感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

否定・肯定・受容 受容性の投影 自分崩しと人生のフェイズ "Once Upon A Time” Evgeny Grinko

否定は(肯定と一緒に)外から入ってくる

それに抗うのが肯定(であり否定)

肯定と否定は表裏一体の二元

表裏一体の二元は片方が存在する為にもう片方が必要

肯定が生まれれば否定が生まれるし、否定がある所には既に肯定があるともいえる

肯定に生きようとすれば同時に否定にも生きることになる

肯定も否定も後から消せるようなものではない

今に生きる、(何も知らぬ子供のような)ただ在るという状態では否定も肯定もないが、その状態で生活することは不可能

ただ在るという状態を優位に立たせれば他の状態を蔑ろにする

個性化のためには否定による肯定、肯定による否定で個を切り離す期間が必要

二元は双方内包するのだから折り合いをつけない限り苦しみは続く

ポジティブに吹っ切れて生きる事ができる人もいるから、これまで書いたことが万人に当てはまるのかは分からない

 

受容は肯定も否定も(その他も?)包み込む

受容は二元の外側に出て絶対的な肯定や絶対的な否定を生む一つの手段

無理に肯定・否定できないもの、それができないこと自体も受容は包み込むことができる

受容の生む楽観的な落ち着きは苦痛の中の当事者にとって受け入れ難い(不理解に映る)

 

投影は鏡を使って自他を構成する為の一つのシステム

否定的な投影だけでなく、肯定的なものも、受容的なものも投影

否定性の投影は脊髄反射的なので目立つが、受容性のものは受容的な穏やかさや余裕という形なので見えづらい。

 

仏陀の姿勢を見下しと捉える本があるが、それも著者の投影ではないか?

双方を受け容れている受容の姿勢は母性に似ている気がする

受容ベースの自分は前から居る 。人は元々持ち合わせている?

 

 

みたいな感じのことを最近落とし込みかけてる。

 

先週から自分崩しが始まり、今も真っ最中なので不安定。びっくりするぐらいの希死念慮を溜め込んでいたことを思い知り、流石に危なかったので以前アドバイスをもらった人にお願いしてやり取りしてもらったりした。

自分崩しが必要になったのは建て替えのため。簡単に言えば、色々あった人生の中で第1、第2、第3の人生と区切りを設けているのだけど、その区切られた自分ではもうだめだということだと思う。

この区切りは必要だったから出来たもの。

 

第2と第3の区切りはCPTSDやその他の症状が治まってきたことで、これ以上症状やそのラベルに振り回されるのはやめようということで故意に区切ったもの。

日本を離れたこともあって、心機一転という意味で長らく書いてた当時のブログなんかも消して。すり減らす減薬も経て1年かけて断薬し、森の中というとても恵まれた環境の中で癒すことができた期間。そうすることで新しい自分を生きる期間となったし、新しい価値観も生まれたし、色んな捉え直しを経て個性化も進み、自己否定なんかも無くなった。

 

第1と第2の区切りはもっと根深いもの。これは外傷体験の時の解離で自分が自分から切り離されてしまったところから。生存本能というのは時に残酷で、生きるためには自分なんてものはいくらだってバラバラにする。今の僕はこの時の産物で、だから自分の記憶の中でもアクセスできない部分がいっぱいあるのだと思う。それ以前の僕と連続性を失っていると言って差し支えないと思う。自分なのに自分についてわからないことだらけだし、それ以前の僕の記憶に他人感があるし、間借り感だってある。感覚的に過去の自分と繋がってない人間がどうして自分を生きることができる?そうしないともっと壊れていたのかもしれないけれど。

 

こっちはいずれどうにかしなきゃいけないものだけど、先ずは第2の部分を取り込まなきゃ自己受容という意味でも、これ以上どうしようもないってことなんだと思う。

 

第2の人生、フェイズは言わば闘病期で、支配されていたと言っていいくらい色んな症状に翻弄されていた僕なわけだけど、第3の人生ではそれをある意味徹底的に否定してきた。新しい自分を肯定する為に。

でもまぁ、このところ凄くそういった症状というか、後遺症の大きさを意識させられていて、あぁやっぱり逃れきれないんだなぁっていう感覚がある。でもその諦めというか、これが出た時って自分なりの極まで行ったということなのかもしれない。極地に着いて初めて湧く感情。抗うのは無駄という理解というか。

 

僕の中で受容というのはいつもそうだ。肯定、否定の両方の極を経てやっと訪れる。これは僕にとっては必要な段取りなのかもしれない。そう思えればこそ肯定する自分も否定する自分も受容できるのかもとも思う。

統合というものがあるなら受容の先なのだろう。でも今は、統合という概念が僕に必要なのか分からない。そのぐらい受容がしっくり来てる。だって人格すらどこか統合しきれていないからね。

 

受容、今回少し違うのは、それを意識的に認め、落とし込み始めてることだろうか。

少し前に嫉妬という人生でほとんど縁がなかったものを短期間で受容できたのもそうだし、なんかこう、順を追って説明されてる気分になる。

僕は頭でっかちだから精神っていうのはどうしても後付けみたいな感覚があるのだけど、こうしてみるとやっぱり後付けにしては良く出来てるなぁと思う部分もある。

 

意識なんて知覚の結果、残渣でしかないのかもしれないし、同一性のある自己というのはアイデンティティというコンセプトによってバラバラな自我の内どの自分の意見を採用するかということを無意識に選んでいるに過ぎないのかもしれない。なんてことを、ただでさえ脆い自己というものを崩していると思ったりする。

 

その反面、全然違う捉え方を許容している自分も居る。

 

以前ならそういった意見をまとめて自分なりの見方を定めようとしていたけれど、今は割とどっちも認められる。それはなんかこう、以前はバラバラな自分のそれぞれの視点という点と点を線で繋ごうとしていたような感じだったのだけど、今は何だか、どっちも違う点でいいんだよねって〇で囲える感じ。頭ではわかってたのにずっと出来ていなかった。

その見方で捉え直す様々な価値観、そしてその鏡を通して見る世界、それらが何だか、とても新しくて心地よい。

 

今は崩れた自分のまま受容に向けて軸を移し始めている。

これは僕の中では割と大きなパラダイムシフトで、やっぱりそのために崩したのかなとも思える。

今思えば長らく望んでいた感覚なのだろう。

自分の外でも内でも、肯定には否定をぶつけ、否定には肯定をぶつける。そうすることで自分なりのバランスを保とうとしてきた。虐殺に関わる肯定的な側面を探したり、死刑の正当性を否定してみたり、挨拶の否定的な面とか、狂気の肯定的な面とか、本当に色々。理解したい欲はそこに繋がる気がする。

でもだからか、今はさらっと、肯定的な面も否定的な面も、そしてそうでない面も受け入れられる。

そう、別に肯定を否定したかったわけでも、否定を肯定したかったわけでもない。ただその二元を持ち出されるからそう反応するしかなかった。土俵に引き込まれていた。

ネガティブを否定するのは嫌だし、ポジティブばかり肯定するのも忌避感があった。

絶対的に肯定するなら、ネガティブもポジティブも一体であるのが自然だと思った。全容を重視したい。

 

でも今までは二元の軸線上でそれをやろうとする(本人はそのつもりはないのだけど)から、ネガティブを肯定しポジティブを否定する、その否定と肯定の強弱でバランスを取ろうとするという歪な形になっていた。仕方のないことなのだろうけど。

 

否定も肯定もあってもいい、これが僕の中で落ちてきたのは、バラバラな自分達がより自分に近づいたから、そしてそんな自分たちが同時に存在することを認められたからなのかもしれない。自分だけでは到底無理なことだった。

 

Why Not Both GIFs | Tenor

このmeme大好きなんだけど、結局求めていたのはこれだった。自分というものでさえ、一つ選ばなきゃいけないわけじゃないんだよって。

好きなものってそうだよね。無意識に求めているものを集めてる。

 

受容、もう少し意識して受容性を投影していきたい。少し安息に近づいた気がする。

ここから第4の人生、フェイズと区切れるのかもしれないけど、それをする意味を今は感じない。自分もゆっくり再構築していけばいい。

 

大丈夫。

 

 

これ大好き!


