感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど。主観の瞬間的垂れ流し。

自己矛盾のマトリョーシカ

なぜ生まれてきたのか、なぜ生きるのか、この常態化した疑問がいかに捻じ曲がった回路が生み出しているのか、ということ。

しかしそれは最早珍しいものでもないのだ。

 

生きる意味の喪失は、そもそも意識する必要もない生きる意味なんてものに迷わなくてはならないのは、集団の中でいかにそれが求められているか、ということに起源がある。そしてそれを完全に断ち切ることができていないのが僕なのであろう。

フィットイン出来るのであればそう生きればいい。でもそうでもないのにどこかで縛られているから、宙ぶらりんのまま足が付かず、満足に息をすることも逆に窒息することもできず、灰色の未来を数えるのである。

 

ミスフィットならそんなもの捨ててしまえばいいのに、何故それを拒否しながら這い蹲るのだろう。

責任?ではなぜそれを全うすることに全力にならないの?なぜどれに感謝できない?

ほら、従いながらも「何が責任だ」と思ってる。

お前はマトリョーシカだ。どれも違う顔をしている。色すら違う。我が強く裏で舵を取りたがる。

仲良くなれないのなら、片方が死も降伏も選ばないというのなら、せめてこの体が二分できればまだまとまるだろうに。

順番に主張してくれたのなら、交互に操舵してくれたのなら。

 

何故いつも同時に逆のことを言うの?いい加減にしてくれないとおかしくなってしまう。誰が?僕はなんなのだろう。

彼らの個々であり、彼らのまとまりの一部であるフリをしながら、単なる隙間なのかも知れない。

 

知覚の束と言った人がいたね。その相反した価値観を持った束はひとまとめにするべきではないのに。

でのそれが相反してしまうのは、外側の別の知覚が大きな因子になっていて、それを意識するとますますわからなくなる。

それは、ある眼鏡を通すと噛み合わないルービックキューブが揃うのだけど、でも眼鏡を外すとぐちゃぐちゃ、というような関係性なのである。

で、どれが答えなの?答えはきっと、ルービックキューブの面の色ではなく、全体をそのものとして見ることであろう。究極的には、色が意味を持つルービックキューブなどというものではなく、何か単に良いものである、という見え方だろう。

 

でもそれはまた無い物ねだりだね。

分かってるけど、それは君が野次を入れるくらいしかできないぐらい相対的に力を落としたということかも知れない。何が無い物ねだりだ。

 

お家に着いた。お散歩はやっぱり大事だと思う。

 

 

全体として矛盾したマトリョーシカも、別々にしてあげれば矛盾はなくそれぞれ全うなのである。

しかし僕は、そのそれぞれであると同時に全体であって、だから矛盾したマトリョーシカなのである。

でもそれが矛盾するのは、飾る場所を間違えているからかも知れないけれど、そこに飾られる「べきだ」と一部のマトリョーシカがマトリョーシカとしての責任を主張する。

 

でも本当にその責任は責任なのだろうか。そう思い込んでるだけだろう?とまた別の一部が主張する。

矛盾した束と束。

 

で、この知覚の束は何故生きるの?(振り出しに戻る)

間合い

何でオフィスに行くとこんなに疲れるのかと考えていた。 もうなんかその場にいるだけで消耗するから、仕事とか関係なく時間まで耐えると達成感すら感じる。

 

僕は多分常に間合いをはかってるんですね。

パーソナルスペース云々の問題ではなく、会話だけの問題でもなく、例えば視線においてもそう。目が合いもしないのに入り込まれた感覚がする時もある。

それは僕の油断を突かれた(と感じている)ということなのだろうか。勿論そこにはそこに付随する相手の感情が大きな意味を持つことになる。

とにかく常に事前に他者の動きを予測しようとしていて、それが消耗に繋がっているのではないだろうか。

 

でもこれは必要があってそうするようになるものだと思う。

なぜ間合いが必要かと言えば、それがなければその相手が意識せずとも僕はズタズタに斬られることがある。こっちが勝手に斬られている面もある以上故意ではない相手を責めるわけにもいかないし、まぁ結局は相性なのだと思う。

傷つき易いことを否定することも、強くなろうとすることも違うという結論は1年以上前に出した。だからまぁ今はただそういうものなのだと思ってる。

 

