最近ずっと言語、概念、観念この辺のことばかり考えていたのだけど、ふと繋がったのは、結局僕がこれらに引っかかるのって、前提だからなんだよね。意味、価値も含めて、至る所で触れている前提なんだ。
前提は前提で考えることがよくあるのだけど、言語や概念、観念については知覚・認識の順序としての整理として捉えてた節がある。実際、前概念的なもの、そして知覚を重心に物事を捉えようとすると、言語の限界、概念による短絡、観念による思い込みが障害になる。だからそれらを削ぎ落とし、配線を組み直すように、フィルターに同じ色を重ねるように、知覚を知覚そのものに近い形に戻していく。できるだけ、可能な限り、少しでもあの手触りのように、あの香りのように、言葉では届かない場所にある感触を、ただただあの感触に戻るように。この指に触れるもの、目に映るもの、聴こえる旋律、胸の奥の感覚、繰り返されるイメージ、夢に見る景色、雲の景色に包まれた時の感情の高まり、あの人の声や目、そして表情、それらをただそのまま、よりそのままに触れたい。あの頃がそうだったように。ある意味で、僕の欲望が目指しているのは記憶の中の手触りだ。概念が見え方を塗り潰す前の、微かな記憶。この違和感は、気づけばそこに向かっている。
言語の制約や言語に縛られる認識、共有可能性である概念の、そしてそこから繋がり、派生し、意味や価値を絡め取りまとまっていく観念の、思考を塗り潰す力。それらがとても強いのは、ヒトの認識ばかりでなく、言語によるコミュニケーションという根幹的な機能そのものだからなのだと思う。でもある程度はそこはもう見えていて、重心も近くに移っているから、それなのにどうしてこんなにも違和感が残るのだろう?ってずっと不思議だった。でも、よくよく考えると僕が反応しているのは外側から入ってくるそれらだった。ネットから入ってくる情報だったり、そこら辺でされてる会話の内容だったり、グループチャットの内容だったり。僕が反応しているのは僕自身の認識ではなく、他者、そして社会、文明から入ってくるもの。多分それは、その概念ありきで、意味や価値も含めた観念もぐちゃぐちゃに混ざって、言語の性質すら無視された色んな言葉たちが、僕が大事にしているものを覆い隠そうとするばかりか、端からそんなものは無いという態度で入り込んでくるからだと思う。だから僕にとっては、これはある種の防衛戦でもあるのだろう。
それらの言葉たちがなぜそこまで高圧的で、包摂的なのか。ここでようやく最初に戻るのだけど、多分、前提に無頓着だから。無頓着というか、気にされていない。多くのヒトは自分の言葉、自分の価値観なんかに、前提があるとすら思っていないっぽい。不可視化された前提。そう、前提は不可視だからこそ前提として振る舞える。言葉はその前提に支えられている。もし前提を可視化してしまえば、その言葉が成立する範囲が分かってしまうということだ。範囲があるということは、絶対が成り立たなくなり相対に戻ってしまうということだから、その形でその言葉は出なくなる。そう、無頓着だからこそその言葉は成立していると言える。そして今絶対という言葉が出たように、無頓着だから当たり前という前提が絶対として発せられる。これが圧なんだ。そうだよな?当たり前だよな?が言葉の中に鳴りを潜めている。でもその当たり前を共有していない僕のような者にとってはそれは圧なんだ。
折角だからもう少し。じゃあこの前提とは何者なのか。最初の切り方で言えば、言語、概念、観念(意味・価値含む)はそれぞれ別の前提として認識、言葉を支えている。でも根幹はもっと単純なんだと思う。
前提とは切り取りと固定だ。いや、切り取られたものが前提で、それによって認識や言葉が固定されている。
