感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情のダム 置いてきてしまった自分と今の自分 緊張の種類と必要な安心 お空 Gísli Gunnarsson - Untethered Light

知人が昔バックパッカーだった頃タイでマジックマッシュルーム食べた時の話をしていて、色々と歯止めが利かなくなるから、友達と順番に一人ずつ食べたんだって。

それを聞いて、僕が泣けないのはそういうことなのかと思ったの。

決壊、感情のダム。

中に溜まってるものそのものが怖いのもあるけど、方向性が違ったのかもって。感情の開放、一人で安心できる時に試してたのだけど、そもそも一人の安息と誰かが居る安心は違う。錯乱状態になるかもって分かってることを一人の時にやろうとしてもコントロールしてる側は拒否するよね。その安心は違うのだから。

 

温かい安心感。あの人の、姉さんに貰ったその感覚が浮かび上がるのはそのせいだったんだって思った。身を預けられるその感覚がパンドラの箱の鍵なのだろう。

でもあの人はもういない。代わりはない。一人で再現できるのだろうか。やっぱり怖い。死ぬより怖いことが沢山ある。それが問題。

 

一番困ってるのは、多分その閉じ込めて溜まってる感情の中に自分の一部を置いてきちゃったこと。そうすることで耐えたわけだから仕方ないのだけど、それを続ける限りどこか欠けていて繋がっていない自分を生きていてね。あの頃の比じゃないとはいえ辛いものは辛いんだよね。別の種類の辛さ。

置いてきたのは一部?どちらが一部なのだろうか。僕の方が作り物のような気がしてしまう。だって、あの頃は確かに代わりでしかなかった。大事な方は仕舞い込まれたのだから。何でだろう。それ以前の記憶はあるし、感情だって戻ったのに。繋がってないことがこんなにも。

 

決壊、EMDRっていう療法を受けていた時に一度あった。全部が崩壊したわけではなくて、記憶の氷河の一部が崩れて当時の感情やら何やらが一気に出てきた感じ。一部なのに、本当にパンドラの箱のようだった。フラッシュバックも辛いんだけどさ、こっちは解離して隔離されてた、今の自分には思い出せない記憶ごと当時の自分がバーッと押し寄せてくる感じで、錯乱というか、カオス以外の何物でもない。当時は多分、薬飲んで無理やり意識落としてやり過ごしたんだと思う。今じゃ想像もつかないけどね。

 

生き残るために後払いにした苦痛の負債。そう考えるとまた生きていることを肯定できなくなりそうだけど、体感的にはそんな感じ。

精算しなきゃピリオドが打てない。そんな契約した覚えないんだけどな。

そりゃやったのは別の僕なのだろうし。それで仕舞われたのも別の僕。自我がさ、やっぱり分裂してるんだよね。そんな中でこの僕はその時作られたのか、取り残されたのか、とにかくこの作り物感は起源がそこになっちゃってるからなんだと思う。

 

セラピーとか通わないとだめかな。でもプロだから身を預けられるかってそういう問題でもないんだよね。それに、本当にプロなら触れないという選択肢を選ばせるだろうしね。だって、生活に支障なく生きてるのだから。今の僕は。不自由してるのは過去の僕なわけで。

でもいい加減、自分で閉じ込めておいて迷子だなんて、滑稽だよね。閉じ込めた?どの自分が自分なの?全部なんて言うのは虫が良すぎる。それに、今の僕が本当に僕と言える範囲はあまりにも小さい。別のお皿に一切れだけ移されたピザ。それが僕。

バラバラに切れてるのは別にいい。ただ大切なピースが抜け落ちてるから、一切れ一切ればかりが目立ってしまう。

もう大分見えてるのに手が出ない。少しでも溜め込んだものを外に出すことを望んでいるのにやっぱり怖い。多分レイヤーになっててさ、上澄みはほとんど出きってるんだよ。ここで何年もかけて出せたのも大きい。上澄みが抜けたから中が見えるけど、それより下の沈んでたものはやっぱり重い。だからより明確に怖い。

 

まぁでも何が言いたかったかと言えば、自分でも不思議なほど他力本願というか、「助けて」っていうのが浮かぶ理由が分かった気がするってこと。身を委ねないと解くことができない種類の緊張だから。この時点で正攻法は詰んでるんだけど、じゃあどうしたらいいかってことだよね。

まぁ、そんなところ。

 

久々なのに無修正が過ぎるからお空でも貼って誤魔化しておくね!

