感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

副反応 別ブログのこと お蕎麦とメランコリー 気力不足か興味減退か "Stories from the Sky" Sid Acharya

副反応って言葉気持ち悪い(唐突)

ワクチンを打って私の身体が起こす副次的な反応って意味なのだろうけど、それって身体にとっては異物に対する主的な反応の一つでしかないのではないか。

言葉の主体を意図的に薬剤じゃなくて打つ側の私に持って行ってるのに、主副が別のところにかかってる感じ。回りくどい上に捻れていて口八丁な感じがする。ある意味信用にかかわる問題だと思う。

Major side effect的な予測出来てる主要な副作用に対してよく使われてるから主要副作用=副反応的な感覚もある。もうなんかよくわからない。

 

それに比べて主作用・副作用はシンプルだ。主体は薬剤。それが人体に起こし得る主副の作用。

人によって作用が違うのは主作用副作用でも前提としてあるのに、なんでわざわざ反応という言葉を使うのだろう。

ヘリ搭載型護衛艦とか特科とか支援戦闘機的なあれなのかとも思ったけど、副作用はもともと使われてる言葉だからただ濁したいだけ的な?

 

なんでこんなしょうもないイメージ戦略に出るのだろう。と思うのだけど、それなりに浸透しているようで(この前書いた知人もバンバン使ってる)やっぱり効果はあるのだろう。

薬剤に対する不安を和らげるだけでなく、反応したのが自分の身体だという意識を生むのなら普及啓発する方にとっては一石二鳥だよね。やり方が真摯じゃないせいか僕は嫌いだけど。

 

ミーハーな人(その知人は自称ミーハー)は社会との感情的な結束が強いだけでなく牽引する役割も担ってるように見える。だから宣伝にしても何にしても何かとここが狙われ、その人達の揺れが起こす影響が自分の所まで波及してくる度に僕はなんなんだよって思っちゃうんだけど、こういうのは一つの構造というか、機関として見てみると面白かったりもする。とても素直なのだ。そう思うと羨ましくもあり、気持ち悪くもある。

 

いつもそう、この憧れと嫌悪。なんなんだろう。素直になりたい自分とああはなりたくないという自分がいつも浮かぶ。

ディストピアものが好きなのはそういうとこなんだよなぁ。

 

まぁ色々書いたけどやっぱり副反応は言語的におかしいと思う。定着してしまえばそうでもないのかもしれないけど、最後まで抵抗するからな!

そんなんだからいまだに携帯とか言っちゃうんだぞ?別に気にしてないもん!べーだ!

 

はい。

 

あと何書こうかな。

取りあえず忙しいのは通り過ぎたから今週はゆっくり過ごしたい。

もう一つ放置してしまってるブログがあるんだけど、そこのあり方をちょっと考えたい。本人が特定出来るブログだからペルソナに振り回されてうまく書けなかった(だからここと住み分けしてた)のだけど、少しずつ双方の自分を混ぜ込む必要がある段階なのかもしれない。それに前ほどの抵抗を感じないどころか価値を見るから、やっぱり人は変わるもんだなぁと思うのでした。

だってさ、僕の仮面を見て知り合った人と関係を続けるのは辛いけど、素顔ではないにせよその成分を見てなお繋がれるような人とならお互いに学びがあるような気がするじゃん?じゃあ自分から見せるしかないのかなぁと思った。それ見て離れていくような人には離れてもらった方がお互いのためだろうしね。

 

ここはまだまだ僕にとって必要だし閉じる気はないけど、究極的にはここは必要なくなればって以前書いたのはそういう意味だったんだなぁとしみじみ。

 

はい。

 

今日はお蕎麦を食べた。スーパーで日清フーズの信州そば乾麺が売ってたから買ったの。それなりに高いんだけどたまにはいいかなって。超久々のお蕎麦。2年以上ぶりですよ。そうめん系とかうどん系は中華にもあるけどお蕎麦は無いからね。

それなりに小麦粉も混ざってると思うけどやっぱりお蕎麦だぜ、てやんでい!って感じ。

それはともかく、最初の一口目、美味しいと思ったと共に何を思ったと思う?

「これにとろろがあったらなぁ」だよ。長いも系は売ってないんだよなぁ。僕は大和いもが好き。あの白いとろろの触感とつゆによく合う風味がふわって広がり、噛んだ瞬間蕎麦の風味と混じり合う感覚を思い出して、久々のお蕎麦なのになんだか物寂しい気分になった。後ろ向き人間だけど食べ物にまでメランコリックな気分になるのはどうなんだろうか。

 

美味しかったよ!美味しかったけどさぁ…いつか日本に帰ったら絶対とろろ蕎麦食べる…

 

はい。

 

最近はね、まだあんまり外のこと取り込む気力がないな。映画も観たいのあるし本も買ってあるんだけど手が出ない。気力がないのか興味が薄れたのか微妙な所だけど。

 

