感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

あれこれ Levi Patel - Since Last Letters

取りあえず何か書いてみようと思ったけど特に書きたいことがないという。違う、書きたいことがないというよりまとまらないのが分かってる感。なんかこう、濃度が薄い。

心地はいいんだけどね。集中できるムードじゃない。ただぼーっとしてるにはいいんだけど、ぼーっとし過ぎるのもどうなのかっていうのも思うよね。

 

ニュースサイトでも見てみようか。

小室圭… この話題まだやってるんだ。この人世間で言われるほど頭悪くないと思う。

そういえばね、僕実家が美容院だったんだけど、女性週刊誌が置いてあってね、小中学生の時とか時々読んでたの。雅子様がどうのって記事ずーっと載ってたし、何か知らないけどダイアナ妃もよく出てたよね。それで今はこれでしょ、好きな人多いんだなぁと思った。別にいいんだけど、あんまり酷いとルサンチマンみたい。

おめでたいことなんだしそんなに目くじら立てないでもいいと思う。

 

だめだこのネタだと続かない。

 

ラニーニャ現象発生の可能性だって。こっちの方が面白い。

ラニーニャだとこっちも雨が多くなる。排水の問題もあってこの街最近やたらと冠水するんだけど、年末年始にラニーニャが来ると結構な洪水が起きるかもしれない。沢山水没する車が出て大変だろうなぁ。他人事じゃないよね。気をつけなきゃ。

 

村の方は雨が多いとエビが獲れるからその点は恵み。いや、熱帯だから雨が多いのは当たり前のことなんだけど、ここ数年雨季の雨が少なすぎる。それが長期的な周期の問題なのか気候変動の問題なのかわからないのだけど。スコールが減ったのは森が減ったからっていうのはよく分かる。砂漠から来たアブラヤシじゃ蒸散しないし、農園の土地は保水性どころか排水重視で、単純に土壌からも大気からも水が減ってる。水はそのまま海に流れてしまうのだから、上下運動のスコールが減るのは当然だろう。すぐ近くの保護区では雨が降ってるしね。

人が植えた作物が環境を変化させるって面白いよね。人が維持しなくなれば植生も年月をかけて元に戻るのだろうけど、人が維持する限りはその植物が支配的になるわけで、環境もその特性に引っ張られる。

 

なんていう話題は楽しいけどここに書いても微妙だからこの辺で…

 

他のニュースも微妙だなぁ。なんか違うこと考えよう。

 

そういえば最近丁度寝る頃に窓の外に月が出てる。半月過ぎてから結構明るくて月光浴気分。月光浴とか適当な造語書いたなぁとか思ったけど、検索してみると結構出てきてびっくり。効能とかどうなのか知らないけど気持ちはいいよね。月明かりぐらいがちょうどいいというか。僕夜型だから横になって音楽聴きながらおめめぱっちりで、リラックスしつつ高揚してるような状態なことが多いんだけど、副交感側に振れる感じ。満月に近づいてあんまり明るいとあれだけど。それでも届く波長の量が違えば性質は違うのかな。

今日は曇ってるから見えないかな。雲間に出る月が一番好きなんだけどね。

 

そうそう、あとね、今日は蕁麻疹がね。多分昨日買って捌いてお刺身にしたキハダのせい。家族は何ともないから僕がそういうタイミングだっただけだと思うけど。昨日食べた時は何ともなかったんだけどなぁ。

痒い…薬もないんだよなぁ。喉とかに出たことはないから怖くはないんだけど。(弟が昔喉が塞がりかけて病院に運ばれてた)

 

あとね、この曲が最近お気に入りでよく聴いてるの。


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胸の奥の方が絞られるような感覚がある。虚無と希望の同居。静寂の奥の喧騒。寂しさの温かさ。新しい朝の懐かしさ。

 

日々を生きている人々というのはそれだけで、それだけだからこそ輝かしいなと思った。

動画は昨日初めて観たんだけど、北インドのレーで撮られたらしい。チベットから亡命してその辺りに住んでた知り合いとかがいるんだけど、彼らがどんなところに住んでいたのかちゃんと知らなかったから何だかとても感慨深い。行ってみたいなぁ。