だからまぁ、この間合いが今の僕に必要なら、そしてそれで消耗するのなら、それを前提としてどう振舞うかだろう。

 

間合いというのは距離や挙動の問題ではない。相手がどう動くか、それを予期する為にはシミュレートすることが必要になる。僕の場合はそのプロセスが間合いをはかるために大事で、それは知覚した感情的な情報を思考と練り合わせるプロセスなのだと思う。

 

それは昔、画面分割の対戦ゲームを友達とやっていた時、相手の画面ばかりを見てプレイするのと似ている。友達の画面に映る自分のキャラクターを見て、それぞれ友達のパターンからどう動くかを予期する(予備動作にちょっとした違いが生じるから、顔を見なくても違うことをするときは分かったりする)。

それでも互いに同じことをするようになるから、裏をかきその裏の表を見せ、なんてことを繰り返し、時には勝ち負けが動作の前に予期できて互いに笑ったものだ。

 

ゲームなら笑って楽しめるけれど、現実の対人関係はそうもいかないのね。ただひたすら疲れてしまう。

予測したところで結局入ってくる人は入ってくるし、ダメコンにはなっても完全に避けることは出来ない。できなくしているのは自分なんだけど、でも避けたら避けたで僕のその行動のせいで相手が傷ついたらそれはそれでダメージだし…

それも結局自分を通してしか見ていないというのは分かるのだけど。嫌だね、この思考。だから猫に憧れるのだろうな。

 

 

それでね、今オフィスには大学生のインターンが来ている。

2人が交互に来ているのだけど、与えられている仕事内容が雑用と置物にしか見えなくて僕はいつも悶々としている。何のためのインターンなんだろう。文化の違いもあるし、本人もただ卒業したくてインターンに来ている可能性もあるから、僕は余計なことは言いたくなくてただ悶々としている。

せめてこう、業界的な仕事を与えたり、作業を紹介したりしないのだろうか。事前にこう、何に興味があるのかとか何を学びたいのかとか聞かなかったのだろうか。

 

間合いの話だったけれど、僕は間合いをはかるのは得意でも探ったりジャブいれたりするのは得意ではないのです。だからこう、最初はある程度踏み込んできてくれないとやりづらくて仕方がない。

少しやり取りがあれば程度分かるのだけれど、似た者同士になるとそれはそれで最悪で、互いの間合いが分かっても蒼天の拳の霞拳志郎と劉宗武の闘いみたいになってしまう。

 

インターンのうち一人と僕は、互いに察し合って会話に発展しない状態になってる。簡単な会話に簡単な返答はあるのだけど、まぁ、互いにそこに甘んじているのだろう。

だからこう、一歩踏み込んだ質問やアドバイスがし辛くて僕は悶々なんですが、僕は立場的に余計なこと吹き込むのもなぁ、というのもあって。

担当している彼らに何か言うのもそれはそれで面倒だし、そもそもインターンからも不満の空気は感じていないからそれを敢えて乱すこともないかな。でもこれってインターンなのだろうか…うーん…

 

 

間合い。

北斗の拳とか格闘、武術系の作品と、対人関係におけるそれぞれの性質を重ねてみると面白そう。僕はラオウになりたい。半分本当で半分嘘。

2週間前の夢

先日熱を出した時に見た夢。

魘されて目を覚ましては同じシーンを見るということを繰り返した。時々あるのだけど、眠りが浅いせいか背景は現実の寝床から見るもので、そこに混沌が浮かんで感じられる。

変性意識状態に近いのだろうか。

 

とあるキャラクターが名前を呼ばれ出てくる(実際の名前と少しズレてた)。このキャラは最近見たものだからそこまで意味はないのかも。

僕はそれを眺めているのだけど、時々彼女になっていたりした。なんと言うのだろう、感情的な部分は直接彼女のものを感じている感じで、思考も時折重なる。

 

右に白い木が浮かび、伐り倒すように言われるけれど、どうしても実行に移せない。

左にも似たような、少し形状の違う白い木が浮かび、別の声がそれを伐り倒すように言うけれど、こちらもやっぱり実行に移せない。

やろうと思えば木は一撃で倒せる筈なのに身体が動かず、焦りばかりが身体中を駆け抜けて行く。

 

その後も交互にそれぞれの木が浮かび、外野の声に急かされ、結局実行できず。

でも何故できないのか分からない。出来るはずなのに何故か彼女にはそれができないのだ。

魘されて寝返りを打ちながらその繰り返しだった。

 

