感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど

文明圏外 青い珊瑚礁 脳内迷子

文明に反感があるわけではないのだけど、文明圏外への憧れが昔から強かった。

色んな部族としての生活を妄想したり、文明崩壊後の世界を妄想したり、部族という枠すらもない世界を妄想したり、色々な動物的なホモ・サピエンスではない架空のヒト種を妄想したり。その中で生活する自分を想像していた。

 

今はそれなりに部族生活に近い人々の村で生活しているけど、文明化はしているし、ちょっと違う。

 

高校生の時に『青い珊瑚礁(ブルック・シールズが出てるリメイクの方)』を観た時は衝撃だった。高校生な上に発育の遅かった僕にとっては刺激が強すぎる内容だったけど、その現実的でありながら幻想的な世界観に憧れたのだった。いけないものを観るように、皆が寝静まった後に自室に籠って観ていた。内容と行動併せてもう味わうことのない二重の背徳感。でも憧れは純粋だった。と思う…

 

今思い返すとやはり出来過ぎで、大人の解釈が強いところも感じるけど、やっぱり今でもああいう人生には憧れてしまう。得体のしれない部族が居るのは怖いけど。

 

劇中では全くそういった知識のない二人が自然と子供を授かる様が描かれているが、そうなるかなぁ?とも思う。どうなんだろう。群れで学習して生活するヒトが学習なしに自然繁殖できるのか、興味深いところではある。でもそこがまた過度の群れ、部族社会をも否定したい気分になる人間にとっては希望とも羨望ともなるのです。美しいし、いいなぁって思った。 

 

あとやっぱり下手な知識に支配されない姿も美しい。あれが本来的、自然だとまでは思わないけど、好き。

二人の関係も愛というものの先入観に支配されていないのが良い。より反応的な感情に動かされるというか、良いなぁって思う。抑制的すぎる人間だからかな。

 

無人島に漂着して身体一本で生きていく。凄く憧れる。現実的にああはならないけど、現実的じゃないからこそ良い。最低でも鉈は欲しいと思ってしまうけど。

 

全く着地点も考えず、ただ昼間この映画のことを思い出したからこれを書いた。続編とされる『ブルー・ラグーン』は観てないからこれ以上語ることもできない。

 

 

あ、ゾンビに憧れたこともあった。周りの人がゾンビに見えこともあるけど、それともまた違う。やっぱりこの脳をどうにかしたいんだと思う。せめて動物レベルに素直に生きられればって思う。自分の脳内で迷子になって苦しむ人間だから、そう思ってしまうんだと思う。

 

最近気づいたのだけど、感情優位というか、自分の主観という曖昧なものを判断基準にする傾向が強いのに、必要以上に懐疑的な性格が合わさってるのが問題な気がする。主観と言うのは取り留めのないもので、だからこそそればかりだと疑えば疑うほど、考えれば考えるほど、掘り返せば掘り返すほどに自己否定のどつぼに嵌っていく。曖昧で形の変わる基準を元に自分の中を懐疑的にばかり見れば何も信じられなくなってしまうから。

せめて内省するときは違う機能を使えたらいいのかなぁと思う。

 

自分らしいと言えば自分らしいけど、胃潰瘍や狂気で死ぬよりも森や無人島で生きてるうちに死にたい。そう思えるだけ今は健康的なんだろうなー。

 

やめた!おやすみなさい。

僕と嘘 関係の認識

自分の感情の整理です。まとまっていない上に羅列しただけなので、読む価値はありません。もの好きな方だけどうぞ。



世の中は嘘で溢れている。

 

良い嘘と悪い嘘があるというけれど、嘘は嘘だと思う。

良い嘘、許容範囲の嘘、なんて世間の勝手に決めた基準を適応するのは、そこに後ろめたさがあるから通念に逃げてるだけだと思う。正当化の為に通念を利用し投げ捨てている。それは僕の基準では真摯な態度ではない。

嘘をつくのなら、それが嘘という認識があるのなら、その嘘は背負うべきだと思う。その嘘による影響、痛み、悲しみ、それを背負う覚悟がない人の嘘は嫌い。

 