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下の方が好み。

短過ぎて少し物足りないと感じつつ、それも儚くていいかなという気もしてくる。

 

あとこの人の曲ではこれも好き!


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この人の放つ空気もだけど、ロシアのこの雰囲気って好き。

課題2 - 愛着 安心感 お姉ちゃん願望 母 家族関係単純図式投影法

もう一つの方、愛着は大切な親友と対話してる時に気付かせてもらった。

 

こっちはCPTSDの方と違って解消しなくても問題なく生きれるものだとは思う。でもなんて言うか、鏡を他者に押し付けてしまうのは嫌だし、目の前の相手を見ずに内側に持つ願望を見ながらコミュニケーションを取ってしまったらと思うとそれは誠実さに欠けると思う。たとえ相手が受け入れてくれるとしてもそれに甘んじて盲目的に願望を押し付けるのは違うと思うし、気付いていながらやるのはもっと違うと思う。コミュニケーションが濁ってるのに気付いていながら満たされることを優先する訳だから。満たされればいいのではなく、大事なのはやっぱりそれぞれの世界であって、そこから生まれるコミュニケーションであって、満たされるのはその結果っていう方が順序的にも僕に合う。投影で満たされる感覚って際限がない割に他人事だと思う。願望や欲求が動機に混じるのは構わないとは思うけど。

 

この前書いた歯車のイメージと同じでこれも初めての経験だったけど、やり取りをしている時に浮かんだんだよね。子供の自分が相手に安心感を求めてるのが。「あっ」て思った。それだけ信頼できるということだし、引き出してもらったということだと思う。僕の変容自体この出会いがなければ始まらなかったものだし、ある意味必然的な流れなのかも。

 

あまり人に心を開かない僕が、心を開ける相手には結構子供の部分が出たりする。これは多分、ある種の意味で否定されない相手にしか出ない自分。この自分が出てる時点で結構コントロール外してるんだなぁとも思った。

そして彼は本当に子供で、自分本位で、相手に許容される安心ばかり求めてる気がした。性的な関係を軽視しがちなのもそのせいなのかなとか色々勘繰っちゃう。

 

あの時と同じだって思った。姉さん。実の姉ではなくて、前にも何回か書いてる人だけど、20歳くらいの時かな、当時amebaでブログをやっていて、そこにコメントをくれてメッセージでもやり取りするようになっていた人。結構年上なのだけど、お互いボロボロだったことも手伝ってとても引き合った感じ。

会ったこともない人間に美味しかったからってマカロン送り付けてくれるような人。

 

いつか一晩中抱き締めてくれるって約束してくれていたのだけど、結局会うこともなくODで死んでしまった。形見分けしてもらったリボルバーのペンダントが僕の一番のお守り。

風貌はファンキーだけど姉さんの象徴のような雰囲気の人で、僕の他に同じように彼女を姉さんと慕う女性が居ることを後になって知った。2人も姉さんロスにして置き去りにするなんて…それほど辛かったのだろうけど…

前置きが長くなったけど、その姉さんに満たしてもらってた自分が同じだなって思った。

 

姉さんとは精神的姉弟というか、そんな感じだったのだけど、その他にも17歳年上の人と付き合ったことがあった。こっちは性的な関係になったけど、弄ばれた感じでそんなに長くなかった。

この人シングルマザーだったんだよね。シンママって言葉さ、最近までママになりたてで新ママだって思ってたんだけど、あれシングルマザーなんだってね。どうでもいいけどね。

 

僕の人生で親密になった年上の女性って言うとこの2人なのだけど、改めて人生を見渡すとやたらと年上の女性との接点が多い。

でも分かんない。無意識に僕がそれを望んでいるからそう選んでいるのか、それとも元々の気質というか、感性というか、それが女性と合い易いからそうなるのか。

後者だったらいいのだけど、前者だったら何かあれだなぁとは思う。

 

でもこう、友達と呼べる程度に仲良くなる相手、友達っていうのは僕にとっては自己開示が一種のラインなのだけど、それができる相手っていうのはやっぱりかなり敏感に選んでる自覚はある。無意識にやってるんだけど自覚してる感じ。

さっきも書いた気がするけど、僕は極度に自己開示しない人間だから、僕が自己開示する相手っていうのは仮面の下の僕が拒絶、否定されない自信のある人になるわけですよね(それでも殆んどの場合は極一部しか開示しないけど)。上手く言えないけど、そういう人を選別するのはとても得意で、安心感をセンサーにかなり高度なことをやってる気がする。ってことはやっぱり少なからず願望が作用してるんじゃないかって気がしてくる。

いや、単にビビりだから結果的にこうなってるっていう線も濃厚なのだけど。

 

ますますわかんないや。

 

安心感、姉という2つのキーワードなんだけど、一番の疑問は僕はいつそれを抱き始めたのかなんだよね。だって僕3人兄弟の一番上で姉も兄もいないんだよ?いないのに何で安心感を得られる対象だと認識してるんだろう?

少なくとも妹が小さい頃には、小学校中学年までにはその願望は抱いてた。弟、妹と接しながら姉に同じように接してもらう自分を想ってた記憶はある。その姉の影が何なのか分からなくて気持ち悪い。

 

その姉という概念はどうやって入ってきたの?何故姉が安心できる存在だと入っているの?しかも体感イメージ付きで。

実姉もいなければ親しい年上の女の子の記憶もない。記憶に残っていない人がいるの?それとも生み出したの?でもそんなの生み出せるものなの?生み出すと言えば、母が言うには、僕が一人の時に誰かと会話していると小学校の先生に心配されてたって聞いたから、イマジナリーフレンド的なのは居たのかもしれない。それが関係あるのかもわかんないけど。でも生み出すにしたって型が無くてはお人形は出来ないと思うけど。

本やテレビから受け取ったにしても、当時の僕にそこまでの理解力があっただろうか。受けて安心した経験がなければこんな存在にはならないだろうに。

誰なんだろう?