 

これは2週間前に見た夢で、ここまで下書きに入ってた。見直してみるとこれも、ずっとではないものの自分が異性と重なってる。

このキャラクターは性格は僕よりなのだけど、怪力系で体術に優れてる。性格は似ているけど、武闘派なところは違う。憧れるけどね。

 

この夢の場合は合一どうこうではなく、ただ意識が眺めている彼女と離れたり重なったりするような感じだった。

元々、特に感情的にはそういうプロセスを通して他者をシミュレートする癖があるようなので、それが夢でより具体的になった感じだった。だからそれ自体に意味はないと思う。

 

それよりも、記憶に残る夢に性質的に正反対だったり、逆にどこか僕に似ている異性が出てくるのは何かあるのかなぁと思う。性別自体というより、性質的な象徴として、という意味合いが強いのかなって。

 

あとはやっぱりそのキャラクターと同じような性質の部分で、選ぶに選べず手が出ない所かな。

 

分かってるよ。夢にまで出さなくても。

伐り倒してしまったらさ、後戻りできないじゃないか。選ぶことは本当に難しい。片方を捨てなければならないけれど、その片方にも無限の可能性が詰まってる。それをそう簡単に選べるものだろうか。

 

最近は以前より夢が記憶に残る。

何が望みなのだろうか。もどかしいな。

久々に無意識の構造読んでみようかな。こういう時kindleは便利だね。

Inner Child Meditation 影かアニマか

昨日の夜ガイドナレーション付きのメディテーションをしたわけですね。

過去に縛られてはいけないと言うけれど、それを手放すには縛られている部分をどうにかしなきゃいけないと思っていて、インナーチャイルドをヴィジュアライズするというものを選んでみた。

インナーチャイルドという概念が僕はそこまで分からないのだけど、いや、多分分かりたくないんだと思うのだけど、何と言うのかな、ステージのボス的な感覚があった。

 

以前書いたけれど、僕の中にある子供のイメージというのは、拘束衣を着ていた。

触れようとする度に、今はやめておこうと目を逸らしてきた。でも昨日は少し向き合おうと思った。

 

ガイド通りに進めていくと何度も安全を意識させられて涙が止まらなくなった。安全とか安心とか温かさに弱いんだよね。こんなに涙が出たのは久しぶりで、濡れた所に風が当たってスースーしてくすぐったく、集中が途切れそうになった。僕は泣くことに難があるので、出るものが出たのは気持ちがよかった。

 

その次にイメージさせられたのは、一緒にこの先の道を来てくれる人。一緒に居て安心する人ということだけど、それがしっかりイメージすることができなくて、でも誰かが来てくれた。最初の内はモヤモヤの影だった。それでもいいんだと思って僕はあまり気にしなかった。

 

その後イメージさせられてもいないのに、僕のせいで死んでしまったオカメインコのメルや、同じく早くなくなってしまったグリが出てきて一緒に来てくれた。僕は申し訳ない気持ちと本当に再会できたような嬉しさでいっぱいでまた涙が溢れてしまった。

 

その先でようやく子供の自分が出てくる。初めはガイド通り6~9歳くらいなのだけど、暫くすると4歳くらいになっていたと思う。

この時点で時間がかかると思ってガイド付きBGMは止め、別のBGMだけのに切り替えた。

黒い自転車(2台目に買ってもらった自転車。懐かしい。)に乗る彼と、色んな記憶を旅しながら一緒に遊んだ。

その中に父親とのものが割と多かった。彼が伝えたいのは、許すことだと思った。そして憎むなと言っているようだった。当然彼の年齢の時の僕は憎んでいなかったしね。どうでもいいと言いながらやはり憎んでるんだよなぁ。

それが一つの根幹だということは分かっている。以前も同じような答えを一度出しているのだから。

でも僕は頑固なので、すぐに許せるとは言えなかった。努力することは約束した。そして伝えることは伝えたのだけど、やはり僕は不器用だなと思った。ごめんねばっかり言ってたかもしれない。

 

最後までその子供は不満そうな顔で、一度も笑った顔がイメージされなかった。幼少期、そんなに悪い記憶ばかりではないのだけど…。

 

その顔を見て抱き寄せた時、一つ察したのは、記憶とは僕が呼び出せる記憶だけのことではないということだった。そしてこの4歳頃に、何か僕がアクセスできないトラウマがあることを感じた。そう直感が告げた。

