感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど

良い所、長所の時間 優しい僕 温厚な僕

小中学生の頃、自分の良い所を挙げるという時間が度々あった。それがとても苦手だった。

良い所って自分で言うものなのだろうか。言われれば言われるほど分からなくなる。

 

クラスのみんながその子の良い所を挙げて、それを3つずつだか似顔絵と共に貼り付けられるというのもあった。

それも意味がわからなかった。

 

子供の頃は違和感を感じては悩んだ。こんなことで悩む自分がおかしいと思った。

でも今考えればそんなレッテル貼りを許容できないのは当たり前。頭にくる。

 

僕がつけられるイメージはいつも『優しい』『温厚』だった。皆にそのイメージで話しかけられるのが気持ち悪かった。

 

個人がそう言ってくれるのはいい。その人がそう感じてくれるのだから。それはその人の感じたことだから否定的なことでも許容できる。

 

でも集団の中で僕が『優しい』と定義されたら、そうでなくてはならなくなる。気にしなければいいと言われても、そういう風に見られたらそうもいかない。

 

更に自分自身を自分自身で定義しなければいけない時間は更に矛盾が食い込んでくる。

「優しいんだから自分は優しいと言えばいいんだよ」そう言われても、それがどれだけ難しいことか。

優しい人が自分のこと優しいと言う?

そもそも僕は優しいと思っていない。

 

仕方なくいつも『温厚』の方を選ぶ。それも不服だった。

温厚温厚ってなんなのだろう。温厚じゃなきゃ僕じゃないのだろうか。

 

自分で自分の性質を出さなければならない時、否定的なことの方が抵抗なくスラスラ出てくる。ポジティブなことほど難しい。

分からないけど、矛盾する分否定的な方が受け入れ易いんだろう。嘘となった場合、そちらの方が人を傷つけないしがっかりさせない。多分そのせい。

 

それ以来自己紹介は本当に苦手になった。適当な言葉が見つからないから。

今でも名前言って「よろしくお願いします」で済ますことが多い。

煩わしい。

 

 

『優しい』というのは今も食い込んでいる。

身体的特徴でスネ毛といじめられた彼は帰って来なかった。僕は普通のクラスメイトだと思っていて、家に遊びに行ったこともあった。でも彼が不登校になってから僕は一度しか遊びに行かなかった。何もしてあげられなかった。

彼はとても優しかった。僕なんかよりずっと。でもみんなは彼を優しいと言わなかった。

 

胸毛というレッテルを貼られた子も戻って来なかった。関わりがなかったから何もできなかった。でも何もできなかったのは傍観だったのではないかと今でも思うことがある。

 

その僕が『優しい』と言えるわけがない。ましてや自分の口で。

 

学校は残酷な空間だと思う。僕もその空間の一部だった。

僕は違和感を感じても、多少いじめられることがあっても、なんとかやって来れてしまった。高校時代の出来事は別として。

 

帰って来なかった子は沢山いる。僕は彼らの違和感や苦しみを感じられる側だったかも知れないのに、何もしてこなかった。正に残酷な空間の一部だった。

 

皆自分としてそこにいただけなのに。

 

良い所だとか長所だとか、イメージが先行する限りレッテルはレッテル。プラスだとかポジティブなんて結局彼らの理屈でしかない。

その態度の成れの果てがスネ毛や胸毛と人を定義する態度だと思う。

 

 

あーあ、せっかく海に来たのだからもっと楽しいこと書きたかったなー。偏屈おじさんになりそう。

 

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*追記

『思いやりがある』もあったなぁ。

じゃあみんなは思いやりがなかったの?そんな筈がない。

 

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やっと人のいないとこまできた。

僕はいつ海に還れるのだろう。

やる気消失現象 から

「やらなきゃ!」って思っていて準備も始めていたことでも、「やりなさい」とか「やっといて」と言われると一気にやる気が消失する現象は何なのだろう。

 

主体性を奪われるからなのかな。

そう考えると行動原理に『自分のやりたい気持ちに従う』っていうのが関わってるのかもしれない。

やりたい気持ちが大事なのか、自分の気持ちに従うのが大事なのか、どちらだろう。

やりたくないけどやろう!って思うこともあるから、多分後者なのかな。

 

やろうと思わないことはやらないし、人に指示されてもやろうと思えればやる気は出る。

自分が『やろうと思っていたこと』が『人に指示された』に変わるのが問題なのだろう。

 