 

今日気になって色んなワードで検索していたのだけど、姉が居ない人がお姉ちゃんが欲しいって願望を抱くのは別に珍しいことではないみたい。でもそれはどこかで、例えば友達のお姉ちゃんとか、アニメとかで姉という表象を仕入れた結果な訳で、僕が知りたいのは僕の中のそれは何が元になっているのかってことで…

 

検索上位に出てくる多数のサイトは心理テストみたいなやつでさ、お姉ちゃんが欲しい男性は理解されたいという思いがどうのって書いてあるのばっかりだったけどさ、逆に理解されたいと思ってない人っているのかな?理解なんて糞食らえだ、完全な理解など不可能だって普段思ってしまう僕でさえ、それは理解されたいという願望の裏返しだってことくらいは分かってるよ。どうでもいいけどね。

 

 

愛着っていう部分では、本来なら母親に求めるであろう安心、受容を姉というイメージに求めているっていうのは凄く分かる。シンプルに、僕にとっては母親がその対象ではないからだ。

父親は嫌なもの、母親は父親に虐げられる可哀想なものっていうのが僕の中には出来ているから。

母は大変な中とても良くしてくれたし、多分とても愛してくれたけど、僕はそれを上手く受け取れてなかったのだと思う。そんな毎日の光景ではなかったはずだけど、いつからなのかな、僕は毎日父親が帰ってくる時間には母が殴られないかずっと心配していたし、その時間がとても嫌だった。父親が寝付くまでは安心できないし、寝付いても安心できない時もあった。殴られるの分かってて歯向かう母親も当時は理解できなかったし、やめてよっていつも思ってた。

母は母親の仕事(と世間一般で言われること。今言っちゃいけないやつ)以上のことをしてくれていたし、僕もそれは当たり前のように受けてそれに感謝すらしていなかった訳だけど(子供だから許して)、その一点だよ。夫婦関係があっての親子、家族なんだなって。

母は余裕のない中で出来る限りの愛情を注いでくれたんだと思うけど、僕はそれをスルーして母に同情していたし心配していた。僕の視点では横の結びつきだった。だからかな、呼び方もママからお母さんに移行できなくて、ずっと「ねぇ」だった。今は下の名前にちゃん付けで呼んでる。

呼称ついでにいえばさ、僕が子供と居る時に子供に向かって「それパパの?」とか言う人いるけど、あれいまだに苦手。あの人に対する憎しみはもうないけどさ、パパ、父親っていう存在の印象はあの時のままなんだよね。それから逃れるために自分の子供にはちょっと印象の違う「おとうちゃん」を導入してたりさ、なんか色々縛られてるんだなぁって。

 

はい。

 

それでね、今日姉に対する願望とか元型とか表象とか色々調べてる時に家族関係単純図式投影法っていうのが出て来てね、ペイント使ってそれやってみたの。

 

 

 

これは心的な理想と現実の家族を図にして、位置関係なんかからその人の中にある家族を読み解くってものみたい。

現実1は僕視点の現実の家族 もう過去だけど

現実2は僕の中にある母中心の視点でのそれ 僕の中では意味がありそうな混合の主観。全員分の視点がすぐ浮かぶけど他は省略

理想は現実の構成員を使っての理想形 上に寄ってるのは父を置く家族の円の外側にスペースが無くて全体が上に寄っちゃっただけ。円の外とはいえ父親という存在を高さ的に上に持って来たくなかった。

願望は僕が参考にしたpdfには載ってなかったけど、頭の中にあるからついでに図にした。色が薄い人たちは願望の中のイメージにはないけど入れないとなんか後ろめたいから薄くした。

 

あれだね、多分僕は、やっぱり僕の中での長男という役割にうんざりしてるんだとは思った。願望がよくわかる。父親が自分の家族に居る理想が浮かばないとか、後ろめたさで入れた他の兄弟よりもっと姉にくっついていたいとか、母には単純に親子関係を望んでて姉に緩衝材になって欲しい(単純な母子ではない横の繋がりがあったせいで接し辛くなったという無意識な自覚)とか、長男業で自分がしたと思っている役割を姉という存在に押し付けようとしてることとか。物凄く自分勝手な願望だよね。でもわかる。何にもしたくないの。役割とか嫌なの。そうなの?まぁ知ってたけど。下がいいんだよね。

下には下の苦しみがあるのは、色々歪んで苦しんだであろう自分の弟を見ればわかるはずなのにね。

もう一つ思ったけど、願望は姉弟関係じゃなくてもいいんだよね。僕が妹で姉妹でもいい。でも兄は想像がつかない。兄に良い印象がないのは、一般的な通念としての兄なのか、自覚なのか。でもまぁ、受容して欲しい、時々リードして欲しいってイメージだとやっぱり姉になるよね。

 

これ面白かった。気になる人は検索するとやり方出てくるからやってみてね!

 

 

もうとっくに日付変わったけどさ、よくよく考えるとこんなことしてたの母の日なんだよね。

何度も言うけど母にはとても感謝してる。DVに借金にただでさえ大変なのに3人育て上げてくれたんだし、とても愛情深い人だし。妹はしっかり受け取って育ったということが救いかな。上手くいかないのは、人間関係そんなもんだよねとしか言えないね。むしろ社会的な理想の家族像があるせいで苦しむ人も多いだろうにとは思う。

 

 

いつも長くても2000~3000字で区切るんだけど、区切れないから4500字超えちゃった。まぁこっちは喫緊の課題でもないし、まだよくわからないし、ゆっくりかなと思う。でもいずれは解消しないとなって。彼の願望を自分で満たせればいいのだと思う。そしてそれが出来そうな存在が一人僕の中に居る。まぁそれが無理でも、より意識的な形に出来ればなぁって。もうお姉ちゃんお姉ちゃんっていうような歳でもないのだし。ね、K姉さん。

意識レベルのギャップ から 課題1 - CPTSD 自己受容の難 OOO 瀕死の携帯

4月の後半に意識レベルのギャップというのを見てもらったんですよね。レベルって言葉はあんまり好きじゃないからちょっと躊躇したんだけど、自覚はあるからヒントでも見つかればなぁと思って。

見てもらった内容もその後のやり取りも僕にとってはとても意味あるものになった。

 

迷路の中に居る時って凄く縛られた視点になっているのだけど、外側から見えた時に壁が一気に崩れることがある。今回もらった助言はそこに繋がった。その方もこの虚無感の経験者のようで、そして捉え方もどこか似ていたからとても的確な言葉をもらったのだと思う。思い込みにいくつか気付いたし、課題になっている部分も前より明確になった。

 

その方が言うには僕には二つ課題があって、先ず僕は自己受容に課題があるということ。そしてもう一つは無条件の愛に課題はないのに条件付きの愛に課題がある矛盾した状態ということで、対象に自分が含まれていないのではないかということだった。

最初はやっぱり半信半疑モードなのだけど、随分ピンポイントな指摘だったから色々質問してしまった。そしたらまた的確に返ってきて。

で、この2つはリンクしているとのことだった。

 

この辺りは何ていうのかな、漠然と認識していた部分と目を逸らしていた部分だったのだと思う。特に前者の方はあれなんだよね。自己否定はなくなったんだけど自己受容は出来ないっていう状態が続いてて、まぁ自己受容できないのが自分でいいかっていう一見受容に見える歪な形に持っていってたのが悪さしてるんだと気づいた。

それと漠然と大きく見えてたものが2つに分かれているのを意識してみるととてもしっくりきたんだよね。そうなると少し触れやすくなったというか。

 