僕の中で許せる嘘は、無意識の嘘。それはこちらが嘘と認識していても相手は嘘と認識していないのだから、仕方がないことだ。責めることは出来ない。でも嘘と認識している嘘は嫌い。

 

子供に対する嘘もできるだけ避けたいが、それはまだ背負うことが出来る。嘘の認識もその都度必要性などと照らし合わせて考えることが出来る。心を守るために必要な嘘もあるだろう。

でも、例えば心を守るためと親が解釈する嘘や、躾のためだと親が解釈する嘘があったとして、それは良い嘘だと言えるのだろうか。

僕は良いも悪いもなく嘘は嘘だと思う。必要だというだけで良いことにするのは不誠実だと思う。子供は自分と違う感じ方をするのだから、良い悪いではなく、嘘は嘘だろう。通念に逃げるのは同じく嘘の投げ捨てだと思う。

 

大人を対象にすればどうだろう。『相手のための嘘』これほど嫌な気分になる押し付けワードも少ない。でも平然とやってのける人は多い。

この『相手のための嘘』を大人に対して使わないで、子供に対して使う場合、子供はその人にとって他人ではないからなのかもしれない。想いは色々あるのだろう。でも僕が子供側だったら理不尽に感じるだろうな。想いに感謝はしても嘘に感謝はしないし、押し付けは辛い。

 

言葉も同じ。その重さを知り、背負う覚悟がないのなら発すべきではないという基準が自分の中にある。そこは他人に適応するところではないけれど、やはり自分の基準を通して周りを見てしまう節はあるかもしれない。

 

でもそんなことを言ってたら僕みたいに無口な人ばかりになってしまうし、世の中回らなくなるのだろう。みんな違ってみんな良いのだから。でも嫌いなものは嫌い。だから嘘をついているかもしれないと感じる時、自分も嫌いになる。結局相手が傷つくのが嫌だからというより、自分が傷つくのが嫌だからなのかもしれない。自分を反映しているのなら両方なのだろうけど、良くわからない。嫌いなものは嫌い。

 

 

昨日の文章、性的マイノリティと色のことを書き終わった後、多分見ているゴールが違うんだろうなって思った。その人達にも色々いて、その中でも多数派になる考え方と少数派になる考え方が出てくるのだろう。ただその多様性を認められる分、彼らは素晴らしいと思う。それだけ。

 

 

嘘についてもそれは関わってくるのだろうか。嘘をつく目的、そのゴール、それは場合によって違うだろうが、人による見え方の傾向はあると思う。そこに彼らが嘘を正当化できる何かがあるのだろうか。

嘘の先に何かを得て、その得たものを還元することで嘘を正当化するのだろうか。ロジックが分からない。

やっぱりこの場合見ているゴールは関係ないかもしれない。

 

 

だとすると何だろう。一つ思い浮かんだ。関係の捉え方かも知れない。

子供という対象との関係の認識が違うように、嘘の対象との関係の認識が違うのかもしれない。

 

例えば誇大広告で、嘘をつく対象が世間ならば、騙される人、騙されない人ひっくるめて世間だ。人は見えない。稼いだお金は世間から会社に入ってくる。それはただの数字で、そこに人はいない。罪なんてない。

 

でも僕が誇大広告が許せないのは、世間という感覚がなく、数字一つ一つに人を認識してしまうからかもしれない。一つ一つが人ならば、嘘はその一人一人に対してつくことになる。会社も人の集合だが、人の気持ちは割ることが出来ない。一つ一つすべては到底背負いきれるものではない。

その影響、人から人への連鎖まで考えれば口を噤むしかない。

 

だから僕はビジネストークもできなければ、そういった広告を見て嫌悪感を抱くのだと思う。究極的には自分が傷つきたくないから。その弱さが自分なのだろう。

出来る人、その役割の人に任せればいい。羨ましくも思うが、その役は僕のものではない。それは明白。

 

金銭的には成功しない人生だろうけど、平穏に生きていきたいな。自分が傷つきたくないし、だから人を傷つけたくない。

馬鹿と言われるよりも、弱いと言われるよりも、世間知らずと言われるよりも、僕にとって嘘は辛いから。

 