僕がコミュニティと対峙するとき、励ましたり勇気づけたりすることも大事だけど、enpowermentが重要だという価値観がある。多分自分の中身が反映されていたんだろうな。

主体性も同じで、結局は自分に個人主義的な感覚があるので、それが反映されているのだろう。

 

主体性。学校が『主体性を育む』という理念を提唱しても、その感覚が教師にないと無理なんだと思う。でも『教えよう』という思いの強い熱心な教師ほどその感覚は持ち合わせていない。

主体性を育むという考え方もおかしい。主体性は誰もが持っているもので、それが優位か優位でないかの違いしかないと思う。それが教育の過程で片方(この場合主体性を奪う方)に偏るので、僕のような人間は不満やストレスしか残らない。でも多くは、気持ちよく従うことが出来る。

それを逆にしたところで同じことがおきるだけ。ただ反対側の性質を持った人たちが苦しむことになる。

 

ではどうしよう。子供を分別する?自分の性質を知ることは大切だろうけど、分けてしまうのは違うと思う。

結局は教育の在り方は社会の在り方の問題と直結する。教育も社会構造の一部であって、教育だけ変わっても意味がない。

 

フィンランドが学校教育から教科を撤廃するというニュースを見た。北欧のような教育は僕にとっては理想。でもその変化をフィンランドが起こしてこれたのは、北欧、フィンランドの人の性質に起因する。日本がそれを導入しても、大事なところはついてこない。

日本は日本なりに変化を起こしていかなければならない。

でも通念的に共有する、正しいとされる性質は煮詰まってしまった。そうなると変化自体が夢物語なのかもしれない。

 

受け皿の活動が増えている。そちらに期待するしかないのかも。でもその受け皿に入れずに消えてしまう子はどうなるのだろう。一歩一歩良くなると信じても、消えてしまうものは消えてしまう。

 

僕は子供が好き。僕自体が子供みたいなものだから。

僕は教師になろうかなぁと思ったことはあったけど、ならなかった。でもそれでよかったんだと思う。

もし教師になっていたら、割り切れない性格だから色んな矛盾にぶち当たって早死にしていただろう。はたから見る教師たちは難なくこなしているように見えるが、僕は自分がやると想像するとやっぱり無理だろうと思う。ひとりひとりでも重いのに、30人以上ともなれば重すぎる。

多分僕のような人間は教師を早期に退職するのだろう。難なくこなせる人ばかりが残るから、学校は凝り固まる。

 

社会構造が変われば教師になることを考えるけど、それは恐らくあり得ない。

だから今日は教育について考えるのをやめよう。

 

雨が降っている。適度の雨の音は心を落ち着かせてくれる。

多分、数万年、それ以上の単位でヒトは雨の音を聞いて、その時間はゆったりまったりと過ごしてきたのだろう。

なんでその雨の音を聞きながら働かなきゃいけない時があるのか、いささか疑問だね。

 

もう寝よ。

残った自分 減ってしまった自分 拘束されている自分

僕の存在を認めてくれる人が隣にいる時、普段なら委縮してしまうような人を前にしても、僕は自分を保つことが出来た。自分らしく受け答えできた。

 

その時に頭に浮かんだ光景が、普段親や教師の言うことを素直に聞いている子供が友達と一緒になると、子供たちは誰の言うことも聞かず収拾がつかなくなる光景だった。

サルのようだと表現されたりもする光景。

 

親や教師は普段見て接する子供の姿をその子そのものだと認識する場合が多い。

でも本当にそうだろうか。友達と一緒に嵐を巻き起こしている子供は生き生きとしている。

自分を保ち、自分らしく受け答えできた時の僕も生き生きとしていただろう。

僕は自分自身の内面を雁字搦めにしている人間なので、どちらの自分が本当の自分なのかわからなくなる。自分の内面を出すことに恐れがある。

 

もしその子供が僕のようなタイプなのであれば、その生き生きとしている瞬間は貴重だ。でももし、その生き生きとした、楽しく自信に満ち、自分を解放している瞬間を大人に否定されたとしたら。友達と居ることで解放できる自分を否定され、普段のコントロール下の自分が正しいものとされたとしたら。

自分の2つの面が1つにされてしまう。

その子がコントロール下の自分だけを認めることで自分を維持できても、そのコントロール故に辛い思いをするかもしれない。

 