それが以前見た大きな恐ろしい目と関係があるのかは分からない。

子供には、いつでも自由に出てきてくれ、そしていつでもまた遊ぼうと伝えた。記憶の中のメルとグリとともに。

 

 

随伴してくれた人、この頃には顔もはっきり見えて会話もしていた。名前はセリカという男気の強いセミショートの女性だった。車みたいな名前だなぁと思った。性別から何から僕の正反対だけど、日本人っぽくはなかった。

主語は僕だけど、てやんでぇべらぼうめぇ系ではなかった。

 

その彼女が見兼ねたのだろうか、僕に代わって膝をついて子供と話し、優しく抱き寄せた。そして子供と額を合わせた。その時に外側が青で内側がピンクのサーモグラフィ・イメージのようになって、2人の内側で何かが繋がったのが見えた。僕が抱いた時はそうならなかった。

 

そのあと彼女は僕と目を合わせた後同じように額を合わせ、その時は何かが繋がったように感じた。これは合一というものなのか、それとも子供と僕を仲介してくれたのだろうか。少なくともその時、僕とその子供は直接的にそのように繋がらなくて、彼女が間に入ってくれた。

 

これが重要な出会いということはよく分かった。

実際に大きな変化なのだ。その存在が例え願望を元にパルスが生んだ幻であれ、僕の内面で意識されたということは。

 

2人で会話している時、手伝って欲しいことを伝えた。ぐちゃぐちゃな内面、内戦状態の世界を統合する為には、彼女の豪傑さ、強さ、包容力が何よりも必要だと感じたから。

彼女はただ「分かってるよ」とだけ答えた。とても心強かった。

許す努力のため、自己の統合のため、純粋の象徴を守るため。同盟よりも強いものを感じた。その存在が内面にできた。少なくとも、敵やわけの分からない主張ばかりする人達ばかりの世界ではなくなったのだ。それがどんなに大きなことか。

 

その後、拘束衣を切り裂き、焼いた。子供にごめんねと言いながら。何を思ってもごめんねばかりになってしまう。

セリカが更に丹念に破壊する。

「今度やったら許さねぇからな!」とセリカがそれを傍観していた数人の存在達(詳しくはわからない)に向かって叫ぶ。

彼女と一緒なら大丈夫だという安心感があった。

 

彼女、ユング系のあれだと性別が同じなら僕の影で、でも女性だからアニマと解釈するのだろうけど、僕はあまり性の区分は気にしていないので、彼女は僕の影なのかなと思う。元々僕自身世間一般で言えば女性的な面が強い男という自覚があるから、真逆はそうなるのだろう。単なる人格とか元型以上に古い繋がりも感じるのだけど、僕はそういうのはよく分からない。

スピリチュアルとか別の界隈では何と言うのだろう?

 

 

彼女には会えて本当に心強いこと、待ち望んでいたことを伝えた。彼女は「それはいいけど、自分のことももう少し認めてやれ」という。僕は認めていないつもりはないし、その努力はしているということは伝えたが、彼女は歯痒そうだった。

 

その後、子供、セリカ、メル、グリに一度帰ること、これからもよろしくということを伝え、メディテーションを終わりにした。

何か変化があったのか正直分からない。ただ、1時間程度なのにもの凄く消耗したようで、気力も体力も戻らない1日を過ごした。とても疲れたけど、とても嬉しく、有意義で、ごめんなさいがいっぱいで、でも希望のある内容だった。

何よりメディテーションで、しかも意図的に入ってここまで視覚化され、会話にもなって、感情に作用し、記憶に入り込んだのは初めてだった。

 

 

どう解釈したらよいのだろうか。

一歩進んだのか、でも伝えられたことは気づいていたことの焼き直しだった気がする。気づいていたけどどうしようもない葛藤の部分を後押しされた気持ちではある。

許すこと、自分を認めること、そしてこれは別の場所でよく見るのだけど、抗わず身を任せること、どれもとても難しい。

でも、だから子供は、最後まで笑顔を見せてくれなかったのかな。それが本当に心残り。

そしてそう考えるとやはり、彼女は見兼ねて出てきてくれた人だったのだろう。彼女にとっては譲歩を強いられたのだ。

ならばそれに僕は報いなければならないし、何より自分自身で決着をつけなければならない。

と、いつも大げさになってしまうけど、そう思えるだけで大きな変化なのかもしれない。

 

なんかかなりぶっ飛んだ内容になってしまいましたが、最後に聞いたBGMを貼っておきますね!

