感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど

先住民族・部族への憧れ 動物を超えた人間への嫌悪感

先住民族や部族と呼ばれるような人々に昔から憧れがあった。

今となってはそれらも変化してしまったが、僕の意味するのは独自の文化を維持していて、膨張した文明の内側に身を置いていない暮らしをする人々。というのかな。

 

彼らの生活の多くは自然に根ざしている。信仰や崇拝というものがあっても、それも自然に根ざしている。そして動物や植物に畏敬の念を持ち、適度な距離を保っている。少なくとも一神教やその価値観に染まった文明に見られるような、動物や自然を支配しよう、治めよう、改変しようという感覚は持っていない。

 

これは最近まで気付かなかったのだけど、僕の中の違和感、現代の感覚が合わないという生き辛さの多くはその部分に根ざしているのかも知れない。

 

人はどうして動物を超えた存在で在ろうとするのか。

文明はどうして自然を超えた存在になろうとするのか。

僕にはその生き方は難しいのだと思う。文明生活には静寂がないと感じるから。あってもそこに身を置くことができない。そこに平穏はないのだと思う。

 

 

人間が自然の中の、動物と同位の存在であるという認識で僕が違和感を感じる物事を捉え直すと、大概のことがしっくりくる。

道徳というものや社会システムへの嫌悪感なんかもそう。全ては動物を超えた高尚な人間様の為のものだと感じるから。

 

衝動を悪いものと抑え、他人に過度に干渉し、よく分からない善悪で物事を判断し、感情や理屈で同じ人を裁き、人も動物も自然も支配して改変しようとし、同質性ばかり求め、愛を曲解し色んなものに押し付け、挙げだすとキリがないけれど、これらは全て動物を超えた存在である人間だけに見られ、動物より高位であり続けるために求められることなのかなと思う。

 

自分自身が動物の一種であり自然の一部であることを認識することなしに、ヒューマニティなど求められるのだろうか。それが抜けるから彼らの優しさは押し付けがましく暴力的になるのではないかなと思う。

 

なんか東方不敗みたいな思想になりそう。抹殺すればいいとは思わないけど。

 

 

それはともかく、アイヌやネイティブ・アメリカンの人達のような暮らしに憧れるのはその辺なのかなぁと思い、自分の中で繋がったのが嬉しかった。

 

何かを繋げようとして連想ゲームばかりしてるんだろうな。

 

 

全て個人の感想なので、気にしないで下さい。

この前の海と写真

今日は楽しいことが書きたいので、この前海で思ったことや感じたことを写真で振り返ってみようと思う。携帯画像なので画質は悪いです。貰い物だしレンズも曇ってる。

 

f:id:hasriq:20190821093522j:image

到着後休憩がてら屋台カフェでコーヒーを飲んでる時の光景。これ好き。

もはやブランコとして機能しないけどそこに座る、女の子の「そこにブランコがあるから」という確固とした意志を感じる。というのは冗談。

子供の頃は時間の流れが遅くて、ぼーっとする時間も短かったけど、その儚い時間も今想うと愛おしくもあり恋しいな。今でもしょっちゅうぼーっとしてるけど。

瞬間を写せるから写真は好き。光景も人や動物の動きも、感情や思考、そこに表出する表情も全て瞬間。自分の見たそれを残せるとやっぱり嬉しい。

 

 

f:id:hasriq:20190821095416j:image

海は色んな顔を見せてくれるから親近感がある。その時によって変わる波のリズムも好き。

この日はちょっと落ち着かない感じだった。自分が反映されるんだろうなぁと思うけど。

 

f:id:hasriq:20190821101325j:image

寄せては引く波に揉まれ、砂粒同士で擦れ合い、小さくなり続ける砂粒。でもその繰り返しからは中々逃れることができず、突発的に抜けられる一部を除けば、十分に軽くなるまで砂浜に囚われ続ける。

時間が存在する以上全ての物質は過程であると思う。この砂粒たちもものすごい時間をかけてこの形になりここに来たのだろう。

今ここに囚われているのも過程。

 