 

巻雲がほんとに好きなの。雲はどんな創作よりも自由だと思う。

 

あとこれはこの前夕方停電した時。

電灯のあまりない夕暮れは本当にきれい。停電って好き。困る人も沢山いるのだろうけど、沢山のいつもと違う景色が見える。建物がいつもと違う主張のない影になって存在を主張してる。

 

これもその時撮った写真。

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夕暮れの雲も好き。この星夏の大三角形じゃないし何だろうなぁって思って今調べたんだけどね、冬の大三角形みたい。ここからだとこの時期にこんな風に見えるの初めて知った。

 

上がプロキオン、左下にシリウス、右下にペテルギウスで傾いてない綺麗な三角形になってる。

地球が勝手に動いてるだけなのに場所によって見え方が違うのって面白いよね。

雲とか空の話してると元気になってくる。

 

 

最後に最近知った曲貼っとくね。すごく好き。


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何かこう、深い深い水の中に沈んでるみたいでとても落ち着く。

どの自分が聴いてるのかわからなくなる感じもあるけど、それでいいの。

 

この人はアイスランドの人みたい。何かわかる。この曲が入ってるアルバム"Birds of Pray"っていうんだけど、素敵な曲がいっぱいなのです。

反動と固定観念と圧と結果、そして全体 エネルギー 振り子 均衡と質的な変化

性自認の広がりもその他の自認というものの広がりも、根底にあるものは別として原動力として働いてるのは反動だと思う。社会的な固定観念や圧の中で、それに当てはまらない、当てはまりたくないという自己認識を持つ人たちが別の観念を採用することによるものだから、押し付けられる観念が強くなればそういう人たちが増えるのは当たり前。個人としての揺れ動きがあって、揺れ動きが束になることで社会的に混乱になったりもするけれど、長い目で見れば行ったり来たりしてる。

イデオロギー全般も同じだと思う。反動が原動力になって勢いをつけて反対に行ったりするけど、長い目で見れば行ったり来たりする。

進歩進歩って言うけど何も変わってないじゃんって見えちゃう。

 

そういうのがなんかこう、少し前まではとても不毛に見えてた。今でも不毛に見えるけど、僕の中で少し変わったのは、人間とか社会というものはそういう性質を持ったものなんだとある意味自分の中で認めたことだろうか。嫌だなぁ、どうしてこうなんだろう?って感じてたのが、今は、まぁそうなるよね…しょうがないね…ってなったくらいの変化だけど。でもまぁ、幾分か楽になった気はする。

 

まぁそれは置いといて、例えば性自認の話に戻るとして、新しい自認という側が旧来のものを責めたり、旧来のものが新しい自認を責めてしまうのは仕方ない部分があるのだと思う。自分が当てはまってた枠が崩されかけたりすれば、不安に駆られたりもするのだろうし、嫌悪として感じる人もいるのだろうし、枠と枠による敵味方っていうような、より原始的な感情が支配的になる人もいるだろうし。反発を繰り返していくうちにやがては振り子と同じように落ち着いていくのだろうけど、でもその落ち着きっていうのは長い目で見ればやっぱり一時的なもののようにも思う。

 

人にとってはこういう帰属意識が伴うものというのは、自分の側っていうのがあって、同じか違うかで判断するのが一般的かと思うのだけど、それが一番この振り子的なエネルギーを生むわけだよね。フランス革命が劇薬と言われたりするけれど、それと同じで。ナショナリズムとかも。

そして自分の側がなかなか見つからないと「これじゃない、これじゃない」ってLGBTなんちゃらかんちゃらって色々乱立したり、それが過ぎれば複数のものがクィアといってまとまろうとしたりするわけじゃない?これも葛藤が生むエネルギーだよね。

 

なんだろうな。色んな概念が乱立する中で否定と肯定があって、認めようじゃないか、やっぱり何かに反してるのじゃないかってごちゃごちゃ混乱があるわけだけど、大事なのは本当にそこなのかな?って思うんだよね。さっき出たように、どの運動も反動があって、いろんな流れが起きるわけだけど、どの運動も、例えば戦争の引き金になるような国対国のものであっても、スポーツファンの衝突であっても、イデオロギー闘争であっても、社会の中の自認というものであっても、エネルギーの流れとしてみればとても似通ってると思うのね。

で、多分これを自分の中でまとめたいが故の前書きがここまでなんだけど、何が書きたかったのかといえば、どちらかの側に縛られた当事者の視点で争うのはまぁそれはそういうものだとして、まず見えなくてもそこに『反動』があると仮定して、最初に書いたような固定観念や圧というものを含んだ全体を意識してみたらどうかってことを思ったのね。そうすればこう、敵っていう風に思っていたものの見え方も変わるだろうし、自分の側って思っていたものも見え方が変わって、質的な変化になると思う。

大事なのはその変化であると捉えるなら、劇薬や混沌も少なくて済むし、省エネで変化も早いでしょ?劇薬が必要ないとまでいわないけど、傷が大きいだけ根深いトラウマになるのは個人であっても集団であっても変わらないとも思うのね。

 

様々な運動が複合的に起きるわけだけど、大枠で見たら揺れ動くのは変わらなくてさ、結局いつかはある位置に落ち着くんじゃないかとも思ってね。例えばイデオロギーとして広められている多様性にしたって、今までの同質性強要の反動で大きく左側に動けば、そこでまた右に大きく動いて(多様性など要らないという)、ある意味でバランスを取ろうとする。そしてまたそこでという具合に、力が強いほど逆に時間がかかるのではないか。ヘイトをあまり生まないやわらかい運動というのはそういうごたごたも少なく済む。

仮にそうなら敵ばかり見てヘイトを大きくして争いを繰り返して、暫くしてからふとこうだったんだって全体を意識するまでもなく、反動やその原因、結果を含んだ全体を先に意識できれば、そして自分の位置を自己認識できれば、結局はそのエネルギーが目指す均衡の位置に早く辿り着くんじゃないかとも思うの。