 

最初に聞いたのがこれ


Connect with your Inner Child-Guided Meditation

英語だけど聞き取りやすい。ガイド付きのって初めて聞いたけど、イメージがつけやすいからこういう導入にはいいのかなと思った。とても安心感があって泣かされる。

 

切り替えた先はこれ。おすすめに出てたの適当に選んだのだけど、とても良かった。


Enhance Self Love | Healing Music 528Hz | Positive Energy Cleanse | Ancient Frequency Music

街に帰ってきました

本当はもっと早く帰ってくるつもりがぎりぎりで高熱を出し遅くなってしまった。しかも電波塔の部品が盗まれたそう(時々ある)で、10日以上携帯が不通だった。

 

携帯の不通は僕がいかに情報を欲しているのかということと同時に特定の人からの連絡がいつ来るか分からない煩わしさに常に浸っているかということを教えてくれる。

もし連絡が来て返信が遅れたらそれはそれでマズいのだけど、高熱でしかも電波入らないならしょうがないよね?と、それなりの正当性が担保されていたから、煩わしさからの解放を堪能することができた。(一時的な解放はその終わりを意識するストレスをも生むのだけれど…)

 

今回はいつもと違うルートでの帰り。車がもの凄く少ない上に、立ち寄れる場所が少ない。その辺はまだ良いのだけど、アスファルト補修が間に合わず砂利むき出しの場所がかなり多く、軽自動車には辛い道だった。心配だったのは材木運送ローリーだけど、ロギングは雨でそれほど活発ではなさそうで、ローリーも3台追い越しただけだった。

路面さえよければ悪くないのだけれど。

 

あとは、途中の検問の警察が横柄だなと思った。発音から本土の人だと分かったけど、彼らは優越意識が強い。

 

手招きをしたから検問に近づいたのに、なんで順番を守らないんだと言う。その言い方も遠回しで何が言いたいか最初分からなかった。手招きも横に寄って待てというシグナルのつもりだったのだろうか。あの距離で言われてもなぁと思う。

でも僕はか弱い外国人なので大人しく謝っておいた。

 

そうこうしているうちにもう一人の警察がきて、行き先を聞かれたから答えた。徐に「それで?」と聞いてくる。そんなこと聞かれても分からないので、僕も「それで?」と返すと、微妙な空気の後「取り敢えずそこで待ってて。」というので、逆車線が通り終わるのを待った。

そして僕の番。サイドミラー越しにいつもの作り笑顔で確認すると、犬を追い払うようなシグナルをされ、無事通ることができた。

僕の応対は本当に単なる馬鹿っぽかったから、賄賂は期待できないと判断したのだろう。それ目当てなのは早々に感じていたのだけど。結果オーライ!

 

僻地に2人でお仕事は可哀想だし、それなりに大型車の交通のある検問で2人というのは非効率だし、2人じゃ汚職のハードルも下がるので、悪いのは上だと思った。

 

いつもの作り笑顔、僕は警察の前ではいつも善良だけど、媚びたいわけではない。あの場面でも笑顔は必ずしも必要ではなかっただろう。でもこう、他人と会話すると笑顔を作ってしまう。

逆にそうでない相手、無表情を見せれる相手というのは非常に貴重なのだ。

コミュニケーションに何を求めるのかを考えるなら、この反射的な作り笑顔は常に良いとは限らない。でも問題は、反射的と書いたように自動なのだ。ご機嫌伺もセットでね。嫌だなぁ。

 

 

さて、BMIが17.58になってしまった。いつも18前後を行ったり来たりなのだけど、もう少し体重を増やしたい。筋肉がいいな。

30過ぎてから食べ物の趣味ももっと大人しくなったし、食べる量も減ってきた。身体を使う仕事をすれば多少増えるのだけど、いつも熱を出すと萎んでしまう。

髭も伸びたい放題にしているので、半裸でいると日焼けも相まってヒンドゥの修行僧みたいになってる。

なんかこう、まだ早いなと思う。

他者の感情

すぐ怒る人に対して、僕は気を使い過ぎてはストレスを溜める。自分が矛先になって怒られるのも嫌だし、そういう姿を見るのも嫌だし、兎に角みんなが穏やかに過ごせないとダメというか、イヤという感情が働くんだよね。