でもわからない。分からないけど書いてちょっとすっきりした。今回は自分への戒めとして公開もする。

 

すべてを捨てて仙人になりたい。

虹と色 プライドマンス グラデーション

虹が七色だと誰が決めたのだろう。

七色だろうと十色だろうと二十色だろうと虹は虹なのに。

僕は虹のグラデーションが好き。曖昧な色の移り変わり。

色の名前を知らないだけで、いくらでも色を見ることが出来る。

でもそのグラデーションに見る自然な美しさは、虹が七色だと信じて見ている人には見えていないのかもしれない。

 

それは勿体ないことだと思う。

名前があることが全てではない。そんな誰かが作った概念は一度すべて捨ててしまえばいいと思う。

自分なりに見た後に、自分なりに感じた後に、人の見え方を知ればいい。

虹だけではなく、どんなものでも同じ。ほとんどの事物は相対的でグラデーションだと思う。だからこそ人が勝手に作った概念に惑わされるのは勿体ない。

 

 

虹と言えば、6月はプライドマンスという事で性認識、性的指向に関する権利を訴えるイベントが各地で起きている。

それはとても良いこと、前進だと思う。

民主主義において権利は主張し、勝ち取るものだという前提は日本人の僕たちこそが常に胸に留めておかなければならないと思う。

マイノリティが権利を主張することを「傲慢だ」「自分達だけ苦しんでいると思っているのか」というロジックで封じようとする向きがあるが、彼らはそもそも権利を持っていないから権利を得るため、守るため、認識されるために主張という形で行動を起こさなければならない。認める認めないはその人の自由であっても、その前提が抜けてしまうのは少々乱暴だと思う。

そんな姿勢だと回り回って自分たちも主張することが出来なくなってしまう。

 

 

性認識・性的指向に関して様々なグループが出来て、様々な旗の下にそれぞれを認めましょうという動きになっている。自分の所属する旗は居場所として用意されているようだ。それはそれで優しさの表れなのだろう。

虹、色というのは重要なテーマだ。旗一つ一つのデザインはしっかりと練られていて、色一つ一つに意味を与えながら作られている。

でも僕が彼らに惹かれるのは、旗が多彩だからではなく、グラデーションの美しさを知っているから。

 

彼らの作る旗は全て境界がはっきりし過ぎているように思う。その方が居場所として、盾としての役割はより発揮するだろうが、本来的な多様性の認識、許容という面では遠のいてしまわないかなと若干僕は気になっている。

それぞれの色を主張することは必要なことだけれど、そればかりが前面に出過ぎている気もしなくもない。それでは繰り返してしまう気がする。

ここまで存在を勝ち取ってきたのだから(欧米では)、この先の動きは少し方向性を変えてもいいのではないかなぁと思う。

抑圧されてきた分、自分の色にプライドを持ち、パレードを催すことに何ら間違いはないけれど、そろそろ視野を全体に戻す時だと思う。 

 

はっきりした色が境界を作っていたら棲み分けにしかならない。その境界が崩れた時には変色が起きる。

境界が曖昧なグラデーションだからこそ多様性のハーモニーが生まれるのだと思う。

 

彼ら自身が理解するように、色が重要なのではなく、存在の多様さ、僕たち自身がグラデーションの中に在ることを前面に説いてくれればもっと気持ちよく応援できる気がする。

 

 

名前のついた色にばかり囚われると、虹本来の自然な美しさが見えなくなってしまう。

虹が虹で在ること、そこに意味を求めても求めなくても、虹は虹だから。それが自然。

金銭と自分の関係 関係の再定義 認識の整理

「皆を幸せにしたかったらリーダーになるな、アイスクリームを売れ」と言った人が居るらしい。

でもそれはアイスクリームを買えない人を無視しているのではないか。皆を幸せにする、喜ばせることが目的でアイスクリームを売るなら、買えない人には僕が奢らなきゃいけない。それで気づけば何故か自分だけが損をしていて、結局何をしているのかわからなくなってしまう。いつものパターン。

僕は何事もプロフェッショナルになるには弱すぎるのだろう。

 