そんな砂粒が数え切れないほどあり、そんな砂浜が数え切れないほどある。そしてそんな砂浜がある惑星が銀河には沢山あって、そんな銀河が宇宙に沢山あって、宇宙もきっと沢山ある。

波に乗り足を擦れていく砂たちを感じながらそんなことを思っていた。

どうでもいいけどね。多分。

 

 

f:id:hasriq:20190821102757j:image

短時間ででき短時間で崩れる地形もあれば、できるのに時間がかかり長時間そのままの地形もある。見る側の尺度でしかない。

 

 

f:id:hasriq:20190821103325j:image

巻貝ドリルの流星のような軌跡。すぐに消えてしまう。それでも彼は進み続ける。

 

 

f:id:hasriq:20190821103452j:image

丸が9になる瞬間を目撃した。僕が唯一の目撃者。

 

 

f:id:hasriq:20190821103724j:image

雨粒のクレーター。ちょっと月みたい。

この砂浜にどれだけこのクレーターができては消えるのだろう。その砂浜がこの地球にはどのくらいあって…

この思考の癖は健康的じゃないかもしれない。意味のないことを考えて虚しくなる。いや、僕にとっては意味があるから考えるのかもしれない。わかんないけど。

 

 

f:id:hasriq:20190821104223j:image

カニの砂団子。カニの大きさによって大きさが違うんだなぁと思った。当たり前だけど。

形が地球から見た銀河みたい。

 

 

f:id:hasriq:20190821104442j:image

地形によって波も変わる。その波によって映し出される光も変わり、全く違う風景を見せてくれる。まるで心の中の景色のようだなぁと思う。どっちが先なのか知らないけど。

 

 

f:id:hasriq:20190821104744j:image

良くも悪くも人間の存在の証。

 

 

f:id:hasriq:20190821104909j:image

僕がそこに存在した証はもう消えているだろう。死後もそのくらいさっぱりしたいかな。

 

 

f:id:hasriq:20190821105210j:image

僕もそこでじっとしていたら埋もれるんだろうなぁと思った。その前に溺死するだろうけど。人間の世界も似ているのかな。だから皆もがく。

 

 

f:id:hasriq:20190821105546j:image

1人になりたくて人のいない所まで歩いた。でも暗くなったら帰らなきゃいけない。帰ろうにもこの黒い人影達を見て帰りたくなくなった。

置いてきたサンダルが心配だった。

 

落ち着いたところで人の群れを見ると胸がざわつく。決して人嫌いではないんですよ。でも集団は無理。身体が拒絶する。1人2人でも疲れてると相手によっては無理。

 

 

f:id:hasriq:20190821134339j:image

沈む夕陽。一日の終わり。夜の始まり。

これを見ると久々にちゃんとした写真撮りたくなってくる。でも一眼レフは荷物になるし、コンデジは壊れちゃったし。最近趣味にも腰が重い。老化早そう。

 

 

f:id:hasriq:20190821112159j:image

これを見にきた。夕陽が沈んだ後の景色。

空と海の境界を超える夕陽のグラデーション。空と海に境界があるからこそ、この色の調和、共鳴は生まれるんだろうなと思う。景色も綺麗だけど、景色だけではない空間。

 

携帯画像なのであれだけど、実物は本当に美しい。言葉も何も必要がない空間になる。

目に映る光景、風の感触、潮の香り、波の奏でる音。全てがその瞬間であって、五感を通しその空間に包まれることで、思考する必要もなく僕はそこに存在することができる。それが僕にとっての安息なんだと思う。全てが穏やかに、全てが繋がることで自分が認識できる。

 

その場を共有すればこんな説明も要らない。それってすごいなって思う。

 

でもこの日はバイクが疾走してたのでちょっと邪魔された気がした。でもその人もそんな空間を疾走して気持ちよかったんだろうし、まぁいいかなとも思う。

 

特にオチもないです。

うーん、僕にとっての楽しいはこういう風になってしまうのかもしれない。パーッと明るくっていうタイプじゃないからあれだけど、結構楽しいつもりなのです。

 

おしまい


*今日から2週間村なのであまり開けないかもしれません。

命のやり取り 子供の見る世界と持つ世界 押し付け

おかげさまで今日は大分元気になりました。

 

