感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

おひさ!

最近全然書いてなかった。この前は書き終わる前に忙しい期間に突入しちゃって、自分の中で賞味期限切れちゃったから。あと、この画面を前にしても以前ほどバーっと指が動かないっていうのはある。ある程度の膿は出切ったということなのだろうか。書いてみてても途中でまぁいいや…ってなりがち。ほっとするような「まぁいいや」ならいいんだけど、何かこう、あらゆる物事に対しての諦め的な感覚が浮かぶ「まぁいいや」だからこれってどうなんだろうなぁと思う。

一生懸命何かを変えようと戦う人や現状に抗う人、それに目標に向かって頑張る人なんかも、とても生きるための活力があると思うのだけど、僕はなんかそこまでしたくないってなっちゃうんだよね。言い換えれば、それらに自分の中で価値を見出すことができないってことだろうか。

そういうマインドセットだから活力がないのか、活力がないから結果的にこういう思考になるのか、その辺の順序はわかんないんだけど。

 

昔からさ、普通に生きてても意味を見失いがちだったのね。特に周りとは合わなかったから、結果的に自分なりの意味を探すことになって。今はそれが、そもそも意味なんて無いんだろうなって感覚で、じゃあ、意味は自分で見出すしかないんだろうなって考えるのだけど、そこで浮かぶ意味に見合う気力がないから「まぁいいや」ってなっちゃうんだよね。うーん…

色々受け容れてきたつもりなんだけど、方向性が違うんだろうか。前よりは遥かに楽なのだけど。

まぁ、生活が合ってないのはあるんだろうね。森の中ではあれだけ生き生きと生活出来るわけだから。お金稼いでそれと食べ物交換してもあんまり嬉しくないし。だからもっと新しい食材探し求めたり、調理法工夫したりするんだろうけど、そもそも自分で採ったものをその日に料理すればもっと美味しいんだよね。人間って難しいなぁ。

 

時々さ、部屋で寝転がって天井を見つめてると、ふと気づくと右手を上に伸ばしてる時があるの。なんかね、誰かが引っ張り上げてくれるような気がするんだよね。結局誰も手を掴んでくれることはないのだけど。疎外感甚だしいから、現実の外に助けや理解者を求めてるのだろうか。人間である以上しょうがないのだろうけど、ほんとこう、生きているだけでじわじわと酸に焼かれているような辛さは消えないんだよね。

この前こちらを訪れた人と夕食を共にしていた時ね、その人は鬱が酷いそうなのだけど、「社会の価値観と合わなすぎて生きるのが辛い」的なことをその人が言ってて、それに僕も同調したのね。その時に僕の口から「まぁ感覚が合うような人たちの多くはおかしくなってたり早く死んじゃってたりするでしょうしね」って出たの。

鬱が辛いって言ってる人の前で出す言葉としてはどうかとは思うけど、普段そういうことを口に出さない僕からそれが出たのは多分同じなにかを感じたからだと思う。自分でも、僕はそんなこと思ってたんだなぁって思って面白かった。でも実際そうなんだよね。だから生き長らえたことに今でもどこかで申し訳なさを抱いてる。

僕は他人と理解し合うことを諦めてるところがあって、この人とは通じ合うなって人でも30%くらい伝われば奇跡的だと思うのね。だって皆それぞれが別の環境を持った惑星のようなものだからね。話していること同じだって思っても、厳密には多分違うものを見てるのだろうし。だから理解者云々って言っても、すべてを理解し合える人を求めているとかではないと思うんだよね。多分気持ち悪いじゃん。認めて欲しいとかでもないと思う。ただ僕が見てる世界とか、ある程度わかった上でそれでいいと思ってくれる人なのかな。そもそも僕はそういうの殆ど外に出さないから、誰にも理解されないのは当然なんだけどね。でもさ、どうせ外に出しても伝わらないし、多分誤解されたりトラブルになるからそれはもっと嫌なんだと思う。

ってことはやっぱり本当はわかって欲しいっていう願望があるってことなんだろうな。

 

 

最近パソコンのサウンドカードを買い替えた。だいぶ前に買った古いの付けてたんだけど、サポート切れてるのを無理やり動作させてたから不具合も出てたし、臨時収入が入ったらちょっと良いのにした。

結構いい感じ。前よりも聴こえる音が増えてるし、ソフトウェアのイコライザも使いやすい。不満は一点だけで、最小の音が大きすぎちゃってボリュームが小さいレンジでの微調整が出来ないってことだけ。微かに音楽流したり、別窓の音を小さく流したいって時にちょっと不便。でもほぼ大満足。大切な逃避先である音楽は大事だしね。

 

 

全然関係ないんだけど、この前までうちに来ていた人が、僕がディスプレイサイズに比して解像度を下げて画面小さくして使ってるのを見て親切にも直してくれたの。僕がディスプレイ解像度の設定知らないと思ったみたい。

目が痛くなるから小さくして範囲表示範囲狭めてるだけなんだけどね。

 

でも何ていうか、こうやって得意気に教えて下さる人には「そんなの知ってるよ…」なんて言えないんだよね。だってすごい嬉しそうに教えてくれるんだもん。無知だと見下してくれても別になんともないのだけど、知らない振りして教えてもらって帰った後元の設定に戻すという不毛なプロセスを勝手に一人で被ってしまうのがなんかなぁって感じ。

おまけにキャッシュの減らし方とかメモリの仕組みとか教えてくれてとっても有難かったですね(棒)でもこういう人ってそうやって人を自分より下に見て教えてあげてる時が一番機嫌いいからなぁ。下手に僕のほうが知ってる素振りなんか見せたら変に拗らせてる部分刺激しちゃって面倒くさくなったりするし。どのみち面倒くさいんだけど…

なんて書いてるけど向こうも僕のこと面倒くさいと思ってるかもしれないし、やっぱり人間って面倒くさい生き物なのかな。

 

今夜もAnno 1800に逃避しよう… 今日はアシエンダでカカオと肥料増産するんだ…現実でもカカオ高騰してるらしいしね。

Anno 1800ほんと好き。時代も大好きな時代だし、音楽もとても良いし、景色もきれいだし、ワクワクするし楽しいし、出来ることいっぱい。何よりスタッフの愛を感じる。

みんなもやろう?(宣伝)


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それでは新世界で!