そして均衡っていうのは、疲れか何かで全体を見渡した時に質的な変化が起きるもので、程度はどうあれ今より枠の外側から見れている状態だとも思う。

それが多ければ多いほどヘイトは少なくなるし、ということは必ずしも運動にヘイトは必要ではないのだろう。大事なのは何がヘイトを生むのかということ。ある意味互いがヘイトを深め合ってる状態というのは互いに敵味方という感情に縛られ、幻想を見ている状態ではないだろうか。双方の外側から見た状態では。だからより省エネで実効的な運動を目指すなら、反動や全体を意識して、互いが互いを俯瞰できるように持っていくのがいいのではと思う。(なんてことをいがみ合ってる当人に言っても変に刺激しちゃうから気を付けなきゃいけないけど)

 

勿論そんな簡単なことではないから人は憎しみ合うのだし、憎しみが何かを生むことだってあるのだし、それも含めて人間なのだとは思うのだけど。

 

なんてことを今日年齢自認だか何だかっていうのを読んで思ったのね。

自分をどこに置くかによって見え方が変わる問題だと思う。僕はそもそもAge Fluidity とかInner Ageとかってものに触れてて、自覚的に肯定側なんだけど、否定側はどんな人たちなのかとか、肯定側はどんな人たちなのかとか、反動の手前にある圧は何なのかとか、全体的にはどういう動きなのかとか、そういう風に眺めていると、肯定も否定もそんなに必要なのかなと思ったのね。圧の部分を社会がどう捉えるか、そこから始まる流れにどう均衡を与えるのかって話だと思う。自分の『側』も相手の『側』も単なる観念なわけだけど、『側』がある限りある種の感情に無意識的に引っ張られる。その状態で語る理性はやっぱりかなり曲がって見えるわけですよ。別にいいんだけどね。

 

 

はい。

取り敢えず忙しいのが終わったけどお客さんが来てるからまだ休まらない。来週はゆっくりしたいなぁ。

最近熱波で熱いんだけど、毎朝巻雲が綺麗なの。雲を眺めてる時は生きてる感じがする。

4年 から 時間 合理と非合理 「海が綺麗になりすぎたからアサリが激減」 Akon - Right Now (Na Na Na)

ここを始めて4年経つらしい。早いなぁ。こっちに初めて来た時に小さな子供だった子がもう子供いたりするからね。びっくりだよね。

昔やってたブログも4年ぐらいはやったのかな。4年前を振り返ると本当に切羽詰まってた。今の状態は4年前の自分からは想像できないだろう。今は切羽詰まってはいないんだけど、なんだろう、うーん。虚無感は抜けないなぁ。周りに対しては完全に傍観者になってしまった。それはそれでいいかなとも思うのだけど、うーん。

まぁでも8年前の僕からは4年前の僕は想像できないだろうし、12年前の僕からは8年前の僕は到底想像できないんだよね。色んな意味で。ということは4年後もこうやって思い返してるのだろうか。

 

子供の頃よく思い浮かんでは怖かったのが、気づいたら自分が既におじいちゃんになっていて、縁側かどこかに座って昔のことを思い返してるんじゃないかって。その不可逆の向こう側から眺めてる側が自分で、今の意識はただの思い返されてるものなんじゃないかってことでさ、それってある意味今やってるのと同じことだよね。

何かを思い返すとその時の記憶と今の意識が直通するせいかあっという間感がすごい。だから思い返した昔の僕から今を眺めようとするとそのおじいちゃんの自分っていうのが必然的に現れるんだと思う。そんな長生きする気もあまりしないけど、それは置いといて。実際は1秒1秒が苦痛に感じてた時期だって沢山あるのに、時の流れが怖いって何か贅沢だよね。

 

不可逆とか時の流れとかって書いてるけど、小学生ぐらいの時にちょこっと見たターンAガンダムでは西城秀樹の歌うオープニングで「時が未来に進むと誰が決めたんだ」ってフレーズがあってさ、そうかもなぁと思うこともあるんだよね。調べたら「刻が未来にすすむと 誰がきめたんだ」だった。まぁいいや。

 

そもそも時間って何だろうって考えた時に、僕はあんまり直線的な観念は持ちたくない思いがある。時間に形を与えて捉えるってなんか違う気がするんだよね。計測した結果が線になるだけなのだから。流れとして捉えるのもどうなのかなと思う時もある。だってそう捉えたら自分が流されないといけないじゃない?

まぁ単純に縛られたくないだけなんだろうけど。人が勝手に観測して在るって言う、従わなきゃいけないっていう時間ってものに。ただ朽ちていくのと線の引かれた中で朽ちていくのは違う気がする。後者は無意識のうちに線に合わさってしまう。

時間だって16時だから太陽があそこにあるっていうのと、太陽があそこにあるからもうすぐ夜になるっていうのは違う。23時だからもう寝なきゃっていうのと眠くなってきたから寝ようっていうのは大きく違う。2月だからもうすぐ春っていうのとフキノトウが大きくなってきて風の質感の変化が春の訪れを告げてるっていうのも違う。でも数字があると便利だからそちらに自然と思考が合わさってしまうのは、それだけ時間(数字を伴った時刻も流れという捉え方も)やカレンダーという発明が素晴らしいということなんだと思うけど、何かを得れば失うものがあるじゃない?僕にとってはその失うものが大きいのかなと思う。