昨日書いた中で、僕は必要なら魚もニワトリも鹿も殺すと書いたと思う。それは食べるために必要だから。僕にとっての害獣も殺すことはある。でもそういうものだと思っているので、それについてはそこまで気にならない。ただ自分で手を下すのは、その方がいいかなぁと思うから。そこまで深い意味があるわけでもない。

 

命のやり取りについては綺麗事でもあるけれど、僕には実感が必要。

実感はなにも負の要素だけでなく、五感で感じる中、昂ぶりや喜びも感じる。僕は自分が自然の中に在ることの実感が何よりも必要で、その中にいれば生も死も、教えられてきた死生観とは別の軸で受け入れることができる。そういうものだと。

 

食べ物に関しても同じ。それは以前書いた気がする。生きていた時の形や匂いを調理の過程で、五感で、身体で実感することは僕にとっては意味のあること。精神の安定にも欠かせない。あまりにかけ離れた生活だと見失ってしまうから。

 

でもこれらは飽くまで僕の感覚や価値観であって、それは人によって違うだろうし、それでいい。

食べ物の部分は身体で感じる部分なので、結構色んな人に合うんじゃないかなとは思う。これは命の価値観とは繋がるけど少し違う話。

 

 

本題。

昨日、「動物を殺す」というものを書いた以上、ひとつ付け加えておきたかったことがあった。

 

子供達にニワトリやブタを屠殺する現場を見せたり、実際にそれをやらせたりする教室や合宿があるが、それは僕は嫌い。

 

命に対してどう向き合うかは人それぞれだけど、通念的な価値観は『死を避ける』、『残酷なものは遠ざける』、『命を守る』、『生き物を愛でる』方向に向いている。スーパーでも元の形がわからないような形で接することになり、子供の多くは知識的になんとなく鶏肉はニワトリ、豚肉はブタと知っている程度。

彼らの中では生きている姿と食料は切り離され、多くは矛盾を持っていない。

 

それを急に、子供たちの見て感じて育ってきた世界、それを基に内側で育まれつつある世界を無視して、大人の思いつき的に子供に見せつけるのはすごく勝手なやり方だと思う。

現行の通念と逆を行く部分のあるものを教えるというのは、逆である以上否定の意味が出る。その否定の矛先はどこに向かうだろうか。

 

こういう教室は教える立場の横暴であって、ショック療法だとか思想矯正キャンプ的なものに見える。育まれてきた純粋なものを一方的な偏愛で歪ませる身勝手な行為だと思う。

もちろんそれが合う子も中にはいるのかもしれないけど、そうじゃない子も沢山居る。

 

親や大人が「大人になって現実を知り、それに感動や憤りを覚えたから子供にも」だとか、「昔はそうだったからその感覚を持たせたい」とか、それは自分だけ見て色んなことを無視しているように思う。

親が自分の心に見た花の種を子に植え付けたとしても、同じ形で同じ色の花が咲くようなものでは決してない。その種が持っている他の花を蝕むこともある。

 

子供一人一人の持つ世界は全て違う。

それを一大人の感覚で、子供たちが築いてきた今までの世界を否定するような価値観を植え付けようとするというのはとても大きなことで、自分の内側の世界を信用できなくなったり、外側の世界の見え方が変わってしまったり、自分自身を肯定できなくなる子も出るんじゃないかと心配になる。

そういうことは世の中に多いけど、自分も連鎖の中に関わる食や命の話であればより重い。

 

自分が楽しいからと小さい子供にホラー映画を観せるのと感覚が似ているのかな。

 

命との関わり方、これも僕は教えるものではないと思う。長い年月をかけて見て育つ内に自ずと育まれるもの。短絡的に教えられるものではないと思う。

 

普段から家でニワトリを殺して一緒に食べてるとか、それなら話は別。そういう教育方針ならそうすればいいし、できる風土の場所に引っ越せばいい。

 