 

日々を生きている人々って書いたけど、僕は生きてないの?そこなんだよなぁ。日々を生きる難しさ。未来ばかり予期して辟易しちゃうからかな。生活にプレッシャー受けすぎなんだよね。こうしなきゃあれしなきゃ、やれ生活費だ将来の展望だって、その思考が合わないってわかってるなら捨てちゃえればいいのに、それがまた難しい。

贅沢な悩みなのは分かるけど贅沢でも悩みなんだよなぁ。あれこれ考えず小さく生きたい。せめて子供が大きくなったら。

直感・感覚の信頼、感情の肯定 伝えること 

ここ数日直感というものを意識させられている。

直感というのは僕にとってなんだろうか。森の中での生活では直感に繋がる色々なことを学んだ気がする。受け容れられるようになったのはパウロ・コエーリョのアルケミストを読んで自分の中で経験と融合することで具体性が増してからだし、それを受け入れ始めた自分を肯定してくれたという意味でも、当時出会った友達の存在もとても大きい。

今となっては直感というものは以前よりも鮮明さが増し、そこにあるものとして捉えてはいるようだ。でもそれを信じる、となると途端に自信がなくなってしまう。

だからそれを信じて生きることができるという態度に、僕は憧れとその裏返しの嫌悪を抱いてきたのだろう。嫌悪感はもう消えているけど、そうやって生きられるかどうかとなるとやはりまだ難しいかもしれない。まだと書くからにはいつかそうではなくなるような気もしているのだろうか。

 

順序的には先ずは感覚の肯定からだろう。自らの感覚をそのまま肯定することは、実際に意識して行動に移そうとすると本当に難しいと痛感する。どれだけ自然に思考が介入しているか。すり替えられているか。

そうなってくると実感ばかりを見て生きてきたのに、それすらも薄くなってしまう気がする。どちらを見ればいいのか。

違うよ、感覚をそのまま肯定しようって話なのにどちらを見ればいいのかって、そういうとこだぞ。回路の問題なのかな。難しいを通り越して苦しさもある。でも一度その先を見てみない事には中途半端を受け入れる以外に方法がない。やっぱり受け入れてもいないんじゃないか。

前のように思考を排除するということがしたいわけじゃない。ただ順序を組み替えたいだけ。でもそれが難しい。本当に深く見つめていないと思考の存在に気付くことも出来ない。気付けなければ思い込んだままで終わってしまう。どのみち思い込みなのかもしれないけど。ほら。いいから黙ってて。そういう話じゃないのは知ってるくせに。

でもなんか懐かしいな、これ。何を恐れてるの?君が出る時はいつも恐れがあるよね。まぁいいや。

 

例えば感覚にも色々あって、その中で僕が受容できるものの幅は広がった。でも頭が介入する以上どうしても常識的な範囲で収めようとするし、それより外側のものからは目を逸らさせる。それを一度取っ払ってみたい。そうしないと直感だって全体を受け取ることは出来ないと思う。小さい所からなんだろうけど。でもやっぱり常識も既成概念も観念も全部取っ払ってみたいという欲もある。

この懐かしい煩わしさ。頭を潰したいってよく思ってた。そんなこと本当にしたら元も子もないんだけどね。

 

 

抑えきれない気持ちというものはあるもので、抑えれば抑えるほど苦しい日々を経験した。外に出せればいいのに、それが難しい。自分の内側の抑えた感情の中で溺れ、窒息しそうになる。以前なら抑えられていたものが抑えきれない。中のものが大きくなっている分抵抗した時の苦しみも増している感じ。

抑えきれないというのは、少し前の自分なら自己否定に繋がるようなことだけど(何でだろう?)、自分にとって感情がどれほど大事なものかということに気付き認めはじめてからは、思い悩むことはあっても否定に繋がらなくなった。寧ろ頭が抑えきれないことに微かだけど双方の意味で嬉しさを覚える。

癖になっている抵抗は強いけど、結局は抑えきれないと分かってしまった分、そしてそれを良しとし始めている分、気持ちの面でも楽かもしれない。

 