それだけ、ほぼ時計を見ずに過ごしてたジャングルでの7年が大きかったんだと思う。

 

失う。もしバーターではなくて、双方を自分の中で共存させられるとしたらどうだろう。でもそれを難しくさせるのがやっぱり数字の力なんだよね。混じったらそれが支配しちゃう。それだけ強い。合理的なんだろうなぁ。

そう、合理的。でも非合理が別の部分から見たら合理だったりするわけじゃない?いや、そもそも合理にもっていかなくてもいいじゃない?だから時が未来に進むという合理的な観念にも疑問を抱くわけだよね。こう言うと非合理主義っぽいけど。理では把握しきれないっていうのが僕にとっての理でもあるし、理が阻害しているものに価値があるというのも別の理だしね。合理であろうが非合理であろうが色んな理(でなくても)が曖昧に漂ってる方が好きなんだけど、って何の話してるんだろう。そもそも合理がその形で在るから非合理との二元的な土俵をですね…

時間って概念も観念も我が強いんだよね。補助的に使えればいいのに、気づけば基準になってしまってる。難しい。まぁいいや。

 

 

そういえば「海が綺麗になりすぎたからアサリが激減」ってニュースをチラッと見かけたけどさ、こういうのってどうなんだろうね。下水処理でアサリが減ったという主張ありきで色々単純化しすぎた記事感。

下水の窒素やリンが養分になってるのは間違いないのだけど、そもそも森が無いか緑の砂漠状態で、更に護岸工事やら何やらで河原の植生も氾濫もないから窒素やリンが枯渇してるっていうのがあるわけじゃない?アマモなんかの海藻も激減して沿岸域の海底こそ砂漠化が深刻で有機物は減ってるじゃない?生息域の干潟も激減したし、生態系も破綻してるし、乱獲で稚貝の放流しないと成り立たないのが今のアサリでしょ。そもそも綺麗って何だろう?砂漠が綺麗っていうなら綺麗なんだろうけど。いやまぁ砂漠が綺麗なのは否定しないけど、人間活動による砂漠化はどうなのだろう?砂漠化した土地を見て綺麗って言うのはちょっとなぁ。陸の森林だってまともに保全や再生ができない社会がそれ以上に難しい海底の森を再生するなんて不可能に近いと思うけど。っていうのは置いといて。

確かにそこで有機物が下水から流入するから一定のプランクトンは発生はするわけだけど、いかに愛知県内とはいえ下水による影響なんて環境や人口によって場所による違いがありすぎて一般化して評価なんてできないわけじゃない?それをこの見出しにするのはいかがなものかと思った。別に取り組みが悪いとか言うわけじゃなく、見出しも酷ければ記事の内容も色々すっ飛ばし過ぎてて雑過ぎる気がする。ニュースは何もかもがそうだけど。

まぁニュースが悪いと言う気もないけど、情報社会っていうのは色々難しいよね。SNSどころか色んなものが人類には扱いきれないんじゃないかとよく思う。別にいいんだけどね。ただただ隠遁したい。

 

 

そう、あとAkonの”Right Now (Na Na Na)”って曲があってね、久々に流れたの聴いたんだけどやっぱり好き。

すっごいどうでもいいんだけど

Akon - Right Now (Na Na Na) (Official Video) - YouTube

↑この動画のyoutubeの自動生成英語字幕さ、"I wanna make up right now na na"の部分が”♪ I WANT TO MAKE LOVE RIGHT NOW NOW NOW ♪"になってて、官能を伴ったノスタルジックな後悔、切なさ、虚しさのミュージックビデオなのに「エッチしたい」って連呼してるただのエロ坊主みたいに見えて笑える。そのへんてこ字幕でも妙にマッチしてしまうビデオにそう聴こえてしまう歌で成り立ってしまうのがなんか可笑しいし、実際の素敵なMVとの対比が酷すぎてほんと面白いから英語の自動生成字幕オンにして見てみて!

 

 

あー、あと4日頑張らなきゃ…お仕事やだなー。

自分たちの連休使って出張に来てくれるのは有難いけど、こっちも祝日に週末なんだよなぁ…えーん。

私 から Alan Wattsの受け入れやすさ 二元と拡大率 僕の中の我が強い僕

私、個、自分、我、この数年の変化の中では軸だったもの。二元の外からの見方というのが自分の中で自然になってきてから漠然と、内外という二元、自他という二元を思うことがあった。内外の方は比較的早く今の自分なりに腑に落ちた。内面から外を見るのも、外から内面を見るのも結局鏡を隔ててるっていうだけで同義だし、内側のために外側を重視するのも外側のために内側を重視するのも、結局視点が片側だけに偏ってるからそうなるだけで、なら双方をひとまとめにして一つ外から見てあげれば「どっちでもいいしこれでいいんだ」ってなる。結局のところ外に見る争いなんかを見ると、なんで同じ感情をぶつけて争っているのだろう?っていう虚無感に近い疑問を抱くものだけど、それと同じことが自分の中にも起きているということでいいのだと思う。

 