いつもなんか、いろんな顔の空とか、広大な包み込むような海とか、背の高い草が夜風に揺れる草原とか、少し遠くから見た霧が立ち込める森とか、曲がりくねって海に注ぐ川とか、そんな風景が頭に浮かんでる。大体どれも夜か夕方。その方が心地がいいからかなぁ。まだ黄昏には早い気もするけど、十分頑張ったしなぁと思う。まぁほら、夜型だからここからが長いのよ、きっと。別に無駄に長くなくてもいいけど…

 

これ今日の気分

Sid Acharya - Stories from the Sky


www.youtube.com

 

メランコリックな安心感を体現したような美しい曲。

Sidはオーストラリアの作曲家らしい。知ったばっかりだけど好きな曲多い。

広大で色んな環境のあるオーストラリアの空はいろんな顔を持っているのだろうなぁ。

空って本当に不思議。人が内面に空を持っているように、空と感情はとても良くリンクすると思う。

ぼーっとする時間 から 美しさ 尺度 "Ocean Foam" Cicada

暗闇の温かさ、苦痛の中の安らぎ、虚構に隠れた真実、重さの心地よさ、絶望が与える希望、滑稽な健気さ、凄惨な光景に見え隠れする美しさ、不条理という条理、それらの逆も然り、そんなことばかり思ってる。なんなんだろう。

 

先週はちょっと忙しかった。なんかこう、忙しいと何やってんだろうなぁってなる。

 

暇な時間が自分にとって特に大事に感じる。暇っていうのは何もしてない時間。ぼーっとしてる時とか、お散歩してる時とか。

ある種の趣味とか、映画観たり本読んだりネットサーフィンしてる時っていうのは暇な時間というよりは、より外側に向いてる時間。最近はあまりこっちに割く気力がない。

 

ぼーっとしてたりお散歩してる時っていうのは、思考や感情を整理してる時なのだと思う。浮かんでは消えるイメージを眺める時間。誰が浮かばせて誰が捉えてるのかは知らないけれど。それが冒頭の羅列にも繋がる。

その時間がいくらあっても足りないということは、そっちで処理しきれてない部分があるということなのだろうか。あ、お散歩は最近ずっと出来てないんだけどね。うちの区画ロックダウンで。はぁ…

 

捉え直し捉え直しってそればかりで行く先が見えないんだけど、でも戻りたくないし戻れないと思える分それでいいのかなとも思う。人生って不思議。思考も精神も。いったい何をしてるのだろう。

現象的に捉えて、意味などなくこれが何も生まない、ただそうあるだけというのも好き。なんかこう、背徳感。何に対する背徳?とらわれがあるのだろう。

 

昨日は美しさについて考えてた。感覚的な美しさ。いや、美しさが伴う感覚?

喜びや楽しさは勿論だけど、悲愴や虚しさ、苦しみや怒り、凄惨な死でさえもどこかに美しさだけは残す気がする。この感覚はいつからだろう。前からある気はするけど、ここまで線がはっきりしてきたのは割と最近だと思う。

 

例えば人が殺し合うのを見てそれを直接的に美しいと感じるわけではない(部分的なアートとしてはあるかもしれないけど)し、むしろ悲しいし辛いし苦しいし重たくてどろどろしているのだけど、それにどっぷり浸かって身体が慣れ、感覚が過ぎ去った頃に美しさが背景に広がっているのがようやく見えてくる感じ。そしてそれは全く別々の縮尺のものが入り混じっている。

一つは生涯的、歴史的、人類的、生物的、宇宙的なとても外側に大きな尺度。それともう一つはその瞬間の感情、思考的な一見小さいけれど内側に向かって深い尺度。

その2つがカクテルのように入り混じると、とても繊細で他にはない美しさを生み出すというか…難しい… 

 

まるで初めて見る空の色と雲の形、その流れのコンビネーションが作り出す景色に見惚れているような感覚なのだけど、これは感覚であって心象が浮かぶようなものでもない。

 

災害なんかでも被災者感情というものがあるから、そういうものに配慮せずに思った事、例えば自然の生み出す大いなる破壊力の前に無力な人間の姿に見る畏敬的な美しさだとか、人々を翻弄する恐怖や悲しみの後の虚しさに見る美しさだとか、そんなことを言うのは難しいけれど、実際誰もがそういった類のことを感じていてもおかしくはないものだと思う。

何ていうのかな、正や誤や善や悪や邪の外側の感覚、不謹慎とかそんなものよりもっと広い尺度の感覚ってきっと誰しもが持っていて、でもそれは知らず知らずに抑圧し、されている。

でも、そもそも人と人の間で生きるための相対的な尺度とそうじゃないものがなぜごっちゃにされ、断ぜられてしまうのだろう。何故双方が許容されるということは難しいのだろう。

 

前者ばかりの人は多いけどそれはとても正しさを持っていて、後者ばかりだとサイコパスになる。後者は人と人の間の視点で見ると受け入れ難いものの見え方なのかもしれない。でもそれは皆が自らのその見え方を抑圧しているからそう見え、忌避すべきものになるだけであって、本当は恐れるまでもない全くの別ものなのにって。

 