アウトプット、伝えることに関する苦手意識はダイレクトに感覚の不信、感情の抑圧に繋がってる気がする。

アウトプットしないことと不信や抑圧はイコールではないけれど、アウトプットしないという選択肢を選ぶ意識に問題があるのかもしれない。否定ほどではなくても、疑念や不安がそこに生まれるのは自分の感覚を信用しきれていないからだろう。

何故かと問えばそれは結局過去の失敗や不理解、常識によって否定し切り離してしまった自分がいるわけで、記憶の奥深くに取り残した自分の感覚を肯定してあげるしかないのかもしれない。

 

昔の自分を振り返ってみれば、恥もそうだし、上手く伝わらなかったことも、傷つけてしまったことも、アウトプットはしたということだ。そこは寧ろ今の僕からすれば褒めてあげられる部分。結果に関しても外側以外の価値だって今では見ることができるのだから、それをもって昔の自分と対峙してみたらどうだろうか。

 

 

伝える不安と伝えなかった後悔があるけれど、明日僕が死なないとも限らないのがこのモータルな世界なわけで、そう考えるとやはり抱いてる思いは少しずつでも伝えていった方が良いのかなと思う。

今回は、全てではないけど、一番伝えたかった人に一番伝えたかった感謝を伝えることができた。恥ずかしくもあり、どこか自分勝手だなぁとも思い、でもよかったと思える。

 

情けは人の為ならずというけれど、それと同じで伝えることも人の為ならずな部分も大きいのかもしれない。色んな意味で幾重にも自分に返ってくるものなのだろうし、根本的な部分ではアウトプットすると同時に自分へのインプットになっている部分もある。だからこそ素直に偽りなくが大事なのだろう。これは最初の直感や自らの感覚に対する信頼にも繋がるものだと思う。

そんなことを思い、素直に気持ちを伝えること、改めて努力していきたいなぁと思ったのでした。

 

言霊っていうのもよく分かんないなぁって思ってたけど、僕の中での認識が改まるかもしれないなぁとも思った。

最近のこと 健康面、カメラ、音楽、夢、Matthew D. Morgan - "Angelita" "All Who Wander."

前腕が浮腫んだように腫れて痒みがある。これ去年入院した時に抗生物質の点滴受けてた部分で退院後3カ月くらい腫れと血管の硬化が続いてた場所。何で急にぶり返したんだろう。もう一週間ぐらいたつけどちょっとずつ酷くなってる。これ治るのかな?

理由もなく手の関節が痛くなったりするし、自己免疫疾患系には気をつけておいた方が良いのかもしれない。でもどうやって気をつければいいんだろうか。まぁなるようになるよね。

 

あと最近起きた時に歯と顎が痛い時があるから寝てる間に力が入って食いしばってるんだと思う。寝てる間に力が入っちゃうのはなんかあれだよね。疲れも取れづらい。そもそも何でそんなに身体が強張ってるのか分からないけど、リラックスできる環境を整えればマシになるのかな?うーん…

 

これだけ書くと不健康っぽいけど、運動は前よりしてるし体重もちょっと増えたんだよ。見て分かる程度には筋肉が付いた(元がない分浮いて見えやすい)のでその分純増したのかなと思う。あとはハムストリングと股関節をもっと緩めたいですね。

健康面はそのくらいかな。

 

そういえばね、この前雲を撮ってその画像を見て気づいたんだけど、レンズに結構カビが生えてしまってる。焦点距離によってしっかり写り込んでしまっててちょっとショック。雲とか明るい写真だから目立つのもあるのだけど… 

この写真とか酷い。

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上の方の黒い点が全部そう。うーん…

レンズオープナー買って自分で掃除してみようかなとも思うけど、ちょっと億劫だから様子見。

 

あとはね、最近何故か流れでファイフを買ったのでちょくちょく吹いてみてる。思ってた音とちょっと違うけど音が出るのは楽しい。ファイフといったらYankee DoodleとThe British Grenadiers、Yorckscher Marschが思い浮かぶけど、目標は高く持って行進しながらその3曲を吹けるようになろう。ちゃんと吹けるようになったらピッコロも興味ある。