他にも色々得たものはあったんだけど、大きなものはこれで。それでね、壁が崩れる感覚の時にはっきりと、歯車が動き出すのが見えた気がしたの。壁と一緒に、歯車に噛んで邪魔になっていたものが崩れた感じで。

 

それからというもの大切な親友との対話でもとても色々なものを受けてるし、こうやって思考の整理をしている時も気づきがあったりして、色んなものが繋がったり舞い込んでくるのでかなり目まぐるしい。

 

その中で特に大きな課題として再浮上した(サバイバーズ・ギルトから繋がった)のがCPTSDで、もう一つはあまり気にしていなかった愛着。

 

前者は浮かび上がる度に棚上げに次ぐ棚上げだった。というのも後遺症だけでも十分苦しんだという意識はあるし、生活できるレベルまで和らいだなら振り返らずに前進した方がいいんじゃないかっていう思いもあったから。っていうのは言い訳で、怖くて見れないっていうのが大きいのかもしれないけど。受け入れ切れていないのは分かるけど、どうやったら受け入れられるというのだろう?

時間は確かに薬で、それで気にならないぐらいまで和らいだのだけど、それは目に見える症状の話で。いや、それすら分からない。そもそも日本の冬が駄目になったのも、こっちに住むようになった切っ掛けもフラッシュバックのトリガーから逃げるためというのが大きいし。

でも今の問題はそこじゃなくて、今の僕が完全に事後の産物ということだ。事後の自分も外傷当時の自分もある程度は受け入れて生きていかなきゃいけないのは分かってはいるつもりだけど(って思ってる時は大体分かってない)。

 

前回書いてて、生きながらえてしまったことによる罪悪感というか、生きることの後ろめたさがあること、そしてそれも後遺症の一つで、その上に自分の価値観を築いてきてしまったことに気付いたのね。それは多分自己受容という課題に直結するのだろう。自己否定は無くなったのにやはり自己肯定は上手くできない部分が多い。つまるところ自分が今生きていることを受容しきれていない。

自己無価値感というよりは自己価値の放棄によって生きている後ろめたさを軽減しようとしてるんだろうなって思った。

 

同じような境遇に置かれて死ぬ人が居る中、たまたま生き残った自分という位置づけになってしまっていて、たまたま生き残ったのが他の人ではなく自分ということを正当化できないし、自分の受けた苦痛も比較したくもないのに比較になってしまうのが嫌で直視できないし、生きている自分が価値づけされることも死んだ人や抜け出せない人に対する後ろめたさに繋がっている気がする。

全て無意味で利己的な比較だというのは分かるけど、じゃあ同じような境遇を味わった彼らに報いるにはどうすればいいの?せめて多くの人たちより近い僕が理解の努力をしなければ何のための経験なの?雁字搦めじゃん。ずっと考えてたことだ。それでどんどん行き場を狭めてた。こうやってミイラ取りがミイラになるのだろうね。

そういえば頭の中で言葉を思い浮かべるでしょ、そうするといつも真っ先に出てくるのが死なの。別に悲観的でも絶望的でもないのに、例えばシャワー浴びながら鼻歌に言葉を当ててみても「死が~」とか「死の~」とか「死地に~」とかになる。「終わりの~」とか「終焉の~」とかもあるから必ずしも死ではないけど、死や終わりを無意識に考え過ぎな部分はあるんだと思う。意識的にやってるわけじゃない(よね?)からどうしようもない気はするけど。

 

割り切って生きるために自分の中であの頃の自分を死んだことにして、新しく生きようとしてみたり、本当にいろんなことをしてきたのね。その時は確かにそれが必要だったのだと思うけど、自分っていうものをここまで掘り返してきて、そんなんじゃどうしようもない部分に来ているのだと思う。

 

前回どうしてあそこまで取り乱したかと言えば、苦痛の伴う選択肢しかないだけでなく、また振り出しに戻る不安もあったから。

 

・目を瞑って生きること これには自己受容が上手くいかない苦しみ、それだけでなく停滞の苦しみ(変化を食い止めることに伴う苦痛)があって、多分定期的に発狂しそうになると思う。受け入れないことの苦しみは経験済みだからわかる。だからこっちの選択肢はもう選べない。

・リセットボタン 僕は臆病だからから無理

・もう一度向き合うこと 消去法でもこれしか選択肢がない。でもこれは上手くいくか分からないし、怖いことだらけ。トラウマを直視しなきゃいけないし、仕舞い込んだ記憶も開かれるだろうし、後遺症も再発するかもしれないし、二度目の人生だと思って築いてきた価値観を崩すことで一時的にでもまた自分が分からなくなるだろう。崩すためには先ず認めなくてはならなくて、それだけでも怖いのに。

 

根元ほど後に出てくる。その時出来る対処を続けてきた結果今があるからだと思う。だからこんなことしててもキリがないのではという不安も出てくる。正直これで終わるとも思ってない。今でも目を向けられない部分、特にあの2年間は全てから否定される日々だったから、バグの根源はそこにもいくつもあると思う。それが出てくるのは本当に怖い。怖いけど支えてくれる人が今は居るし、折角ここまで掘り返してきたのだし、そうするしかないし。

 

でもまぁ、幹からいく気力はないから、小さな枝から入ろうと思ってる。今回の切っ掛けになったサバイバーズ・ギルトから。

調べてたらそれを抱えたキャラクターとかが載っててね、これだって思ったのがあったのね。仮面ライダーオーズの主人公、火野映司。平成ライダーってそういう主人公の過去や闇に縛られる描写が上手いし、そして乗り越えていく感じのエンディングがお決まりじゃないですか(最近のは知らないけど)これならいけるって思った。しかも大好きな放浪者系主人公だよ?平成ライダーは555まで観てそのあと飛んでWだけ全部観たんだよね。それにしてもOOOって表記何かいいな。

primeビデオ見たら会員特典だったから、わーい!ってそのまま観始めた。

ってことで一昨日からオーズ観始めて今12話だけど結構引き込まれてるし、いい感じに揺さぶられる部分がある。行動に移せてる分映司は凄いとは思うけど、この歪んだ行動力と無欲というより虚無な感じはとてもね。欲望っていうテーマも面白い。僕もいつか活力を取り戻せるかな。

 

まぁこんな感じでまずは軽くいこうかなって。

もう一つの愛着はまた長くなりそうだから分けようかな。多分同時進行で掘り下げていくと思う。

 

 

そうそう、携帯落として画面がひび入って液漏れも始めちゃった。知り合いに中古で売りつけられたiphone5sで、電池膨らんでるし、カメラも壊れてるし、サポート切れて使えないアプリも増えてきたしで、そろそろ替えなきゃと3年以上前から思ってはいた。

買い替えるの面倒だし高いしで何だかんだまだ踏ん切りがつかないのだけど、液漏れが広がったらどうしようもないからなぁ。うーん… ここまでくると彼も楽になりたいんじゃないかとも思うよね。まぁ3日経ったけど液漏れもあんまり広がってないから様子見中。

でもこれだけ古いの使ってると何に替えてもこれより性能いいだろうから後悔しなさそうなのはいいよね。

 

 