それで僕以外のみんなが幸せになるなら耐える意味もあるかもしれないけど、なるわけがない。

だから僕は皆を幸せにしたいけどアイスクリームは売りたくない。

思考が捻くれてるのは教訓に学んだせい。でも結局いつも同じ轍を踏む。何故だろう。

 まぁでもこの人が言いたいのは、その覚悟がないなら「リーダーになるな」って部分なんだというのは分かる。だから僕はリーダーにもならないし、なる度量がない。

金銭の重みもやはり相対的なものだ。案外お金のない人の方が後先考えずに物を買って行ったりするものだけど、だからといってそこを食い物にするのは気が引けてしまう。

お金持ちをターゲットにすればいいという問題でもない。例え主要客層を絞ったとしても、売るというオープンな場であるなら、その心構えは誠実さに欠くと思う。

 

自分自身で金銭に関しての考え方が明らかにズレていることは感じる。多少学んでみたこともあったけど、やはり僕には合わなかった。金に負の感情が付きまとい易いことをずっと気にしていて、直そうとしたこともあった。しかし掘り下げてみてもやはり必要性には至らなかった。

どうしても僕には、実体のないものの為に格差が生まれ、人が傷ついている方が先に見えてしまう。そこに負の感情が湧くのは僕にとっては当然なことだった。事実として色んな側面があり、人は自分の見方で見て、捉え、感じ、考え、反映している。僕という人間は金銭に対してあまり比重が置けないというだけの話だ。

 

金銭は力だというが、あれば欲しいとは思っても、そこまでして求める姿勢にはなれない。そもそも求めるものが違うのだから、その力で手に入らないものを求める人生ならその力を持つ意味がない。最低限あればいい。

同じことをするにも力があった方が有利に、効率的にことを運べるというが、そもそもその有利や効率的という生き方が僕のものではない。

 

そのお金を使って人を助ければいいと言うが、僕はそもそもマッチポンプをするくらいなら離れた方がいいという生き方の人間のようだ。

何事もそうなのだけど、僕は僕が関わる事でその嫌いな物事を必要悪だと存在を肯定する姿勢になることへの嫌悪感が強い。かなり遠い抽象的な繋がりも避けてしまう傾向がある。そして主観なので他人に理由が説明できない。

 

離れた方が楽だから逃げてるんでしょ?って言われたらどうだろう。多分「何故苦しむことを前提にしなきゃいけないのか。なぜ逃げるのが悪いというスタンスなのか。」と答えると思う。実際は通じないのは分かっているので、心の中にしまって口に出すことはないのだろうけど。

苦しみがその対象から尺度まで人によって違うこと、耐性も人によって違うことは考慮されるべきだろう。そこに身を置くことの意味も。

 

 

僕にとって金銭は所詮対価としか感じることが出来ない。ならば対価としていかに適正に受け取り、付き合っていくかを考える方が自分には合う。必要な分の金銭を対価として得られる分の仕事なりなんなりしよう。くらいの考え方が丁度いい。

そうすれば苦痛な労働に相応の対価を要求する正当性を自分に与えられるし、それが守られない、望めない場合はその関係を断つことを自分の中で正当化することもできる。逆に必要のない対価(金銭以外で十分受けていると感じられる場合)なら受け取らないという選択肢もできる。僕の心にとってはそのフレキシブルさがヘルシーだろう。

 

プロフェッショナルになるには弱すぎると思っていたが、自分なりに関係を定義しなおすとプロフェッショナルに生きられればその方が楽かもしれないという気もしてくる。認識は面白い。

 

金銭に対して、肯定的にも否定的にもいろんな世の中の価値観が刷り込まれている。そこに感じる違和感はその世間の価値観のどれかと自分の価値観のどれかの摩擦なのだろう。世の中の価値観なんていうのは所詮誰か他人のものだろう。それが合わないのはある意味で当然だし、そこに合わせなきゃいけないという圧力は勘違いの上の暴力だと思う。

色々な『べきだ』『本当は~だ』『~でなければならない』色んな押し付けワードとそれを囲う人がいるけれど、それとどう付き合うかは結局自分とそれらの関係の在り方、それだけだと思う。そう思えば無意識の圧力や関係ない人による批判も的外れに感じることが出来る。