そうでないのなら、次の世代である子供自身がどう自分の世界、自分達の世界を築いていくのか信じて見守ってあげればいいと思う。それが今の世界を築いている大人の責任というか、必要な姿勢なんじゃないかと思う。否定の姿勢が次の世代の否定の姿勢に繋がって、そんなことを続ける意味はないかなって。

 

死生観なんて悩む子はいずれ悩むし、命や自分との関わり方についても自ずと興味を持つものだから。そう焦る必要もないと思う。

 

そういう教室が悪いという意味ではなく、とても大きなものなので、受けさせるというのならその子自身、その子の置かれた世界をしっかり見て考えてからにして欲しいなぁと思う。

 

大人でもそれを見せる必要がないと思うような、純粋にその人なりの方法で命を愛でようという姿勢の人もいるのだから。それはそれでいいんじゃないかと思う。

 

ただ押し付けは僕は嫌いというだけです。

ロードキル

少し重いかも。引きずりこまれそうな人は読まないでください。

 

 

今日はまた車で長距離移動だった。

山道、カーブを曲がり切ったところで犬が撥ねられていた。反対車線の真ん中でパタパタもがいていた。

 

また轢かれるかもしれない位置だったけど、僕は何もせずに通り過ぎた。

停まる場所がなかった。嘘。200m先には車を駐められる場所があった。でもそこでも止まらなかった。

 

本当は怖かった。大型犬だったから怖かった。それに高速で車が入ってくる場所だったから。

自分の安全や色んなものを計算して見捨てた。苦しむ姿をどうでもいいことと天秤にかけて、どうでもいいことを選んだ。

 

前回は仔犬だったし、見通しが良い場所だったから道端の日陰まで運んだ。でも今回は見捨てた。

結局自分の都合で僕は動かない選択をしてしまった。

いつでも引き返せたのに、誰かがやってくれると人任せにして放置した。

 

3秒くらいの出来事だった。でもその一瞬が脳裏から離れなくなった。

しばらく動揺して運転もままならなかったけど、山の空気は澄んでいて、少し休憩したら落ち着いた。

でもあの一瞬は鮮明に焼き付いた。そして僕の選択も残り続ける。

 

ロードキルは沢山ある。今日も覚えてるだけで7匹は死んでた。でもそれは僕にとっては耐えられる辛さ。

辛いのは死ぬ前を想像してしまうからであって直接的ではない。どんな形状であろうと死体は死体。僕にとってはそこに継続性はない。結果。

 

生きてく苦しんでいる子を見るのは本当にダメージが大きい。直接的な苦しみの姿が入ってくる。それは接点が一瞬であっても継続的なもので、だからこそ残ってしまう。

内側で乱反射して自分の感覚と混ざって増幅される。

生の痛みの光景だから生の感覚になる。

誰かが助けてくれただろうか。

 

こんなことを何のために書くのかも分からない。吐き出したいのか、悲劇のヒロインを装いたいのか、自己顕示欲なのか。

苦しんでいたのは犬なのに、勝手にダメージを受けて勝手に理解されたがっている。気持ち悪いと思う。

 

僕は必要があれば魚も殺すし、鶏やシカも殺すし、ネズミやイノシシも殺す。

締めるとか駆除するとかこっちの都合で言い換えたくない。必要があって殺す。

それは耐えられる。必要があるし、そういうものだから。だからこそ僕が実行しなければならない。

 

でもなぜあの子が苦しむ必要があったのだろうか。そこに居るしかないからそこに居て撥ねられた。

道路ができて、車が走り、祖先が連れてこられた犬はただそこで生まれた。そしてそこで生きて撥ねられる。

沢山の犬や猫が道路脇で跳ねられるのを待っている。

 

動物を撥ねてもハンドルは切るなと言われてもそうできる自信がない。動物が道路脇に見える度に気が気じゃなくて減速して反対方向に寄ってしまう。今日は向かってきた犬がいて急ブレーキを踏んだ。早めに気づいていたから後ろに車がいないことも確認できてていたけど、毎回そうだとも限らない。

 

高校の3年の時、唯一の心の支えだったインコが僕の不注意で2週間苦しんだ末に僕の誕生日に死んだ。本当に辛かった時期を耐えることが出来たのはあの子がいたからだった。

でも僕のせいで苦しんで死んだ。僕が殺したも同然だった。同然?僕が殺した。

 

