もう6月も終盤だよぅ…速い…
最近も相変わらずかなぁ。以前にも増して疲れやすい気がしていて、中々物事が進まない。運動もあんまり出来てないなー。
もうずっと放置してしまい、荒廃して鳥たちの砂浴び場と化していた窓際ガーデニングの再興にようやく着手した。定期的に2週間ほど家を空けるので、それが頭にあると留守前に植えてもなぁって思って中々手がつけられなかった。
今回は不織布フェルトのバッグプランターを3つ買って、培養土は注文して運んできてもらった。種も個人で栽培してる人からの通販。便利な世の中です。
プランター1つ目はチェリートマト1本、2つ目はドワーフトマトを2本、3つ目にはカーボロネロを2本植える。背が高くなるチェリートマトは僕の真後ろに配置したから、日除けとしても役立ってくれることでしょう。あと今回は、たまたま以前買っておいたコーヒー豆の麻袋があったので、それを切ってマルチ代わりにした。鳥たちの砂浴びは嫌いじゃないけど、家の中に土が入ってくるからね…トマトとカーボロネロとバジルとコリアンダーは無事に芽が出た。シソは芽を出してくれるのでしょうか。
赤紫蘇と大葉、バジル、タイム、コリアンダーは鉢植えにして、深めのバッグが手に入ったら唐辛子も植えようと思ってる。サボテンとアロエベラを少し減らさないと置き場が足りないなぁ…でも捨てるのはなんかなぁ…吊る?
園芸は小学生の時から好き。農協でやってた園芸まつりで配ってた苗とかもらってきて育ててた。ナスとかししとうとかトマトとかパセリとか、結構色々育てた記憶がある。植えたのは食べれるものが多かったかな。
僕はなんだか、世話が好きっていうより、待つのが好きなんだよね。釣りや網漁もそう。釣りはあんまり忙しいのより、夜釣りのぶっこみとかゆっくり待てるのが好きだし、網や延縄も翌朝かかるのを楽しみに待つために仕掛けるし、アクアリウムなんかも眺めるのが楽しみで組んでたし、果物も7年後、10年後実をつけてくれるのを楽しみに植える。
そうそう、僕が10年くらい前に村に植えた果樹が今年は初めて花をつけてくれたの。嬉しい。
野菜は生育が早いから毎日見る楽しみは大きいかな。一日に何回も見ちゃう。ここに住んでると気持ちも滅入ってきちゃうけど、こうやって待てる楽しみを作っていくのはいいかも知れない。前回のは長期の留守で給水失敗があって枯れちゃってからの放置だから、今回は早めに給水を考えとかなきゃ…
あとは最近思ったことでも書こうかな。何があったかな。
そうそう、久々にオンラインの定例会で話してくれって頼まれて話したんだよね。まぁ聞く感じ好評ではあったのだけど、僕が伝えたかった話って結局変換されて受け取られてるんだなってグループチャットでやり取りしてて思った。
僕はこう、現象を力学的に見ていて、その視点からの語りには主体とか入れてないんだよね。例えば理念について話すときも、色んな角度、距離から理念とはこれこれこういうもので、こういう運動をする性質があるように僕からは見えますよって。で、気づいたのは、まず人はそれを抽象語的に誤読するのと、その人にとっての理念というものに付随する観念も一緒くたにした何かを受け取るみたい。
前者は僕も最近気づいたけど、僕の言葉って一度概念から観念を剥ぎ取っているのだけど、そうすると結構知覚、概念、観念(意味や価値も)を分けて扱うようになってると思うのね。それで、好みもあって僕の軸足は知覚に寄るのだけど、概念を使う時は割と意識的に概念として使うし、感覚に合わない言葉は意識的に使わないって判断をしてる。その上で、概念以前に感じるものや見えるものを、既存の語彙を引っ張て来て使うことになる。
要するに、感じられるものを、好き勝手に意味を剥がして感覚に合うようにした言葉で無理やり形にしているのだけど、その感じられるものから割と徹底して概念や観念を削ぎ落しているから、頭に浮かんだ何かを粘土で形にする作業をしてるって感じ。