固定観念のない子供がかわいい子ブタを思い浮かべて、「お姉ちゃんブタちゃんみたい」って言うのともちょっと似てる。嫌な顔をされたり「いけません」って言われるだろうけど、無垢な子供が見たかわいさは紛れもなくかわいい子ブタ。それ以上に本物を見るということがあるだろうか。

大人は自分たちの視点で子供は経験や知識が少ないからそんなことを言うと決めつけてしまうけれど、経験や知識が少ないからこそより直接的に物事を見ているものだと僕は思う。

別に答えは無くて、僕が書いたことを読んで「いや、そうじゃない」と思った人にはそれが大事なのだろうっていう、そういう話だけど。

 

何書いてたっけ。美だった。

美というのは個人の感情と密接な感覚だけれど、人が経験的に何かを感じたりする中で、どこかに救いとして残るものはこの美だったりするのではないだろうか。それは全てが既に美しいからであって…

なんかこう、創造とか奇跡とか普遍とか生命とか運命とかの美って感じもするから、神や大いなる存在を信じる強さを持った人が愛と表現するものはこれに近いのかなとも思う。

はい。オチはないです。

 

 

そうそう、とってもいい曲を見つけたの。見つけたというか、Youtube musicが運んできたというか…

CicadaのOcean Foam。一回聴いてしゅきしゅき!ってなった。

 

Ocean Foam / Cicada


www.youtube.com

 

Cicadaは台湾のグループらしい。しゅきしゅき!ってなる曲がいくつもある。台湾の音楽はあまり知らなかったから好きなグループが見つかってちょっと嬉しい。

 

White Forest / Cicada 


www.youtube.com

 

これもいい。ずっと聴いてられる。聴きながらぼーっとしてると何時間も経っちゃう。

ぼーっとしてるけど内側はぼーっとしてないから、意識的に瞑想もして休めた方が良いのかもしれない。

時 から 時間、日付、クロノタイプ

時は刻まれるようになる前はただ流れていたのだろうか。空を見ていたのなら時の中を回っていたのかもしれない。過去を今と区別し始めたのはいつからなのだろう。未来を感覚ではなく予測としたのはいつからだろう。

時の進行は線なのだろうか。範囲だったり場だったり細切れだったりジグソーパズルみたいだったり、全く別のものだけど人間がそう知覚するしかなかったり、円環っていう人もいるし、円錐で表す人もいるし、どうなんだろう。オーバーラップし続ける経験的な意味では3次元で表現するのはやはり不可能でって話になるのかな。でも表現できないのは表現方法の問題なのだろうか。

そもそも、時という概念は本当に必要なのだろうか。本当に妥当?

知識として導入されない場合人はそれをどう知覚し習得する(しない?)のだろうか。

 

カレンダーを見る度に年という365日と1/4の区切りや、それが12個に分けられた月や、1日を7回ごとに区切った週や、それぞれの日に与えられた日付や曜日に閉じ込められている感覚になる。

暦が月や季節と共にあり、もっと大まかだった頃はどうだったのだろう。それより前は?

 

今日は本当に土曜日なのだろうか。頭では2021年7月17日の土曜日であるということは分かるけど、でもそんな概念が本当に必要なのだろうかと抵抗を示す自分がどこかにいる。それは自分には合っていないという感覚からくるものなのだろう。

人々が当たり前にその中に居ると思いがちな時間や日付だけど、一番近くて確実なところでは僕自身が30年前くらいまではその外側にいたはず。(でもその頃の視覚的な記憶が自分のものなのかよく分からない)

極端?そうだろうか。時間であってもその流れという捉え方であっても日付であっても、捉え方が実在論的すぎるのではないか。僕は別にそれらが無いって言ってるわけじゃなくてね、道具のはずの概念ありきになってるせいでそれらそのものに目がいきづらいってことであって、なんて言うの?わかんにゃい。

 

勿論社会的に、現代文明的に様々な概念を共有することが必要なのはわかるけれど、でもそれが当たり前、当然とされるとちょっと偏狭すぎではないかと思ってしまう。

これはちょっと極端だとも思ってるけど、そうなんだもん。

 

だって概念ありきで今日が7月17日だと思い込んでいることで見えなくなっているものは少なからずあるはずで、時間がチクタク進んでいると思い込んでいることで感じられない何かも少なからずあると思うし、実際にそれを朧げに感じている。ほんとに?あー、だから嫌なんだ。もっとはっきりそれを感じたいのに、既成概念が邪魔をするからだ。今日の収穫。

 

どうしたらそれらをもっとはっきり感じられるのだろう?傍から見たらとても馬鹿らしいことなのかもしれないけれど、人生というものを考えるとそういうものを探求することって僕にとってはとても大事なことな気がする。だってそれ抜きには死にきれない気がするから。

これは別に普遍の何かを見つけたいとかそんなんじゃなくて、単に自分の感じ方でってことだと思う。普遍の何かなんて求めたところで、主体の僕が僕である限り人間の僕として普遍に見えるものでしかないだろうから。そんなことより、そこにある自分の感覚より導入された自分に合わない概念を優先しなきゃいけないのがやっぱり違うと思う。

 