こんなことを書くつもりはなかったのに。弱い。

 

長距離運転する度にダメージを受ける。でもしないわけにもいかない。慣れるものなのだろうか。少なくとも運転する限り、見なくてはならない光景なのに。

もし手を加える側になった時耐えられるだろうか。事故だと割り切れるだろうか。

 

割り切れない性格なのが悪いのも気付いてる。でも割り切りたくもない。

強くなりたいな。

 

 

もう落ち着いていて大丈夫ですし、コメントもいいです。書いておいて投げっぱなしでごめんなさい。明日から森なので大丈夫。

 

やっぱり掃き溜めブログになる運命かな。

生きることの辛さ いろんな不満

本来は生きることに意味なんてないのは分かる。

でも生きるだけでこんなに辛くて苦しいから意味が必要になってしまう。

 

それは作られた世の中ではいろんな意味が作られ、いろんなものに込められているからだろう。

それらの意味から自分を保つ為に自分なりの意味が必要になる。そんなものが必要なければ一番良いのに。

 

人として生まれ、生まれた時から様々な社会に組み込まれ、その中の意味や条件、ルールに縛られる。それらは本当に必要なのだろうか?ないと本当に社会が成り立たなくなるのだろうか。

 

意味や条件やルールは態度によっては暴力になり排斥を生む。勝手に組み込んだ人を勝手に排斥することが起きる。

 

この前死刑制度について考えていたことと同じで、社会はそれを黙認する。色々な社会問題がそうだと僕は感じる。

神経症や精神病の多くは置かれた環境が合わない等のストレスによって起きる。

ストレスはそれに起因する症状は警告信号であって、そうなったらその場を離れるのが動物。いや、人間であっても社会の在り方によってはそれは許されている。

 

それを個人の問題としてその場に縛ったままにするからおかしくなる。薬で押し込めてそのまま繋ぎとめられても、根本のストレスがなくならないなら疲弊するだけ。休職してもストレス源が会社という社会なら同じこと。転職してもストレス源がもう少し大きな社会なら同じこと。

個人のせいにされるから根本と向き合えない人が多い。

それは個人のせいなの?

 

問題なのは社会環境やそのスピードが合わない人がいることを無視し、犠牲が出ることを黙認している社会であって、その問題を直視しなきゃいけないのは成員の一人一人じゃないの?

 

税金を払ってそれで壊れた人は補助するから関わってる?その態度は嫌い。

 

自殺も他人事。幸せは人それぞれなのに、一部の価値観で日本は幸福だと思い込み、思い込ませ、自殺を個人の問題にすり替える。自分たちとは違ったと排斥し、一人一人の死に目を向けようともしない。

 

子供のいじめ自殺のケースなんかは目を向けるけど、それはセンセーショナルだから。死自体は見ようとしない。

犯人を探して吊るし上げようと、学校や教師やいじめた側の問題にする。そこに問題の一部があったとしても、これだけ一般的にある事象をそこだけの問題と捉えて目を逸らして、結局他人事で終わる。

 

 

条件は個人の在り方も否定する。ヒトとして持って生まれた才能が社会の中では病気として扱われる。

 

勝手に組み込んでおいて、社会活動に合わない部分は勝手に障害や病気と定義し、障害者や病人として扱う。

「障害だからしょうがないよ」「病気なんだ、大変だね」そうやって一見認めているような態度でそこに押し込まれたら、その中で頑張らなきゃいけなくなる。

 

居場所を与えて人を縛り付けて、ストックホルムシンドロームと同じ構造にしか見えない。居場所はね、本当に人を惑わせるから。

 

病人として、障害者として特徴や才能を押し込めて、時には薬まで使ってその中の人にならなければならないことも起きる。

 

でも社会はその人本人を認めない。そこに合わせようとする悲しい努力を、当然の義務としてそこしか見ていない。それも自分とは違う存在と線を引いて。

その無意味な努力や苦しみを見つめなければいけないのは、成員の一人一人でしょ。社会として個人に責任を強要するならね。

 