でもこの知覚の主体としての自、その外側の他、これは上手く踏み込めずにいた。いや、正確に言えばひび割れは生じてた。僕は色々あって自分の中に自分が沢山いる感覚がある人間だから。でもその自分の中の自分たちを見る基準はやっぱり自だった。だからそれぞれの自分の視点を転々とする感じ。

今回ワッツに触れてそもそも私、自分というもの、その観念が思い込み、刷り込みなのではないかと思うようになった。少し前の僕なら拒絶していた捉え方だろう。個を基準にしていたから。逆に今は「あ、こっちでいいな」って感じる。淡い安心感。ということはこの捉え方の土台は整っていて、待っていたのだろう。アラン・ワッツ、前は惹かれつつもどこか拒絶があったんだよね。今は大丈夫。

 

すごく関係ないんだけど、この人本当にいい声してる。youtubeにある講義の録音とかいくらでも聴いてられる。発音も聞き取りやすい。運転中に聴いたりもしてる。

 


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同じようなことを語る人は多いけど、彼の話は僕にとって特段理解しやすい。というのは多分、自然科学のようなベースの上に話すからだと思う。それと、Magnificationって言葉をよく使うけど、どれも見方、捉え方の違いという考えが根底にあるのがとても合う。だから捉え直せるように語ってくれてる感じ。

例えば、精神世界があるっていう前提で話す人は精神世界がないという捉え方を内包できない。でも様々な違いがある中でそれらをひっくるめた視点ではどう捉えられるか、それを提示してくれる感じ。

 

それはワッツが西洋文化の中に育ちながら、東洋思想を学んだという経験からくるものだろう。僕のように完全に物質的なものの見方で育ったけれど、そうでない見方を学びたいという時が来た時に、非物質的なものを重視して物質的なものに否定的な視点を学ぶのは難しい。彼の場合は物質的なものを例えとして非物質的なものを見る捉え方を語ってくれたり、どうして物質的な捉え方ではこうなるけどその限りではないのかという部分を話してくれるから僕のような人間には受け入れやすいのかもしれない。それは双方の視点を持ち合わせている彼だからできることだろう。(極端な話、二元の統合ってそういうことでもあると思う。)

『私』についてもそう。どうして僕らにとって『私』というものが自分そのものだと感じられるのか、そこから語ってくれる。その限りではないということも。

 

ユングが与えてくれたのは潜水艦的な視点だけど、この人は本当に人工衛星的な視点をよく使う。より外側から見た、色んな拡大率の私、我々という私、一部としての私。その中で今自分が私だと思っているものは固定観念ではないのかということ。

言っていることはよくわかるし、確かになぁともすごく思うんだけど、だから死も取るに足らないんだよって言われると、いや、そういう捉え方もできるけど、この僕にとっての死はやっぱりこの僕にとっての終わり感がどうしても抜けなくて、自分の中でそこを行ったり来たりするのがとても面白い。僕僕ってじゃあ君は誰なんだよってなる。双方向から。この我が強い僕は融和できないんだろうか。なぜそこまで知覚の主体としての感覚にこだわるのか。それは多分、それがあるからこそ自分だと思っているからで、それが無くなることに対する不安なのだろう。でも仮に無くならないとしたら?って考えてもすぐそれを誰がどう証明するの?ってなる。難しいね。そもそも我が強いの我ってなんなんだろう。我の意味は分かるけど、自分の中で我が強いとして出てくるのはなんでなんだろう。

 

私と他者、周囲っていうのも面白い。僕にとっては非常に大きなテーマ。色々面白いけど、まだうまく書けない。もう少し深めたい。

 

 

もうすぐラマダンが明ける。まだ数日あるけどこちらはもう祝日モード。

静かに過ごせれば一番なんだけどなぁ。中々そうなってくれない。

えーん。

縁が切れたこと 自己開示の難と"Poetry is untranslatable" アウトプットのフォーマット "Everything"

んー、一人縁が切れた。と言ってもその人が友達なのかと問われると微妙なんだし、寧ろ肩の荷が下りた感じもある。

僕は前々から気づくと相談相手みたいなポジションになっちゃうことが多い。お節介する気はないんだけど放っておけないっていうのもあるんだよね。自分が色々あったからなのか、近しい人をそれでなくしたからなのかは分からないけど。

この人は割と長くやり取りしてた人だけど、僕が自己開示することはほぼなかった。でも向こうは自己開示するから一方的に色々知ってたけど。そんなにこう、僕はやり取りしたいなと思ってたわけでもないんだけど、なんだろう、結局放っておけないからやり取りしてたってことに尽きるのかな。

それが結局負担になって、暫く放置してしまっていたら居なくなってた。正直ほっとしたのが一番先に来た。放っておけないっていうのは心配だからっていうのはあるんだけど、あんまり頼って欲しくもないんだよね。必要な時は頼ってくれていいけど、僕は結局自分ができるのは見ていることだけだし、そこで自分で立ち上がれる人じゃないと精神的に近くなれることはないんだと思う。手は貸すけど、貸した手を頼りにされると何かこう、やっぱり、僕と同じ孤独を持ってる人ではないなってなるのかな。