それと子供の誕生日プレゼントに買った電子キーボードも時々借りて音を鳴らしてみてる。ピアノろくにやったことがなかったから全然弾けないけど、両手を別々に使えるようになりたいなって思って練習中。難しいけど楽しい。

楽器で一番音が好きなのはチェロなんだけど、あれは色々ハードル高いよね。いつかはやってみたいけど。

 

 

そうそう、最近変な夢が多い。ここ2日も変な夢を見てる。

昨日の夢は何故かポケモン。凶悪な伝説のポケモン(架空)に追われてて、広い荒野に建物があるんだけど、そこに向かって逃げるの。リザードンに運んでもらいながら飛んで逃げる(子供が見てたDVDにこんなシーンがあったかも)んだけど、追いつかれてリザードンは斬殺されてしまう。それでも隠れたり走ったりしながらようやく建物に着き、目的地に繋がるエレベーターに乗るの。上に向かうと助けてくれる存在がいるとかで。でもエレベーターはうまく作動しなくて、下に降りた後また同じ階に戻ってきてしまい、ドアが開くとその悪いポケモンがいる。必死に閉めようとしてそこで終わり。

 

それで今日の夢はね、これもエレベーターで、知人2人と乗ってるの。薄暗いエレベーターで下に向かう。地下深く。途中で知り合いに会ったりもしながら下へ。一人は途中で居なくなってて、もっと下の方でもう一人の知人(現実では末期がんで今は症状が落ち着いてる人)も降りていく。ちょっと寂しい感じ。その人が降りた後別の知人が乗って上へ向かう。

じとじとして薄暗いエレベーターの中で知人らしいけど誰かよく分からない人と話してる。視界には床に這いつくばってピクピクしている赤い服の髪の長い女性が映ってる。その辺りで曖昧に終了。這いつくばってる女の人は夢を見てる時は何とも思わなかったんだけど、起きた時にあれよくよく考えると変だよねって気づいた。

 

エレベーターで上に行く夢って良いらしいけど、これはあんまり良くなさそう。

お塩でも舐めた方が良いかな?

眠りが良くないから変な夢を見るのか、変な夢を見るから眠りが良くないのか。それとも…

 

そういえば一昨日は知人に罪を着せられ警察に捕まりかける夢を見た。他の犯罪者たちと水の入った樽の中に隠れたり中々カオスな夢だった。

僕はぴちぴちギャルに南国でフルーツを食べさせてもらう夢とかそういうのがいいんだけど、そういう夢って全然見れないんだよね。悲ちい。

 

 

あと何書こうかな。

そうそう、Matthew D. Morganっていう人の曲が好きでよく聴いてるの。なんというか、凄く波長が合う曲が多くて好き。

その人の曲の中にAngelitaっていう曲があって、それをたまたまyoutubeで検索したらショートムービーが出てきたの。それ用に作られた曲だったのかな。

曲も好きなんだけど、このショートムービーもとても良かったから貼っちゃう。

 


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ダイバーの人達が作ったみたいで水との恋がテーマらしい。水を人として表現するのもすごいけど、その表現がすごくすごくてすごいなぁって思いました(語彙不足)。好き。

潜在意識や原型っていう視点から見るとまた別の深みが出るのかなって思う。最後の、呼吸を捨てて追って潜っていくところとか、凄くダイバーの人の気持ちを表現してるんじゃないかなって思う。

 

そういえば僕、小学生の頃スイミングクラブで1級合格した後ダイビングコースに行って(競泳コースが嫌だという僕らしい理由で)ダイビングの練習とかちょっとしたんだけど、ダイビングどころかシュノーケリングすらしたことない。海の中の魚の写真とか見るとワクワクするけど、自分でやってみたいと思ったことがないことに今気づいた。すぐそばに有名なシュノーケリングスポットとかダイビングスポットとかあるのにな。やったことないのになぜ拒絶感を抱くんだろう。不思議。

 

Matthew D Morganは"All Who Wander."ってアルバムが凄く好きで、その中でも"What We Used to Be"と"The Space Bitween"って曲が大好き。

 

これyoutube musicかpremium入ってないと見れないと思うけどSpotifyかなんかにもあると思うから聴いてみてね!