 

子供の頃からそうだった。家庭内役割と言ってしまえばそれまでだけど、母と父親の不和(というより単なるDVだけど)から始まり、下と少し離れた長男だからかな。家庭内の空気には敏感だった。何か起きる時には容易に予期できて、だからといって何かできる訳でもなく、「何も起きないで欲しい」「今日はこのまま終わって欲しい」と何度そんな夜を過ごしただろう。その願いが音を立てて砕け散った時の、地が裂けるような絶望感も何度感じただろう。その度にあたふたするばかりだった。

 

最悪なのは暴力を受ける側の母に向かって我慢するように言ったことかな。何回かあった。

子供の僕にとってはそれが起きないことが一番大事だったのだろう。返り討ちに遭うのを分かっていてなぜ母が父親を刺激する(借金や競馬について問い詰めたり)のかなんて分からなかった。母親が怪我をして泣く姿なんて誰が見たいと思う?

後から考えれば、家計をやり繰りして子供を育てる立場だから血を流してもやってくれてたのにね。そんなこと全然分からなかった。我ながら最低だと思う。

 

まぁこれは置いとこう。

 

僕がそのポジションに居たことは事実として、子供がさ、家族がみんな笑顔で居られることを願うのはおかしいのかな。

それとも家族がみんな笑顔でいるべきだっていう先入観がおかしい?

 

それを先入観だと疑う思考が湧く時点で自己嫌悪が始まりそうだけど、実際さ、家庭像や人間関係像に踊らされていた部分もあるのかなって。

いや、でも小学生ですよ。踊らされていても仕方ないだろうし、何よりそういう関係を望むことは当然ではなかろうか。

 

一応長男だからと僕は時々思うけど、一応と言っておきながらその立場に縛られすぎていたんだろうね。

いや、でもさ、父親はアレだし、弟と妹が5歳下と7歳下で、弟は後に不登校になってしまうし、母は仕事しながら子育てだよ。他にやりようなんてあったのだろうか。

(不登校が悪いとは思わない。ただ本人も母もかなりの心労になっていただろう。)

 

自分の過去を見ながら「やりようがあったのだろうか」って変な感じ。断片を再構築した記憶の劇場なのだから、スクリーンの中に僕が触れられる訳でもないのに。

記憶って感覚ばかりが残っているけれど、だからAIが操作していたのではないかと疑わしく思ってしまう。それでもその記憶に、そして無意識に縛られ続ける。燃やし尽くしてしまいたいと思いながら、なぜこんなに大切に仕舞われているのだろう?時に僕からは見えないところに。

 

過去は過去でいいのだけど(と言いながら多分よくないのだろうけど)、問題は現在であってさ。

 

どうしたら他人の感情に反応しないようになれるだろうか。どうしたらそれを織り込んだ思考と行動を変えられるだろう?

例えばさ、すぐに怒る人は怒るものなんだよね。冒頭のように僕が気を使ってもすり減っても結局理不尽に怒る。

それはもうそういうものだと捉えられるようになったのは良いけど、結局その場面になるとダメなんだよね。反応してしまう。

感情を露わにしてる人とそれに嫌悪を感じている人がいたとして、なぜか僕が申し訳なく感じてしまう。関係ないのに、おかしいね。

過敏だっていうのもさ、そんなのは知ってるんだよね。対処法なんて人里離れるしかなくない?

 

まぁでも、怒る人をそういうものだと捉えるなら、過敏でそういう風に反応してしまうのもそういうものだと捉えればいいじゃんとは思う。でもそれではその関係性の中で生きていけないじゃん。

 

感情感情、生きづらさも記憶も感情ばかり。そりゃそれを頼りに物事を捉えて判断しているのだろうし、そうなるよね。

 

この前はオンラインミーティングで「こんなことでも感情を抑えて答えてくれるーーさんですけど」と言われたけど、別に抑えてないんだよね。寧ろ内側ではぐちゃぐちゃですぅ。だから外にあんまり出ないだけだと思うよん。

連鎖する感情に嫌悪感があるから無意識にそうなっているだけかもしれないけど。

何を恐れているの?自分の感情が一番大事なのに、その主体性を守れないから?何故反応してしまうの?