あけおめ! 帰村 "Syberia3" "Syberia - The World Before"

あけおめ!最近あまり開けていなかった。

 

先月中旬からは村で過ごしてた。お魚獲ったり野菜(野草)採ったり草刈りしたりのんびりしたり。生きるっていうのは僕にとってはここなんだなぁと毎回思う。早く隠居して村で暮らしたい。あの空気なのよ。あとは電波がもう少し入ればね…

 

僕が住んでいた頃は買う人がいなかったような魚も最近は買い手がすぐ見つかる。夕方村の近場に刺し網を一枚仕掛けて朝チェックに行き、10kg前後捕れるからそれで日本円で1500円~2500円になる。村でただ暮らすなら数日に一回やるだけで十分生活できちゃう。問題はワニが保護された影響で増えたために場所を気をつけないと破られちゃうってことだろうか。この短期でも1回あった。それでも十分割に合っちゃう。

当時からこうだったらもう少しできたことあっただろうなぁ。でも収入気にしないでおかず担当要員として生活できたから逆に良い経験でもあったからまぁいいや。

 

これは置き針で釣ったパンガシウスとか刺し網で獲ったウラウチフエダイとかクリプトプテルスとかハマギギとか。色々獲れるのが汽水の醍醐味。

二週間ほぼ毎日刺し網とか置き針とか投網やってたから手が傷だらけだった。その痛みの生きている感。

 

そんな生活を楽しんで年が明けてからまたここに帰ってきた。

 

 

新年は不服ながらお仕事と、夜はゲームをやって、昨日Syberia - The World Beforeをプレイし終わった。前作のSyberia 3は先月クリアした。

SyberiaとSyberia IIは大分前にプレイしてとても好きだったゲーム。3以降は前のパソコンだと重そうなので保留してた。Syberiaシリーズはポイントクリック型のアドベンチャーパズルゲームなのだけど、独特な世界観とストーリーが本当に好き。

 

Syberia 3はそれに加えカメラ演出や音楽、グラフィックスによるシネマティックな演出が素晴らしく進化していて、よりエステティカルにSyberiaの世界に浸れるのが良かった。視点移動で背景をアートとして成立させてるところとか凄い。哀愁漂うソ連モチーフの田舎町や原発事故による廃墟が主な舞台だけど、その空気まで表現されてる。ただ色々新しいことに挑戦してるせいか操作性が悪くなってるので多少ストレスもある。没頭してる時に思うように動けないとちょっと冷めちゃったり。でも、それを差し引いてもとても素晴らしいゲーム。終わり方がスッキリしないので続編が出てからやって本当に良かったと思う。


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その続編で最新作のSyberia - The World Beforeは更に衝撃的だった。1、II、3と同じ主人公Kate Walkerに加え、別の時間軸でDana Rozeというもう一人の主人公を交えて2つの時間軸で同じ場所を舞台にストーリーが展開されていく。Kateは3の1年後である2004年、DanaはWW2前の1937年からで、ドイツの占領を受けた架空の中央ヨーロッパの国が舞台。オートマトンや架空の生物が存在する世界観も健在な中、ファシズムの高揚による緊張や占領、レジスタンスによる抵抗のような史実的な要素が物語の中心になっていてとても不思議な感じ。音楽やグラフィックス、演出も更に進化していて、ヨーロッパの華やかな雰囲気がファシズムの脅威に飲み込まれていく空気的な描写がとても凄かった。この中央ヨーロッパの戦争前夜の描写には度々オードリー・ヘプバーンのインタビューを思い出した。


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序盤はDanaという一人の女性の人生をKateを通して見ている映画という感じ。青春やロマンス、悲劇もある。そのDanaのストーリーがプレイヤーにとっては今まで1、II、3を通して一緒に冒険してきたKateのストーリーと徐々に結びついて深まっていくプロットが見事だし、本当にワクワクする。ある意味映画以上に映画だと思う。

正直TWBで最初にKateが出てきた時はその状況や状態に「えぇ…どうなっちゃってるの?…大丈夫かこの作品?…」と引き気味だったけど、そんな前作までの経験者を不安にさせるような序盤でも今まで通りどんどん引き込まれていって「やっぱりSyberiaよ…」ってなった。

Danaの数奇な人生を中心にストーリーが展開されていくのだけど、戦禍の中ではある意味そんな数奇や悲劇が沢山存在してきた。そんな数奇が今に繋がっているっていうのは当たり前のことなのだけど、それを経験的に体験できるのがこの2つの時間軸というシステムを軸にしたストーリーなのかも知れない。

 

最後は次回作に繋がる終わり方だけど、3の最後とは違ってKateらしさ全開な感じが、これで終わってしまっても集大成として有りかもと思えるようなポジティブな終わり方で良かった。

ゲームの最初とエンドロールでも触れられてるけど、物語の生みの親でシリーズ通しての監督のBenoît Sokal が完成前に亡くなられているから、次がどうなるかわからない。