 

そもそもは、一般的な考え方に自分を合わせようとするから違和感ばかりになるんだと思う。そういった部分が世間一般とはズレていることを前提に、自己も否定せずに生きるならば、自分が感じる違和感を目印に、その物事が自分にとってどういうものであるかを再定義する必要があると思う。そこから自分なりのその物事との付き合い、関係の在り方を見つけるしかない。しかしそれによってのみ、気づかぬうちに背負うことになった錘を捨てることができ、余計な鎖を断つことが出来ると思う。

他人の考えを背負って生きていれば、おかしくなる人がいてもそれは自然なことだろう。その人にとって不自然なものを知らぬ間に背負ってしまっているのだから。余計なものを捨て

て自分に必要なものだけ背負い直せば自然な関係になると思う。

 

「アイスクリームを売って人を幸せにできる人と出来ない人がいる」

「アイスクリームを売って人を幸せにする生き方ができる人と出来ない人がいる」

「アイスクリームを売ることが人の幸せに繋がると考える人と繋がらないと考える人がいる」

「アイスクリームを売ることがある人の不幸に繋がると考える人と考えない人がいる」

「アイスクリームは売り買いするものではない、作るものだ!と考える人と考えない人がいる」

色んな2極で考えることもできるし、それぞれやその複合を傾向軸で考えることもできる。3次元で位置関係を整理しても面白い。ならそれぞれの捉え方や生き方でいいじゃん。に帰結する。

 

 

Taylor Swiftの新しい曲、"You Need To Calm Down"が気に入った。
色んな性の権利がテーマだけど、取り敢えず価値観を押し付けてくる人には

oh-oh, oh-oh, oh-oh, oh-oh, oh-oh

You need to calm down, you're being too loud

 って言ってやりたい。このフレーズ結構万能だと思う。


Taylor Swift - You Need To Calm Down

 

芸能人さんのヴィーガン時事問題 思想と大衆 (ミニマリズムへの違和感2)

ネット上ではある芸能人さんがヴィーガン食を勧めておいて肉を食べたと話題になっている。

でも僕からすればこの人の言ってることは別にズレていないし、目的のために型に嵌らずに思想を自分なりに取り込む、完全でなくても実践する姿勢と言うのはとても共感が持てる。

そもそも、なぜ批判する人の前提は思想の中に入り、規範に従い、完璧に実践する事なのだろう。ある意味で自分の捉え方を無意識に反映しているようにも見える。僕も枠にフィットしたくないという自分の価値観を反映しているので、お互い様だけど。でも思想に関して言えば、意味や目的に学ぶ姿勢は評価されるべきだと思う。

 

僕がこういったヴィーガニズムやミニマリズムといった大衆的な思想があまり好きになれないのは、宗教やある種の科学が好きになれないのと同じ。結局枠にはまる事、その中の規範行動の実践が本来の目的と入れ変わってしまうように見えるから。完全に僕の偏見だけど、本来の目的がずれることで、『群れの中の自分を肯定する為』になってしまう人が多いように見える。

感化されることで自らをistと定義するのだから、そこに主体性は感じない。学ぶのではなく集団の一部となることに目的のウェイトが置かれる。

 

ミニマリズムへの違和感1とかそんなタイトルの記事を書いて、2は放置してあるのだけど、そこに書きたかったのがこれだった。でもちょっと否定が強いかなぁと思ってお蔵入りしていた。

 

『群れの中の自分を肯定する』ことが中心であれば、それは結局『異質への攻撃性』に変わる。外側ではその枠に入ってない人に対して攻撃的に押し付ける形になり、布教と同時に宗教戦争を始めるし、こういったその人達の定義からするとズレた人も攻撃の対象になり、内側では宗教裁判が始まる。自己顕示欲が高まれば仲間内でも妬み恨みで刺々し始める。そしてそれは避けられないもののように見える。

 