 

社会と関わることすらやめたくなる。だから外側から関わろうとするけど、それでも辛い。

関わり方が関わり方だから、自分の中でも矛盾が生まれてしまう。合わせるつもりがなくても、合わせなきゃいけない場所も出てくる。未来が見えない。

 

生きるだけなのに辛いから、生きる意味が必要になる。

でもそれすらよく分からなくなる。

前世とかよく分からないしあまり興味もないのだけど、もし前世があるとするなら相当な大罪人だったんだろうな。いっぱい殺してそう。

 

 

最近いろんな欲求が減っている。睡眠欲はあるのだけど。

健康的ではないなぁと思うけど、どうしたら不満を覚えずに生きられるだろう。

楽しいこと考えたいな。

良い所、長所の時間 優しい僕 温厚な僕

小中学生の頃、自分の良い所を挙げるという時間が度々あった。それがとても苦手だった。

良い所って自分で言うものなのだろうか。言われれば言われるほど分からなくなる。

 

クラスのみんながその子の良い所を挙げて、それを3つずつだか似顔絵と共に貼り付けられるというのもあった。

それも意味がわからなかった。

 

子供の頃は違和感を感じては悩んだ。こんなことで悩む自分がおかしいと思った。

でも今考えればそんなレッテル貼りを許容できないのは当たり前。頭にくる。

 

僕がつけられるイメージはいつも『優しい』『温厚』だった。皆にそのイメージで話しかけられるのが気持ち悪かった。

 

個人がそう言ってくれるのはいい。その人がそう感じてくれるのだから。それはその人の感じたことだから否定的なことでも許容できる。

 

でも集団の中で僕が『優しい』と定義されたら、そうでなくてはならなくなる。気にしなければいいと言われても、そういう風に見られたらそうもいかない。

 

更に自分自身を自分自身で定義しなければいけない時間は更に矛盾が食い込んでくる。

「優しいんだから自分は優しいと言えばいいんだよ」そう言われても、それがどれだけ難しいことか。

優しい人が自分のこと優しいと言う?

そもそも僕は優しいと思っていない。

 

仕方なくいつも『温厚』の方を選ぶ。それも不服だった。

温厚温厚ってなんなのだろう。温厚じゃなきゃ僕じゃないのだろうか。

 

自分で自分の性質を出さなければならない時、否定的なことの方が抵抗なくスラスラ出てくる。ポジティブなことほど難しい。

分からないけど、矛盾する分否定的な方が受け入れ易いんだろう。嘘となった場合、そちらの方が人を傷つけないしがっかりさせない。多分そのせい。

 

それ以来自己紹介は本当に苦手になった。適当な言葉が見つからないから。

今でも名前言って「よろしくお願いします」で済ますことが多い。

煩わしい。

 

 

『優しい』というのは今も食い込んでいる。

身体的特徴でスネ毛といじめられた彼は帰って来なかった。僕は普通のクラスメイトだと思っていて、家に遊びに行ったこともあった。でも彼が不登校になってから僕は一度しか遊びに行かなかった。何もしてあげられなかった。

彼はとても優しかった。僕なんかよりずっと。でもみんなは彼を優しいと言わなかった。

 

胸毛というレッテルを貼られた子も戻って来なかった。関わりがなかったから何もできなかった。でも何もできなかったのは傍観だったのではないかと今でも思うことがある。

 

その僕が『優しい』と言えるわけがない。ましてや自分の口で。

 

学校は残酷な空間だと思う。僕もその空間の一部だった。

僕は違和感を感じても、多少いじめられることがあっても、なんとかやって来れてしまった。高校時代の出来事は別として。

 

帰って来なかった子は沢山いる。僕は彼らの違和感や苦しみを感じられる側だったかも知れないのに、何もしてこなかった。正に残酷な空間の一部だった。

 

皆自分としてそこにいただけなのに。

 

良い所だとか長所だとか、イメージが先行する限りレッテルはレッテル。プラスだとかポジティブなんて結局彼らの理屈でしかない。

その態度の成れの果てがスネ毛や胸毛と人を定義する態度だと思う。

 