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宇宙っていいよね。僕もずっと彷徨ってる。でも宇宙的な視点だと彷徨うことも赦されるよね。寧ろそういうものというか。

 

また変な夢見そうだからここまで。

親ガチャ から 自分観とか

親ガチャって言葉を聞くと、よく分かんないって思うのと同時にそれだけ自分という存在がはっきりしてるんだなぁっていう風に思えて羨ましさもある。

なんて言うんだろうなぁ。親そのものなり親の性質が違ったという仮定をして、その延長線上に出てくる自分が自分って言えるのが凄いなぁって。

 

僕なんて昨日の自分が今の自分かすら思い起こすと怪しいし、今これを書いている自分が自分かすら怪しい。感じている自分と考えている自分も別だし、遡った自分も別だし、そもそも自分とは何なのか。僕の中に沢山僕がいてレイヤーとしての僕がいてその外側にももしかしたら僕がいるかも知れなくて、とか考えてると僕とは何か分からなくなってくる。詰まる所自分と確信できるのが瞬間的な感覚でしかないせいなのだと思う。

そりゃ存在としての僕が僕であることは頭ではわかるのだけど、それはどこかやはり霞んでいて。なんかこう、砂上の楼閣感。内側のバラバラも霞んだ感覚も大分マシにはなったのだけど。

 

親ガチャって想定しても、今僕の意識がここに存在してるからには、どうしようにも分岐して平行に存在する(もしくはそもそも分岐すらしていない)自分のような何かしか想定できなくない?それは自分なの?っていう感じで親ガチャそのものが上手くイメージできない。

 

あの時ああしてたらどうなってただろうっていう想像が上手くできないのに似ているかも。分岐の直後くらいは想像できてもそのあとは真っ黒。

 

そんなんだから色々と信じることに難があって、輪廻なんかもそうだし、魂とかっていうのも中々落とし込めないから、それに起因する生き辛さがずっとあるように思う。いい加減懐疑の海から抜けたいよぅ。なんて言いながら自分から深みに嵌っていく。

 

だから親ガチャってことを普通に言える人たちに僕は無い物ねだり的な羨ましさを抱くのだろう。

 

 

あと似たようなので、人間に生まれる確率がとても低いって記事も見たのだけど、それも引っ掛かる。人間ではないものに生まれた自分、その想像は楽しいけれど、でもそれは自分なのか。その想像すら、たとえばイトヨリダイに生まれた自分を想像しても、それは今の自分が記憶を駆使して勝手に作り上げているわけで、その偽物感に腹立たしささえ覚える。

鳥になった自分とか想像するけど、それは鳥の皮を被った自分でしかないしね。

 

自分というものがよくわかってないのに、やたらと自意識というか、自分は自分という感覚があるから、それを超えたものが前提となってるその仮定がいまいち掴めない。

だって前提として、生まれる前に自分がなければ何か別のものとして生まれる確率なんて比べられないでしょ。その思考が自然にできるのはやはり生を超えて自分の存在を意識できているということだから(だよね?)、やっぱりそういう面では羨ましいなって思う。

どうしたらそれができるのだろう。

 

それにしてもなんだろう。僕は僕であって僕でしかないと言いながら、僕って何だろうと考え出すとどれが僕だか分からない。いつもの。

 

親ガチャに関してはあれだけど、じゃあ順序的には僕の中で子ガチャは成り立つのかって話になるよね。

物質的には精子や卵子の性質とか、メンデルの法則とか習ったし、形質的なことで言えば成り立つのかなぁとも思う。でも人格の伴った子供ってなると実際に生まれた存在する子供以外を想像するのは難しくて、子ガチャもやっぱり上手く成り立たないんじゃないかなぁと思う。実存はそこにしかないのだし、それを前にした瞬間ガチャという仮定は崩れるよね。

