感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から最果ての荒野。

主ブログ切り替えました。ここもサブとして時々使います。 ↓切り替え先

hasriq3.hatenablog.com

手 から 別野加奈 2

手を眺めていて思う。この手は本当に自分なのだろうか。手に触れる空気の感触は誰のものなのだろう?手を動かしてみて思う。なぜ手は動くのだろう。僕が動かしているのだろうか。手が動き、僕が動かしていると後付けで思ってるのではないだろうか。そもそもこの手は本当にあるのだろうか。本当にあるとは何なのだろう。手を僕が動かし、その手を僕が見ている。と思っている僕を見ている僕は、今この胸のざわめきを感じた僕を見ている僕と同じなのだろうか?

なんてことを考え出すとキリがないのだけど、僕は流体かもしくは場であり、その中に浮かび上がる点くらいに思っておけばいいかなと思う。ってことを考える僕は、そう、割と外側の点。でも、素朴な疑問に答えを見つければいいというものでもない。少なくとも僕は、素朴な疑問の方を大切にしたい方だ。多分それは、直接的な知覚に近いものだから。目に映る手のようなもの、空気の感触、それを感じている僕というのは、割と知覚に近いものだ。でも段々と疑問を撫で続ける内に主体は外に動いている。それはそれでいいのだけど、なんだろうな、疑問の純粋さというのか、子どものような素直さというのは、やっぱり知覚に近い部分にあるような感じがして。まぁ、外に外に行ったとしても、知覚していることには変わりがないのだけど、知覚している対象、つまり客体が、内的なものだからかな。意識の中で知覚の入れ子が連鎖していくような感覚。何かを知覚する、何かが知覚されるということは、そこに主体、つまり感じる主体としての僕が居るわけなんだよね。だから感じれば僕がそこにある。丁度潜水艦のような感じだろうか。アクティブにしろパッシブにしろ、ソナーで何かが浮かび上がる。音波で感が広がる。するとそれを受ける僕がそこに居る。
Cogito, ergo sumと少し違うのは、感じると僕があるというのは常に結果論になるからかも知れない。確かに知覚している時は知覚しているという事実に僕が浮かぶのだけど、受動か。結果論と言うより、受動なんだよね。能動でも結局感受になる。何かに触れたとしてもそう。思考でさえ、思考が走ったとして、それを認識、つまり内的に知覚するから思考している僕が見えるわけだから。

疑っている自分自身の存在は否定できないと言われても、そもそも自分自身とは何か分からないし、存在ってなんだろうってなる。まぁ否定できないことは否定しないとして、それは肯定を意味しない。とかいう面倒くさい思考をするのだけど、実際自分自身とか言われてもどれのことだか、どこからどこまでなのか、どの現象を指すのかわからない。この皮で覆われた僕のことを言うのか、何かを知覚している時の僕のことを言うのか、それを見ている僕を言うのか、その他のどれかなのか、その複合としての自己の集合的なものなのか。外側は?僕が構成要素となっているより大きななにか。それは自分自身ではないの?だって、おかしいと思わない?この肉体、意識の内部で僕が点在しているわけで、その一部も全体も僕と捉えようとする。じゃあそれを外に反映しないのはダブルスタンダードじゃないの。でもこれを始めると、今度は僕の中の腸内細菌も僕とするか、そうじゃないとするかみたいなことまで始まるけど。
まぁ総括すれば、僕という言葉が色んなものを内包しすぎているからなんだけどね。って感じ。じゃあ分解すればいい?違うんだよねー。だって外から入ってくる僕・自分というものに関する言葉に対する応答なわけだから。要するに、僕にはそれらを分解して一々色んな僕というものを定義することは出来ても、それをするまでの理由がない。それをすればスッキリするだろうけど、切り分けを言葉にして固めてしまうという、大きな代償を払うことになる。外から入ってくる僕・自分というものに関する言葉に対する応答だったんだなという部分で十分納得したことにして、よしにしておけばいい。だって、外からあーだこーだ言葉が入ってこなければ、僕はその曖昧で煩雑な僕という何かに居心地の良さも抱いているわけだからね。

 

天井に手をかざしていて思う。この手は僕なのかなって。でも、何かが手に触れている時、それを感じているのはやっぱり僕なのだと思う。でも、これはこの手が僕であるということを意味しない。なぜなら、僕が感じているのは、感じられている感触だから。そこに隔たりがある。僕は手を通して布切れの感触を感じている。これは解釈だ。まず、統合してしまっている。目で見たものと、手で触れたものは別なのだから。布切れという認識も、後付けのものだ。僕は手を通して何かを感じている。これも解釈だ。僕の手が感じているという情報と、感じられている感触は別なのだから。僕が感じているのは、この感触だから。ざらざらしているとも、すべすべしているとも、乾いているとも、少しまとわりつくとも言うことは出来るけど、この、感触。見えている景色、手のようなもの。手なのだけど、景色。見えるものはが何にせよ、見えているのはいつも景色だから。

 

 

これ、別野加奈さんのアルバム、もう、見たくないよ、と言いつつそっと硝子の中に閉じ込めた 展のトレイラー動画らしいのだけど、すごく好き。アルバムも素敵だけど、この動画は本当に好き。


www.youtube.com

 