別に引きずってるわけではないと思うけど、20代の初めに年下の子とお付き合いしてた時と同じ構図だなぁって思った。この人とは付き合ってたとかではなくて、ただ好意は伝えられてた感じ。僕は話し相手以上に思ってないから、そうなんだねって流してた。別に好きと思ってくれるのは向こうの勝手だしね。

 

ほっとしたのは多分二重の意味なんだよね。肩の荷が下りたって意味と、ちょっぴり申し訳ないと思いながらもその決断をできる強さがあるなら大丈夫だろうっていうのと、僕から切らなくて済んでよかったというのと、三重だね。その強さがあるなら大丈夫だろうっていうのは別に上から目線じゃないと言いたいけど、ポジション的に保護者的な目線も混じってるから多分上からでもあるんだと思う。元気に生きてくれるといいなぁ。

 

自己開示、この人に限らず僕が自己開示することってあまりない。通じると感じる相手には話すけど、そうでない人には全然自分のことは話さないから。話せないわけでもないけど、話す意味が見当たらないという感じだろうか。そして今は通じると感じる幅がどんどん狭くなってるから、もっと独りになっていくんだけど。

 

伝えてさ、違う意味で受け取られても困るし、大概そうなるし。気持ちのままに話すと大抵誤解される。でも偽って話したくないじゃない?誤解が怖いわけでもないんだけど、あ、伝わってないなって分かるから、うーん…ってなる。

受け取り方は相手次第ならそれでもいいのかなとも思ったけど、誤解はやっぱり違うんだよね。だって発したものが受け取られてもいないのだから。

 

じゃあこっちのアウトプットの問題なのかなとも思うんだけど、そういう言葉って翻訳しちゃったら別物なわけですよね。タルコフスキーがノスタルジアの中でアンドレイに言わせた"Poetry is untranslatable, like the whole of art."と同じ感覚だと思う。僕もこの映画を翻訳でしか観れないのがまた滑稽なわけだけどね。

それは置いておいて、別に自分のこと、特に内面のことをPoetryとして伝えたいわけじゃないんだけど、Poetryが何故Poetryとして存在しているのかと言えば結局はそういうことなんだと思う。そう表現するしかないから生まれる。情景であったり感情であったり(極端な話自分が知覚した世界全ても言語のフィルターを外してしまえば)、個々が共有していないものを自分の知覚に忠実に表現するには、受け手に受け取り方を委ねるしかなくなってくる。

別にPoetryを伝えたいわけじゃないけど、言葉の型枠にはめてしまえばもう別物って感覚があるし、それを発すれば嘘って感覚もあるから、極力フィルターを弱めて感覚に根差した言葉のまま発したくなるわけだよね。選り分けたり組み立てたら別物だから、型枠にはめてクッキーの形にする前のバラバラの状態を発したくなる感じ。それをコネコネして綺麗に何かを造り上げる人もいるけど、僕はそれをしてるとどんどん別のものになっちゃうから。ぐっちゃぐっちゃなものを見てるから綺麗にしたらやっぱり嘘だし。

これはさ、その傍ら、型枠に綺麗にはめることができる自分が居るから認識することでもあるのだけど。でも彼にはもう論文とかそっちを任せればいいわけでね。

 

要するにフォーマットなんだよね。自分なりのフォーマットで発するとなんか別の形で受け取られる、でも別のフォーマットにしちゃったらなんか自分の見てるものと違うって。

アーティストならそれが創作の源泉にでもなるのだろうけど、僕は別にアートを作ろうとも思ってないし、そんな気力や努力する自信もないから、かといって伝わる形にできない頑固さから何とも言えない孤独感に苛まれてるだけなんだろうね。うーん。

そもそもなんで伝わらないものを伝わらないと諦めきれないのだろう?そっちだよね、多分。最初から最後まで孤独が当たり前だと割り切れれば、いや、腑に落ちていれば、こんな感覚は生まれないだろうに。温かさなど知らなければ…って思ったけどそれもそれで寂しいや。

 

steamで大分前に買ってあったEverythingっていうゲーム、やっとダウンロードしてやってみたけどすごく良かった。


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オープンワールドでただひたすら目的もなく探索するゲームはいっぱいあるけど、このゲームは視点を大きな『もの』、小さな『もの』にどんどん移動することができるところが新しい。しかも原子から銀河まで。簡素だけどどこまでも美しく、何とも言えないワクワク感とリラクゼーションを感じられる。自分で好奇心に任せ操作していってもいいし、オートプレイを眺めててもいい。

ゲーム中色んな思考が現れるだけでなく、なんとアラン・ワッツの講演がナレーションのように流れる。アラン・ワッツとゲームという何とも言えない異色な組み合わせなのに、偏見を捨ててみると異色でも何でもなく完全に融合してる。講演を耳だけで聴くのと、視覚も合わせた(しかも調和した)一つの世界として感じるのでは破壊力が全然違う。

人間の視点、自分の持つ通念による呪縛というものが自然と解けていくような、そんな感覚を味わうことができるゲーム。どことなくせがれいじりを感じるのは、せがれいじりがおバカで通念の外側を攻めてきたからで、Everythingはおバカではなく真面目に『視点』で通念の外側を攻めてきてるからなのだろうと思う。

 