妄想とかは大好きなんだけど、自分の周りに関することだとガチャ的な考えは僕には合わないのかな。その思考の大元にアタリ・ハズレがあるせいな気もする。アタリ・ハズレ云々じゃなくて、引いた時点で存在と非存在じゃんってなるからかな。あたりはずれがある軸ではないけれど、強いて言えば出てきた時点で全部アタリなんだよなぁって。今全部ハズレって出なかったということは、僕は存在を肯定的に捉えてはいるのかな。だってやっぱり存在しないって想像すると怖いしぃ…

 

生まれに関する避けられない不運や不幸がないっていうわけじゃなくて、それってなんかこう、ガチャみたいな不確定的なもので喩えられるものとは違うって感覚なんだろうね。別に運命論が好きっていうわけでもないのだけれど、起きたことは起きたことだしなぁって思うし、それをハズレ的に捉えるのは軽視というか目を背けるというか、ちょっと真摯じゃないかなって思うかな。不幸こそ直視した方が良い気もする。自分のものも他人のものも。

 

妄想繋がりで思い出したんだけど、昔おかあさんといっしょの歌で『そうだったらいいのにな』ってあったよね。うちのお庭がジャングルで~ってやつ。保育園の時、なんかあれ好きだったなぁ。

昔から妄想好きだったのかな。

 

因みに『とんでったバナナ』と『あわてんぼうのサンタクロース』と『ふしぎなポケット』が好きだったのも今思い出した。どうでもいいけどね!懐かしいなー。

マスク から 冠水 Safe & Sound - Taylor Swift feat. The Civil Wars

外を歩いてて人が近くに居ないとマスクを外すんだけどさ、その状態で向かいから人が歩いてきた時にマスクを着けるとなんかその人のこと嫌がってると思われそうで気分悪いよね。かといって着けないとそれはそれでこのご時世嫌がる人も多いし、こっちじゃ下手すると罰金だしさ。

 

制限は色々緩和されてきていて、外を子供とジョギングしてる人もいるのだけど、子供にマスク着けたままジョギングもあれはどうなんだろうか。高山トレーニングみたいに凄い負荷かかりそうだし、高地と違って二酸化炭素が多いわけだし。

マスク2種類同時着けの勧めとかこっちの保険省が出してたけど、あれ正気なのだろうか。実際やってる人と会ったけどやっぱり息し辛そうに見えた。

 

呼吸ってものを意識するようになってから呼吸一つで精神状態も意識状態も身体にも大きく変化があると実感していて、これだけ多くの人がマスクを着けてると、すぐに表面に出ない影響というのも気になってしまう。

 

僕も鼻炎でマスクっ子だったから子供は特に気になる。しょっちゅうぼーっとしてたから。基礎代謝が高い時期なのだから今思えばそれも無理ないと思うのだけど。そういうので授業中ぼーっとして怒られる子が出てるなら可哀想だなぁと思う。不注意や事故も増えるだろうし。必然的に自殺も増えると思う。

でもそれはマスクを社会として当たり前にするのなら、例えばミスが増えることを怒ったりその人のせいにするよりも、理解してサポートし合うことでそのデメリットを社会として受け入れるしかないよね。

 

別にマスクが悪いとは言わないけど、人って当たり前にするだけしてそういう所には冷たいんだよなぁって思うから。特に恐怖が支配してる時は別の部分に目を向ける余裕がないのかもしれない。

 

マスクによる感染予防効果がどの程度のものかは知らないけれど、子供用には多少効果を犠牲にしても呼吸し易いものを作ったり、もう少しこう、フレキシブルでいいと思うんだけど。

そもそも子供には必要かどうかから議論すべきとも思うけど、そんな空気は今どこにもないだろうしね。ルソーが生きてたらボロクソ書いてそう。

 

これを何十年何百年と続けたら効率的に酸素を吸収する能力とか二酸化炭素に対する耐性とか身につけた人が出てきたりするかな。

今までは吸い込んでたけどマスクするようになって吸い込まなくなった物質に対して弱くなったりとかも起きないだろうか。口と鼻が外気の刺激、温度差や湿度差に敏感になるっていうのは普通に起こると思う。僕がそう。

 

今マスクがどうこうっていうのは危険だから言わないけどね。皆が落ち着いた後の話の種として取っておくにはいいかなって。

 