規範行動の実践には報告も入る。そうすることで行動した自己を示し、肯定するものなのだと思う。そういうものなのだと思うから、別にその人達の行動にケチをつけるつもりはないのだけど、やっぱり外から見ると「その報告要るのかな?」というものが多い。それ自体はその人の想いだから別に良いのだけど、その報告行動によってその思想自体が誤解を受けるという事がいつも起きる。それはやっぱり作った人の想いに対して僕は可哀想だなぁとは思う。

 

でも、何事もその原理で動いているように感じる。本来の目的をもって始めた人達の描いた目的は、一般的な大衆の人々を取り込む過程で形骸化され、想いは踏み躙られる。勿論これも作った人がそう言ってるわけじゃないので、僕の勝手な偏見だけど。

 

ただ、そこにつけ込むのがカルトであったり、~商法であるのは間違いではないと思う。彼らは集団の行動原理をうまく利用している。乗せられる方はその行動によりその枠の中の自分を認めることが出来るので、外から見れば損しているように見えても、本人は幸せな状態にある。ある意味でwin - winかもしれない。だからやっていることは酷くても僕は一概には責められないとも思う。理論や事実、正しさだけでは辛すぎるから。世の中は難しい。

 

 

ヴィーガニズムというのはベジタリアニズムより細分化された位置にあるので、定義がより細かいという事は分かる。広義なものより狭義なものの方が許容範囲が狭くなるように思う。もしかしたらこの人はヴィーガン料理ではなくベジタリアン料理を名乗っておけば状態はマシだったのかもしれない。ヴィーガンは今は激流に見える。随伴する考えは悪くはないと僕は思うけど、やっぱり激流は危険。

ただ、ベジタリアン界隈に存在する思いというものと、ヴィーガニズム界隈に存在する思いと言うものは別であるだろうし、単純にそれだけで語ることもできないだろう。

 

枠や仲間を求める人、目的に共感する人、行動を通し学びたい人、思想を学び掘り下げたい人。社会と同じで、許容範囲が広く色々な存在が認められた方が長続きすると思うのだけど。凝り固まった規範以外を認めない人達に限って鞍替えが早いものだから。それが悪いというわけでもないし、そういうもの。でも理解されないうちに弄ばれ、捨てられる思想は可哀想だとは思う。人の想いなのに。

 

この人も可哀想。自分の感性で「良さそう!」と思って、それを自分なりに実践しながら伝えただけなのに、宗教が宗教足る現実によって双方(ヴィーガン教と反ヴィーガン教と言う名のヴィーガンに反感を持つ一般大衆)から叩かれてしまう。その現実はそういったその人本来の良さを奪ってしまう。それはこの社会で、本当によく目にする辛いものだ。

この人のスタンスは、健全でより許容範囲の広い世界であるならば、双方にとって歓迎されることだろう。自分なりに学び、自分なりに伝える。本来社会の中で必要な作用なはず。でも凝り固まった枠の中ではそのスタンスは、規範的ではない、中途半端だと否定される。それを否定することで自分たちの首を絞めているのに。

 

だから僕は流行には乗りたくないし、思想についても枠に嵌ることはしたくない。僕の中にある思想についての嫌悪感も、結局思想ではなくそれを囲う人たちにあるのだなぁというのを再実感した。無意識に人を傷つけるのは、無意識であるからこそ質が悪い。僕もそういう所があるんだろうけど、だからこそお互い直していけたらいいね。

 

全て僕の主観なので悪しからず。

 

 

そういえば最近『ツァラトゥストラかく語りき(河出文庫)』を少しづつ読んでみてる。

ニーチェという人もとても自分自身の内側で苦労したんだろうなぁというのが1/5読んだところの感想。この人の比喩はイメージがし易いのでとても読み易い。性質が似ている部分があるのだろうか、それによる内的な体験の共有なのかなぁと思う。色々とこの人に行きついていた理由が何となく分かってきた気がする。

この人の群れに対する感情はかなり強いけど、きっと自分の経験や知人が傷つけられる経験から、それを教訓として自分と同じ感覚の人を励ますために敢えてそう書いてるのかなぁとも思った。1/5しか読んでないのに適当なこと言っちゃいけないけど。でも多分優しい人だと思う。

 