こっちは彼女の自主制作映画。色々好き過ぎて多分10回近く観てる。


www.youtube.com

なんかね、映画って疲れたりもするのだけど、これは心地よくて何回も観ちゃう。

もっと早く知りたかったな。

自殺 から 秋 far

一番ヒトらしいものは何かって聞かれたら、多分僕は自殺って答えると思う。そのぐらい自殺という行動はヒトに顕著なんだよね。しかもその行動原理が多岐に渡って存在している。例えば、死ねば苦しみや痛みが終わるという認識があるというのが根本的な一つ。社会的に、そして社会的自己によって、生きる価値がないと否定されるというのが一つ。逆に、死によって肯定されるための自殺が一つ。自己犠牲というある種の価値のための自殺が一つ。生きる意味、人生の意味のための自殺が一つ。心中や後追いの一形式のような、共に逝こうというのが一つ。突発的な情動による事故のような自殺が一つ。他にもあるし、オーバーラップもあるだろうけど、まぁ色々あるってこと。

死という概念の認識がこれだけ沢山の自殺の幻影、圧を生み、人はその圧の中で生きている。だから倫理で自殺を止めようともするし、却ってその否定性がまた強い圧を生むことにもなる。なんて人らしいものだろう。希死念慮だって、願望だと捉えられがちだけど、結局は自殺の幻影があるから、それが当人の何か、例えば無価値感による苦しみだったりと結びついてのものと捉えると、ある意味ではそれを抱くことは人によっては避けようがないのだ。

僕は自殺は否定しない方。苦しみからの解放という側面があるし、そもそも自殺がない社会なんて考えられないから。程度の差はあるけどね。他殺があれば自殺も起こるのは当然のことだ。自他の差なんて、自らの中に他者を抱えているヒトにとっては大して大きくないのだから。ただ、考慮しなければならないのは、だからといって人が自殺に追い込まれる状態を肯定していいかと言えば別だし、自殺を実行するような追い詰められた状態というのは視野が狭くなっている場合、何かを思い込んでいる場合が多いという部分だろう。だからどう足掻いても自殺を知った時は後味が悪い。だって、そこには恐らく追い詰められた人が居て、その人を追い込んだ環境があったということだからね。不条理だよね。尺度を変えれば条理なのも含めて不条理。

自殺を悪とするのはどうなんだろうか。死刑のような抑止力としては一定の効果はあるのだろうけど、丁度死刑のようにズレている部分もあるから一定以上の効果はない。死刑になるから重罪を犯すなというのと、悪いことだから、地獄に行きになるから自殺をするなというのはどこか似ている。考えさせないという副作用がある理屈だからかな。社会的には結論になってしまうからね。何でだめなの?悪いことだから。それで終わってしまう。なぜ悪いかは語る人は少ないし、なぜ悪いという価値付けが必要とされたかを語る人はいない。でもそこを見ないで自殺を減らそうと言うことがどう成り立つんだろうか。まずは自殺という行為がどれだけ人の社会生活という形態の中ではヒトにとって自然なことであるかを認めなければ、現実論には進みようがないでしょ。と思うのだけど。

今でも思うのは、あの人は自殺とカテゴライズされるのだろうか、ということだ。僕が姉さんと呼んでいる人は、あの人は確かに希死念慮も抱えていただろう。でも死のうとして死んだと言うよりは、苦しみから逃れるためにいつものODをして、その結果帰ってこなかった。最初の部分で言えば突発的なものに近い。でも事故といえば事故。もうすぐ20年になるけど、いくら僕の物事の捉え方が変わっても、やっぱり自殺や事故というよりは社会に不適合な中、無理をして身を擦り減らし、結果死んでしまった。そう考えると淘汰でもあるし、病死のようでもあるし、それでも僕はあの人は社会に殺されたという見方が強い。だからどうってことはないんだけどね。何で殺されたとまで言わなければ気が済まないかと言えば、それだけ自殺の他殺性に社会が無頓着だから。崖の縁までネズミを追い詰めて、そこで生きることを強いて、怖がらせたりするような圧をかけ続けて、一度落ちれば自分で飛び降りたと言っているようなものでしょ?それを現状維持している以上、皆でやっているのが社会でしょ。何で自殺が悪いと言えるのか。怖い。まぁいいんだけど。デュルケームの自殺論、置き忘れてから見つからず、まだ序盤しか読めてないんだよね。早く読みたい。Kindleで買っちゃおうかな。

 

ところで話は変わるけど、もう9月も終わりだよ。早いね。季節の話で空気を戻して終わろうと思ったけど特に思い浮かばないなぁ。秋は苦手なんだよね。トラウマ的には冬がだめなのだけど、秋って冬に向かって突き進んでいくからね。サンマは好きだけどね。サンマ久々に食べたいなー。

 

この人の曲好き!なんかこう、どれも合う感じでずっと聴いちゃう。


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

言語、概念、観念と前提 切り取られたものである前提 木戸崇博

最近ずっと言語、概念、観念この辺のことばかり考えていたのだけど、ふと繋がったのは、結局僕がこれらに引っかかるのって、前提だからなんだよね。意味、価値も含めて、至る所で触れている前提なんだ。