それは常に全力で生きる子供たちにも、もしかしたら大人になった僕たちにも、全ての瞬間において当てはまるのかもしれない。

自分が自分であるのは肯定される一瞬だけではない。すべての瞬間が自分自身であるのだから。

サルのような時も、コントロールに身を置いている時も、落ち込んでいる時も、暴れている時も、好奇心に振り回される時も、優しさ・慈しみをもって人と接する時も、人を傷つけてしまっている時でさえも、全てが自分自身。

 

否定されれば否定されただけ自分が減ってしまう。そう考えると恐ろしくなった。

減ってしまった自分を自分自身として取り戻すのは難しい。それは残っている自分自身が邪魔をするから。それは僕ではない、僕は僕だと。

 

多くの人が自分自身に辛さを抱えている。それはある意味で、減ってしまった自分が泣き叫んでいるのではないかなって思った。

 

僕の中に見える、拘束衣に包まれたハンニバル・レクターのような拘束されている自分も、泣いているのかもしれない。

拘束しているのは残っている自分だ。彼は「拘束を解いてはいけない」と言う。

でも拘束されている自分は日増しに強くなる。

それがとても辛く苦しい。

どちらの言い分が正しいのか今の僕には分からない。

いつかわかるのだろうか。

 

 

気を付けようと思う。

それはいつも、意図せずとも起こるものだから。

否定も肯定も、存在にかかわることだから。

生き生きできるのが一番いいと僕は思う。だって生きているのだもの。

 

気づきをくれた2人、大切な友達にも、僕を委縮させる人にも感謝したい。

戦争 戦没者の価値観 現代人の祈り

暴走気味なので長いです。読む価値もないと思います。でも噛みつきたかった。

 

戦争が悲惨なもの『でないといけないという空気』が嫌い。

 

国民の多数で戦争を支持しておいて、敗戦したら死んだ人たちに向かって「過ちを繰り返しません。」って勝手すぎると思う。

過ちで済ますの?誰の過ちにするの?

 

終戦記念日の黙とう呼び掛け=政府:時事ドットコム

>>「戦禍に倒れた戦没者の尊い犠牲に思いを致し、全国民が深く追悼の誠をささげるとともに、恒久平和の確立への誓いを新たにしようとするものだ」

 

追悼と恒久平和の確立への誓いは繋がるの?その誓いは戦没者と共有できるものなの?

そうでないなら追悼とは切り離してやるべきだと思う。

この人は政治家だからそういうパフォーマンスも必要なのだろうけど、それはそういうパフォーマンスが必要な空気が世の中の多数側であることの裏返しでもある。

 

死んだ人達の想いはどうなるのだろう。

戦地に赴いた人たちの多くは、その戦争を支持するムードや誇らしいと思う家族の想いに背中を押されて旅立って行った人も多いだろう。

少なくとも戻らなかった彼らにとっては、出発の時の帽振れや見送りの家族の言葉が最後の思いの接点だろう。その人達を死地へ送っていった念いを、「やっぱり間違いでした」で済ますの?

 

敗戦したからと戦争自体を狂気の沙汰、悲劇の過去とするのは、敢闘虚しく散った人たちの尊厳を、人として、祖先として守ろうとする意識の表れだと思う。でも想いを投げ捨てた尊厳に意味があるのだろうか。

結局ただ現代の価値観で勝手に過去の人々を裁いているだけではないかと思う。

 

思想も政治も情勢も、いくつもの流れがあって、戦争はその流れの延長で起きるもの。急に起きる悲劇ではないと思う。

そこには利用される・されないを問わず、民衆を動かす大義なり、正義なり、原動力となった個々の想いもあるはず。それはぶつかる双方に当たり前にあるもの。祖国の為というのが間接的に家族の為という意味を持つのも同じ。

それを美しいと言うと怒られるだろうが、その強い思いを現代の価値観で認めないことを正当化する為に悲惨、悲劇とばかり言っているように僕には見えてしまう。話を逸らしているだけではないの?

 

その平和への祈りは誰に向けられているのだろう。

戦死、戦病死した兵や、それをサポートしていた民間の戦没者の存在を認めているのだろうか。

彼らが見据えていた未来はその平和なのだろうか。

違っていても想いがあるから、死に対する慰め、祈りだから慰霊だと一方的に言い張って墓や碑の前で勝手に祈り、全国で黙とうするのは乱暴ではないだろうか。

周りが祈ってるから。そういうものだから。祈らないのは冒涜だ。

結局広島を聖地のひとつにした国家宗教が出来ただけではないの?その宗教はどこを向いているの?