 

あーあ、せっかく海に来たのだからもっと楽しいこと書きたかったなー。偏屈おじさんになりそう。

 

f:id:hasriq:20190817171736j:image

 

 

*追記

『思いやりがある』もあったなぁ。

じゃあみんなは思いやりがなかったの?そんな筈がない。

 

f:id:hasriq:20190817183616j:image

やっと人のいないとこまできた。

僕はいつ海に還れるのだろう。

やる気消失現象 から

「やらなきゃ!」って思っていて準備も始めていたことでも、「やりなさい」とか「やっといて」と言われると一気にやる気が消失する現象は何なのだろう。

 

主体性を奪われるからなのかな。

そう考えると行動原理に『自分のやりたい気持ちに従う』っていうのが関わってるのかもしれない。

やりたい気持ちが大事なのか、自分の気持ちに従うのが大事なのか、どちらだろう。

やりたくないけどやろう!って思うこともあるから、多分後者なのかな。

 

やろうと思わないことはやらないし、人に指示されてもやろうと思えればやる気は出る。

自分が『やろうと思っていたこと』が『人に指示された』に変わるのが問題なのだろう。

 

僕がコミュニティと対峙するとき、励ましたり勇気づけたりすることも大事だけど、enpowermentが重要だという価値観がある。多分自分の中身が反映されていたんだろうな。

主体性も同じで、結局は自分に個人主義的な感覚があるので、それが反映されているのだろう。

 

主体性。学校が『主体性を育む』という理念を提唱しても、その感覚が教師にないと無理なんだと思う。でも『教えよう』という思いの強い熱心な教師ほどその感覚は持ち合わせていない。

主体性を育むという考え方もおかしい。主体性は誰もが持っているもので、それが優位か優位でないかの違いしかないと思う。それが教育の過程で片方(この場合主体性を奪う方)に偏るので、僕のような人間は不満やストレスしか残らない。でも多くは、気持ちよく従うことが出来る。

それを逆にしたところで同じことがおきるだけ。ただ反対側の性質を持った人たちが苦しむことになる。

 

ではどうしよう。子供を分別する?自分の性質を知ることは大切だろうけど、分けてしまうのは違うと思う。

結局は教育の在り方は社会の在り方の問題と直結する。教育も社会構造の一部であって、教育だけ変わっても意味がない。

 

フィンランドが学校教育から教科を撤廃するというニュースを見た。北欧のような教育は僕にとっては理想。でもその変化をフィンランドが起こしてこれたのは、北欧、フィンランドの人の性質に起因する。日本がそれを導入しても、大事なところはついてこない。

日本は日本なりに変化を起こしていかなければならない。

でも通念的に共有する、正しいとされる性質は煮詰まってしまった。そうなると変化自体が夢物語なのかもしれない。

 

受け皿の活動が増えている。そちらに期待するしかないのかも。でもその受け皿に入れずに消えてしまう子はどうなるのだろう。一歩一歩良くなると信じても、消えてしまうものは消えてしまう。

 

僕は子供が好き。僕自体が子供みたいなものだから。

僕は教師になろうかなぁと思ったことはあったけど、ならなかった。でもそれでよかったんだと思う。

もし教師になっていたら、割り切れない性格だから色んな矛盾にぶち当たって早死にしていただろう。はたから見る教師たちは難なくこなしているように見えるが、僕は自分がやると想像するとやっぱり無理だろうと思う。ひとりひとりでも重いのに、30人以上ともなれば重すぎる。

多分僕のような人間は教師を早期に退職するのだろう。難なくこなせる人ばかりが残るから、学校は凝り固まる。

 

社会構造が変われば教師になることを考えるけど、それは恐らくあり得ない。

だから今日は教育について考えるのをやめよう。

 

雨が降っている。適度の雨の音は心を落ち着かせてくれる。

多分、数万年、それ以上の単位でヒトは雨の音を聞いて、その時間はゆったりまったりと過ごしてきたのだろう。

なんでその雨の音を聞きながら働かなきゃいけない時があるのか、いささか疑問だね。

 

もう寝よ。