前提は前提で考えることがよくあるのだけど、言語や概念、観念については知覚・認識の順序としての整理として捉えてた節がある。実際、前概念的なもの、そして知覚を重心に物事を捉えようとすると、言語の限界、概念による短絡、観念による思い込みが障害になる。だからそれらを削ぎ落とし、配線を組み直すように、フィルターに同じ色を重ねるように、知覚を知覚そのものに近い形に戻していく。できるだけ、可能な限り、少しでもあの手触りのように、あの香りのように、言葉では届かない場所にある感触を、ただただあの感触に戻るように。この指に触れるもの、目に映るもの、聴こえる旋律、胸の奥の感覚、繰り返されるイメージ、夢に見る景色、雲の景色に包まれた時の感情の高まり、あの人の声や目、そして表情、それらをただそのまま、よりそのままに触れたい。あの頃がそうだったように。ある意味で、僕の欲望が目指しているのは記憶の中の手触りだ。概念が見え方を塗り潰す前の、微かな記憶。この違和感は、気づけばそこに向かっている。

言語の制約や言語に縛られる認識、共有可能性である概念の、そしてそこから繋がり、派生し、意味や価値を絡め取りまとまっていく観念の、思考を塗り潰す力。それらがとても強いのは、ヒトの認識ばかりでなく、言語によるコミュニケーションという根幹的な機能そのものだからなのだと思う。でもある程度はそこはもう見えていて、重心も近くに移っているから、それなのにどうしてこんなにも違和感が残るのだろう?ってずっと不思議だった。でも、よくよく考えると僕が反応しているのは外側から入ってくるそれらだった。ネットから入ってくる情報だったり、そこら辺でされてる会話の内容だったり、グループチャットの内容だったり。僕が反応しているのは僕自身の認識ではなく、他者、そして社会、文明から入ってくるもの。多分それは、その概念ありきで、意味や価値も含めた観念もぐちゃぐちゃに混ざって、言語の性質すら無視された色んな言葉たちが、僕が大事にしているものを覆い隠そうとするばかりか、端からそんなものは無いという態度で入り込んでくるからだと思う。だから僕にとっては、これはある種の防衛戦でもあるのだろう。

それらの言葉たちがなぜそこまで高圧的で、包摂的なのか。ここでようやく最初に戻るのだけど、多分、前提に無頓着だから。無頓着というか、気にされていない。多くのヒトは自分の言葉、自分の価値観なんかに、前提があるとすら思っていないっぽい。不可視化された前提。そう、前提は不可視だからこそ前提として振る舞える。言葉はその前提に支えられている。もし前提を可視化してしまえば、その言葉が成立する範囲が分かってしまうということだ。範囲があるということは、絶対が成り立たなくなり相対に戻ってしまうということだから、その形でその言葉は出なくなる。そう、無頓着だからこそその言葉は成立していると言える。そして今絶対という言葉が出たように、無頓着だから当たり前という前提が絶対として発せられる。これが圧なんだ。そうだよな?当たり前だよな?が言葉の中に鳴りを潜めている。でもその当たり前を共有していない僕のような者にとってはそれは圧なんだ。

 

折角だからもう少し。じゃあこの前提とは何者なのか。最初の切り方で言えば、言語、概念、観念(意味・価値含む)はそれぞれ別の前提として認識、言葉を支えている。でも根幹はもっと単純なんだと思う。

前提とは切り取りと固定だ。いや、切り取られたものが前提で、それによって認識や言葉が固定されている。

写真をイメージすると分かりやすい。今山に居るとしよう。山間に広がる雲海の景色、荒涼な緑の風、背後にも広がる別の景色、鳥たちの声、流れながら光のあたり具合で顔色を変え続ける雲。これをカメラで撮ると、一枚の写真になる。写真には画角、アングル、被写界深度なんかがあるけど、要するに景色は切り取られた一枚の像になる。それを沢山つなぎ合わせても、複数枚の像を繋ぎ合わせたものにしかならない。これが言葉。そして前提とは、写真に映っていない部分。画角に入っていない景色も、カメラが捉えられない音や時間軸も、写真が表現しきれない詳細な色も、逆に写真が表現してしまうがゆえに見えなくなる曖昧さも、カメラの構造も、そのカメラを握る人の人体構造や認識や心象も、それらが全て前提として切り取られたもの。でもだからこそ、景色は固定され、写真となる。逆に言えば、写真になる前には切り取られたそれらがあった。だからその写真が生まれた。

でも写真は多くの場合、その時の、その場の世界そのものを切り取ったものとして扱われる。ここまで認識や言葉も同じ。

でも僕はそれが気になってしまう。写真が世界そのものとして扱われる世の中では、「写真は写真だよね。その写真を成立させている過程である前提があるよね。世界とは寧ろその切り取られた側だよね。」って言い直さないと、僕の見ている世界はすぐに数の暴力とその絶対性によって塗り潰されてしまう。っていう感覚なんだよな。

結構この写真の喩えは自信作なんだよね。僕自身、前提を見るようになってから写真があまり撮れなくなってしまったから。だって僕が見ているもの、感じているものをカメラは見てはいないし感じてもいないから。撮った写真は切り取りで、しかも像でしかなくなってしまった。僕にとってはね。

 

前提というある種の絶対性によって成り立つ言葉。

絶対性って何かといえば切り取りと、それが正・真と位置づけられることなのだと思う。なぜそう位置づけられるかと言えば、切り取りを切り取りと認識していないからだ。当たり前としてね。

1+1=2が成り立つには条件があるのに、1+1=2というのが当たり前として常識化された世界では、1+1=1が成り立たないことになってしまう。実際は条件次第なのに、その条件すら無かったことにされてしまう。そこでは常識を共有していない者は狂人とされる。それがタルコフスキーの描いたドメニコだったのだと思う。彼は概念に塗り潰されていなかった。