その中で『徳』について

“だが見よ。君が名をつければ、それを群集と共有することになる。そしておのれ自身の徳を持ちながら、群衆や畜群になってしまう。“

この部分が今回の件を見た時に頭に浮かんだ。

僕は徳を共有することでその人自身が群衆や畜群と呼ばれる存在になるわけではないとは思うけど、やっぱりそれは色々と辛いことを引き起こすという点では共感できる。

辛い世の中だなぁと思う。

 

でも僕はその群衆と呼ばれる人々にも役割があるのだと思う。社会を安定させるのも、効率化を進めるのも、熱で変化の主体となるのも、その人達あってのことだと思う。

ただ、多数決の原理を振りかざして無意識に人を傷つけるのは良くないし、あまりに同質化ばかり優先するのは良くないと思う。それだけなのです。

 

疲れた。お散歩行ってこよう。

合気道道場 辛いこととその理由 マインドワンダリング

去年から街に居る時は合気道道場に通っています。

身体を動かすのは良いことだし、人と会うのが億劫な僕にとってはこういう場を維持することは必要だと思っているのです。

日本人が海外で複数の人種に混じって合気道を学ぶとは、中々平和的でよろしいとも思う。でもやっぱり面倒くさくなってさぼりがちなのだけど。

 

楽しいことはやはり、しっかりできた時は嬉しいし、身体を動かすのも楽しい。それくらいかな。あとは上述の義務感で維持してる感じが強い。

 

それに比べて辛い理由は複数ある。

先ずボディコンタクトに慣れない。中学校時代にやってた剣道はまだ接触が少ないので良かったのだけど、合気道は掴んだり掴まれたり絡んだり絡まれたり。中々辛い。

 

会話も辛い。中途半端に知り合いになっても会話が続かない。大体キャッチして止めてしまうからキャッチボールにならない。

 

そして一番致命的なのが、型を覚えられない。同じように身体を動かしても、言われるように動いても頭に入らない。周りがそれで覚えられる中で同じことを繰り返してできるようにならないのは中々辛い。そのプレッシャーでさらにダメになる。

対になって順番に練習するので、僕が覚えていないと円滑に進まないという学校の体育で起きた現象が起こるので、それが申し訳なくなってくる。

全体を通して意味付けして覚えられれば良いのだけど、本か何か探さないとダメかな…そこまでしてやる気もないんだけど…

 

極めつけは動きを覚えられない上に、見て覚えているふりをしていても頭の中は自動的に別の世界に行ってしまう現象が頻発している。特に疲れてくるとよくそうなる。頭の中が壮大な旅をしている最中、本人はそれに全く気づいていないのが致命的。

『ハッ!』とした瞬間自分のターンが回ってくる。マインドワンダリングと言う現象らしいけど。

 

本を読んでいる時もそう。本は好きだけど、大体この現象が起きてページがなかなか進まない。書いてある語句のイメージに引っ張られて本人が気づかぬうちに別の世界に行ってしまい、自動的に数行読んだ後頭に入っていなくて『ハッ!』となる。そして覚えてるところまで戻って読むのだけど、同じことを何度も繰り返してしまい中々ページが進まない。

多分その過程で頭の中では何かの関連付けが起きているから無意味だとは思わないのだけど、読んでいる本の内容が頭に入ってこないのは中々フラストレーションが溜まる。

会話中でも運転中でもこれが起きまくって現実からインタラプトし過ぎるので、現実を生きているのかすらわからなくなる。

 

そんなこんなで合気道は続けているのだけど、しっかりやるならやはり方策を考えないとだめだなぁと思う。僕は彼らと同じように繰り返しで覚えられる人種じゃないので、その分やる気でカバーしないといけない。

ここで現実世界に不在の時間が多く、あまり執着できないことが裏目に出て、「そこまでしなくていいや」に繋がり、いつものなーなーが出来上がるのも分かってはいるのだけど。直らないもんは直らないんだよなぁ。

 

因みに今日は何故かコールドスリープのことばかり頭に浮かぶ。期間によって金額が変わるシステムのコールドスリープで500年を選んだの。そしていよいよ目覚めると「不具合で目覚められなかった人が居るので緊急メンテです。」って言われて270年しか経っていない世の中を1日探検する内容。