自己弁護ついでに書いておくけど、早寝早起きが善いものとされる時代はもうすぐ終わる気がしてる。僕は根っからのフクロウ人間だから結構生き辛かった。

でも今は概日リズムや生体リズムの研究も進んでいるし(一日三食きっちり神話も崩れかけてる)、クロノタイプという捉え方も浸透し始め、夜型が夜眠れないのは当たり前という流れが強まっている。リモートワークで働き方も幅ができれば早寝早起きしてお仕事しなきゃという刷り込みからの自己緊縛も緩むと思う。職種にもよるだろうけど。

パフォーマンスを犠牲にして合わせるのはどこまでの意味があるのだろうか。シエスタだって導入すればいいのに。仕事もそうだけど、学校ももう少しフレキシブルでいいと思う。今思うといつも居眠りしちゃう子は可哀想だった。

僕は居眠りしなかったよ?眠気に耐えるので必死で何も頭に入らない時間は結構あったけど。そういうのは社会に適応させる訓練という意味では必要なのかもしれないけど、半ば無理やり適応させなきゃいけない社会でいいのだろうか?とも思う。

 

で、これだけ固定観念から脱却する動きは起こり得るし、起こり続けてきたのだから、時間やカレンダーの現状での捉え方も僕が生きてる間は無理でもいつか必ず人類は抜け出していく気がする。って無理やりそこに繋げるのか。でも無理矢理でもないでしょ。時間や日付に対する別の認識が根付けばいいのだから。仮に僕が生きていたら、それを見て「ほれ見たことか!」って言ってやりたい気持ちを一生懸命抑えつつ、これもまた塗り替えられていくものなんだという、どこか虚無感に近くもこれでいいのだ的な気持ちを抱ければ万々歳。多分そうはいかずにまたその新しい通念に辛くなってる。

 

 

時間ついでに感覚時間的なことも考えたいと思ったけどもうこんな時間だし壮大過ぎて眠れなくなりそうだからやめとく。

 

皆さん良い日曜日を♪

オリンピック から SNSと井戸端会議 実験 Abel Korzeniowski - Melting Waltz 

もうすぐオリンピックなのかぁ。去年は夏一時帰国するつもりでいたから、オリンピックと重なって混んでたらどうしようって思ってたけど、まさか一時帰国する前にオリンピックが開かれることになるとはなぁ。

僕はあんまりスポーツ観戦とかしないからあれなんだけど、折角できるんだし、この時を大切に思ってきた選手の人たちには気持ちよく競技をやって欲しいな。

 

皆色々言いたいことがあるのも分かるし、何かしらに憎悪が湧いてしまう人もいるのだろうけどね。ウイルスだの招致の問題だの建築の問題だの開催方式だのお金の問題だの色々あるみたいだけど、主役はあくまで選手であって競技だと思うし、次は早くても3年後。もう既に1年待っていて、選手生命やコンディションを考えたら次があるかもわからないのだから、その人達が全力を出し切れるのが一番なんじゃないかなって思う。

そのためにも、今は他のことに対する色んな気持ちをぐっと堪えるってことは出来ないのだろうか。

一応平和の祭典ということなのだし、憎悪や妬みや怒りばかりが目立ってしまうのはとても残念なことだと思う。折角この日のために練習してきた人たちも周りがそんな状態で気持ちよく競技に臨めるだろうか。

 

SNSの時代っていうのもあるんだろうな。多数のSNSはとても井戸端会議的だと思う。井戸端会議、噂話。そこにちらつく承認欲求や自己顕示欲、同質性の確認も、継ぎ目が曖昧な社会の中で生きる為には必要なものだったのかもしれないけれど、今はどうなんだろう。そろそろ乗り越えるかリープできてもいいはずなのに、テクノロジーにその部分をいいように取り込まれてしまった感じがある。帰属先の群れが曖昧な個々が一つの場で色んな群れを形成しながら井戸端会議に参加するという、壮大な実験場のよう。人類史を見てもこんなことが今までにあっただろうか。

別にSNS批判をしたいわけじゃなくて、ただあまりにも新しくて壮大だから当たり前になることに僕は不安があるという感じ。

 

分かってて使っているか。その分かっているという部分には色々な捉え方があり、人間はその辺りに結構無頓着な部分があって、でもそれが人類を発展させてきたとも言えるのだろうけど、そろそろ規模が…っていう不安。

インターネットから核、医療、食品、化学、学問、教育、家電、産業、物流、生活圏、結構なんでもそうだと思う。規模的にも速度的にも数的にも。

僕なんか車でさえ人間にはオーバーテクノロジーなような気がしてしまうから、そりゃ不安だし怖いよね。

我ながら人間とは本当に不思議な生き物だと思う。

 

例えばテクノロジーの場合、使い方の問題と言うことも出来るのだけど、その使い方を生きている人間の寿命より長い視点で評価する術がほぼない。演算装置もある今は少し違うのだろうけど、かといって演算も前提がずれていたら結果も全く変わるだろうし。

そういう意味では、発展し続ける文明というものはそれそのものが複合的な実験装置なのではないかという思考に魅入られそうになる。

 

何書いてたっけ。あ、オリンピックだ。

なんかこう、反射的な感情に支配されそうになったら深呼吸してみて、5年間、人によってはそれ以上頑張ってきた選手の顔を思い浮かべてみてはどうだろうか。

その気持ちに報いることは何も、汚職だの政治問題だのある種のイデオロギーだのを肯定することは意味しないと思うよ?