 

でもまぁ、無頓着だからこそ言語的、概念的認識は成り立つし、社会やコミュニケーションが成立しているって言ったらそれまでなんだけど。でもなんというか、もう少しさぁ…

 

要するに、認識するには切り取るしかないし、言葉にするには切り取るしかない。だから前提が生まれるし、でも切り取りが意識されないから、切り取られたものが不可視化された前提として認識や言葉を支えている上に、絶対性を帯びる。

じゃあ絶対の前は相対なの?って思うじゃん。切り取られる前の全ては相対なの?って。そうとも言えなくもないけど、でもこれには一つ落とし穴があって、相対自体が絶対の対立概念として生まれた節がある気がしてる。だから、相対という概念は絶対があって初めて成り立つ。そういう意味では、切り取りの前は相対的ではあっても相対ではない。絶対と相対という二元を内包する何かがあるなら、その陰陽魚がそれなのだろう。でも多分まだそれを表す言葉はないと思う。だって前概念的なそれは無かったことにされるのがこの概念偏重の文明だから。仏教やサンスクリットにはあるのかな。仮にあっても解釈の段階で変質してそう。

 

今日はこの辺にしとこうかな…もう月曜じゃん…やだぁ…

 

そうそう、ミニトマト結構育った。カーボロネロとバジルもいい感じ。シソが中々芽を出さなくてね。諦めかけた時にやっと1つそれっぽいのが発芽した。結構ばら撒いたんだけどなぁ。あと、ドワーフトマトは1個倒れて萎れてたからもう一度やり直し。多分鳥に踏まれたんだと思う。ちょっぴり悲しい。

 

 

木戸崇博さんの曲好きなの多い。特にin my TimeとINSOMNIAっていうアルバムが大好き!とってもおすすめ!


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

窓際ガーデニング 会話と言葉 前概念と抽象 別野加奈2

もう6月も終盤だよぅ…速い…

最近も相変わらずかなぁ。以前にも増して疲れやすい気がしていて、中々物事が進まない。運動もあんまり出来てないなー。

 

もうずっと放置してしまい、荒廃して鳥たちの砂浴び場と化していた窓際ガーデニングの再興にようやく着手した。定期的に2週間ほど家を空けるので、それが頭にあると留守前に植えてもなぁって思って中々手がつけられなかった。

今回は不織布フェルトのバッグプランターを3つ買って、培養土は注文して運んできてもらった。種も個人で栽培してる人からの通販。便利な世の中です。

プランター1つ目はチェリートマト1本、2つ目はドワーフトマトを2本、3つ目にはカーボロネロを2本植える。背が高くなるチェリートマトは僕の真後ろに配置したから、日除けとしても役立ってくれることでしょう。あと今回は、たまたま以前買っておいたコーヒー豆の麻袋があったので、それを切ってマルチ代わりにした。鳥たちの砂浴びは嫌いじゃないけど、家の中に土が入ってくるからね…トマトとカーボロネロとバジルとコリアンダーは無事に芽が出た。シソは芽を出してくれるのでしょうか。

赤紫蘇と大葉、バジル、タイム、コリアンダーは鉢植えにして、深めのバッグが手に入ったら唐辛子も植えようと思ってる。サボテンとアロエベラを少し減らさないと置き場が足りないなぁ…でも捨てるのはなんかなぁ…吊る?

 

園芸は小学生の時から好き。農協でやってた園芸まつりで配ってた苗とかもらってきて育ててた。ナスとかししとうとかトマトとかパセリとか、結構色々育てた記憶がある。植えたのは食べれるものが多かったかな。

僕はなんだか、世話が好きっていうより、待つのが好きなんだよね。釣りや網漁もそう。釣りはあんまり忙しいのより、夜釣りのぶっこみとかゆっくり待てるのが好きだし、網や延縄も翌朝かかるのを楽しみに待つために仕掛けるし、アクアリウムなんかも眺めるのが楽しみで組んでたし、果物も7年後、10年後実をつけてくれるのを楽しみに植える。

そうそう、僕が10年くらい前に村に植えた果樹が今年は初めて花をつけてくれたの。嬉しい。

野菜は生育が早いから毎日見る楽しみは大きいかな。一日に何回も見ちゃう。ここに住んでると気持ちも滅入ってきちゃうけど、こうやって待てる楽しみを作っていくのはいいかも知れない。前回のは長期の留守で給水失敗があって枯れちゃってからの放置だから、今回は早めに給水を考えとかなきゃ…

 

 

あとは最近思ったことでも書こうかな。何があったかな。
そうそう、久々にオンラインの定例会で話してくれって頼まれて話したんだよね。まぁ聞く感じ好評ではあったのだけど、僕が伝えたかった話って結局変換されて受け取られてるんだなってグループチャットでやり取りしてて思った。

僕はこう、現象を力学的に見ていて、その視点からの語りには主体とか入れてないんだよね。例えば理念について話すときも、色んな角度、距離から理念とはこれこれこういうもので、こういう運動をする性質があるように僕からは見えますよって。で、気づいたのは、まず人はそれを抽象語的に誤読するのと、その人にとっての理念というものに付随する観念も一緒くたにした何かを受け取るみたい。