あともう一つ覚えてるのは、別の惑星への入植者として宇宙船のコールドスリープで2000年後に到着とともに目覚めるのだけど、無人のはずだった到着先の惑星が既に発展して大都市まで出来ていた。実は僕らが旅立った後数百年後に地球を出発した後発の入植隊が乗った宇宙船は、ハイパースペース航法(スターゲイトSG1)が実用化されていて先に着いて定着していた。そして彼らは現在、故郷である地球と資源をめぐって戦争状態にあった。我々はどちらに付くのか選択を強いられるのであった。的な内容を妄想していた。

これが頭に浮かんでる時にハッと気づくと、実はコールドスリープではなく自分は合気道をしていて、自分のターンが回ってきたのだった。

混乱するのは普通でしょ?

 

頭おかしい人みたいに思われそうだからここまでにする。実際はもう少しオートパイロットが頑張ってくれるので、分別できてるように見えてる…筈…。

 

 

もうどうでもいいから別の恒星系に行きたいなぁ。

骨の軟らかいブロイラー 不自然の塊

うちは鶏肉よりもガラや首、足ばかり買うのだけど、やはり大量飼育のブロイラーだけあって骨が軟らかい。僕が村で飼ってるニワトリなら足の骨は噛み切れっこないのに、このブロイラーは少し揚げただけなのに噛み切れてしまう。さすがに脛は噛み切れないけど、指は噛んで食べれてしまう。

トウモロコシ飼料ばかり食べさせられて、ろくに歩くことも知らず2カ月足らずで出荷される不自然に太った若鶏、これはニワトリなのだろうか。

 

抗生剤や飼料の遺伝子組み換えがどうのとか、成分とかそういった話は抜きにしても、やはり不自然だと思う。

 

作り出された不自然な多産種のトウモロコシを、不自然なくらい大規模の農場で、不自然なくらい薬品を使い、不自然な労働体形の労働者が働く工場で、不自然な加工をされ、不自然な距離を輸送され、不自然に安い飼料に加工される。

その不自然な飼料を餌に、不自然な早熟種のニワトリを、不自然に大規模で過密な養鶏場で、不自然な薬品を使い、不自然な労働体形の労働者が働く工場で、不自然な加工をされ、不自然な距離を輸送され、不自然に安い鶏肉になる。

中国産でもブラジル産でもアメリカ産でも大体こうだと認識しているのだけど、この先に繋がる僕自身もやはり不自然な都市生活の中で、不自然なスーパーマーケットで不自然に安くて骨の軟らかく味の薄い鶏肉を買い、料理して食べる。そしてこの頻度で動物性たんぱく質を取るのだから、過去数万年の中ではかなり不自然な食生活をしているのだと思う。しかも『定時で1日3回の規則的な食生活』という不自然な形で。

 

やはり僕自身もここで生活する限りは不自然の鎖の延長線に過ぎず、僕の先にまた無数の不自然な鎖をばらまいているのだろうなと思う。

それがいけないと言えばそれこそ億単位の人の生活を否定することになるし、僕はいけないとは言わないけれど、不自然だとは思う。

自然が良いか不自然が良いかは人によって捉え方が違っていいと思う。でも僕は自然が良いな。

 

鶏肉だけが不自然というわけではない。大体の農産物、畜産物はそうだろう。トウモロコシ飼料を食べて育った肉食魚が脂がのっていて美味しいと言われる良くわからない時代だ。じゃあもう自分たちがトウモロコシ飼料食べて脂のればいいじゃんとまで思ってしまう。ヴィーガンでも動物愛護でもないけど、不自然過ぎて嫌。数年前に観た『キング・コーン』の影響もあるのかな。

何もかも不自然で、食べるものも不自然で、僕自身も工業製品になっているような気がしてくる。実際そうなのかもしれないな。

 

人はどこまで傲慢になり得るのだろう。一神教の神に自然を超えた存在であることを許されたと思い込んで以来、不自然な存在になってしまった。

エデンの園は人間が気づかないだけで意外と身近にあるのかもしれない。

 

仙人になりたい。