 

はい。

時事問題は色々疲れるからここまで!

 

 

今この曲聴いてる。しゅき!


www.youtube.com

 

またAbel Korzeniowski。このサントラのジャケット画像も好きだなぁ。凄い画像だと思う(致命的な語彙不足)

ペニー・ドレッドフル。観たことないけどちょっと興味ある。もうずっとTVシリーズ系は観てないけど、久々に観てみようかな。

 

Melting Waltz。人生って仮面舞踏会みたいだよね。なんてことをよく思っていて、この曲を聴いてるとその中で身を揺らしているような感覚がする。曲が終わって舞台を降りたらみんな仮面を取るのだろうか。

身体のこと バスタオル枕、腹巻、運動、それと不調 Philip Wesley - Dark Night of the Soul

枕の代わりに畳んだバスタオル使うようになってから、朝起きた時に首が痛いことがなくなった。首の所に熱もあんまり持たないし快適ですね。

首が痛くなってたのはやっぱり枕が合ってなかったのだろう。僕には低いのが合うみたい。20年早く気付きたかったよ。

取りあえずバスタオルで不自由してないから当面このままでいい。ただちょっと小さいからもう少し大きいバスタオルにしようかな。

バスタオル、自分で調整できて色んな高さも試せるからおすすめだよ!

 

あと腹巻もおすすめ。熱帯は夜も浅い時間はそれなりに暑いから上半身何も着ないで寝たりするんだけど、夜中は意外と冷えるのでブランケットかけ忘れるとお腹冷えちゃうんですよ。

5年ぐらい前かな。上半身裸に腹巻を試してみたら凄く良かったんですよね。涼しくて寝付きやすいしお腹冷えないし。

僕昔からお腹下しやすかったんだけど、腹巻を使うようになってから下痢することが殆んどなくなった。食事が変わったのもあると思うけど、腹巻効果も絶大。だって腹巻忘れるとやっぱりお腹下したりするから。日本に帰った時は服着て寝てるけど腹巻も着けるようになった。

こっちでJAPANESE HARAMAKIとかいって売れないかなとか考えたりもする。中華系もお腹冷やすの嫌うから漢方薬屋に売り込めば意外と売れるんじゃないだろうか。考えるだけで実行しないやつ。行動力が欲しい。

 

あとは健康関連の話題だと、背筋伸ばした姿勢が大分維持できるようになった。意識してれば坐骨立てて座っていられる。股関節も前より大分柔らかくなっていい感じです。今はまだ辛いけど一応女の子座りの体勢も出来るようになった。まだ膝に負担かかるからあんまり長くできないけど。ピラティスいいよ!

 

体重もここ数年で一番増えてて筋肉もちょっとついたかな。これは半分ステイホームの影響。運動が減ったのもあるし、食べ物が近いのもあるし、何よりストレスが少ないのは大きいのかもしれない。毎度ストレスで結構ダイレクトに体重減るから…そうだよね。体重増えないわけじゃなくて、感染症やらストレスで落ちるから結果的に中々増えないんだよね。

60kgは難しくても55kgまでいったらその辺りは維持したいな。

 

運動は筋トレとかストレッチ、時々ジョギングをやってる。

筋トレは2日に1回を努力目標にしてるけど大体3,4日に一回になっちゃう。キツいのは苦手(甘え)。ストレッチは気持ち良さがあるから結構毎日できるんだけど…

 

そうそう、この前YouTubeでエアロビ動画見ながら体動かしてみたら終わった後も気分が良くて、やっぱり有酸素運動はいいなぁと思った。ジョギングと違って全身使うのがいい感じ。音楽やインストラクターに合わせて体動かすのは楽しいし、色んな動きがあるから身体感覚を維持するのにもいいかなぁと思う。森の中歩いたりするから持久力は特に大切にしたいしね。

ということでエアロビは取り入れたい。傍から見たら中々滑稽な光景だと思うけど。

 

それとお散歩も毎日してるけど、これは運動というより頭の整理だと思う。僕にとっては特に大切な時間。

 

あとは不調。

これは前にも書いたけど、下の調子がちょっと良くない。残尿感とかおしっこの出が悪いとか。多分前立腺なんだけど、これはしょうがない面もあるのかなぁと思う。30過ぎると症状が出始める人が居るってことで。僕の場合は数年前のレプトスピローシスの感染症も影響してるかも。もろ泌尿器にきてたし、それからというもの体調悪くなると残尿感があったし。免疫が弱まると残党が反乱でも起こしてるのだろうか。

 

前立腺は男性機能の一部ということで射精が大事ともいうけれど、中々ね…ノルマ課して義務感で一人でするにしても気分が乗らなきゃ「何やってんだろう…」ってなっちゃうし。そう、多分気分の問題。