僕にとっては人生の中で特に意味のある作品でもあるから、生み出してくれて本当にありがとうという気持ち。

 

どっちも本当に素晴らしいからできる人はやって欲しい。シリーズ全部素晴らしいから。でも3だけ日本語字幕無いから勧めづらいし(他の3つがどんな字幕だかも知らないけど)、Syberia、Syberia IIに触れてこそっていう部分もあるからやっぱり勧めづらい。僕は好きなんだけど、今やるには色々古いし、こういうゲームって人を選ぶからね。それに全部やると結構な時間になる。

 

かといってYouTubeとかのプレイ動画とかってどうなんだろうか。プレイしてから観るにはいいと思うけど、観るのとプレイするのはやっぱり違うと思う。やってることはアドベンチャーパズルゲームなんだけど、そのキャラクターを操作してパズルもそのキャラクターとして解いてってやってると自分とそのキャラクターに特別な結びつきが生まれるじゃない?

視聴者視点と主人公視点はまぁ当然別物だけど、操作が伴うゲームってプレイヤーが主人公を通して物語を経験していく部分があるから、プレイヤー視点っていうのは視聴者視点とは似て非なるものだと思う。アドベンチャーゲーム的な選択の意思決定もそうだし、一つ一つのパズルを解いた時の達成感っていうのもある意味主人公と共有してるものだからね。映画以上に映画って僕が書いたのも、多分映画以上にシネマティックな体験ができたと感じてるからなんだと思う。

プレイ動画を観るっていうのにも利点があるのだろうけど、僕はプレイヤーとしての感想しか持ってないからプレイ動画の方を勧めることは難しいって話ね。

はい。

とっても素晴らしいゲームなのです。

 

BGMもとっても良いのです。


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今年もよろしくね!

ジェンダーの議論から 正解の範囲 近況 Andrea Vanzo

ジェンダーの議論を見ていると色んな主義主張があるなぁとは思うんだけど、個人的に特に腑に落ちないものがある。

雌雄の形体的な違いや特に生殖における役割を理由にして、生物学的なとか生物的にこの違いは当たり前でしょって態度の主張。もっと分かりやすく言えばちんちんがあるから男でおっぱいが大きいから女って態度。これがなんか僕は気に食わないようだ。

最近の議論にも線引きとして手術で形体を変えた人のみトランスジェンダーとして認めるっていうものがあった。そこでの議論を見てると上のような態度の主張がとても多くて、なんかこう僕は嫌な感情を覚えるのね。議論としてはいいんだけどね、何だろう。あれなんだよね、それが当たり前でしょって態度が嫌なのかな。

 

だって先ずさ、うーん、雌雄の形体の違いについてはいいよ。哺乳類は単為生殖しないとされてるし。ヒトの生殖に関しては、それを生物学的にと言っても過ぎるものはないとは思う。

でもさ、それは個体レベルの生殖に偏った主張とも言える。

特に重大なのは、ヒトは社会性を持った動物ということだ。持ったって言うと社会性抜きに存在できるみたいだからあれなんだよね。社会性が組み込まれた、言い換えれば社会性に支配されている側面のある動物。社会性を持った動物の多くは個体の性の在り方さえ属する社会のために適応という形で変えながら進化してきたものが多い。出産担当の女王がいたり、社会のために自らの役割のために生殖の本能、時には機能そのものを放棄したり、社会的ポジションによって生殖どころか肉体的な特徴すら変化させたり。人間だって社会的ポジションによってテストステロンのような内分泌系が変化するのは言われてる。

個体レベルの雌雄はあるけれど、社会性の中でヒトの性がどうなっているのか。それはとても複雑怪奇で曖昧なものだと思う。この観点も生物学的でしょ?

だから前者だけで生物学を語られた挙句当たり前って言われるのにイラっとするのかもしれない。だって固定観念は科学の敵でしょ。少なくともクリティカルな思考を排除しない科学においては。

 

この、雄雌はこれ、動物のオスはこうでメスはこう、だから人間の男はこうで女はこうっていう固定観念はどこからくるんだろう。小学生の頃にはこれ感じてたんだよね。だから尚更嫌な感情が湧くのかな。

なんかさ、性教育もこの男、女の形体的な正解っていうのを助長というか、固定してる気がするんだよね。いや、その範囲では正解でいいんだけど、正解があるってことは範囲があるってことだからね。自らの主張の論拠がもつ範囲に無自覚な正解ってほんと攻撃的だと思うの。だって無限の範囲の正解を押し付けてくるんだもん。

何でそんなに自分のちんちんとおっぱいに対する拘りだけでそこまで言えるんだろうって思っちゃうわけだよね。別にそれはそれでいいんだけど。

 

だから、生物学を根拠にするなら先ずヒトとは何か、ヒトにおける社会とは何か、ヒトにとっては雌雄とは何か、その辺を例外も含めて明らかにしないと、じゃあ人間の社会にとっての男と女とは何かってならないでしょ?文化的にどうこう、政治的に、行政的に、倫理的に、その他諸々どうこうっていうのもしっかり別に考えなきゃいけないでしょ?