まぁ今はこういうご時世だし、出来ることといったら人のいない時にはしっかり意識して呼吸することぐらいだろうか。飛沫を飛ばさないことに意味があるのなら鼻出して鼻から深く吸ってもいいと思うけど、鼻出しても怒られるんじゃそれも難しいだろうしね。

 

 

そうそう、今日は豪雨でいたる所で道路が水没し、そんな中無理やり帰って来た僕の車は家についたらナンバープレートが無くなっていた(二回目)。前回はこれでスターターモーターがやられたからちょっと心配。あんな雨じゃ帰らないともっと増水してたかもしれない(実際した)し、判断難しいよね。

故障で立ち往生の車も多数見かけた。これから一週間は車のワークショップやアクセサリーショップが繁盛することだろう。

今お金に困ってる人多いし、水没で修理費出せない人とか結構いそうで可哀想だな。こういう時に自然が非情に見えるのは、普段自然の温かみばかり感じてるからなのかもと思った。人間とは勝手なものだね。

 

 

あとね、今日久々にこれ聴いたの。


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I remember tears streaming down your face when I said I'll never let you go
When all those shadows almost killed your light
I remember you said don't leave me here alone
But all that's dead and gone and passed tonight


Just close your eyes, the sun is going down
You'll be alright, no one can hurt you now
Come morning light, you and I'll be safe and sound


Don't you dare look out your window, darling everything's on fire
The war outside our door keeps raging on
Hold onto this lullaby even when the musics gone, gone


Just close your eyes, the sun is going down
You'll be alright, no one can hurt you now
Come morning light, you and I'll be safe and sound


Just close your eyes, you'll be alright
Come morning light, you and I'll be safe and sound

 

LyricFind

 

一時期しょっちゅう聴いてた。Taylor Swiftの歌で一番好き。

とても救われるし救われた歌。

 

どこか厭世的なのは、窓の内側も巻き込まれることは分かっているからなのかもしれない。それを受け容れた上で、もうだめだって分かってる上で今ある安らぎを最大限に与えようとする強さと優しさがある歌だと思う。

それって何ていうか、この上ないものなのかなぁって。

 

物悲しげで寂しげで不安が混じってるけどそれを跳ね除けるように(でも跳ね除けきれない)力強くてとても優しく温かい。凄い曲だと思う。Taylorの感情表現というか感情再現の上手さが際立ってるよね。

 

この曲、窓の外の悲惨さが人生と重なるんだろうなぁ。だから救われるんだよね。多分。

めまい  虚無感と尺度と見方 Aurora - Stjernestøv

昨日は変なめまいが酷かった。体勢を変えたり寝転がったりすると、ぐわーんって視界が時計回りに大きく回る。

 

こんなの初めてで、最初は「お、もうやばいのきたか?」とも思ったけど、どうも脳じゃなくて三半規管かなという感じ。

調べてみると良性発作性頭位めまい症っていうのがこれっぽい!って思って、そのページに載ってた検査法を試してみる。

首を右に傾けながら頭がベッドから垂れるように仰向けに寝転んでみると…何も起こらない。あれ、はずれかなぁ?と思いながら、一応左に傾けて寝転んでみると、その瞬間視界が時計回りに回りだし、身体は寝転んでるのに感覚はベッドを突き破って右回りに落ちていく。なんかのゲームでバグって床を突き破って落ちていくみたいな感じ。明晰夢で視界とズレて感覚だけが動いていくときにも似てる。

数十秒で収まった。

 

なんか変なんだけど面白い。ちょっと酔いそうとも思ったけど吐き気も無し。3回くらい試してみたけど最初が一番すごかった。

良性発作性頭位めまい症は内耳前庭にあるとても小さな耳石が三半規管に入り、その動きで誤った情報が脳に送られて起こるんだって。一番多い良性のめまいでちょっとしたバグみたい。

で、その浮遊耳石を動かす治療法みたいなのも載っていたので、一人で同じように動かしてみた。念入りに5回くらいやってみると視界が回ることもなくなった。一晩経った今日は一度も同じ症状が起こらず。