 

戦没者を偲ぶこと、追悼することは一人一人がすることだと思う。式典があるのはいい。でもそれぞれの想いの中ですることだ。

そうでないから黙とうすること、祈ること、誓うことを通して、自分の所属するTribe的なものに自分の行動を見せつけることが目的に取って代わってしまう。自粛ムードも同じ。戦没者や犠牲者、被災者を想う気持ちを盾に、自分の所属する枠に対して行動を示して満足しているのがその空気だと感じる。

そこに想いは薄く、空虚だからお仕着せがましいものが入る余地を与えてしまう。

小学校で度々あった黙とうも意味が分からなかった。

 

僕らは歴史上の出来事に関して、現代の価値観でしか見ることが出来ない。価値観を共有していないから。

大英帝国が多数の植民地支配をした。それは事実だろう。その過程で沢山の人が死んだ。それも事実だし、支配の過程で人を人と扱っていなかった。それも事実だと思う。

でもその人達は当時の彼らの価値観では人ではなかった。それも事実。

知人はよくイギリス人を残虐だと叩く。でもそれに何の意味があるのだろう。

彼らの価値観も流れの中で変化している。彼はその変化を認めないで、過去の残虐性や排他性を根拠に現代のイギリス人をも叩く。

でもその価値観の中に生まれていたら、彼はどう生きただろうか。黒人とハグ出来たのか。現代の価値観、我々の価値観で過去の人を裁くことに何の意味があるのだろう。それを更に現代の人々に当て嵌めることで何が得られるのだろう。

 

先ずは事実を認めなければ、その上で自分たちの残虐性とも向かい合い、認めなければ何も変わらないと思っている。

老人になって自分の経験で若者を叩くのも同じ。それを続ければ次の世代の価値観で裁かれる側に回るのは自分ではないか。当然の流れと受け容れてそのサイクルを続けるの?

 

それらと同じで、戦時の価値観を否定から入っているのが現代の祈りと感じる。

その祈りを受ける為に彼らは死んでいったの?

特攻隊員が遺族に宛てた手紙を集めた本や、戦地に居る人達が遺族に宛てた手紙を集めた本がある。

そこにはそれぞれに、大きな流れ・理念・大義に身を任せながらも、鬼畜米英から家族や祖国を守ろうという意志、戦地から家族を想う人達の言葉、戦死した戦友に宛てた言葉など、色々な感情のこもった手紙が遺されている。本当にその一つ一つが、僕たちには理解のできない壮絶な、様々な思いのこもった手紙。

 その平和への祈りは、彼ら一人一人の念いを認めているのだろうか。死地へと

彼らの背中を押した念いを認めているのだろうか。否定から入るために無下にしているのではないか。

ポツダム宣言受諾を周知した日を祝日にして、その日に祈るって、死んでいった人たちはどう思うだろう。生き残った人と死んだ人は違う。両者にとっては認識の分岐点であって、それを飲めるのは前者だけだろう。

 

誇り、忠誠、仁義、信念、情熱、迷い、後ろめたさ、そういったものに隠れた優しさや愛情、悲しみ、恐れ、楽しみなどの感情と平和への想いは矛盾するものだとは思わない。いや、矛盾してもいいと思う。人から矛盾を取り払ったら狂気ばかりが目立つから。

それらを無視した祈りや誓いは、彼らの死を喪失と悲壮だけで切り捨て、勝手な思いに繋げる。

 

僕は悲劇の側面を否定するわけではない。

でもその戦争そのものを全否定する態度、悲劇を崇めて自分は関係ないですという全体的な態度が気に食わない。

その否定で何が得られるのだろう。

  

 

『戦争は人を狂わせる』

この言葉にも自分達が正常という偏っているかもしれない見方、そして戦時、戦後の人の変化を『戦争のせいで人が狂ってしまった』と、戦争という事象を原因にして一般化することで、その人々の変化を貶めることを正当化しているように感じる。

 

平和教育がまさにそれだった。ひたすら戦争を悲惨なものとして自分達の価値観を正しいものとせんが為に感情ばかりを煽り、子供であった僕の気持ちにまで入り込もうとしてきた。