それをちんちんだのおっぱいだので当たり前って言われて…もってところなんだよね。もちろんそれも一つの指標であれば大切に扱えるものだと思うけど。

 

逆の主張もそうなんだよ。その当たり前に反射的に反発しちゃうから結局ちんちんとおっぱいに拘る土俵ありきで議論しようとしちゃう。

社会にとっての性はそればかりじゃないっていう段階に社会的な意識が変化しつつあるからごちゃごちゃっとしてるってだけで。神話が崩れかければ誰しも不安になるから。

 

でも寧ろ、昔は近現代ほどきっちりしたセックス=ジェンダー的な見方ではなかったと思う。特に世界的に見れば、アダムとイブが広めたきっちりした男女の観念っていうのは大きいと思う(日本の場合はヴィクトリアニズムの影響が大きい気もするけど)。ジェンダーロールも。そういう意味ではやっぱり根本にはまだ神話があると思う。

 

ツイッターみたいなのも怖いのは、エコーチェンバーとかも言われるけどさ、あんな短文で主張して肯定否定し合えるところだと思う。ただの事実であってもサイドのある主張に巻き込まれて言って、挙句飲み込まれたりね。議論がどんどん簡素化するよね。怖い。何で怖いんだろう。思考が簡素になるならハッピーなはずなのに。自分がそうなれない自覚でもあるんだろうか。

 

ジェンダーに関しては僕は別に特別な主張とかがあるわけでもないけど(当てはまる気も議論に参加する気もそもそもないし)、社会という尺度においては、ちんちんおっぱいはやっぱり近視眼的過ぎるし、それが当たり前になり得る(現になってる)社会はどうなんだろうなと思う。

意識的にね、自らがそうだと思い込んでいたら外側もそう見えるわけで、逆も然りで。それってとっても手枷足枷ではないだろうか。

 

そういう意味では科学は、色んな可能性も提示してくれる。でも思い込みの眼鏡を通したまま作り上げられてきたのが科学ということもできるし、そもそもその思い込みの眼鏡は外しても外しても内側に連なっている無限の眼鏡と言うこともできるだろう。人が人である限り。

 

だからこそ常に自分の見え方の範囲や、抱く意見の落とし所っていうのは、正解の外側から見据えておいたほうがいいんじゃないかなと思う。内側においても、外側においても。そういう意味では、正解というものが自分にある時、それは固定観念や思考停止の目印としてこそ役立つのかもしれない。そしてそれを否定するのではなく、一つの見方における正しさ、数あるうちの一つの解として見ることが出来れば、観念の壁が崩れて景色は一気に広がっていく。そういう見方が合うけれど自分がそうだってことを知らない人も多いのかなって。

 

久々に書いたら少し毒が出た。

 

 

最近は体調は良いし、仕事もほとんどストレスない日々。今月は車の不調続きでちょっと困ったけど。

ストレッチと筋トレを習慣化して筋膜の癒着のリリースみたいなのもやるようになって、関節なんかの可動域を意識するようになった。そのおかげかほとんど腰や背中も痛めなくなったし寝違えることもなくなった。前はほんとに日常茶飯事だったのでこれはすごい変化だと思う。単純に、可動できない部分があると別の部分に負担がかかるということなのだろう。そんなのも意識できるようになったのは、精神的な変化も大きいと思う。

 

久々だから写真も貼る。

近所の昼までしかやってないお店。朝子供送った後にこの辺散歩してお菓子とか果物買ったりする。

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スターフルーツの横にあるお豆腐のデザート美味しい。

 

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ここはシーズンになると果物がちょっと安く売ってる。自家果樹だからちょっと安いし新鮮。

 

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ここはスーパーよりは割高な個人商店。あと数日で駄目になるようなバナナを格安で売ってたりするのでそれ買ったりする。揚げバナナ用に買う加熱用バナナだとそのくらいが丁度いい。おろしココナッツもここで買ってる。

 

なんていう日常を書いても話が広がらないね!前ずっとカメラ壊れた携帯使ってた時は、携帯変えたらもっと写真撮ったりアップしたりしようって思ってたけど、いざカメラ使える携帯になったらあんまり撮らないんだよね。そんなことを思いながら朝撮った3枚。はい。

 

 

あとねあとね、最近よくAndrea Vanzoの曲聴くの。

とってもいいよ!


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この人の曲、ほんと好きなのいっぱいある!

ずっと聴いていられる。おすすめ!

最近のこと 村 AoE3DE 車とかネット

最近村に帰ったりちょっと忙しい日が続いたり体調崩したりで全然開けてなかった。

 

やっぱり村の、あの森と川の空間が好き。でも10日間じゃ全然足りないよ…

あそこの生活が自分の中での基準になってるから街の生活が辛すぎるのもあるのだろう。同じ人間の生活圏とは思えないくらい別物なんだよね。特に時間。

 

村に帰るとやりたいこと、やらなきゃいけないことがあるから、最低2週間はないとあんまりゆっくりできない。ゆっくりできないっていうのは僕の過ごし方にとっては致命的。僕は自然の速度というか、流れに合わせて過ごしたいのね。

ここの村の人たちの生活は太陽や月、潮の満ち引き、風や雲、そして雨、そういった流れの中でできることをして過ごしていく。ある意味何よりも自然にサレンダーした状態で。暑い昼間人が活動を控えるのは当然のこと。村ではほとんどの人がお昼寝をする。森の動物たちも例に漏れず。時計の時間で何時になるかは分からないけれど、色んな周期が重なり合いながら巡る中丁度いいタイミングで活動する。それが来なければ待つ。何と生き物らしいことだろう。雨乞いもその延長だろう。ある意味で、自然を超克しようという傲慢な意識がないから耐え忍んで乞い祈る。

そういった自然に生かされその一部である意識があるから、豊穣や豊漁に対する感謝も生まれる。

 

そういう流れの中の生活っていうのが、期間ってものに追われるとどうしてもできなくなる。酷暑の中草刈りしたり、本来ならそこまで良くない潮流の中投網をしたり。

時間がないから、時間に追われるからしょうがないって、本当は嫌いなんだけどな。

まぁでも楽しく過ごせた。

2日間かけてゆっくりとフルーツシーズンを満喫しながら帰ってきた。途中森林局の施設に遊びに行って、15年ぶりにそこの施設長の人に会った。初めて来た時からもう15年かぁ。速いね。