写真をイメージすると分かりやすい。今山に居るとしよう。山間に広がる雲海の景色、荒涼な緑の風、背後にも広がる別の景色、鳥たちの声、流れながら光のあたり具合で顔色を変え続ける雲。これをカメラで撮ると、一枚の写真になる。写真には画角、アングル、被写界深度なんかがあるけど、要するに景色は切り取られた一枚の像になる。それを沢山つなぎ合わせても、複数枚の像を繋ぎ合わせたものにしかならない。これが言葉。そして前提とは、写真に映っていない部分。画角に入っていない景色も、カメラが捉えられない音や時間軸も、写真が表現しきれない詳細な色も、逆に写真が表現してしまうがゆえに見えなくなる曖昧さも、カメラの構造も、そのカメラを握る人の人体構造や認識や心象も、それらが全て前提として切り取られたもの。でもだからこそ、景色は固定され、写真となる。逆に言えば、写真になる前には切り取られたそれらがあった。だからその写真が生まれた。
でも写真は多くの場合、その時の、その場の世界そのものを切り取ったものとして扱われる。ここまで認識や言葉も同じ。
でも僕はそれが気になってしまう。写真が世界そのものとして扱われる世の中では、「写真は写真だよね。その写真を成立させている過程である前提があるよね。世界とは寧ろその切り取られた側だよね。」って言い直さないと、僕の見ている世界はすぐに数の暴力とその絶対性によって塗り潰されてしまう。っていう感覚なんだよな。
結構この写真の喩えは自信作なんだよね。僕自身、前提を見るようになってから写真があまり撮れなくなってしまったから。だって僕が見ているもの、感じているものをカメラは見てはいないし感じてもいないから。撮った写真は切り取りで、しかも像でしかなくなってしまった。僕にとってはね。
前提というある種の絶対性によって成り立つ言葉。
絶対性って何かといえば切り取りと、それが正・真と位置づけられることなのだと思う。なぜそう位置づけられるかと言えば、切り取りを切り取りと認識していないからだ。当たり前としてね。
1+1=2が成り立つには条件があるのに、1+1=2というのが当たり前として常識化された世界では、1+1=1が成り立たないことになってしまう。実際は条件次第なのに、その条件すら無かったことにされてしまう。そこでは常識を共有していない者は狂人とされる。それがタルコフスキーの描いたドメニコだったのだと思う。彼は概念に塗り潰されていなかった。
でもまぁ、無頓着だからこそ言語的、概念的認識は成り立つし、社会やコミュニケーションが成立しているって言ったらそれまでなんだけど。でもなんというか、もう少しさぁ…
要するに、認識するには切り取るしかないし、言葉にするには切り取るしかない。だから前提が生まれるし、でも切り取りが意識されないから、切り取られたものが不可視化された前提として認識や言葉を支えている上に、絶対性を帯びる。
じゃあ絶対の前は相対なの?って思うじゃん。切り取られる前の全ては相対なの?って。そうとも言えなくもないけど、でもこれには一つ落とし穴があって、相対自体が絶対の対立概念として生まれた節がある気がしてる。だから、相対という概念は絶対があって初めて成り立つ。そういう意味では、切り取りの前は相対的ではあっても相対ではない。絶対と相対という二元を内包する何かがあるなら、その陰陽魚がそれなのだろう。でも多分まだそれを表す言葉はないと思う。だって前概念的なそれは無かったことにされるのがこの概念偏重の文明だから。仏教やサンスクリットにはあるのかな。仮にあっても解釈の段階で変質してそう。
今日はこの辺にしとこうかな…もう月曜じゃん…やだぁ…
そうそう、ミニトマト結構育った。カーボロネロとバジルもいい感じ。シソが中々芽を出さなくてね。諦めかけた時にやっと1つそれっぽいのが発芽した。結構ばら撒いたんだけどなぁ。あと、ドワーフトマトは1個倒れて萎れてたからもう一度やり直し。多分鳥に踏まれたんだと思う。ちょっぴり悲しい。
木戸崇博さんの曲好きなの多い。特にin my TimeとINSOMNIAっていうアルバムが大好き!とってもおすすめ!