まだ1時間しかやってないけどなんかすごく感動した。上に書いてたこととかどうでもよくなる。

なぜか日本語がサポートされてるしPS4もあるみたい。人は選ぶかもしれないけどとってもおすすめ。

 

僕ワッツは敬遠してた部分があった。っていうのは彼の思想的に感情を否定的に捉えてる部分があると感じてたから。でも今回彼の語る世界、特に物質や視点、存在、意識についてとても惹かれたから、部分的にでも得るものがあるような気がする。タイミングもあるのかも。本買ってみようかな。

 

 

あ、そうそう、鳩君は足が地面に着けるようになった。

元気も出て早く外に帰りたいみたいだけど、羽が直って飛べるようにならないと離せないや。

鳩のこと トラウマ関係 解離と繋がってないこと "Color Me Blue" Akane

鳩を迎えてしまった。一時的にお世話してるだけだけど。

お仕事で見回りに行ったら怪我してる鳩がいてね、飛べないの。幸い大きな怪我は片脚以外にはなくて回復が望めるけど、両翼の風切り羽はボロボロというかかなり抜けちゃってるし、尾羽もほぼ無くなってるからしばらくは飛べない。脚も片足使えてないから、放っといたら確実に猫かミズオオトカゲにやられるなと思った。あそこ猫多いから多分一晩持たないと思う。この怪我は猫じゃなくてミズオオトカゲだろう。羽根が綺麗に切れてる部分があるし、あの状態じゃ猫からは逃げきれないだろうし、猛禽だとこうはならない。

持ち帰ったのは可哀想とも思った部分はあるけど、僕は結構薄情だから、見捨てられなかっただけなんだよね。だって治る怪我なのに、放っといたら確実に食べられちゃう場所だと理解しつつそこに置き去りにしたら間接的に僕が手を下したことになるじゃない?野生の出来事と割り切ればいいのだろうけど、そもそも市街地の環境っていうのが野生と言い切るには無理があるじゃない?特に猫はさ。

そんなことを考えてると、放って行ったら後悔するなと思ったんだろうね。怪我をした鳥って僕にとっては引きずってるトラウマもあるから、それもあるのだろう。重ねたのかな。身勝手なものだよね。贖罪したいとかでもなくてさ、単純に後悔するのが怖かっただけなんだと思う。うーん…

この子はパンが好きでしっかり食べてるし、まぁ大丈夫そう。時間はかかるだろうけど。

 

あの時以来、生き物を飼う時に精神的に近づき過ぎないようになってしまった。意図してるわけじゃなくて、結局同じことが起こるのが怖いから近づくとセーブがかかるんだと思う。逆に言えば、だから割と淡白でいられるんだけど、自分の何かを置いてきちゃった感があるんだよね。でもこればっかりはどうしようもない。向き合ってどうこうするにも大き過ぎるし、もの凄い圧力を感じる。自分の中に、よくあんな中にいたなと思うような空間が出来上がってる感じ。逆に今の僕がそこに後戻りしたら持たないと思う。

誇張でも何でもなく、ほら、フラッシュバックで突然何年も前の出来事に引き戻されて死んじゃう人いるでしょ。そういうことなんだと思うんだよね。ある意味、心を殺してるから耐えられるって状況は多々あってさ、でもそれって体からしてみれば逆で、精神が耐えられるように殺してるんだろうけどさ。それを平和の中で開いた感度全開の体で受け止めたら持つはずがないんだよ。

的なことを何となく察知してるから、色々過去のトラウマなんかも向き合ってきたけど、これは触れようがない感がある。でもこうして内側の触れることのできない空間の大きさと悍ましさを目の当たりにすると、今まで向き合えてきたことっていうのは些細なものだったのかなという気もしてくる。一つの出来事ではないし、色んなことが連なった数年単位のものだから。

 

置いてきてしまった感ってさっき出たけど、多分それは解離も関係してる。切り離された自分。心を殺すっていうのも色々あるんだと思うのね。ヒステリーとも言うけどさ、電源を落とすようなものもあれば、切り離される場合もあるし、鈍化したような状態もあるし、色々。

もう18年前かな、あの時確かに自分を上から見下ろしている自分がいて、下にいる、生きている自分は人形状態だった。数年を経てそういう状態も徐々に減ってなくなったけど、やっぱりそこから、それより以前とは繋がってるようで繋がってない感じ。記憶はあるのに、何か繋がってない。今だって色んな自分が自分の中にいるのも、泣けなくなったのも、その時が発端なのかもとも思う。それはそれでいいやって思うようになってるけど。うーん。

 

虚無感というかこの消化試合感はサバイバーズギルトもあるし、自分が生きていることが腑に落ちてないのもあると思うけど、自分が線で繋がってないのも大きいのかなとも思う。そうなるとあの悍ましい部分に踏み込まなきゃいけないってなるけど、もうしょうがないのかなとも思うんだよね。そう思いつつしょうがないと思いきれてないからこうやってうだうだ続いてるんだろうけど。

ずーっとこうやってて、確かに変化はあるのだけど、外の世界にはやっぱり興味があまり向かないんだよね。楽しいと思うことも沢山ある。あるんだけど、結局この慢性的な感覚に引き戻されて、いろんな分からないことが気になってしまう。何から何まで分からない。こと自分に関しては。だから迷子感なのか。