帰ってきてからは今度は忙しい日が始まった。ちょっとしんどかった。まぁ普通に忙しいと言ってる人たちと比べたら忙しくないのだけど、キャパが違うから比べようがないね。

 

村から帰ってきてから左足の傷に少し化膿がある。もう10日以上経つけどまだ治ってない。前回はこれで高熱を出したし、3年前は同じような傷からの破傷風っぽい症状で入院したのでちょっと気を付けようと思う。毎回免疫が弱まった頃に帰るからこうなるんだろうね。土壌細菌強いや。いや、僕が弱いのか。

 

 

最近はネットのゲーム友達とAoE3 DEをやってるのでそれが楽しみになってくれてる。もう15年くらい前のゲームのリメイクなのに飽きないのは、ほぼ完成されてるからだね。システムをほぼそのままに新しい文明やユニットを増やしたりバランス修正したりって方向性だから、良いところが損なわれず新しい楽しみも増えた感じ。

最近はメキシコ使ってるけど、革命がいろいろあって面白い。今はユカタンからマヤのダブル革命がお気に入り。内政力あるし即応で割と強力な戦力集めやすい。騎兵が欲しくなるけど…その反動で今日はラコタ(昔はスーだった)も使った。

RTSでありながら、特徴あるユニットを使いつつも割と自由にプレイできるのが魅力なゲーム。BGMもとても良くて世界観が上手く演出されてるから、1マッチ毎にストーリーができる。好きなんだなぁ。そうそう、今はフリープレイで週替わりで3文明ずつプレイできるよ!新大陸発見からナポレオン戦争ぐらいの時代が好きな人には刺さると思う。

ロマン。何で僕がこのくらいの時代が好きなのかって説明できないんだけどほんと好きなんだよね。ウェスタンも好きだった。トマス・コールの絵とかも好き。

ある意味文明が何もかもを飲み込む前の時代だからかな。はい。

 

 

今週からは少し楽だけど、車の調子が悪いのがね…。トランスミッションの劣化なんだけど、さすがにそろそろ限界。ギアが切り替わらなくて加速中追突されそうで怖いし、坂道発進も厳しくなってきた。修理出してもこっちは代車ないし、レンタカー借りなきゃいけないかなぁ。こまりゅ。

 

 

あとねあとね、ネット回線契約したの。速度出ないってことも多いので最近までは見送ってた。配線とかちょっと不満も多いけど、これでお仕事以外の引きこもりライフの質が向上しますね。

別に引きこもってるわけじゃないんだけど。外でやる事がないってだけで。だって休みくらい人と会わないで過ごしたいじゃん?休みまで誰かと会ってしかもお出かけするとかレベル高すぎだよ。

 

はい。そんな感じ!

 

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ドリアンおいちい。

今年はエルニーニョの影響で雨が少ないから数年に一度の豊作だよ。

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”Ano” から ズレ 伝わらないというベース 暑さ対策 Michael Logozar

あのちゃんってどんどん有名になってるんだなぁ。僕芸能人は名前と顔が一致してる人が少ないんだけど、この子は好きでラジオとか聴いてる。なんというか、色々分かりみが深いんだよね。それなのに芸能人の仕事なんてできちゃうんだから凄いと思う。

何で知ったんだっけな。一時帰国してる時になんかで見かけて、分かるなぁって思って。言葉が直接的だからイメージが直接的に受けられるというか。言葉の型枠にはまってない感じ。経験的な部分も聴いてる分にはやっぱり分かりみが深い。僕はそこまで強く自分のままでは生きてこられなかったけどね。

歌もやっぱり感情表現がとても上手だよね。人格切り替えてその歌の中に入って歌ってる感じな上に、そこにこもった感情を解放する感じに歌うから圧倒されそうになる感じがする。特に弾語り。名義をローマ字と英語で切り替えてるって言ってたけど、それもよくわかる感じ。

 

この子が楽しそうに仕事してる動画とか見ると年月を感じるし、何か嬉しい。何より、僕も頑張らなきゃなぁと思わされる。

 

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この曲のズレてるから普通があるから苦痛とかっていうのがさ、結局僕もそこにトラウマを持ってるわけだよね。今でこそそれでいいやと思えるようにはなってるけど、まだまだ気づかないうちに刺さって膿になってる棘が身体中にある感じ。一つ一つ抜いていくんだけど、結局その一つ一つも何が原因なのかって一言でいえばこのズレなわけだよね。

今の自分のパーソナリティを考えてみても、それもこれが原因になってたりしてさ。例えばこのやたらと説明臭い所とかも、やたらと「分かるように伝えよう」とし過ぎるからなんだよね。だって自分の言葉で話しても伝わらないんだもん。勿論ここはそういう柵の外に置きたいから、伝えることは度外視にして成分未調整感高めにはなってるんだけど。

そういう意味でさ、あのちゃんのように自分の言葉をそのままに生きてこられるのはやっぱり凄いしかっこいいと思う。色々大変みたいだけど。

 

 

結局僕は伝わらないから伝えないとか、伝わらなくても自分なりに発しようとか、結局伝わらないというのをベースに行ったり来たりしてるんだよね。大分ポジティブに持って行って相手の受け取り方なりに伝わるとか、何パーセントかは伝わるとか、そういう感じに無意識的に考えてる。

最初にそう思ってしまうというのは一番楽なのだけど、これもある意味リミッティングビリーフというか、少なからず伝わる可能性の否定が入ってるような気もする。そもそもその伝わるとか伝わらないとかが曖昧過ぎるし、主観的なものだから、決めてしまえばそっちになるとも言えるんだよね。