他人の感情なんて気にしない素振りをしている人程無意識に反応している。何故そこに嫌悪があるんだろう。責任。何でそんなところに責任があるのだろう。

気にしないなら流されても主観的には流されていないのだから、その方が楽なはずなのに。それを言い出したら無い物ねだりだけどね。

 

僕はそれこそ感情的な人間で、全ての課題はそこにあるように感じてしまわなくもないけど、それが悪いとは言いたくないのね。

そういう僕でなければ見えない景色というのも多分沢山見ていて、何よりそれが僕にとって大切だから。

だから他人の感情に鈍感になれば良いかといえば違うと思う。寧ろ何故合わせて鈍感になってやらなきゃいけないのかと思うと腹が立つしね。

なんでこんなに難しいんだろうか。

 

ただ揺れない水面が欲しいだけなのに、それが何より難しい。

衣食住と時間

自給自足に近い生活をすると、衣食住に関する行動に割く時間が多くなる。

 

文明はある意味、文化や勢力の拡大、そして交易や経済に関する豊かさを重視するために、基本的な衣食住の確保に割く時間は極力削りたいのだろう。

効率を重視するということ、無駄を省くということは、そういった活動に労力を割くためには必要なのだろう。

 

でもその省いた無駄、省くことが当たり前になっている無駄は本当に無駄なのだろうか。

そもそも無駄なことなどあるのだろうか。

 

自給自足的な生活は確かに衣食住に使う労力が多くなる。でも衣食住がそうやって確保されるのだから、生活と仕事と生が密着する。これは僕にとっては焦りがない。

家族や共同体もその分大きく、密着し、作業は各々の好き好きに自然と分担されるので、言うほど苦労もない。

だからゆったりと一つの作業に時間をかけることができる。『時間を意識せずに』と言ってもいい。

 

時間を意識せずにとは、ただノロノログダグダやるというわけではない。思うように、丁寧に、たまには手を抜き、そして没頭できる、その自由がある。

ノロノロやる人やグダグダやる人もいれば、何をやっても丁寧な人は丁寧なものだ。

 

(締め切りとか作業時間とかノルマとか、それらは何の為にあるのかと今一度問うこともできる。

本当にそれが必要な場合もあるだろうけれど、何事にもそれらが必要なのだろうか。)

 

ということを、貰ったシカの頭を処理して思った。

僕は欲張りだから余すところなく食べたい派なのだ。皮を剥ぎ、頰、舌から喉、首回りの肉を取り、顎を外して内外の骨に付いている肉を削ぎとった。

耳や鼻や唇は皮を剥ぐのが難しいので、毛を焼いてから削り取り、スープにする。

今回は脳を含め、残りは頭蓋骨ごと愛犬にあげた。

 

気づけば4時間経っていた。

余すことなく捨てずに食べるのはとても時間がかかるけど、作業から食べるまで有意義だ。

 

何より美味しい部位は時間がかかる。時間をかけるから美味しく感じるのもあるのだろうけど。

効率や時間を重視するなら舌から喉だけとってポイだ。足りない分は他の部位を貰えばいい。

でも僕は欲張りだから。それは潤んだ目に対する感謝の気持ちもあるし、捨てられやすい所をもらいたいというのもあるし、ただ取れるだけたくさん取って食べたいというのもある。

 

この前は寝る前にチェックした刺し網に9匹魚がかかっていて、冷蔵庫もクーラーボックスもないので悪くならないように塩を多めに下処理をした。睡眠時間は自由なので食糧を優先できる。

この生活は規則正しくなりそうなイメージがあるけれど、実際はそうではない。規則正しい必要はない。

寧ろ、自然と生活そのものであることは、規則正しくないことなのだと思う。

明日の食糧は大切だし、お魚さんへの敬意でもあるし、自然への感謝や満たされる射幸心まで全て含めて喜びであり生活なのだ。

 

ところで、真心という言葉があるけど、それを込められるのもまた『時間』の外でのことなのだと思う。

美味しいスープには手間や時間がかかるものだ。それは、かかった時間は時間ではないし、だから手間は手間ではないのである。

 

さて、様々なところで時間や効率が大切と聞くが、その時間という概念は本当に存在するのだろうか?

少なくとも、ここではその影は薄い。そしてそれ自体、僕の内側に巣食っているに過ぎないように思う。

 

この気持ちになる度に、エンデと話してみたいと奥底から思う。