これ大好き。俯瞰視点の自分が満たされる感じ


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RGBのアルバム(も)好きな曲いっぱい。

暗闇仲間の見送り、謝意を伝えたこと 苦痛と死、代わりたい気持ち サバイバーズ・ギルト

youtubeで感情を外に出すセラピーを受けたりする様子を隠すことなくアップしている人が居て、僕も当時はその人と同じくDark Night of the Soulとか色んな名で呼ばれる変容の時期だったので参考にさせて頂いていた。参考という部分もあり、耐え難い孤独な暗闇の中から、同じように暗闇の中で藻掻く人がいることを見て救われてもいた。

結構壮絶な内容だったのでアップロードするのは勇気のいることだったと思う。それでもその人は自らの向かうSpiritual pathのために発信の必要性を感じてそれをしていたらしい。(その点は僕も同じようなことを感じていて、だからこのブログが今ここにある)

 

その人がつい最近「さようならyoutube」というような題の短い動画をアップロードしていたので見てみると、その題名の通りアップロードをやめるということだった。それは消極的な意味ではなく、次のステージに移ったこと、そしてそこではバウンダリーやプライバシーがより意味を持つような気がすることなんかを話してた。

とても感慨深い。彼女は明確に自分の進む道をKundalini Awakeningと位置付けてあらゆる手法を用いて自分の感情と向き合ってきて、その一環として6年間動画のアップロードを続け、そして今次の段階に進んでいった。僕は後半の4年くらいかな、彼女の動画に救われたこともあって、今はその段階は一応脱している。僕がどういう方向に進むのかは分からないけど、人生というスパンから見ればXの交差点のように短い期間だけど、とても共感的な時間を過ごし(一方通行だけど)、なんていうのかな、やっぱり見送るような気持ちでいっぱい。心から旅の無事というか、無事じゃないな。無事かどうかは大事なことじゃない。旅の行く末の幸運を願う気持ち。

 

それで僕も一方的にではあるけれどとても助けてもらったので、ありがとうコメントを書こうと思ったのだけど、コメント欄がオフになっていた。それでもどうにか謝意は伝えたかったので、プロフィールに入ってみるとブログに繋がり、そこにもコメント欄は無かったのだけどemailアドレスがあって、そこにメールを送ってみた。

折角メールだったから当時僕も同じ状況だったことや彼女の動画に救われたこと、あとなんて訳したらいいのか分からないけど、あなたにとって意味深い人生の旅を願ってます的なことを書いて送った。別に意味なんてなくてもいいのだけど、その場合意味のないことがその人にとって意味深いわけで…それはどうでもいいけどね。

 

そしたら結構しっかりした返信をもらってしまって、それに対する返信をしようかどうか迷ったのだけどやめといた。それが失礼なのかちょっと気掛かりだけど、やっぱり伝えたいことを伝えた上では蛇足になるような気がするし。

 

気持ちを伝えることができたことがとても嬉しいし、それを喜んでくれたことも嬉しいし、そして完全な一方通行ではなくなったことも感慨深い。

それはいつもの寂しい見送りの風景のはずなのだけど、希望が香る穏やかな曙光の射す夜明けの分かれ道で。僕まで何だか頑張れるような気持ちになる。見送ってくれたから。

 

真っ暗な冷たい孤独な中でもこうやって、人種や文化の垣根を越えてより人間的な部分での繋がりが生まれるインターネットは、まるで広大きな海のよう。ボトルも流さなければ届かないのだろうなって。

 

 

あんまりこう、時事ネタに触れたくはないけど、沢でそれらしい骨が見つかったっていう行方不明の女の子。

どんなに辛い思い、心細い思い、怖い思い、痛い思い、寒い思いをしたのだろう。どれだけの間意識があったのだろうか。大人よりも体感や感情の比重が大きい子供が、それも1分、1時間の長さが大人よりずっとずっと長い子供が、そんな中にどれだけ長い間居たのだろう。

広大な森の中で迷子になってしまう時の感覚って大人だって慣れてなければ正気を保てるようなものじゃない。足の着くプールで溺れてしまうのと同じになる。

それらを重ねてしまうと、ただただ辛いし悲しくて吐き気までしてくる。

人というものを思えばいつもそう。楽しい生き様ばかり見れればどんなに良いことだろう。

 

代わってあげられればなんて思ったところでどれだけ無意味なことかはわかるのだけど、いつも苛まれるのは何故こういう悲痛な死がある中で僕は生き残ってしまったのだろうということ。フェアじゃない。これはしょっちゅう思ってきた。

すんでまで行って、でも生きている自分が、その偶然をまだ受け入れ切れていないのかもしれない。僕がその偶然を拾ったせいで誰かが拾えなかったわけではないのだろうけど、だけどさ。

要するに僕は自分の境遇を彼ら苦痛の末に死んでいった人たちと同列視している部分があって、挙句結果に納得がいってない訳だ。

どうしたら報いることができるのか苛まれるし、こうして苛まれることそのものも拾ったことの報いなのかもしれない。拾った?違う。だからフェアじゃないってなる。自ら拾ったわけではないから。偶然を与えられた結果のように捉えてるから…

僕は選んでない。じゃあ何で僕が生き残った自責に苛まれるの?全然関係ないくせに勝手に加害者になろうとする。被害者意識を盾に。

 

でもこれって何かで読んだものに似てる。遭難か何かの生き残りの人の話だっけ。名称あるのかな。あった。『サバイバーズ・ギルト』…

これダメでしょ…PTSDの症状の一つと見なされるだって。結局そこに戻るの…

自己犠牲・無償の奉仕に走りがちな振る舞い

これ超分かる。

 

「最も無価値である自分の命で誰かが助かるならそれでいい」という自殺同然のネガティブなモノであることが多い。

これもわかるけど、それ以前にそうしないと自分が生きていることが許されないから。だってそうなんだよ。理由がつかないんだもん。彼らが死んで自分が生きてることの理由が。そもそも理由なんてない?それも分かる。でもそれを受け入れることの残酷さが分かる?やばいなんか泣きそう。泣けないくせに。

誰かが助かることでそこに理由がつくことは、自分が生きながらえてしまったことに意味が生まれることは、最早自分の存在価値と同義かそれ以上になる。だってそうでしょ?本当なら生きてなかったんだもん。偶々繋がっただけで。だからそれだけのものと引き換えなら死んでもいいって思う。喜んで差し出すと思う。僕の場合はね。

笑える。誰よりも死後の無を恐れている癖に。

自己矛盾の塊。欺瞞の産物。蜃気楼に浮かぶ砂の城。

 

意味ある死、気高い死、そういうものに対する憧れを持っている。死は生であって、死生観は僕そのものを構成する大きな価値観。それを今更またPTSDに結び付けられちゃったら僕はいったい何なの?ってなる。いつまで縛られればいいの?そしてようやく築いたものをまた崩さなきゃいけないの?