理屈で考えれば、そこに無意識的な否定が入るということは、無意識的に何かを肯定したいということだ。この場合伝わる可能性があるにもかかわらず否定が目立つということは、伝わらないと決めてしまうことで何かを肯定して守っているのだろう。自分の感覚?言葉?思考?意図?どれだかわからないけど、それらを否定されないように予防線を張っているのかな。合理的で妥当だね。

伝わらなくてもしょうがないとか、気にしなくてもいいと頭では思いながら、そう思いきることができていないことの証だね。

 

これも多分同じなんだよね。そこに恐れがあるから伝わるとか伝わらないでしか考えられない。囚われがあるからその土俵の上にいる。例えばただ「発する」でも、相手がいるならただ「投げかける」でもいいかもしれないし、他にも色んなコミュニケーションや表現の在りようがあるはずなのに。

そう頭では捉えることはできるけど、足を取られてるトラウマをどうにかしない限り囚われから連想されたものにすぎないのだろう。どうしても自由な発想には至らない。

 

でも結局何が怖いのだろう?他の人たちとのズレから来るのは確かだけど、ただ違うだけなら苦ではない。勘違いされるとかそんな程度のものではない気がする。多分だけど、意図せず傷つけた経験とかそっちから来てるんだよね。それなら思い浮かぶ中で一番の源泉は小1の時なのだけど、でもこれは伝えるっていうより励ますつもりが傷つけて悪者になったってもので、なんかちょっと違う気もする。いや、言葉という意味では同じだからこれなのかな。心当たりが多すぎるんだよ。

うーん。

取りあえずいいや。

 

 

こっちも最近暑いのだけど日本も今年は暑いらしい。

たまには真面目なこと書くけど、暑くてどうしようもない時はね、たらいに水張って足浸けるのがいいよ。足を冷やすと頭までスーッと涼しくなるから、熱中症になりそうな時とかお勧め。これは湿度も気温も高い熱帯雨林の中で僕が色々試した中で最善だった方法なの。

電気も要らないし、たらいかバケツと水さえあればどこでも手軽に出来て効果も早い。湿度高くても大丈夫。水がぬるくなってきても張り替えればいいし、シャワーとかと違って足浸けながらいろいろ出来るしね。学校で教えてもいいレベルで有用だと思う。

お水こぼしちゃったとかのクレームは受け付けません。バスタオルでも敷きましょう。

 

 

最近この曲ばっかり聴いてる


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切ないのだけど、その中に遊び心や喜びも沢山湧き上がってくる感じが好き。ノスタルジックなんだよね。

 

Michael Logozarはカナダの人らしい。好きな曲いっぱいある。

特に好きなのはさっきのFirst Danceなんだけど、NocturneとかMoonbeamsも大好きだし、Timelapseも好き。


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これもほんと大好き。ずっと聴いてられる。音楽の中に住みたいね。

 


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Timelapse、Einaudiも同じ題名の曲がある。人生的な視点でいえば走馬灯のようなものとも捉えられるし、大きな自然の視点を無理やり人間が見える形にしたものもTime Lapseといえるかもしれない。どちらにせよ象徴的な意味があるもので、僕もとっても好きなのです。

フランスのデモについてのニュース から ジャーナリズム マッサージガン CMJ - 星河不可及

日本のニュースと海外のニュースの内容の乖離って面白い。最近だとフランスのデモや暴動とか。あれなんか物凄く反移民、反イスラム感情を煽ってるけど、英語のニュース読んでるとイスラムだのなんだのっていうのはあんまり出てこない。興味の焦点が全然違うんだよね。

英語だとマイノリティの青年が射殺されたって部分がフォーカスされやすいのは、移民国家だと普通に起こりうることだからだろう。アメリカとかしょっちゅうやってるし、ある意味トラウマ状態だろうから。

日本では移民や異質に対する不安からそこがフォーカスされてるのだろうけど、ことの発端を無視してさも移民のせいで治安が悪化してるかのような書き方はやり過ぎだと思う。勿論そういう側面もあるのだろうけど、それありきでニュースにするのはね。いつものことだけど。

 

そもそも移民で暴動がどうのって、フランスは元々デモや暴動しょっちゅう起きてたじゃない。民衆が主張することによる実践的な民主主義の土壌があって、更にずっと多民族でやってきた国。今回のだってきっかけは特定のマイノリティな移民なわけだけど、デモや暴動はMixed Raceで広がってる。何かを是正しようという民衆の力が壁を破って働くのはフランスの良さでもあるのに、前提を無視した上にあんまり偏った報道だとその良さがかき消されてしまう。勿論、暴動までいくと目的や大義が迷子になっていってしまうのは当然だけど。

 

もう亡くなってしまったけど、少しお世話になったジャーナリストの先生がいて、もう何年前だろう。僕が一時帰国中に招かれて参加した会に、大分前に偏向報道と叩かれた記者さんがいたの。その先生にとっては後輩にあたる人。その先生はその後輩ジャーナリストさんを「君は間違ったことはしていない」と励ましていた。「政治的公平性だのなんだので主張を失った報道にジャーナリズムの魂はない。人の心を動かすのがジャーナリズムの使命だ」っていうようなことを言っていてね、僕はすごく情熱を感じた。

 

多分ジャーナリズムに何を大事にするのかっていうのはジャーナリストのグループによっても変わるのだろうけど、まぁでも、ジャーナリズム、突き詰めれば伝えること、そりゃそうだなぁと思った。ただ情報を伝えるっていうのは熱心なジャーナリストさんにとっては違うんだよね。世間の注目を集めて、時には政治を動かしたり、情報で人を助けたり、それがジャーナリズムだって。