その僕の言葉って、曖昧なのと、観念の乗っていない語彙の感じもあってか、僕が言っていることとは逆方向の抽象語として受け取られてしまう。僕もこの抽象(化)と前概念(の言語化)って混同しがちだったから文句も言えないんだけど。僕はこれははっきりと言えるのだけど、抽象化という操作はしていなくて、単に手触りや雰囲気を言葉の型枠に当てはめているだけ。それでも抽象語と似てしまうのは、僕が抽象語の語彙を持ってきてるのもあると思う。だって誰かの観念がバリバリに乗った言葉と違って感覚に合うし、誰かの感覚が乗っているという違和感なくそのまま使えるんだもん。直喩が多くなるのも多分それなんだよね。というか、僕は直喩的に言葉を使ってて、それには感覚・現象的な単語のほか、観念が薄れてレディトゥユーズな抽象語が合いやすいって言った方が良いかも。うん、こっちだな。(でも観念って言葉も、意味的観念と感覚的観念を分ける必要が出てきそう。僕は後者を観念として扱っていないけど、メタからは観念として説明するしかないからね)
で、後者はもっと単純で、僕は非概念的な言葉を概念の型枠で成形してアウトプットしてるんだけど、多くの人は、特に通常の会話の場では、多分まず言葉を概念的に受け取るんだよね。共通語として。そこでもうズレるじゃん?で、更にここで、多くの人は概念と観念を区別していないから、僕がその型枠にすら使っていない何かを含んだ概念として、時には観念、像だけじゃないかって思うような受け取り方をされたり、概念を概念で説明したような応答をされたり、なぜか(はわかるけど)反論的な反応をされるんだよね。僕は知覚されるもの、現象とその力学が、こう見えるよって話してるだけで、意味も判断する価値も言葉には乗せていないのに。
あのお魚はこれこれこういう性質があって、それがこういう行動を引き起こしているように僕からは見えますって僕が言ったとしてね。魚だって悲しいんだと思うし、その行動は悪いものだけど守らなければいけません。って返されるみたいな。
こんなの、?????!ってなるじゃん。
僕はそこで、別に悲しいっていうのはどういう悲しいですか?とか野暮なこと聞くつもりもないし、僕はその行動を良い悪いでは見てないし、別に守りたいなら守ればいいんじゃないかなとは思うけど、それ以前にそんなこと言ってないんだけどなーってなる。だってこの時点で僕が言ったことは何も受け取られておらず、勝手にその人の熱のための燃料に変換された上、僕自身がそのジャッジメントの中に引きずり込まれてるんだよ。改めて言語化すると誤読どころの問題じゃないよね、これ。
まぁ相手からしたら変な奴だけど真摯に分からせてあげようってことなんだろうからお互い様なんだけど。それにこれは昔からのことで、今はそれが何となく言語化できて見えるってだけなんだけどね。
ふぅ、ちょっとすっきりした。しない!言葉なんて嫌い!ふん!
もし言葉なんて必要なく、感覚がそのまま伝わる世界ならさ、まぁどうせそれにも嫌気がさすんだろうな。 完
この2曲は日本語版と英語版なんだけど、ほんと好きでずっと聴いちゃう。
日本語の方は少しほんわかとしてて、何で天国に近づきたいかって部分は触れそうで触れないところが、過ぎ去ってしまった温かさを思い起こしているような、希求を包み隠しているような、そういう優しい寂寥感みたいな空気が余白と溶け合っているようで好き。今と記憶が混ざり合ってるんだよね。
水平線を傾けたら天国へ近づけるかな
のフレーズが本当に好き。夜中暗い部屋で天井に手を伸ばしている時の感覚になる。
英語の方はもっと表現はストレートなんだけど、その分喪失感が深い感じがしてこっちも好き。この2曲が重なり合ってるけど少し違う感覚を補完し合ってるようで、両方聴いちゃう。歌詞が見つからなくて、youtube musicとかにはあるけど多分自動生成で滅茶苦茶だから、わからない部分もあるんだけど、それもそれでいいかなって思えてくる。
CD欲しかったなぁ。