夜って大体メランコリーモードなんだけど、そういう時って全然性欲が湧かない。でも僕はこのモードが好きなんですよね。特にこうやって夜の一人で静かに過ごせる時間はこのモードがとても落ち着くし、この状態に浸る以外に時間を使うのがもったいなく感じてしまう。それで結局明日やろうやっぱりまた明日でいいやが続き、朝は朝でギリギリまで寝ていたいしでどんどん後回しに…

 

抑鬱と性衝動の低下については色んな記事がある。でも大体そういう記事って「だから抑鬱を治しましょう」ってスタンスなんですよね。それってなんか僕にとっては違う。

何ていうのかな、某自堕落小説家が酒は身体に悪いと言われ「酒を飲まなければ、薬を飲むことになるが、いいか」って言ったとされてるように、その状態は僕にとって前提のようなものだから。そういう頑なさがあってね。

 

抑鬱とリビドーは共存できないのだろうか。難しいかな。せめて時間をずらして交代制にしたらいいのかな。

リビドーとかそういうのって情熱的なエネルギーが必要だと思うんだけど、どうしたら情熱は湧くんだろう。フラメンコでも踊ればいい?

 

冗談はさておき、オナ禁、所謂自慰の禁欲をするとどうこうとかって時折目にするけど、生殖機能って他の哺乳類でも使わないとダメになったりするの見るから極端なのはどうなんだろうなぁって思う。別に禁欲を否定するわけじゃないけど、折角欲動があるならまずはそれに感謝して、楽しめるうちに楽しんどけばいいのに…なんて言うともう諦めたおじいちゃんみたいじゃん。まだ諦めてないよ?精力増進のツボとか押してみたりしてるし…

 

そうそう、不調といえば手もちょっと痛い。マウス持つと親指の腹側が痛かったりするんだけどこれは何なんだろう。親指だけじゃなくて全体的に痛みがあるかな。

これからこういうの段々増えてくのかなぁ。別に若返りたいとは思わないけど不調はやーね。

 

姿勢や体調的には今までより寧ろ良くなってるはずだから、習慣的に体動かすようにして抵抗していこうと思う。

 

今夜はPhilip WesleyのDark Night of the Soulを聴いてる。この2曲が特に好き!


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

Dark Night of the Soulというアルバム名。とても縁がある言葉。今とても穏やかな気持ちでこの曲に浸れるのもそれのおかげだと思うし、やはり感謝の念が湧く。何に対してなのか分からないけど。

今暫く夜に居たい。

最近の失敗 から ズレに対する不安 複数相手の苦手意識

先日Zoomでお話する機会をもらったんだけど納得いかない内容になってしまった…

 

準備不足と想定不足。

いつももっと軽いノリだから軽くていいやって思って軽めに準備したら、なんかみんないつもと違って真面目モードだし、想定してなかった人たちが来るし…

オンラインだから普段の集まりなんかに来れないような人まで来れちゃう。オンラインミーティングの怖い所。それは想定しとくべきだった。

 

スライドに合わせてメモ用意して話してたんだけど、その普段は来ない人達には言えないような内容満載で、話しながら横目にチェックしてヤバそうなのは飛ばしながらって感じで話してたら自分が何話してるかわかんなくなっちゃった。こいつ何言いたいんだろう状態だったと思う。

 

偉い人だから日和ったとかじゃないよ?その人達のステータス的なのは割と僕にとってはどうでもよくて、でもこう何か思いを込めて活動してる人たちだから、そこにマイナスに働くようなことはなかなか言えないじゃん?事業のことを思えば本人は寧ろ批判的なことも言って欲しいのかもしれないけど、そんなのオンラインじゃわかんないよぅ。ちょっと誤解されたら喧嘩売ってるようにしか聞こえない内容だろうし。何この恐れ。

誤解に対する恐れ?傷つけることへの恐れ?関係悪化の恐れ?

だってさぁ、普段会わない人達だし、ただでさえ違う国に住んでるわけで、釈明するにも難易度がね。近くても釈明なんてしないだろうけど。めんどくさ。

 

オンラインでお話するって難しいよね。特に聞きに来てくれる人が変動するような場だと誰を対象に話せばいいのかわかんなくなっちゃう。先に対象絞っちゃえば良かったのかな?今日はこういう人たち向けの話ですって。いやでも僕はその人達が来ない想定の下ちょっと踏み込んだ話を用意してたわけで、それはちょっと違う気がする。

折角来てくれたのにガッカリさせちゃったかなっていうのが残ってる。知ったこっちゃないはずなのに。それは伝えたいことをセーブした結果のことであって。だってちゃんと伝えてそれでがっかりされるならしょうがないもんね。

 

講演なんかもそうだけど一方的な場だもんね。あんまり来場者の顔色見過ぎるのもどうかって話だし、オンラインであれば尚更崩れた状態で聞いてるわけだから。僕だってカメラ切って別のことしながら聞いてる時あるし。相手の顔が映るのが良くない(責任転嫁)

 