元々記者や会社を介す時点で公正中立なんていうのは程度の問題になってしまうけど、僕は現代の情報って割と俯瞰した視点で伝えることを努力してるものと当時は思っていたから結構衝撃を受けた。すごいと思うし、かっこいいとも思わなくもないけど、僕はどうしてもニュートラルに持っていきたがる性質があるのもあって、怖いなぁとも思った。情報を伝えるお仕事の人たちなんだって思ってたけど、伝えることは目的ではなく手段なんだなぁって思った。手段をどのように利用するか、その辺の価値観なんて変わってくるし、何のために伝えるかという目的に至っては個人の信条や社是によっても大きく変わってくる。

記者になる人たちが持ってる使命感なんだよね。それはとても尊いものなのだと思うけど、一歩間違えば扇動になるじゃない?それどころか、わざわざ職業にジャーナリストを選んで生き残ってる人の中には扇動や印象操作を良しとする人もいるってことだもの。意識的か、無意識的かに関わらず。

今回のもなんかそれに近いなって思うの。特に日本の報道は。

 

扇動が無意味だとは言わないけど、扇動はいつも分断を生むし、分断が生むものが同じ繰り返しであるのは近代史が証明してるじゃない?

 

僕は無理に調和と協調を煽るのも扇動だと思うの。そこに群衆的な感情の流れが出来てしまえば理性的な判断ではなくなるから。だからと言って上っ面だけの理性で否定感情を丸出しにした拒絶や排斥は嫌いでね。それこそ理性を愚弄しているように思えてしまうから。

一つ言えるのは、個々が自らの不安や恐怖を直視しない事には先入観は消えないし、理性の純度は上がらないということだろう。集団が共有する感情は流れ、ベクトル的な要素であって、自分が流れていることに気づくためには共有しているものを切らないといけないわけだから。感情って魔法のようであるのにとっても物理的。

まぁほら、こういう時代だからこそ流れの先頭に旗を持って立とうとするジャーナリズムもある、むしろ多いということは気を付けないといけないと思う。SNSにいたっては誰でも旗を持てて簡単に激流が出来上がる上に、それを増幅する機能ばかりついてるからもっと怖いしね。本当に。

 

なんて書いててもさ、それは僕がその流れの外に出たがる性質の人間だからでさ、それは流れの中から見れば寂しい人間の戯言でしかないわけでさ、虚しいよね。

 

 

あとね、いつも通り話が急に変わるけど、マッサージガンを買ったの。ストレッチだけだとどうにもならなかった部分がほぐれて割とすぐ可動域が増す感じがある。機械に頼るのはなぁと思ってたけど、これは機械にしかできないわ。

肩甲骨はここ半年でかなり良くなってるけど、腿裏とか股関節はどうにもならなかったから、これで少しは良くなるといいな。

30年以上の不良姿勢は頑固だね。首よく痛めてたのは肩甲骨回り、腰は股関節から腿あたりが結構影響してたんだなぁと思ってる。柔軟やったり体幹を鍛えるようになって大分良くなってはいるんだけど。

身体を完璧にして森で生活したいな。その方が投網も木登りも何やっても楽しいしね。

 

 

あとね、とっても良い曲見つけたの!


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これほんと大好き。ずっと聴いちゃう。題名は"届かない天の川"とかそんな感じかな?歌がついてるバージョンもあるけど↑が一番好き。

 

作者のCMJは中国の人みたい。どこかメランコリックだけどあどけない曲が多くてとても好き。本当に、こんな世界にずっといたいって思うような曲がいっぱいある。すごくこう、奥底を刺激されるの。何か僕が諦めたものが込もってるんだと思う。

 


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この辺も大好き。曲名から星空と猫が好きな人なんだと思う。

解離 から そもそもずっとバラバラ? 母の子であった僕の不在 Love Lost (Piano) - Mattia Cupelli

解離について、海外のサイトを巡ってると気質によって解離になり易いのではないかという説があって面白かった。その人は性格型をもとに書いていたけど、あるトラウマに対処するのに心理機能的に脳内に逃げ場を作るタイプは解離になり易いのではないかと。心理機能的に反射的なタイプの人は無意識に投影で対処するけど、前者の場合は投影を意識してしまうのでそれが対処にならないのではないかとも。トラウマがそういう性格を作るという分析をする人もいる中で、この見方はなかなか面白いと思う。

 

大事なのは解離であれ投影であれ抑圧であれ統合失調であれ、生育過程における自己防衛の結果ということだろう。

 

他の言説では、その人は構造的解離という理論を使ってるけど、『人格の解離は成長過程における自己同一性の確立の失敗だから、すでに分離してしまっている人にとって統合された人格というのは幻想にすぎない』というものがあった。元々バラバラだったものが一つになり損ねたのが今の僕なのだとすれば、確かにそうなのかもしれないとも思う。

でも、昔のことはわからない。苦しんではいなかったけど、バラバラだったのかな?そもそもバラバラなのを意識したのは高校時代色々あって、その後少し回復した20代に入ってからだ。

 

もう一つ気になるのが、この人は、『自己同一性の確立の失敗は9歳頃までにトラウマ体験があると起こり得る』って書いてる。

非統合の記憶っていうのはないんだけど、9歳って言うとさ、母から聞いた話と重なるんだよね。小学校の担任から僕が「一人で誰かがいるように会話してる」って心配されてたって話。全然記憶にないけど。まぁ、その気はあったのだろうね。

覚えてないのが残念。仮にそれが非統合の別の自分なら、聞いてみたいことが山ほどあるんだけどね。

 