クラス全てが同じ価値観、同じ類の感情、同じ気持ちに根ざす感想、同じ方向の認識を共有しなければいけない、僕にとっては異様な空間だった。

そんなことばかりがあったからと言うと言い訳になるだろうが、僕はアウトプットが苦手になった。自分の抱く感想はみんなと違うから恥ずかしいものだ、いけないものだという感覚が内面に出来てしまった。話がずれそう。

 

その戦時の人の想いが全く入っていない平和教育で本当に平和が保てるの?それは思想教育であって、プロパガンダと何が違うのだろう。僕はその乱暴な態度の方が狂ってると思う。

 主体性を奪って集団のムードに従うことばかり教えて、その排他的な集団は本当に戦争と平和というものを考えることが出来るのだろうか。

 

終戦記念アニメとか、そういった戦争に関する作品は、戦後の価値観が透いて見えるのが嫌い。勝手な思いを混ぜるならノンフィクションというべきではないだろう。清々しい分幸福の科学の作ったアニメの方が良くできているとさえ思う。(比較して良いだけで観る価値があるというわけではなく)

終戦の日には仲のいい友達と、その日に放送される終戦記念アニメを観て笑った。子供が観ても偏った、悲惨さばかりを強調して感情にばかり訴えかけるものばかりだった。敢えて観て、笑って否定することが僕にとっての唯一の抵抗だった。

 戦時中のプロパガンダと言われる作品と方向性が違うだけでやっていることがあまり変わらない。戦時作品の方が生きた意志な分、心に響くものがある。戦後の作品の伝えようとするところは生気がなく、どこか亡霊的に感じるものが多い。観ていると魂を抜かれそうな気がしてくる。

ゾンビ製造機とまでは言わないけれど、それに似た何かがあると僕は感じる。

 趣向の問題だろうけど。

 

戦争体験者は悲惨さから口を噤むという。それは本当にただ悲惨だったからなのだろうか。

あまりに価値観が違うところに浸かっていれば、それと逆行することを口にするのが難しいのは当然だと思う。

悲惨なことも認められるのなら話すこともできる場合があるのではないか。

語るのに「勇気が必要」と老人に思わせる何かがあるのではないだろうか。その老人が語ったのが、「戦争やるなら負けちゃいけません。」だった。

教師はその体験者の言葉を否定した。

 

全体としての空気はともかく、個人の性格や体験にもよるところまでも、全て悲惨の一言に結び付けて片づけるのは良くないと思う。

そこに、平和を考えるという態度はない。反戦ばかりが前を行って、その価値観を植え付けることが目的となっている。 

平和教育ではなく堂々と反戦思想教育と言えばいいのにと思う。

反戦と平和は繋がるの? 

 

 

人が人である以上争いは起きるのだし、国が国として今の形で存在する以上国家間の戦争も起きるものだと思う。非対称戦やテロに至っては毎日起きている。イデオロギーがあれば対立も起きる。

その中で戦争を悲惨だからと否定だけしても、ただ目を逸らしているだけにしか見えない。 

本当に平和を続けたいのなら、国家間の全面衝突を回避したいのなら、なぜ事実の流れから目を背け、当時の人の想いを無視するのだろう。

恒久平和?その暴力的な姿勢で?もう僕のことをユートピアンと言えないね。

 

戦争はなぜ忌むべきものなの?死や苦しみ、悲しみ、痛みを生むから?死や苦しみ、悲しみ、痛みから目を逸らして生はあるの? 

 

子供っぽくてごめんね。この空気そのものがよくわかんないし嫌い。気持ち悪い。空気が。

死刑

死刑に関しては国によって考え方が違う。それはいいと思う。それはその社会の選んだことだから。

日本が社会として死刑制度を続けるのもまた、社会がそう選んだのならいいと思う。

僕は制度の在り方が現状のままなら反対側なのかな。

 

刑務官が3人で同時にスイッチを押すというのはおかしいと思う。

誰の為の死刑なのだろう。

 

社会との契約という理由付けがある

社会があり、司法制度があり、刑法があり、それを社会が選んだ以上それはいいと思う。

でも社会として死刑を続ける選択をするのなら、社会の参加者が執行するか、そうでなければ社会全体が刑の執行を見届けるべきだと思う。

刑の執行、死と向き合わないでなぜ死刑を続けられるのだろう。

業は刑務官と機械に分からないように背負わせるというのは、虫が良すぎると思う。

 