歪みがあるのは気付いてたのに…でもポンっとここで行き当たるとは思わなかった。これにたどり着いたのは良かったのかもしれない。いや、良かったはず。今は素直にそう思いきれないけれど。崩すか縛られ続けるかの二択ならどちらを選ぶかは決まってる。

でも今はギブアップさせて。今日はもう無理。今直視したら多分吐く。

これも時間がかかるよ…どれもこれも、一体何なんだろう。何で今更…

面倒ごと プロレス せがれいじり サムネ 次も会いたい兄弟

車がまだ直らない。

修理費は結局向こうの保険会社が出すことになったからいいんだけど、直るまでの子供の送り迎えに掛かる費用とかその他諸々とか結構かかる。同僚おじいちゃんは「非は向こうにあるのだからもっと主張して不便を被る分相手に請求しなきゃダメだ」って言うんだけど、なんか面倒くさいんだよね。我慢すればいいやっていういつもの消極的な思考だから、僕にとっては課題なのだろうけど。人もお金も含めて面倒ごとで大切な日常の水面を乱したくないって思うのは悪いことなのだろうか。面倒ごとがあっても乱れなければいいのだろうけど、残念ながら僕は乱れる人間でそこをどうこうできるタイプでもないのだし。

そりゃ、損は損だけどさ、ただでさえ荒れやすい精神的な平穏を面倒ごとでかき乱される方がもっと損で…ねぇ…それに折角便利と不便の対比を再確認しているというか、不便の良さ、便利経験による不便感の発生、なんていうことを思いながら楽しんでもいるのに。

こんなこと言っても理解されないだろうし、下手したら余計面倒くさい垂訓が始まるだろうから言わないけどさ。生きてるだけで面倒くさいって思ってしまうのはそういう部分なんだよなぁ。

 

 

最近またプロレスを見てるのだけど、男女ともに華やかな衣装っていいよね。なんかこう、ランツクネヒトの衣装とか部族の戦化粧みたい。勿論戦地に赴くのと観客ありきの興行を一緒くたにするのもあれだけど、人が戦に何を見るのかって考えると面白い。士気から死生観、色んなものがあるのだろうけど、何かこう、戦いを前にして湧き上がるものがあるんだろうなって。

プロレスって受けの美学とも言われるけど、勝ち負けよりいかに試合の中で魅せるかの世界。客商売とスポーツ、そこに潜むジレンマから個々の選手や団体の中で生まれる哲学のようなものがとっても魅力的だと思う。元々勝ち負けより~って思考だから合うのかな。

僕が好きな選手は少し前だとエル・サムライとかケンドー・カシンとか。全日の時の武藤も好きだったな。今はこれと言って好きな選手がいるわけでもないけど。

 

 

何故か『せがれいじり』の動画を見て過ごした週末。

せがれいじりをプレイしたのは中学生ぐらいの時。確かしばらくしてもう一回プレイしたのだけど。

シュールお馬鹿で捉えどころがない世界観だから適当に作ったんじゃないかって言われるけど、僕はこの作品ってすごいと思うし、理想だと感じる。ある意味現実もこういう類のものなんじゃないかとか。

仮にある意味適当に作ったにしても、その小さな適当が積み重ねでこれだけ調和した一つの世界としての滅茶苦茶になるってとても凄いことだと思う。

適当っていうより『何となく』なんだよね。ギャグも物語りも。『こんな感じ』っていうものの集まり。なんかこう、せがれいじりに対してこんな言葉を使うのもあれだけど、ある意味僕としては学ぶものな気がする。

お馬鹿というコンセプトのもとに『自分なり』の『こんな感じ』を妥協なく表現した世界。適当だから妥協しまくりじゃんって思われるかもしれないけど、それは重視する部分の違いであってですね。追求とはそういうものだと思う。

いや、作者が実際何を思って作ったのかは知らないけどね。

 

そういえば続編はやったことないんだよね。やってみたいなぁ。

 

 

そういえばさっきyoutube見ていて思ったんだけど、youtube動画のサムネやタイトルって、特に収益を出したい動画に関してはクリックさせるところが勝負な訳じゃん?webページや記事なんかもそうだけど、そういうクリックさせようとしてるものってなんかこう、僕の求めてる内容じゃないことばかり。だから普段そういうのは開かないし、即興味なしボタン押すんだけど。

 

それはなんでだろうって考えると、多くの人に開かせようとサムネやタイトルにまで労力をつぎ込むということは、中身も多くの人に見てもらおうって内容になってるわけだよね。型通りだったり、効果音とかテロップとか変な部分に凝ってたり、ピンポイントでそれありきなことをしていたり。

確かに多くに見せようとするとそうなるのだろうけど、お洋服ばかりで本人不在みたいな感じがする。作者の表現じゃないというか、表現の方向性の問題というか。

見る側を意識するしないは別として、見る側にどう感じさせようっていう部分が前に出てるのは個人的に苦手。さっきのせがれいじりにしても、作者はうんこが面白いからうんこを表現する、だからこちらは自由な感想の中から面白いも選択できる。でもこれがうんこが面白いと感じる表現になると、誘導による誘導で狭苦しいしウザいって感じちゃう。子供の頃からテレビ番組をあまり見なかったのもそれが嫌いだったから。

それがこう、サムネやタイトルにもう滲み出てる、というかそういう動画ですよ、そういう記事ですよって自己紹介のようになってる感じ。

 

そういう意味ではさ、よく「本を表紙で判断するな」って言うけど、動画やwebページは表紙である程度判断できちゃうのではないだろうか。先入観は敵とはいえ。はい。

 

ここまで昨日書いた

 

 

今日は夕飯時に珍しく母から僕指名で電話がかかってきた。その段階で何となくどっちかなって予想はついてしまったのだけど、実家の猫のN(仮)が危篤らしい。

上手く言えない感情。ペットロス(この言葉嫌い。僕にとってはペットじゃない)経験者として勿論そういう恐怖もあるのだと思うけど、Nの場合はもう21歳で、糖尿持ちで危ないことも何度もあったからある程度整理がついてしまっているというのもあるのかもしれない。身体が弱かった外出好きの猫で21歳はかなりおじいちゃんだよね。

 

勿論また元気になって欲しいって気持ちもあるのだけど、もうよぼよぼで耳も聞こえなくなっていて、インスリン打ったり色々ボロボロなのもあるから、一時的な回復を願うのも酷なのかもとも思ってしまう。また会いたいけど…

 

猫って感覚的には同居人なのだけど、Nは瀕死で拾われてきた仔猫の時からの付き合いで、僕が日本に居た時は毎晩一緒に寝てたのね、僕の布団が好きみたいで。だから兄弟的な感覚もあって。2年ぶりぐらいに一時帰国しても、喜ぶわけでも素っ気なくなるわけでもなく、いつものようにグルグル喉鳴らしながら膝に座ってくれる。次は会えないかもって、そんなことを毎回思いながらこちらに戻ってくるのだけど、それでもやっぱり帰国の度会えて。

もしかしたら今回もやり過ごしてまた会えるかもしれないから、今は過度に考えたくないのだけど。でも考えちゃう。次も居て欲しいな。また一緒に寝たい。重いし暑いんだけどね。

孤独と溝 から ゾンビの夢 事故のこと 『ミツバチの羽音』

Loneliness does not come from having no people around you, but from being unable to communicate the things that seen important to you.

— Carl Jung

Real loneliness consists not in being alone, but in being with the wrong person, in the suffocating darkness of a room in which no deep communication is possible.