前者は僕も最近気づいたけど、僕の言葉って一度概念から観念を剥ぎ取っているのだけど、そうすると結構知覚、概念、観念(意味や価値も)を分けて扱うようになってると思うのね。それで、好みもあって僕の軸足は知覚に寄るのだけど、概念を使う時は割と意識的に概念として使うし、感覚に合わない言葉は意識的に使わないって判断をしてる。その上で、概念以前に感じるものや見えるものを、既存の語彙を引っ張て来て使うことになる。

要するに、感じられるものを、好き勝手に意味を剥がして感覚に合うようにした言葉で無理やり形にしているのだけど、その感じられるものから割と徹底して概念や観念を削ぎ落しているから、頭に浮かんだ何かを粘土で形にする作業をしてるって感じ。

その僕の言葉って、曖昧なのと、観念の乗っていない語彙の感じもあってか、僕が言っていることとは逆方向の抽象語として受け取られてしまう。僕もこの抽象(化)と前概念(の言語化)って混同しがちだったから文句も言えないんだけど。僕はこれははっきりと言えるのだけど、抽象化という操作はしていなくて、単に手触りや雰囲気を言葉の型枠に当てはめているだけ。それでも抽象語と似てしまうのは、僕が抽象語の語彙を持ってきてるのもあると思う。だって誰かの観念がバリバリに乗った言葉と違って感覚に合うし、誰かの感覚が乗っているという違和感なくそのまま使えるんだもん。直喩が多くなるのも多分それなんだよね。というか、僕は直喩的に言葉を使ってて、それには感覚・現象的な単語のほか、観念が薄れてレディトゥユーズな抽象語が合いやすいって言った方が良いかも。うん、こっちだな。(でも観念って言葉も、意味的観念と感覚的観念を分ける必要が出てきそう。僕は後者を観念として扱っていないけど、メタからは観念として説明するしかないからね)

で、後者はもっと単純で、僕は非概念的な言葉を概念の型枠で成形してアウトプットしてるんだけど、多くの人は、特に通常の会話の場では、多分まず言葉を概念的に受け取るんだよね。共通語として。そこでもうズレるじゃん?で、更にここで、多くの人は概念と観念を区別していないから、僕がその型枠にすら使っていない何かを含んだ概念として、時には観念、像だけじゃないかって思うような受け取り方をされたり、概念を概念で説明したような応答をされたり、なぜか(はわかるけど)反論的な反応をされるんだよね。僕は知覚されるもの、現象とその力学が、こう見えるよって話してるだけで、意味も判断する価値も言葉には乗せていないのに。

あのお魚はこれこれこういう性質があって、それがこういう行動を引き起こしているように僕からは見えますって僕が言ったとしてね。魚だって悲しいんだと思うし、その行動は悪いものだけど守らなければいけません。って返されるみたいな。

こんなの、?????!ってなるじゃん。

僕はそこで、別に悲しいっていうのはどういう悲しいですか?とか野暮なこと聞くつもりもないし、僕はその行動を良い悪いでは見てないし、別に守りたいなら守ればいいんじゃないかなとは思うけど、それ以前にそんなこと言ってないんだけどなーってなる。だってこの時点で僕が言ったことは何も受け取られておらず、勝手にその人の熱のための燃料に変換された上、僕自身がそのジャッジメントの中に引きずり込まれてるんだよ。改めて言語化すると誤読どころの問題じゃないよね、これ。

 

まぁ相手からしたら変な奴だけど真摯に分からせてあげようってことなんだろうからお互い様なんだけど。それにこれは昔からのことで、今はそれが何となく言語化できて見えるってだけなんだけどね。

 

ふぅ、ちょっとすっきりした。しない!言葉なんて嫌い!ふん!

もし言葉なんて必要なく、感覚がそのまま伝わる世界ならさ、まぁどうせそれにも嫌気がさすんだろうな。 完

 

 

この2曲は日本語版と英語版なんだけど、ほんと好きでずっと聴いちゃう。


www.youtube.com

日本語の方は少しほんわかとしてて、何で天国に近づきたいかって部分は触れそうで触れないところが、過ぎ去ってしまった温かさを思い起こしているような、希求を包み隠しているような、そういう優しい寂寥感みたいな空気が余白と溶け合っているようで好き。今と記憶が混ざり合ってるんだよね。

水平線を傾けたら天国へ近づけるかな

のフレーズが本当に好き。夜中暗い部屋で天井に手を伸ばしている時の感覚になる。

 

www.youtube.com

英語の方はもっと表現はストレートなんだけど、その分喪失感が深い感じがしてこっちも好き。この2曲が重なり合ってるけど少し違う感覚を補完し合ってるようで、両方聴いちゃう。歌詞が見つからなくて、youtube musicとかにはあるけど多分自動生成で滅茶苦茶だから、わからない部分もあるんだけど、それもそれでいいかなって思えてくる。

CD欲しかったなぁ。

一時期国のこととか2 バタバタ 母と子 別野加奈

久々の日本から帰ってきてまたいつもの日常。熱波で風が温風になってる。

帰りがバタバタしたんだよね。羽田の便取ったと思ってたら成田でショック。成田遠いよ…って思いながら準備した。最終日にシャツとか食べ物とか買って詰めたら、機内持ち込みの方はもうほぼいっぱいで、預け入れの荷物は15kgしか持ち込めないから、折角買ったお味噌は諦めることになった。手荷物にはギリ入るけどお味噌は預け入れじゃないとダメなんだよね。