どこかの国のように見せしめのためばかりに公開処刑をやれと言うわけではないけれど、そのくらいのオープンさがないと他人事で終わってしまう。社会との契約というのなら、社会の一員としてその一端を担っているくらいの認識が必要なのではないかと思う。裁判員制度が出来て久しいが、刑務員制度でもやってはどうか。

生にばかり固執して死から目を逸らしてばかりいるから、死刑が最高刑という価値観が出来上がるのではないかとも思う。

 

 

犯罪抑止という観点。

人間が動物としての衝動や激情がある限り、その瞬間においてはその抑止は成り立たないと思う。

計画的な犯行が増える?それを計算できる人間は死刑でなくても抑止になると思う。この辺りは計れないのでやめておく。

抑止というのならやはりどこかの国のように公開処刑を…

 

被害者の尊厳、遺族の被害者感情を挙げる人がいる。

でもそんな遺族によって考え方が違うこと、時間経過によっても変わることを根拠になんてできないと思う。

もし遺族の被害者感情を晴らすためだというなら、なぜ遺族に執行させないのだろう。

2重に苦しみを与える?犯罪者とはいえ人の生を奪うのであれば、背負うものがあって当然だと思う。恨みを晴らすのならそのくらいの覚悟があって当然だと思う。

 

生ばかり求めて、嫌な死から目を逸らそうというのは何か違う気がする。ましてや社会として認めている死刑制度においてまでその態度をとるのは何か嫌。他人事過ぎる気がする。

なんでこんなこと考えてたんだっけ。

 

 

*追記

加害者の尊厳のためという理由付けもあるらしい。

これ一番嫌いかもしれない。

 

共有するルールとしてとはいえ一方的に裁いておいて、裁く側の理屈で勝手に尊厳を与えた事にするのは横暴過ぎると思う。その正当化は必要なの?

ルールが線引きであってそれを根拠に裁くのなら裁く側の態度を取れと思う。執行も執行の態度だと僕が感じられないから気に障るんだろうな。

 

例えば僕は職業選択においても、プロジェクトにおいても、関わるのであれば責任を負う覚悟は持つべきだと思う。関わるということが認めること、それを動かす部品の一部となる事と認識するから。

裁く側、執行する側の人間が自由意思で職業選択するのなら、個人としてその態度を示すべきだと思う。国が彼らに対しできるのは死を与える苦痛を和らげるのではなく、ただ苦痛分を上乗せした給与待遇の改善に尽きると思う。

 

でも、そもそもが彼らばかりに背負わせるのがおかしいと思うから、やはりルールを共有する皆で人を裁くこと、吊るすことを共有しなければいけないと思う。

 

間違いを犯した人が出るとすぐに吊るせ吊るせという人たちが沢山いるけど、その対象を排して自分の暴力性を正当化する態度が嫌い。人は己の残虐性、暴力性と向き合わなければいけないと思う。僕も含めて。

裁くことも、刑の執行も、色んな社会問題も、他人事である限りヒューマニティから離れていくことになる。そしてその先に解決はない気がしている。

 

朝から暴走気味だな。ここまでにします。

こういうのって死生観も含めて色んな価値観が反映されるんだろうな。おもしろい。

お買い物

買いたいものがあるのでお買い物に中心街に来た。

ショッピングモールに入るが人が多くて目は回るし頭も痛くなる。少しでも落ち着いて買い物するためにはイヤホンが必要だと思い、エアパッド付きのイヤホンを買った。

 

だいぶマシかな… 日本にいる時もずっとイヤホンに頼っていた。一時期はサングラスもしたけど、今はコンタクトじゃないのでハードルが高い。

 

目に入る人々、単なる人なのだけど、多分色んな情報を拾いすぎるんだと思う。動き、特徴、表情、集団。気にしていないつもりでも通り過ぎた後に頭に浮かぶから、やはり捉えてしまっている。

特に表情は色んな情報が含まれているから、それだけで重い。

 

耳に入る雑音もそう。特に人の声は認識していないつもりでいても、やはりどこかで認識している。

 

念を拾いやすいんだって言われたことがあるが、そんなものではないと思う。ただ勝手に情報を拾って、その処理が複雑で疲れたり気持ち悪くなるのだと思う。

念というものを信じる信じないではなく、ただそう感じる。

感度の高いレーダーが必要のない小さな情報を拾いすぎてノイズだらけになり、目的のものに集中して処理できないのと似てると思う。人の多い都市生活に合う性質じゃないんだろうな。

 

 

