感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

食人 から

食人ってあるじゃないですか。儀式的なものから個人的なものまで様々だけど、単なる食料や形骸化した伝統としてではなく、その相手を食べたいとか一部を取り込みたいとかっていう衝動、それを1つの愛のかたちとする場合や、逆に憎しみの表現とする場合があるけれど、その感覚って理解できないながらも羨ましいと思う。

 

それって言い換えるとその人の自らの肉体と自己がこれ以上なく親和状態にあると言えると思う。そうでなければ他者の肉体にそこまで執着を持てるはずがないのではないか。

 

例えば事故か何かで僕の指がこの肉体の大部分と切り離された時、それを自分の一部だったものだと自信を持って、想いを込めて語れるだろうか?

いや、実際にそうだったことはばかな僕でも分かるのだけど、そこに想いが込もるだろうか。愛を込めて今までありがとうと言えるかどうか。

 

内臓もそう。脳を含めて。いや、脳がなきゃ考えられないとかそういう話じゃなくて。僕は肉よりモツ派というぐらい内臓贔屓で、肉体としての重要度でさえより中心に位置する内臓が、どこかより強い何かを握っていると思う(因みに循環器系より消化器系の方が若干権限が上だと思っている)。でもその内臓でさえそれぞれの器官としても、繋がりを持った生態系のようなものとしても、独立性を持った生物のようなものとしても、自分の一部だと自信を持って語れる気がしない。

 

唯一それを感じられるのは何かを感じている時、知覚している時だろうか。その瞬間は部位から内側に至るまで、レセプターからイメージに至るまで一体感が生まれる。特に痛みはそう。

 

例えばさっき書いた事故のように、切断した先には知覚が無いわけだけど、切り損じて神経が繋がっていれば自分の一部という認知はできるわけだ。それどころか痛みを感じている分自分であることを確認している。それが一旦切れてしまえば、例えトカゲのしっぽのようにデコイとして僕を守ろうと必死に動いていたとしても、それを僕だと思うことができるだろうか?

 

活けづくりって好きじゃないんだけど(釣りやってたから血抜きしろ、寝かせろ、せめて締めてから調理しろと思ってしまう)、あれも結局アジ君の本体は頭が繋がった部分で、肉はもう肉としか見てない。

 

髪の毛もそう。引っ張れば痛みを感じるから自分の一部のような気はするけど、切ってしまえばもうそうではない。

(こっちの人は髪の毛を使った黒魔術を信じていたりするので、料理に髪の毛が入ってたりすると凄く気にする。僕はあんまり気にならないのだけど…)

 

だからこう、精神的な意味合いを持った食人っていうのは僕はよく分からない。僕の中に被食願望的なものは多分全く無いわけではないけれど、例えば全体としてぱっくりいかれるのと、ワニかなんかに引きちぎられて食べられるのじゃ訳が違うじゃないですか。でも半分ワニに食べられて他は分散して小動物や微生物に食べられるのも悪くないのかな。

 

それもおかしな話。色んな所に分散するのはそれはそれでいいのかなって思う程度には、死んだ後の僕を構成していた物質に自分を思うわけだ。じゃあもしその半分で生きてたらって考えると、多分そうは思わない。プラナリアのように増えるとしたら、それはそれで自分じゃないものが増えるんだろう。腕から別の自分の頭が生えてきたら、どこまでが自分になるんだろうか。

不思議。

 

知覚と意識という所に何かあるのかな。自他認知と肉体の所有意識と知覚の関係。

じゃあ食人でも動物食でもいいけど、その精神性を取り込むと僕が感じながらそれを食べるためには、苦痛を感じさせながら食べなきゃいけないのだろうか。でも結局噛み千切ったらもう別のものと感じそうだし、痛がる姿を見るのは何よりも苦手だから無理。だからこそなのかな?どういう感覚なんだろうか。

 

そういえば、人肉を食べることに対する抵抗っていうのも人それぞれだと思う。サルはダメだけどリスは大丈夫って人もいるし。その辺僕は線引きが不器用。いや、線引きという行為に不道徳を覚えるのかな。

仮に食糧がなくてもうどうしようもない!って時にお隣のレクターさんが肝臓とソラマメ一緒に食べない?って来たらどうだろう?

僕は食べると思うなぁ。納得しない部分も飢えで納得するだろうし、それが何であれレバーはレバーだと思う。そういう意味で、食料としての食人はわかる。

 

何かそういった精神性を求めて肉を食うというのは、やっぱり部位から相手の精神性を取り込むことを求めるという時点で、特に個人的なものにおいては何らかの執着が大きいのだろうか。その執着があるから肉体と精神の同一感がある?いや違うかな。自らの同一感がある上である執着がその感覚と重なってその行動を起こさせるのだろう。

 

執着が絡むとなると羨ましさはなくなるかな。多分別の苦悩に苛まれるんだろう。

 

あ、肉ばかり書いたけど、血もそうなのかな。血を舐めるというのはこっちではまだみられることだ。兄弟の契約とか。でも生きたまま交換できるものはちょっと違ってくる気もする。吸血は吸血で生気という方だと思うし。

 

 

肉体と精神の区切りってどこなのだろう?そういう部分の感覚や認識がどの程度人によって違うのかも面白そう。僕は今書いてきた通りで、精神的なもの、それは意識や自我に至っても、肉体の中には感じていないというか。じゃあどこなの?と聞かれると、皆目見当もつかないのだけど。

ただ、そこが食料としての食人と精神的な意味を持つ食人を僕の中で分かつ部分のひとつなのかなと思う。

 

 

昨日からイスラム教の犠牲祭なんですよね。犠牲祭おめでとう!って女の子と羊が喜んでる絵が送られてきて。

人間の都合で宗教儀式の犠牲になる動物に人間の感情をかぶせて、しかも喜ばせるってかなりレベル高いなと思うけど、毎年その類の画像が流れてくる。文化の違いなんだろうね。犠牲を喜ぶと見るも悲しむと見るも人間の勝手な都合を絵にするのは好きじゃない(というか大嫌い)なとか思ってるうちに、そこから屠殺されるクラリスの羊に、そしてハンニバル・レクターに繋がって、何故か食人に想いを馳せていた。

 

昨日から風邪気味だから考えることがおかしいのかな。折角の連休なのにくしゃみと鼻水で寝不足ですよ。

 

もう寝る!おやすみなさい!