それで帰る日、結構余裕見て家出たつもりが新宿で乗り換えた成田エクスプレスは次発だったら危なかったし、成田エクスプレスに手荷物の方忘れかけるし、我ながら結構危なっかしかった。何か最近ぼーっとしてるんだよね。普段と違う荷物だと危ない。

仁川経由だから仁川でちょっと時間があって、夕食にタコスを食べた。1500円。空港価格だけど美味しかった。

f:id:hasriq:20260420020706j:image

その後は特に問題もなく家まで帰れた。

 

日本では甥っ子といっぱい遊んだ。初甥っ子嬉しい。最終日にはかなり懐いてくれてたけど、次会う頃にはもう覚えてないかな。もうすぐ1歳のお誕生日だからプレゼント買ってあげなきゃ。弟の方も第一子が来月生まれるそうで、こっちも甥っ子になりそう。

これで弟夫婦も妹夫婦も賑やかになるわけだけど、どっちも実家を離れてるから心配なのは母かな。色々あって少し統合失調っぽくて疑心があるし、その原因になった叔母は祖母の葬式が終わっても実家に出入りしてるし。この二人の相性がもう少し良ければいいんだけど、性格的に真逆過ぎて些細な言動も敵対的に認識されちゃう部分がある。

祖母を含めたこの三角関係が母をかなり追い詰めていたのだけど、祖母が亡くなってどう動くかが僕は気になってる。この人が出入りし続ければストレスも疑心も収まらないだろう。

それに加えて母は介護者という役割も失った。今は仕事もしてないし、友人ともあまり会っていないようだし、体力の衰えも実感しているようだし、あまり孤立するようなら色々悪化するかもなって思う。ヒトはどこまでいっても社会的動物だからね。

 

それで妹や弟には、母をもう少し連れ出したり、何か役割を体感できるように、仕事でも子守でも頼んでくれって伝えた。でも僕の文章って伝わりづらいから、多分あんまり伝わってないんだよね。妹は何となく理解してくれた気はしてるけど、弟は多分ズレて受け取ってる。今まで仕送りは月にいくらしてて、朝時間がある時は顔を出しているけど、今度食事につれていくねって返事が来た。ズレてと言うか、防衛が働いてるんだよね。お金の話なんてしてないんだけど、それを持ち出すのは僕の文章に攻撃性を見出してるということだから。多分、彼は子供の頃色々あったから後ろめたさがあって、それを今生産するために真っ当に生きようと頑張っているのだろう。だからその自己イメージの防衛として仕送りの話が出たのだろう。かなり、狭い範囲での合理的価値判断が強く出てる。まぁ、彼は彼なりに、妹は妹なりに母に向き合ってくれればそれでいいと思う。僕としては、こんな頼みをするのは我ながら結構異例なんだけど、取り敢えず前提が共有できたからこれでいいと思う。

僕もいざとなったら短期でも日本に帰ればいいのだけど、まぁ難しいよなぁ。日本で社会生活が送れる気がしないし、母との関係性もなんだかよく分からないしね。母にとっては僕は子で、とても良くしてくれたのだけど、僕にとってはずっと小さい頃から頼っちゃいけなさがあったから、微妙な距離感があるんだよね。物心ついた時から支えてあげなきゃって思ってたから、母という言葉がしっくり来ない。じゃあ何なんだって話だけど、よくわかんない。精神的な部分の繋がりって結構状況によりけりなんだろうな。

それで思ったんだけど、母のような存在を求める人って、その満たされなさを母が満たしてくれると知ってるんだよね。中学の時の友達がそうだった。何年か前に傾聴モードで色々聴いてしまったけど、とても興味深かった。それが、彼が小さな頃に知った母なのか、後になって意味として学んだ母なのかはわからないけど。

僕の中ではそれに近い希求は姉という元型に向かってる。僕はそもそも、母という存在が精神的な部分で何を満たしてくれるのか、その前提の部分が未分化ないし放棄されているのだと思う。だから単純に分からない。まぁ、だからではないけど、妹がちゃんと母を母親と認識していると知った時は嬉しかったし、その辺は妹や弟がやった方がしっくりくる気がする。

まぁ、実家も停滞していた祖母を中心とした力学に一区切りがついて、どうなるにせよ変化が生まれるのだろうから、今はそれを様子見かな。

 

 

あとねあとね、凄く好きな曲と最近出会ってしまったの。もっと早く知りたかった。


www.youtube.com

ほんとに凄い。メロディから深く惹き込まれるし、歌声も歌詞も好き。今日もずっと聴きながら夜の散歩してたけど、溶けてしまいそう。

別野加奈って人なのだけど、この曲の入ってるdeath has lightってアルバムずっと聴いていられる。他の曲も凄く合うの。


www.youtube.com

 

インスト曲もとても素敵で大好き。


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com

 

CD買って実家の暗くした部屋でリクライニングチェアに寄りかかりながらサラウンドで聴きたいな。

祖母の死と春の一時帰国

祖母の葬儀のため急遽帰ってきた久々の実家。

なんか変な感じだなぁ。こんな時期に帰ってくるのは何年ぶりだろうか。散りかけで緑の混じる桜、春の嵐の夜の空気、とても懐かしい。

 

今日は自室の使われなくなって久しい、一部断線した5.1chのサラウンドシステムを復旧させ、レイジーボーイのリクライニングチェアを昔と同じ位置に設置して、音楽を聴いた。音質も良いしとっても落ち着く。やっぱりこのお部屋だな。僕の城。辛かった時期、どれだけの時間をここで過ごしただろう。丁度この誰にも邪魔されないリクライニングチェアが、僕が何かに没頭する場所であり、僕が深く沈むための場所だった。