僕はそもそも人のまとまりに向かってお話するの苦手なんだった。だから以前は対話形式の時間を長くしてもらったりしてた。対話形式なら一対一の会話を周りが聞くって感じだから大分楽。

 

まとまりに向かって話すのが苦手なのは何を話していいかわからなくて、それは皆が何を聞きたいかが分からないからで、そこに僕の漠然とした不安があるからだろう。多くの人とは感覚がズレている部分があると思い知らされながら生きてきたから、そういう部分で失敗とまではいかないものの色々重なってきたものなのだろう。小中学校とか正にそうだったし。

 

この前プロレスラーのエル・サムライが出る動画をYoutubeで見ててね、今選手を教えてるのか?という質問に対して「やってないです。」「どうやって教えたらいいかわかんない。」って言ってて、凄く共感したのを覚えてる。本人は素晴らしい動きをする選手だったけど、だからってそれを人に教えられるわけじゃない。

教えるっていうのは本当に難しいことだと思う。

 

わかんないんだよね。

その人(達)が何が分からないか、何を知りたいかを汲むっていうのは実は凄く苦手。対面だと結構汲めるっていうのは、既にその人を知っているからで、合わない人とはそこまでの仲に進まないっていうのもあるし、そうでない人の場合は表情やらその前の言動やらで先回りして相手が今何を考えてるかを推測してるからで(だから疲れるんだろう)、結局はこれも苦手意識からくるものなんだと思う。

 

でね、お話ってたとえテーマに沿って話すにしても、相手が何に興味持ってるかとか、どこが疑問なのかとか、聞きに来る動機が分からないと何話していいかわかんないじゃん?

現場の浅い部分での紹介ってだけならいいけど、僕に振られたからには僕の見たものを話さなきゃいけないわけで、でも僕の抱いてる疑問や問題や実情っていうのはそのまま話しても伝わらないし、だから聞きにくる人達が何を求めるかという推測に擦り合わせるわけだ。で、要するに僕の不安というのは僕のその主観的な推測がズレていることに対するものなわけですよね。確かにそう。

 

でも相手が複数いてグループ分けしても複数の集団になる場合はどれを見ればいいか分からなくなっちゃうし、一人一人の顔が映ればどの顔を見ればいいかわかんなくなっちゃうっていうのもある。そもそも見ないというのも選択肢なのだろうけど、そんな何十分も話してるとやっぱりどんどん不安が積もってくわけですよね。

ズレたこと話してるんじゃないかという不安。それが3分ならいいけど20分30分もズレたこと話してたらどうしようって不安になって、やっぱり顔を確かめたくなっちゃう。チキンだから顔色覗いすぎなんだよね。

いや、でも顔色覗わないと分かんないじゃん。全然違うこと話してるかもしれないし(堂々巡り)

 

・相手の感覚がわからない

・感覚、意識のズレに対する不安

・ズレ故に踏み躙ってしまうことに対する恐怖

 

それらに対して一対一の場面では何とか対処してきたけれど、集団に対しては難しいっていう所がまた僕が数多く抱く集団に対しての苦手意識の内の一要素になってるのかなぁと今思った。

この辺りはもっと掘り下げられそう。

 

今回良かったからって来月も頼まれてるんだけど断りたさも半分くらい。

良かったって言われてもあなたの感想ですよねとしか…いや、それは嬉しいんだけど、多くの人がそうだったとは限らないわけだし、大体主催者の意図は汲んでるから主催者に良かったと言われるのは分かっていて…主催者の感覚こそ他の人とズレてるかもしれないし。大体同じテーマを来月もって飽きるじゃん?そうね、不安なんだよね。わかる。

やるならいっそ前もって何聞きたいかアンケートとってもらおうかな。僕は通常の講演みたいなのは無理だって意識した上で、姑息でもいいから対処法考えていった方が良いかもしれない。

 

参加者が何を知りたいのか、聞きたいのかもそうなんだけど、それに右往左往し過ぎてで自分が何を伝えたいかが迷子になってしまうのが一番嫌なのかもしれない。

もうわけわかんないね。

 

いつもこういう機会があると思うんだけど、やっぱり隠遁したい。

友人の心配 投影的な否定 

暫く会っていない友人、一応今もTwitterやFBで繋がっているんだけど、最近はとても熱心にワクチン啓発をしている。啓発っていうより半分反対する人達への糾弾になってる。

この人は何年か前にお父さんをガンで亡くしているのだけど、そのお父さんが民間療法に頼って改善せずに亡くなられた頃から主流医療の肯定、代替医療の否定にとても熱心だ。

 

なんて言うんだろう。僕は人が何を発信しようがいいと思うし、人がどんな医療なり健康法なりを選択するのかもその人次第でいいと思う。ワクチンもみんな好きにすればいいと思うし、ガンの治療や療養もどれでも好きに選べばいいと思う。

 

ただこの人の発信(信念)はとても強い感情に促されているような気がして、疲れないかなとか色々心配になる。肯定と否定、一見すると父を奪った代替医療への恨み(という主観)がそうさせているように見えるけど、その人の言葉にはもっと違うものが混ざってる。

 