面白かったからちょっと残念。でもずっと続いたら私生活にも支障があるだろうし、治って良かったけど。

 

はい。めまいトークおしまい。

あと何書こうかな。

 

最近虚無感が復活してる。迷子感もあるけど今日は虚無感の方が強い。

うーん。

まぁでも虚無は当然と言えば当然だと思う。そういうものなのだろう。そういう見方ばかりしてるからっていうのもあるだろうけど、今更それを否定してもしょうがないし。

虚無感自体は嫌いじゃない。特に、こういう時に見る月や星空ってすごい。ある意味まっさらな状態だからかな、もの凄く引き込まれるし、この上なく輝いて見える。凄く自然に混ざり合う。

 

でもここは星があまり見えない。あまり落ち着かないし。こういう状況だから遠出できないし。せめて夜の散歩をして新鮮な風を感じられればいいのだけど、最近毎晩雨なんだよなぁ。雨は嫌いじゃないんだけど…

 

星空はさ、包まれるだけでその尺度に引き戻してくれるっていうのかな。この街の尺度の外側に僕を連れ戻してくれる。それがとても大切なんだなぁと思う。

虚無感って無意味や無価値による虚しさ(かなり端折った)って意味らしいけど、本当にそうなのだろうか。その感覚がこの尺度に合ってないから虚しさを纏って感じるだけなのではないだろうか。ミスマッチなんだよね。

 

そもそもなぜ意味が必要なのか。なぜそこに価値を見なければならないのか。そこに疲れるわけだから。もし意味があるのなら意味は意味そのものとして内包されるだろうし、価値もわざわざ見なくてもそれそのものが価値だろうし。存在はそこにあるのに意味や価値に縛られ、囚われるからこの尺度では訳が分からなくなるのではないか。

 

そこに意味を見出したとして、そこに価値を見出したとして、それは本当に…?っていう透けた疑念の奥にある虚しさな気がする。明らかに求めているものとは違うのだから。

 

だってこんなに芯から僕を引き込み抜き出してしまうような星空を目の前に、その価値や意味を問おうとすればそんなに馬鹿げたことはないじゃん。言葉にすることさえ危さがあるのに。

それは言い換えれば(僕にとってなのか何なのかは知らないけれど)、星空も月も日も雲も山も風も海も森も、それらそのものが意味でもあり価値でもある。問うまでもなく存在が存在であって、その物の形の中に色々な概念自体を内包する広さがあるということかもしれない。そのスケールなのかな。

 

じゃあその見方で街や人々や世界を見ればいいじゃん?って話だけど、それは出来ることは出来るんだけど、難しい。何で難しいんだろう。

その尺度に引き込まれちゃう?過去のしがらみ?少なくとも中立になれないからだろう。そりゃその中で生きてきたんだしぃ。色々あるよぅ。そういう意味もあって今は見ないようにしてるのかな。確かに目を逸らしてる部分はあるだろう。そのくらい許してあげて欲しいけど…今主観はどこにあるんだろう。

ここに感情が疼くのはなんでだろう。未消化。手を出したいけど出せない。記憶の氷山。

思いもよらないところから意識してしまった。でも大きすぎるかも知れない。

 

もしその見方で見れるようになれば何か大きな転換があるような気がする

 

 

ずっとこれ聴きながら書いてた。

Aurora - Stjernestøv


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Stjernestøvは英語でStardust。

この曲大好きで前も貼ったかも。英語字幕つけてる人いたからこれ貼る。

彼女英語の歌ばかり出してるけど、この歌はノルウェー語だからこその柔らかさがあると思う。ノルウェー語面白いな。勉強してみたいけど使う場所がない。

歌詞も意味は初めて知ったけどイメージ通りだし、やっぱり気分のいい日の夜のお散歩にはぴったりだなぁと思った。何時間でも聴いてられる。

 

最後のこの部分

The storm calms down now
You stand up, my friend
You'll always find the road home
The road that exists in you

とっても好き。深い部分でこう…救い。

 

それにしても、本当にスケールの大きな人だと思う。その包容力。

いつも導いてくれる。