— Sydney J. Harris

 

孤独。何に関してもだろうけど、度を超せば超すほど周囲との溝は深まる。

ただ、その周囲に合わせようとすればいいかというとそうでもないだろう。それができるならそうなってるはずだしね。そこに居なきゃいけない限りは表面的な繋がりの温かさの内側に潜む、深く冷たい孤独を噛み締めるしかない。

伝えないと、話さないと理解し合えないというのは、伝えれば伝わる、話せば分かり合えることが多い人の理屈ではないだろうか。伝えても理解されない、それだけでなく無意識に断ぜられ、否定されることが多い人間が伝えることが億劫になるのはある意味で当然の流れと言えるのではないだろうか。それにも増して、伝わったふり、理解したふり、分かるという思い込みがどれほどの苦痛を生むか。でも残念ながら多くのコミュニケーションはこの方向に向かう。それが予期される限りは自己開示は苦痛への第一歩でしかないのでは?

なんていう思考まで包み隠して人と話していれば幾重にも重なる殻の中の孤独を再認識することになり、コミュニケーションそのものまで苦痛に置き換わっていく。拗らせ太郎。

 

IQマウント合戦とか見ていると、この人たちは一体何を求めているのだろう?って思う。例えば、本当にIQが高かったと言われる人々の味わったであろう孤独を想像するだけで恐ろしくなる。所詮数値化された指標でしかないし、IQってものにそれほど意味があるとも思わないけど、それでもやっぱり抜けている人はそういう顔をしている。マウントの取り合いをしている人達はそうなりたいのだろうか?でもそうは見えない。

 

珍しい能力を持った人、珍しい経験をした人なんかも多分そうだよね。ものによっては。理解されようがないから話すことも出来ないだろうし。

ある種の覚醒と呼ばれるものもそうだろうし、元々持っているギフトと呼ばれるものもそう。良さそうな面ばかりが持て囃されるけど、別の見方をすれば結局呪いでしかない。それが何かを生むこともあれば、人を壊すことだって多分にあるのだし。それはあたかも、薬は毒で毒は薬というのと同じで、表裏も何もなくただ同じものなのだと思う。

 

今はインターネットがあるからそういう人同士で繋がりやすかったりして多少はマシなのかもしれないけど、でもそれは多面の内の一面。そういう人同士で繋がりやすい以前にそうじゃない他者との接触が圧倒的に増えるわけだから。そう考えると恐ろしい。

だからこそ、そんな中である種の人たちが連帯感を求めてまとまるということも理解し得る。でもそれは、すり替わっちゃうんじゃないかなとも僕は思うのだけど。いや、それは僕にとっての話で、それがあるべき姿の人もいるということは勿論わかってるけど。

 

僕は別に孤独の中身を分かり合える、理解されるとも思わないし、誰かの抱くそれを理解できるとも思わない人種だから、同じ前提を持った人との関係が楽かな。開示を求めない関係とか心地いい。そんな中で「寒いね」「痛いね」って、それだけでも分かち合えれば、それ以上のものはないだろうか。それは言葉にするまでもなく何となく察し合ったりするものでもあるのだけど。

 

 

周囲に合わせること。それが選択に無い人間は深まり続ける孤独を味わい尽くすしかないのだろうし、それ自体は悪くないと思う。そうすることで見えてくるものもあるのだろうし、その先に、深い淵の先に価値を見るから孤独と共に生きようと思うのだろうし。

それはそれなんだけど、時々見るゾンビの夢はやっぱりこう、抗いつつもそっちに憧れがあるということを表してるのかなぁとも思う。子供の頃みたゾンビの映画からかな、そういう感覚があるの。

必死に逃げて、でも最後は抗い切れずに噛まれて同じになっちゃう。その光景に自分を重ねて、何かこう、特殊な感情の切れ端がある。仄かな劣情と共に。主人公に対して思う「もういいんだよ」、それを自分に対して言いたいんだろうね。どうしようもないなら諦めがつくし、ある意味では解放なのだろうしね。

 

 

話は変わり。先週の火曜日追突事故に遭いました。片道300kmを往復強行した日の行きの200km辺り。その日は朝から嫌な予感がしてた。道はほんとにボロボロで山道も長く、そのくせみんなスピード出すし日本だと考えられないような過積載車両やらおんぼろがいっぱい走ってる。

追突されたのは丁度保護区の近くだったかな。アスファルトが全面剥がれてて避けれないから減速した時にゴンって硬い衝撃と共に一瞬意識が飛んで、でも何とか察して路肩に上げた。初追突体験だけどこの速度でもやっぱり凄いんだなぁって。暫く朦朧としたし、一週間経った今も軽いむち打ちが残ってる。こちらは軽で向こうは4WDのピックアップ。あの時は僕の前方から何台か連なってたんだけど、多分追い抜こうとしてそっちに気を取られた時の減速で突っ込んできたのだろう。

街から離れすぎてたし、悪そうな人じゃなかったし、修理費は出すって言うから警察は呼ばなかったのだけど、修理云々の話はやっぱり少し面倒くさいことになった。

幸い向こうが指定した彼の友達の修理工が「破損が多くてこれは警察にレポートして保険使わないと直せるものじゃない」って向こうに伝えてくれたから、時間はかかるけどちゃんと対応してもらえそう。ぼったくり修理工が多い中、朝青竜似の気の良い兄ちゃんで助かった。

延期に延期が重なりまだ警察には行けてないんだけど何とかなるとは思う。事故現場がここの管轄外だから相手と話を合わせて警察に虚偽のレポートを出すようにと保険屋に言われてるのが少し気乗りしないけど、まぁ仕方ないね。

今回の学びは、僕は外国人で色々不利だし、すぐ相手に合わせちゃうから気に病むことになるのは目に見えてるし、やっぱりすぐ警察を呼んどくべきだということかな。ドライブレコーダーも着けよう。めんどい…色々翻弄されっぱなしだけどまぁ授業ということで…

 

 

そうそう、昭乃さんの『ミツバチの羽音』はハイレゾ版を買いました。DL版だから発売後すぐ買えて、海外でもすぐ手元に来た。そういう意味では良い時代ですね。とっても好きでもうずっと聴いてる。

『01. ミツバチの羽音』淡く優しい世界に誘ってくれる曲なイメージ。「Ah.. 知識の服を脱いで つつまれる 今 それは少女の 永遠の 眼差し」ってフレーズが好き。

『02. 舟は森を行く』僕の中にある森の夜明けの景色と重なってとっても好き。『レインフォレスト』っていう曲も森を歌ってるけどこっちの方が抽象的な感じで景色が呼び起こされる感じがする。

『03. 金の糸の話』珍しく物語り調。「そして誰も口々に正しさを語り合う」これを眺めてる感じに孤独感を揺さぶられる。どこか救いがない中で愛や祈りにもっていくのがとても昭乃さんな感じがする。

『05. 無言の詩』これもとっても好き。「ためらうように水は流れ」にじんとくるの。

『06. Plastic Forest』深い虚無感に沈みながらそれでも続く世界の神々しさが同居してる感じ。

『08. dream, dream』とても昭乃さんらしい変化球な曲だと思う。とっても好き。ベッドで夢を見てる時が一番楽しいかもしれない僕はこの曲を聴くととても元気が出ます。