こういうことでも話せる相手がいればいいのだろうか。でも通じるはずがないしね。なら話せても孤独は深まるよね。ただでさえ凍えそうなのに。

 

寂しがり屋ってわけでもないと思うんだけどね。独りでも平気な方だし。でも何でこんなに寒いんだろう。僕は何を求めているのだろう?うーん。

 

だめだねぇ。締めに明るいこと書こうか。うーん…

あ、そうそう、友達に彼女ができたらしい。去年前の彼女と別れたって落ち込んでたから良かったねって思った。ラインで時々やり取りするんだけど、最近反応が鈍くなったからそうかなぁとは思ってた。楽しく過ごして欲しいよね。

はい、明るい話題。

 

そうそう、もう一曲ここ2カ月くらいよく聴いてた曲があってね、すごく好きなの!


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ほんと好き。何て言うんだろう、すごくしっくりくる曲。青の深い優しさなの。

再生数多いしかなり人気なんだと思うけど、調べても作者さんの情報が上手く見つからない。どういう人なんだろう。すごく気になる。もっと触れたい。

 

聴きながら書いてたら元気出た。やっぱり音楽を聴いてる時は色が蘇るね。

接し方と関係性の変化 諦め Cicada - "棲居在溪源之上 (Seeking the Sources of Streams)" キャベツの千切りブラックソルト&マヨネーズがけ

おひさ!

忙しい一か月がようやく終わった…

苦手なタイプの人と接するのは大変なのだけど、接し方を変えてみてから関係性も少しずつ変化してる気がする。コロナの時期は正直この人との関係はもういいかなぁとも思ってたのだけど、今くらいの関係性なら苦も少ないしまだまだ学べることも多いかなと思う。ただ僕が消耗するのは変わらないから、そこは頭に入れておかないと気づいたときには気力が吸い取られてる感じになっちゃうけど。

 

接し方を変えてみたのは、この人との関係はもういいかなって思ったからだった。縁が切れたら切れたでそれでいいや、というかどこかで向こうに嫌われれば距離が離れるかもっていうのを期待しながら、少しストレートに物言いをするようにした。これは多分頭で意識的にやってもダメで、無意識的に関係を維持しなきゃいけないって思い込んでた部分が崩れたからこそ全体的に僕の態度の相手に対する向きが変わったんだと思う。縁が切れてもいいというのは、ある意味関係に対する諦めに近い。

「しょうがないなぁ」って気持ちで頼まれたことやってると気づいたら色々やらされるってことが多かったけど、「何で僕がそこまでしてあげなきゃいけないの?」って感情を少しずつ露わにさせて応対してると向こうは珍しく下手に出てきたりもする。それが何か面白い。

 

よくよく考えれば、僕は自分の感情を抑えすぎるところがあるから、それを相手に読めと言っても無理なことなのだろう。マニピュレーティブな人はこちらが抵抗しない部分につけ込んでくる来るのもあるけど、こちらがそれをする隙を与えてるという部分もあるのだろうなと思った。

意識的に出してやらないといけないから、どこまでやってもポーカーとかのブラフ感が消えないし、なんか滑稽に感じてしまうけど、表現の練習みたいな感じで少しずつ出しながら向こうの出方を窺ったりしてた。それが何か、今回は結構思うようにいった。

 

そこを突いたら身を引くよ?別に僕はそれでいいよ?って空気を出しておけば少なくとも上に乗る隙は与えなくて済む。そうしているうちに完全にではないけど、以前よりは対等な関係性になったから、今は新しい見方でお互いを見てるのだろう。そこで改めて思ったのは、僕がやられて嫌なことをやられてもこの人は嫌と感じないということ。寧ろあえてそれをやってみると好意的に受け止めてきたりする。この人はこういう風に世界を見てるんだなっていうのが、前よりもはっきり見えてきた。

 

一時期はこの人との違いが苦痛でしかなかった。でも今は、接していると確かに疲れるし消耗するけど、面白いなと思える部分も多々ある。

でも暫くの間はもういいや…ちゅかれた…

 

 

あとこれ、すごく好きなの。


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Cicadaの曲はどれも好きなのだけど、この曲が入ってる新しいアルバム『棲居在溪源之上 (Seeking the Sources of Streams)』が本当に素敵。その中でもこの曲は特に好き。語彙がなくなるほど好き。

これアルバムのプレイリスト。

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アルバム全体を通して山をゆっくりと歩いてるようなストーリーに包んでくれる。それぞれの曲もストーリーを語りかけてくる。そしてそれが表現している世界が本当に好き。

 

車で聴いてるといつもの辛い殺風景の中に木々が現れて空気の質感まで変わるような感じ。こういうのってあれだね、現代に生まれて良かったと感じる数少ない瞬間。

音楽に守られて生かされてるんだなぁと感じるね。

 

早く森に帰りたい。そればっか。

こういうこと考えてるとおセンチになっちゃう。

 

 

あ、そうそう、キャベツを粗めの千切りにしてブラックソルト(fine)振りかけてマヨネーズ少しかけて食べるととっても美味しいよ!名付けてキャベツの千切りブラックソルト&マヨネーズがけ!手軽で美味しくて毎食食べれる!真似していいよ!