これらから気づくのはさ、高校時代の辛い時期に解離が始まったってわけではなさそうということ。僕の記憶の中では、あの時から自分を外側から眺めてたから、そこで分裂したのかなと思ってた。でももともとそうなり易い気質だったっていうのと、もっと前に自己同一性の確立をし損なってるということなら話は大分変わってくる。確かに記憶が抜けてる部分とか、もっと前からあるんだよね。大穴が空いてるのは高校時代だけど。

それにyoutubeで構造的解離理論やC-PTSDについて観てるとさ、これ幼少期からじゃない?って何度も思った。僕の場合、暴行やら生命の危険やらっていうのは高校時代しかないからそっちしか見てなかったんだけど、そもそもC-PTSDで苦しんでる人の中には日常的な家庭内暴力の目撃が原因の人も多いらしく、あれ?こっちもなのかって思った。

 

っていうのはさ、一番最初に戻るけど、これが単にトラウマティックなイベントに対して僕の脳が実行した対処反応だとすればさ、この二つの時期に起こった出来事の連鎖がかなり質の違う出来事だとしても、同じ対処反応を選んでる可能性は高いと思うのね。

「耐え難かった」、「そこに居たくなかった」、という点では同質だから。

 

きつい。もう少し頑張る。

色んな役割を演じながら成長する中で、バラバラが一つになりかけたけど完全に一つになりきれなかったということなのだろうか。そして高校時代ので一発中身が大きく切り替わった。

小さい頃のはさ、言い換えれば一つになるわけにはいかなかったともいえると思うのね。だって僕は同級生と同じく子供ではあったけど、家では兄をやらなきゃいけなかったし、何より毎日地獄を味わってた母を支えてあげないといけなかったしね。僕しかできないから役割になってしまうわけで。だから僕はさ、前にも書いてるんだけど、母に対してみんなが当たり前に使うお母さんという言葉がうまく言えないし、それはその言葉に付随する感情がしっくりこないから。言い換えれば、子の母に対する感情を持っていない。だって僕は支えなきゃいけなかったから。今だって元気そうな母を見れば微笑ましく思う。

どこか上から見てる。可哀想な人だったから。だから僕自身は可哀想の外側の役割として接してたのだろう。子供って単純。

母を尊敬しているかと問われれば尊敬しているけど、それは客観的な視点で頑張ってくれた母に対してで、母の子としてのありがとうではないんだよね。上手く言えないけど。

なんてことを書いてるのが母の誕生日なわけで、いつもさ、もやもやしながらプレゼントが届いたころ合いで「誕生日おめでとう」とだけ送るんだよね。他に何書いていいか分からないから。母は誕生日になると僕にも弟にも妹にも、長々と母親らしいメッセージを送るのだけど、僕は何を書いていいか分からない。おめでとうと言うのは素直な気持ちだけど。

 

何でこんなことを書いたのかと言えばさ、これはこの僕の感覚なわけだよね。仮にバラバラなままなら、母をママと呼んでいた、弟や妹が生まれる前の母が大好きであったであろう頃の僕はまだ居るのだろうか?彼はまだその感情を持ち続けているのだろうか。

だってさ、理屈上、その彼が非統合のままだからこの僕からその感情が抜けてるわけだよね。どこ行っちゃったんだろう。

 

いずれにせよ、やっぱり統合を目指せばいいというものではなさそうだ。解離患者の統合の追跡調査も読んだけど、統合に成功した人は15パーセントとかだった(うろ覚え)。僕自身、無理だろうなぁと薄々思っていて、そこにきて、統合された人格というのが僕にとっては単なる幻想という現実を突きつけられたようだった。

ということは、僕は、私という観念が希薄な、私たちのようなものという、曖昧で統一されてない自己を生きなきゃいけないってことだよね。今までもそうだったから、どこかで縛られていた自己同一性なんてものを完全に諦めてしまうチャンスでもあるわけだ。

 

バラバラなのも居心地はいいんだけどね。ただ、自分のことなのに分からないことが多すぎるし、今まで生きてきた自分たちが繋がってないから生きてきたって感覚も薄いのが難点なのね。虚無感の中に住んでる。

せめて必要な記憶にアクセスさせてもらえればいいのに。でもどうなんだろう。非統合を受け入れるとしたら、別の欠片が持ってる記憶や感情を諦めるってことなのかな。生き辛さを受け入れるってことなの?ここまで向き合ってきたのに詰みを受け入れろってこと?それはちょっと…

でもさ、経験として、凍り付いた記憶が氷解したことはあるわけで、あの時は耐えきれなかったけど、やり方はあるのかもしれない。

まぁ、詰みを受け入れきれないっていうのは肩に力が入りすぎなのだろうね。それでもいいやぐらいに思えれば…って思ったけど、現状がきつすぎて無理だなぁ。

 

先ず泣けないのをどうにかしたいんだけどね。涙が枯れたとか言えば聞こえはいいけどさ、それ出さなきゃその下の感情や記憶もダムの底に沈んだままなわけだよね。そっちが悲鳴あげてて。それがどうにかなれば別に泣けなくてもいいんだけどね。

泣ける自分がどっか行っちゃったってことなのかな?彼じゃ耐え切れなかったから?もうとっくにその状況は過ぎてるのに何で出てこれないんだろう。一緒に封じたのかな。ドラゴンボールにそんなのあったよね。壺に入れるやつ。はい。

 

何か急にドラゴンボールが浮かんだせいで緩んでしまった。今日はこの辺にしとけってことだね。

 

 

これ大好き


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ずっと聴いていられる、虚しいほどに優しい曲