『10. tabinosphere』希望や淡い明るさを感じるこの曲が最後にくるのがとても好き。

 

好きな人のアルバムだと全体通して聴くとアップダウンも含めて浸ってとても心地良く過ごせる。このアルバムは昭乃さん色が濃いってことだけど、ずっと一緒に曲を作ってる保刈さんの存在の大きさも同時に感じる気がしました。

やっぱりこう、昭乃さんの曲は聴いている時の感覚に全てが肯定される感じがする。孤独も含めて。ハッピーな曲ってわけでもないんだけど、ほら、ハッピーもハッピーでハッピーの種類によっては僕は否定されちゃうんだよね。無理にハッピーになれる人間でもないけど、自分なりのハッピーはあるわけで。そういったものまで霞の中で包み込んでくれるような感覚。

 

森に帰りたくなる。

泣きそうになる から 感情と動物 鼻うがい 『ミツバチの羽音』が楽しみ

最近なんかすぐ泣きそうになる。相変わらず泣けはしないから、なんかくしゃみが出そうで出ないような感じ。

凄く弱くなった感じがする。変容の先は安定とか、歳を取れば強くなるとか、そういう固定観念があったのかもとも思う。ただでさえ脆いのにもっと脆くなるとは思わなかった。脆いとか弱いも捉えようなのは分かるけど…

 

泣きそうになるのは音楽での感情移入が多いかな。映画とかは最近観てないしね。

音楽に聴き入ってる時よりも聞き流してる時のメロディや歌詞に不意に反応する感じ。不意な時にってことはやっぱり制御してるからなんだろうね。反応した時も、うぅ…ってなった時に即座に切り離されるというか、精神スタビライザーのスイッチが入るように止まるのだけど。やっぱり切り離されるの方が合うかな。プツッと切り替わる感じ。そしてその反応を眺めてる僕自身は置いていかれる。ザ・フラストレーション。動物になりたい。動物?動物だってそう調教されれば感情も抑えるだろうに。偏見。

 

動物の感情と言えば、サドグルが「牛は人にとても近い感情(悲しみの感情だったかも)を持ってる」とか何とか発信していて、なるほどなぁと思ったことがある。僕は人と他の動物が通じ合うとすれば音や動作ではなく、根源的な部分では感情だと思っていて、勿論その発露や知覚という意味で五感に依存する部分は多いと思うけれど、もっとこうトンネル的な通じ合いも可能だと思うし、ある意味でそれがヒトの向かうべき方向性だと思っている部分がどこかにあるので、その言葉には色々感じるものがあった訳ですね。

だってウシだよ?草食で、群れて、仔は基本一頭で、授乳期間が長くて。種の立ち位置としての悲壮感みたいなのもあって、それでも穏やかで悠然とした部分があって、でも怒りや喜びも表現する。

 

精神性を重んじるヒンディの人が牛に学ぼうとする、神聖視して崇める姿勢を維持してきたのはなんだかとても腑に落ちた。少なくとも、豚肉の忌避とかそういった方向性とは違ったポジティブな意識を感じる。

まぁ、僕はこれからも食べるだろうけど、ウシさんと目を合わせる時は意識してみたいな。食べるなら尚更嚙みしめないといけない気がした。

 

有蹄類って何かそういう雰囲気を共有してる感じがあるけど、例えばゾウなんかは気持ちを込めて話しかけると通じるような気がする時がある。若いのや単独のオスはあれだけど、年配の個体なんかはしょうがないなぁって感じに荒らすのやめて帰ってくれたりするしね。大事なのは言葉ではなく、そこに気持ちを込めて表現することで。

 

ただ、人間というのは自己の感情に対して非常にマニピュレーティブだし無頓着だから、意図とは全く別の感情を発していることがあるわけで、動物との関係になるとそれは怖いことかなぁとも思う。相手によっても選ばなきゃいけないだろうし。

例えば自分が気づいていない不安や恐怖が動物を刺激して襲われることもあるだろう。逆に余裕を見せようとして、それが無防備と受け取られることもあるだろう。相手がどう受け取るか、それは相手次第だし、相手に同じものがあるとは限らないし、反射や思考というプロセスも種を隔てれば大きく違うだろう。向こうには向こうの自然があるのだから間違えは起こるよね。それでも相手を騙す習性がある分ヒトの方が難しい気もしないでもないのだけど…

 

近い所で言えば犬と猫は反応する部分が違うけど、彼らは本当によく人の感情を感じ取っていると思う。であるならばやっぱり、まぁ完全な意思疎通となるとわからないけど、より根源的な部分では人と動物は通じ合うことは出来るし、それはこちら次第なんだろうなぁと思う。ある意味ではこれも高速のキャッチボールだしね。伝えること、受けること。控えめに言ってもコミュ障の僕が何を語っているのだろうか…あ、ヒトの方が難しいって自分で書いてた。エンパシーって本来は辛くも煩わしくもないのかもって、動物達はそう教えてくれるのに。

 

鳥になると正直単なるシンパシーなのか分からない時がある。それでもこう、互いに相手に興味を持って対峙してる状況というのは面白い。少なくとも、信頼や安心は生まれるわけだしね。それを単なる慣れと片付けるのも容易いことだけど、僕はそれ以上のものがある気がする。魚までいくと分からないけど。虫はエイリアンだけど、だから面白い。

何でこんなこと書いてたんだっけ。

 

 

話は変わり、最近鼻炎も起きやすいのだけど、今朝もくしゃみ連発でね。こうなると何もできないわけですよね。それで調べてみると鼻うがいってあったからやってみたの。初めて。ぬるま湯に目分量で塩と重曹入れてね。

こんな過敏になってる鼻に液体入れるなんてちょっと考えられなかったんだけど、意を決してやってみると全然痛くなかった。鼻に水入れると痛いのは浸透圧なんだって。だから塩入れれば痛くない。上向きながら漏斗で投入した水が喉側に通るとゴボゴボってなったから、そのまま口から強制排出するとドロドロのが思ったよりいっぱい出てね、想像以上にスッキリした。朝何十回も連発してたくしゃみが止まったの。あ、2回くらいはしたかな。すごいね。

鼻うがい、あと25年ぐらい早く知りたかった。

やってみることは大事ですね。というお話。

 

 

あのね、あと一週間で新居昭乃さんの新しいアルバムが出るの!すごく楽しみ!

「ミツバチの羽音」っていうタイトル。いつもより昭乃さん色が濃いらしいよ。

アルバムリリース記念ライブ配信の視聴チケット買おうかとも思ったけど、ハイレゾ版も配信されるみたいだからそっち買ってもいいなぁと思ったり。

 


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楽しみだなぁ。取りあえず生きよう、生きなきゃって思える。

僕は同じ人の曲ばかり好きになるタイプなのだけど、それでもこんなに何十曲も好きな曲がある人は昭乃さんだけ。合わない曲を探す方が難しいくらい。奥底から好きだし色んな意味で救われる。導いてくれるし包んでくれる。現実逃避の先とかそういうレベルじゃなくて、本当はここに居たんじゃないかって感じがする。もし死後の世界があるなら昭乃さんの歌のような世界がいい。

泣きそうになっちゃう。