 

今日は散歩にも行った。町並みは大分寂しくなっていた。それでも傘を持った高校生たちが楽しそうに歩いていて、変わっているようで変わっていないなとも感じた。大きなお店が無くなった代わりに、こじんまりとしたおしゃれな飲食店がいくつかできていた。

踏切を越えた先の交差点は、スクランブル式のように縦横の信号が同時に青になるようになっていたのだけど、斜め横断禁止の看板が貼られていて、何の意味があるのだろう?と思った。自転車が危ないのかな。

昔からやっている種苗店は相変わらずこじんまりとやっていて、自転車屋さんは色んなサービスを作って頑張っているようだった。

 

ブックオフは昔ゲーム売り場だった2階が古着売り場になっていて、丁度いいシャツが売ってたから何枚か買った。一階ではデュルケームの自殺論が安かったから買った。家族に見られたら誤解されそうな表題だけど、僕の関心は自殺そのものより、自殺という行動が本能的に起きる社会的動物としてのヒトの方。人という生き物は自殺なしには語れないよね。

 

帰り道は雨が少し強くなっていた。駅を通り、近くのデパートに行った。売り場は変わっても、雰囲気や空気はあまり変わらない。色んな記憶がある空間。向こうに帰る時に持っていきたいものは、大体ここで揃いそうだった。

最後に食料品売り場に行った。めかぶと煮豆を手に取った後、甘酒が欲しいなと思って探し回ったけど中々見つからなかった。以前はヨーグルトとか牛乳のエリアにあったはずなのに、もっと入り口側の豆腐売り場の所にあった。

 

祖母の遺体は家にあって、時々親戚や馴染みの人が会いにくる。今日は祖母と何十年も、祖母の美容院で一緒に働いていた人が来た。大分腰が曲がって頭も真っ白になっていたけど、頭はしっかりしているようだった。祖母は足が悪いだけだと思っていたから、急な訃報にビックリしてしまったそう。祖母の遺体に色々話しかけていた。それが何だか、僕には興味深かった。死んでいるのに話しかけるって、どこかとても人間らしい。

祖母の姉も結構ショックを受けてしまったそうだ。

会う機会が減っていると記憶が止まっていてショックを受けやすいのかも。

 

僕は何というか、割と予測通りの展開が続いていたのであまりショックがないんだよね。祖母とは昔から毎日会うような距離感だったから、近しいのだけど。

5年前くらいの一時帰国で店をたたむと聞いた時は、完全に仕事やめちゃうと始まりかけていたボケが高確率で一気に進むよと家族には伝えたし、3年前の一時帰国では実際にそうなっていた。僕の中では、その認知の悪化が、記憶とそれにくっついた人格の切り替わりに見えて、僕にとっての祖母という存在は、目の前の祖母の奥深くに行ってしまったように感じたんだよね。時々出てくるのだけど、やっぱりちょっと違うって。その時にはもう、好転は期待できないのはわかってたし、僕は徐々に自分の中で区切りをつけていたのだと思う。二年に一回とかしか僕は日本に帰らないからね。毎度一時帰国が終わる頃には次は会えないかもという覚悟をつける必要もあったし、だからこそ悔いのないように可能な限り一緒に過ごしたりもしたしね。その時は体調を崩したり食欲もなかったりで大分痩せていて。

で、一年前に帰ってきた時は、体調は回復して体重も結構戻っていた。けど認知はやはり、更にちょっと悪化していたかな。おかげで僕もかなり準備が整った。記憶の中の祖母と、目の前の祖母を切り離すことが出来ていて。

それで今年の初め頃だったかな、足を折ってしまったと聞いた。家族が言うにはリスクもあるから手術はせず、出来たらリハビリをすることに決まったとのことだった。それを聞いた時、僕の中では、祖母はもう長くないなというのがわかった。足をやってしまうのは多くの場合終焉の始まりだからね。そこで温存に向かうなら、家族はその流れを受け入れたことに等しいなと思った。その理解も意識もない選択だとしても、流れとしてはね。

まぁそんなこんなもあったから、先週容体が悪化した時に、今のうちに会いにきてくれるかと家族から連絡があった時に僕は少し困惑した。

だって僕の中では、会ったところでっていう部分が引っかかるから。多分この辺は見え方捉え方の違いだろうけどね。祖母とはどれなのか。そして会ったところで、僕の知ってる祖母はどこにいるのか。少し譲って認知悪化後の祖母も祖母だとしても、仮に目を覚ましたタイミングでも認知どころか意識レベルが低い祖母が、実際に僕と会うことを望むのだろうか。そりゃ、多くの人々の共通認識としては危篤の人に会うのは道徳的で善なのだろうけど、だからこそそれは強引な理屈に思えてね。

長くないのなら、仮に会いに行ったって、もしかしたらまもなくお葬式にも行かなきゃいけなくなってしまうだろうし。

 

でもまぁ、結局、その翌日にビデオ通話で意識のない祖母に少し一方的に声をかけて、30分後に訃報が届いた。

その日の内に飛行機を取って、2日後の便で1日かけて帰ってきたのです。

そういえば一人で一時帰国するの、祖父のお葬式の時以来かな。厳密にいえばその時はまだ向こうには住んでいなかったけど。

 

