス的なものを感じた。

その一方で一つ一つ起こる事象やそこに働く思考や感情の意味が僕自身には分からないものも混在しているから、これって普遍的無意識と潜在・顕在意識の関係ともいえるし、例えば現実世界に個々と繋がる大いなる存在があるなら、こんな感じなのかなって。そしてそう思うとエスパー的なものとか、霊能者的なものも理解できるような気がした。

僕は実感が伴わないと理解できないタイプなのだけど、現実世界で僕ができない(から理解に至らない)ものを、夢の中で感じて感動したという話でした。

 

3つ目の夢はもっと深い所の夢だと思う。見た順は覚えてないから、1,2,3ってこれ無意識に自分の思う無意識の深さに並べたのだろう。記憶よりも向こう側の風景だから。でもコロナとか、そこら辺の思考が冷静に働くのは面白いと思った。

この少女が誰なのかは今は考えないことにするけど、これはとても大切な夢だと思った。

 

夢の中くらいもっとハチャメチャにやりたい放題したいって思うのだけど、僕はそういう夢を見ない。この夢から過去の夢を振り返っても、夢の中でも自制が働いてることに気付く。だから夢はただ見ているようでも、やはり夢の中の個人レベルで思考したり感じたりしていて、怖れも行動の選択も存在しているのだろう。これって途方もないことだと思う。

それと同時にその外側の夢を作り出す意識も存在しているのなら、夢を変えようとするときはそちら側にアクセスできないといけないと思う。そしてそれには夢の外側の意識があるのが手っ取り早いのかもしれない。だから明晰夢の手法は意識を保ったまま夢に入ったりするのかなって。

 

僕はすぐに何でも繋げて考えてしまうのだけど、仮に現実世界の中での意識の外側に意識があるなら、それもまた途方もないことだけど、こうして考えると全くそこに繋がる糸口がないわけではないのだろうとも思った。現実にそれを実際している人達は程度やアプローチは違えどしているのだろうと思う。

 

あと、夢の中にまで自制、コントロールが持ち込まれることについて、それだけ恐れが根底(?)にあって、だから自由を探すことに躍起になるのだろうと思った。根底ではないかな。でも思考の基盤にある。盲点にある?

 

 

なんかもう早々から初夢とか関係なくなってて笑える。おっさんの夢の話題とかつまらないものの上位らしいけど、落書き帳に何書いても僕の自由だからね。気にしない!あと、僕は他人の夢の内容を読むのは好きだよ?夢は楽しいです。悪夢ばかりで恐怖してた時期もあったけど、今は好き。

2021年元日

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

 

若々しく挨拶をしてみたけど何を書こう。

そういえば昨日印象的な夢を見た。仕事関係の知り合いが多数出る。華僑の人とランチしたり、ジャングルの中のキャンプに行ったり。全体的に赤みがかってた。印象的なのだけど、気分がいい夢ではないから初夢としてはノーカンとしたい。元日から2日にかけてとされることも多いらしいし。ということであれは2020年最後の夢ということで…

今夜はいい初夢が見たいな!

 

今年は(も)抱負とかは無しでゆるく生きたい。ゆるく生きるって目標にしてもあまりうまくいかないだろうから、それもしない。でも全くないのも寂しいからなんか掲げとこうかな。

『姿勢が維持できるようにまずは股関節を柔らかくする』

これでいこう。

ストレッチは三日坊主にならず、以前と比べると結構柔らかくなってきてる。1年間しっかり続けていきたいという気持ちを込めてこれにした。決まり!

 

姿勢は大事だと思う。腰が痛いのは辛いし、これからはますます気をつけなきゃいけない。瞑想をする時なんかも、やっぱり背筋は伸びていた方が内側を通る呼吸やその感覚を意識しやすいとも思う。深く入れた方が気持ちいいし楽しい。

 

筋トレはあんまり続かないんだけど、織り交ぜながら実用的なしなやかさを得たいですね。15mくらいのマンゴーに登ってる時に首筋が攣った時は死ぬかと思ったし、他の木に登ってる時に脹脛が攣るってことも何回かあったし。可動限界ぎりぎりに伸ばしたところで普段使わないやり方で力を入れるとなったりするから、可動範囲を増やしたり、しなやかに動けるようになればいいのかなって。

ココヤシもいつか登れるようになりたいけど、あれは多分小さいうちからやってないと無理かなとも思う。まぁもう若々しさもないのでほどほどにするけど。

自然の中で生活を謳歌できるような体にしていきたいな。

 

あと何書こうかな。今年は多分状況的に面倒でも日本に一時帰国しなきゃいけないと思う。妹が結婚するらしく、式もするらしいから。僕は正直結婚式とか気が進まないのだけど、相手家族に僕が原因でなんか言われるようだと申し訳ないし。その場に行ってしまえばヘラヘラしてるのは得意だからね。僕の結婚式の時も村まで来てくれたから、行かなきゃフェアじゃないなっていうのもある。

 

どのみちチケットはもうあるから使わないと勿体ないしね。払い戻してくれれば一番楽なんだけどな。

一時帰国も出入国や便数で今ぐらいの面倒が続くようなら考えるけど。

まぁ、先のことはあんまり考えたくないからここまでにしよう。

 

義弟かぁ。まだ顔も知らないけど身構えてしまうなぁ。でも甥っ子や姪っ子は楽しみ!プレゼントとかどこ連れて行ってあげようとか考えだすと止まらなくなる。早く一緒に遊びたいな!はい、まだ早いね。

 

こちらは新年休みは1日だけだけど、明日からは丁度土日。ゆったりした気分で過ごせそう。

皆さん良いお正月をお過ごしくださいね!