こっちの店員は親切心なのかそういう指導なのか、店に一歩入ると「何探してるの?」と声を掛けてくる。

元気な時は「ちょっと見せて」と言って無視するのだけど、今日はそういう調子でもないらしい。

探しているものがないといけないわけでもないのは当然だし、気にする必要もないのだけど、やはり落ち着かない。

接客が万引き防止の意味があるのも分かる。これだけ万引きの多いところだと店側のその気持ちは理解してあげないといけない。

万引きするつもりがないなら堂々とすればいいじゃんって思うだろうが、疑われていることが申し訳ないというか、余計な手間や心配をかけてるんじゃないかとも思ってしまって、やはりゆっくり見れない。

こっちにとっては無言の圧力に他ならない。商品を見ていても頭の中でチクタクチクタク、1分も経たずにそろそろ出なきゃという衝動に駆られる。

 

ウインドウショッピング好きにとっては地獄。

 

店に入っては店員を確認し、寄ってくるようならサッと進路を変えて出る。その繰り返し。怪しいなぁ。

 

取り敢えず偵察に偵察を重ね、買う商品の当てはできた。今日最初に入った店で「これだな」って思ったやつ。

 

4つのモールと市場を見て回り、おそらくこれを買っても悔いがないことも確認した。

あとは店に行って店員に頼んで見せてもらうというハードルがある。

 

でもそれには多大なエネルギーが必要なので、今はマクドナルドでコーヒーを飲んでいる。ただでさえ緊張型なのにコーヒーが好きという矛盾も、そろそろ考えた方がいいかもしれない。

 

 

物を選ぶのは好き。色んなことを感じたり考えたり思ったりしながら、自分の気持ちに合うものを探していく。それは単なる作業ではなく、色んな内側との対話なのだと思う。

 

それが人にあげるプレゼントなら、その時間はもっと大切なものになる。

喜んでもらえるかなとか、選んだ気持ちが伝わるかなとか。独り善がりだけど。そのプレゼントが残るものでなくても、相手にとって思い出となってくれれば一瞬が永遠になる。お互いの大切な瞬間をものが繋いでくれる。

人によっては重いと感じるかもしれないけど、そんな思いは伝えないので重くもないだろう。その辺は人によって変えるしね。

 

 

目的の物を買えたら、あとは野菜を買って帰ろう。

今は一人暮らし期間なので、鶏がらスープを鍋いっぱい作りました。

スープとしてご飯と食べ、雑炊にして食べ、麺を入れて食べ、味付けを変えて食べ、野菜炒めの味付けに使ったり、簡単で意外と便利なのです。ガラも身がついていて食べられるし。

料理は楽しい。

 

 

*追記

店が閉まってしまったので明日出直し。

そうこうする内にもうひとつ良さそうなのを見つけてしまった。優柔不断だから選べるかな…

 

イヤホンの問題は背後の不安が増すことにある。他者との距離を常に計ってる身としてはどっちがいいのだろうか。

一長一短だなぁ。

感情 成長 蛹

落ち着いているとよく言われる。外から見るとそう見えるというだけで、内側は荒れ狂ってる上にドロドロのヘドロなのだけど。

 

感情を外に出すのに困難がある分、それができる人を羨ましく思ってしまうこともある。例えその人がそれ故に困難を持っているとしても、僕には分からない別の困難なわけで。

無い物ねだりの末路なのだろうか。

 

感情が出せる人は出すことを恥じるのではなく、出せることを感謝しながら出し方を工夫するのがいいのではないかと思う。ある程度のコントロールは必要だろうけど、出さないようにと我慢ばかりするのは自分の良さを否定することになるかもしれない。

その感情はきっと、意味のある美しいものだから。

 

他人の感情を巻き込まない、その人本来の感情のアウトプットは美しいものだと思う。そこに深浅・強弱はあっても、ポジティブ、ネガティブの区別はない。

言葉、表現、表情、仕草、行動。全てがその人の、その瞬間瞬間の生きている姿であり、固有の感じ方を反映された、否定されようのない固有の存在そのものの姿なのだから。儚く、美しく、生きる力に溢れている。

感情、それこそが、人という存在に僕が見出せる自然な美しさだと思う。色であり輝き。

どんな感情とある人も、その人なりの成長を続けていくのだろう。

子供と同じで否定するのは違う。自分の色を捨ててしまえば、輝きも失ってしまう。

 

 