まぁなんだろう。人によっては僕の言動は冷たく見えるのだろうけどね。泣きもしないし、悲しむ素振りも見せないし。うーん、悲しいというより寂しさはあるんだけどね。僕はその、記憶の中の祖母がもう手の届かない所にいる寂しさを、3年以上感じてきたわけだし、最期のフェーズというのもずっとそう思ってきたわけだから、今の今になって喪失を感じる人に対しては僕は逆に困惑してしまうぐらいなのだけど、見え方の違いなのはわかるからまぁね。

 

お葬式やだなぁ。あの感情を一つに揃えることが要求される場。数々の意味やしきたりやマナーに疑問を抱いてはいけない場。そこでの所作が親戚一同に審査される場。あぁデュルケームよ。

 

トランジットの台北も福岡も雲がとっても綺麗だった。

f:id:hasriq:20260411030047j:image

f:id:hasriq:20260411030043j:image

寂寥感 から 寒さと防寒

なんか大きなセールがきてたので、ヘッドフォンをようやく買った。故障してからずっとイヤフォンオンリーライフだったから嬉しい。SennheiserのHD620Sっていうやつで、定価の7割引くらいで手に入った。外界はできる限りシャットアウトしたいからクローズドバックのこれが良かった。音は満足だけど今のお部屋用眼鏡とちょっと相性が悪いかな。そのうち慣れるとは思うけど。そこまでこだわりがあるわけでもないのだけど、音楽に守られて生きてるようなものだから、やっぱり音はいい方が嬉しい。

 

最近はよく寂寥感について考える。寂寥感は孤独感とは質感が違う。僕にとってのそれは、寒さのように、外側から体感される。環境のようなものだ。これを強く感じるようになってから久しい。満たされなさとも違うんだよね。それが他者とのズレが明確になったことによるものなのか、自己を固定しなくなったことによるものなのか、様々な意味を解いたことによるものなのか、どれなのかはわからない。これらは連鎖しているから、複合なのだろうけど。

この寒さは辛いのだけど、寂寥感は悪いことばかりではない。寒いけれど澄んでいる。それがこの環境。澄んでいるから、よりはっきり見ることは出来る。バーターなんだよね。

 

以前ブログで少しやり取りがあった人に久々にコメントしたら返信してくれてね、とっても嬉しかったの。その人は今暗いところに居るのだけれど、怖い時もぬいぐるみを連れて行っているから大丈夫なんだって言っていた。

何かを連れて行く、僕にはその発想がなかった。でもその通りなんだよね。寒いなら温かいものを持っていけばいい。内的な世界にルールなんてないのだから、イメージを具現化することもできるだろう。何か大切なヒントをもらった気がした。

僕はなんというか、歪めずに見たい、読みたい、感じたいっていう欲望が強いのだと思う。言葉の意味の構造、人の意識の構造、群れの力学、そういったものを見ているのも、歪みには敏感だからだろうか。そんな僕にとっては実在の世界は現象であって、知覚も現象であって、それが触れ合うところに感覚を澄ましている。内的な世界も同じ。現象であって、受動的に感じる環境という認識だった。僕の能動は、それを澄ますための破壊。相対化の方。

内的な世界に能動的に何かを持ち込む、これは僕にとっては新しい試みになる。大きく改変してバランスが崩れないように、小さなものがいいかな。僕はこの寒い荒野のような内的イメージを、耐え難い寒さ以外は気に入っているのだから、それが壊れない程度に。

 

温かさってなんだろう。温度?温もり?別に人肌が恋しいわけでもないと思う。孤独感と寂寥感とこの寒さは全部似ていて別なんだよね。なぜ寒いのか。拒絶するような寒さ。痛みは避けさせるため、疲れは休ませるため、身体の意図から考えれば、寒さもまた、何かを伝えようとしている。ここに居たら耐えられないと。暖を取れと。安全な場所に戻るように。でもあいにく、僕はヒトだ。ヒトは己の欲望のためには危険も冒す。僕にとっての欲望は、世界をそのまま感じること。そのためには意味を相対化しなければならなかった。でも相対化した意味たちは、意味として機能しなくなる。不思議なことに。

意味には重力のような力がある。そこに温かさの源泉があるのなら、その外へ外へと向かい続けてきた僕が寒さに震えるのは当然なことなのかもしれない。

 

知覚される内的な世界。そこで意味によって防寒する、温かくするということは、僕は避けてきた。それは人々の欺瞞と同じだからというのもあるし、欺瞞は無意識にされるからこそそこまでの効果が生まれるのだろうから。意図的にやっても僕はその意味を信じることが出来ない。信というのは、その意味体系の内側にしか視点がないからこそ効力を発揮するのであって、多義化して絶対性を解かないと気がすまない僕とは相性が悪すぎる。

だけど何かを持ち込むというのは意味でなくてもいい。イメージ。知覚を基点に見るなら、実在とイメージは絡み合い、浸透し、干渉しあう、それぞれが別の世界でありながら、人の中では一つのもの。という認識の僕には、イメージは相性がいいかもしれない。信じるのではなく、生み出し、持ち込めばいい。

あまり歪めないようにしたいから、塩梅が難しいかもしれないけどね。まぁ歪めまくって崩れたのなら、その向こう側に何が見えるのかも気になっちゃうけど。

はい。

 

 

これとっても好きでよく聴いてるの。


www.youtube.com