多分なんだけど、その人はお父さんの闘病中から民間療法には懐疑的だったそう(本人談)だけど、それを上手く伝えられなかった、父親の気持ちを変えることができなかった自分を否定し、見ないようにするために主流医療を肯定している感じがする。

その傍ら代替医療に対して疑念を持っていた自分だけを肯定してこの数年間大きくしてきたというのかな。

その人の中で医療に関する善悪観が育つ過程で自分自身が飲み込まれてしまっているように見える。

 

だからいかに論理だけを信じているような態度を取っていても、論理的に肯定し論理的に否定しているつもりになっていても、善意に衝き動かされているとしても、それが滲み出ている。

極端に言えば彼女が根源的に否定しているのは代替医療や非論理や主流に対する反流ではなく、自分自身というのかな。それはそうでない自分自身を肯定し自己を守るためであって。それってとても辛いことだと思う。そうではない自分で在ることを自分自身に強いているわけだから。

 

こういう否定、自己肯定のための外側の否定はとてもよく見られるものだと思う。特にSNSが浸透した現代では。だからTwitterが辛いのもあるんだろうな。数あるSNSでも特に色んなものが混ざってる場だと思う。気軽さ故なのだろうか。

あれだ。『チクチク善意』と名付けよう。皆も使っていいよ!

 

冗談はさておき、もう一つ気になるのは、その人は「父との関わりは殆どなかった」「父のことは病気の頃から全然気にかけていない」という風に言っていたこと。でも会話でもお父さんは時折出てくるし、その人が選ぶ行動、見る映画や足を運ぶ場所は何かとお父さん(の記憶)が絡んでいる。

最近は父親が死ぬドラマを見たことを発信していたし、その夜に父の夢を見たとも書いていた。本当に気にかけていないのならば、傍から見てこんなにお父さんが出てくることはないと思う。

 

それと、その人が以前お父さんの生前のお仕事を肯定的に捉えていることを開示した時もそうなんだけど、お父さん関連のことを肯定的に話す時は必ず自分とお父さんの関係の否定から入る。

親子関係が良くなかったそうで、酔っては幼少期の辛いことを話していたからとっても辛かったのだろうし、お父さんとも関わりが少なかったのだろうけど、僕の主観では気にかけていないというより愛着を拗らせているように見えてしまう。勿論こんなこと本人に言えなかったのだけど…

毎度僕が感じるのが「本当にこの人はお父さんのこと好きなんだなぁ」で、その人の中での『お父さんと自分』の比重はとても大きいように感じる。こんなこと言ったら「は?」って怒られそうだけど 笑

 

僕も自分の父親に対して、今の自分から見ればいい思い出がないし、恨みもしていたからその人の気持ちは何となくわかる気がする。

でも割と最近になって(去年だったかな?)、子供の頃の自分は彼の主観として父親を恨んでいないどころか… ということに気付いたのと、あんまり恨んだり否定したりすると当時の自分、彼までひとまとめに否定され抑圧されるんだなぁと思った。

今僕は子供の頃の主観を彼と書いた。当時の『僕』とはやはりまだ書けない… これは一つのテーマだと思う。

感情というのは単純だからこそ複雑な頭や記憶が絡み難しくなるのかもしれない。

 

まぁ、そんなこんながあるからその人の中に無意識に自分を見てしまって悲痛が見えてしまうというのもあるとは思うんだけど、でもやっぱり心配。

僕はその人の子供時代を知らないけれど、きっと今その子は閉じ込められている。その人の内側で過去の自分と現在の自分のぐちゃぐちゃが見えるような気がして辛い。

 

あれ、これはその人の問題なのだろうか?僕の問題なのだろうか?うーん。

 

これって自然に抜け出せるプロセスなのかな?人によっては抜け出さないでも幸せに過ごせるのかな。

その人は客観的に見れば辛がってはいない(酒を飲めば泣くだろうし、内側でどう感じているかは知らないけれど)。僕と違って普段はしっかりした人だし。たとえ実際に子供時代の自分や、父が好きでもっと一緒に過ごしたかったけどそう言えなかった自分を抑圧していたとしても、多くの人たちのようにそれを糧と言って生きていければそれでいいのかもしれない。どの生き方が合うかは人それぞれだろうし。

 

でもなんなんだろう。うーん…

このまま見ていていいのか凄く落ち着かない。同情ではない。何かこう、耐えがたい否定の辛さ。

なんかこう、エスカレートしているように見える。

 

本人が内面に向き合おうとしていなければ伝えても意味がないし、中途半端に伝えてもただ辛くしてしまうかもしれない。

 

でも向き合おうとしていないわけではないのかな。それを必死に否定している姿とどうにか表に出たい気持ちが見える行動となって、出来上がった彼女の言動は実にちぐはぐしているから、それがとても辛く見える。実際の所、本人は辛くはなく、そして辛いのだと思う。目を逸らしたく、でもどこかで聞こえているのだろう。

 

またそのうち会うのだろうけど、僕はどのその人を見て振舞えばいいのだろう?

 

見て見ぬふりをするにはとても耐えがたく、伝えるにはどうしても言葉が足りない。