僕にとってはアウトプットは非常に難しい。気質なのか、後天的なものなのか、多分両方だろう。見せている笑顔の内側で、別の笑顔をしている。別の表情をしているかもしれない。落ち着いていると言われるのは、そのワンクッションのせいだろう。

 

感情を外に出さないからといって感情がないわけでも、感情に振り回されないわけでもない。寧ろ外に出せない分複雑に絡み合って自分の内側が訳のわからないことになる上、気付けばいつもドツボの中で冷たい荒波に揉まれているわけで、とても辛いのです。

その上自己主張が出来ない為に押し込めて押し込めて消化不良の連続。

 

内側の僕は常に悲鳴をあげ助けを求めていても、外側の僕にその声が届くことはない。そういう意味では外側は確かに機械的なのかなぁとも思う。不健康極まりない。早めにどうにかしないと早死にするかもなぁと思っている。

 

現実が何をもって現実なのかはさておき一般的な意味での現実で僕を知る人からは、現実逃避ばかりしていると思われているだろう。

でもね、僕は先ずこの内面が落ち着いてくれないと何も手につかないの。感情に煽られて思考はトリップしっぱなしになる。

色んな語やイメージがインプットされる度に連想される沢山の語やイメージ達も、メンタルのムードによって大きく変わってくる。同じものを見聞きした感想がその時によって変わる。どれが自分にとって正しいのかわからなくなる。

どれも事実であって正否はないのだろうけど、どのみち生産性のない方向に突っ走る。(生産性って言葉が嫌いだけど今は置いておく)

 

だからインナーピースは一生の課題であると共に、皆さんと同じスタートラインに立つためにも必要なのだと思う。

 

水面が落ち着いてくれれば集中もできるし、恐らく他の人にとって必要なサポートが出来るかもしれない。人々が気づかない情景を伝えることもできるだろう。

 

でも、それにはまだまだ時間が必要なのだろうと思う。

内面の成長は止まっていない。寧ろここ数年はかなり良い方に変わっていると思う。

ただ、それが周りに求められる成長とは違うだけで…

 

これも前回の森の中で書いた。

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こういった落ち着いた環境、自分に合った環境に身を置いていると、その成長を認めてあげてもいいのかなという気にもなる。

それ自体が好転であるし、自分の在り方に気付いてきたのも成長のひとつだろう。

 

迷子のようでも、みんなしっかり進んでいるのだと思う。ただその全てが認められる世の中ではないだけで。

周りに騙されず、流されず、生きていくのは難しいけど、そうするしかない。

もし悩んでいる自分が認められることがなくても、ただ気づかれないだけで、認めてくれる人はいる。それは人でなくてもいいのかもしれない。

 

僕の場合、今のように自然の中に居れば自分の存在が確かなものになる。人の世に自分を見失っても、自然の中に在る限りは自分はその一部なのだから。苦悩も苦痛も変化も喜びも、あるがままの事実として自分自身によって認めることが出来る。

常にコントロールに身を置いてる分、動物的な感覚が重要なのかもしれない。

 

そうすることで感情も静寂を取り戻すし、思考も安定する。静寂の中に在る感情は、よりはっきりと意思や方向性を持ったもの。すっきりしたものなので、強いものでも受け入れることが出来るし、微かなものでも捉えることが出来る。

その微かなものというのは、普段僕が無意識のうちに翻弄されるものであったりするので、捉えられれば関係は一転する。

より自分らしくいられる。

 

でもずっと自然の中に身を置くことは出来ない。そこが難しい。

 

内面がどろどろでぐちゃぐちゃなのは、いつか越えられるのだろうか。

内面がどろどろと言えば、虫たちは変態の最中、蛹の中の中身がどろどろらしい。昔分解したような記憶もあるけど。

 

まだまだ蛹だと思おうかな。今の自分も自分だけれど、その先に成る自分を夢見るのも悪いことではないのかもしれない。

殻・コントロール、その防御がいらなくなる自分。アウトプットを意識しないでも自分としてアウトプットになるくらい。死ぬまでには。

 

 

虫ならカゲロウがいいかな。

儚い一瞬の生殖のために水面を揺らめいて死んでいく。常に死と隣り合わせの水面で、一瞬の出逢いに賭ける情熱がとても美しく力強い。

本人たちはこんな例え方されてたまったもんじゃないだろうな。

 

 

*追記

ふとカゲロウは蛹にならないことを思い出した。ふわふわ飛ぶのがいいから蛾にしようかな。