感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ウイルス会話

今朝まで日本からの人たちとのお仕事だった。みなさん無事仕事を終えて帰られて、こちらも肩の荷が降りた。

 

そういえば会話は、何かと話題のウイルスの話ばかりだった。ウイルス1つとっても色んな見え方がある。

若手の方は恐怖でいっぱいだし、小さな子供がいたり祖父母が健在の方は伝染してしまうことをとても気にしている(媒介者になることを気にするのは人間特有かも)。

海外ベテランの人はもっと怖い病気を見ているので、ウイルス自体は怖くないけど持ち込んだら何言われるかわかんないということを言っていた。健康な人や会社の名前で来ている人にとってはこれが一番恐ろしいと思う。

 

僕は結構楽観している。というか自然の選択ならどうしようもない。

会話では常に同調していた。そうですよねって。実際そうなんだろうなって思ったから。

 

ウイルスの拡散。

 

例えば鳥インフルエンザは年末年始、コサギによって北方からここに運ばれてきてニワトリが死んだりする。基本的にここでは生存できないウイルスだから、気象条件によって広がる。だからこちらのニワトリは免疫を持っている個体が少ないので広がりやすい。と僕は勝手に分析している。

 

渡り鳥を防ぐなんて無理。ニワトリはある程度死ぬものだ。それでも大事に至らないのは飼育数の問題。

それが養鶏場に広まれば惨事となる。他の家畜も同じ。免疫力がない個体を密集して飼っているから。

 

人類が人口過多な以上、そして都市部に密集する以上、病気を遠ざける姿勢な以上、感染症の拡散は宿命だと思う。

人は感染症に対し清潔と技術で対抗しているが、それは遠巻きに見れば地球上から無くすことのできない感染症というものに対する人類の脆弱性を高めることでもあるから。疾病管理の姿勢。

 

それは事実であって前提だろう。

そして人と物の往来で経済が回るのは経済というものが出来てから変わっていない原則だと思う。

これも前提とするなら、こういった疾病の拡散は織り込み済みでなければいけないのではないだろうか。

 

その上でどう捉えてどうするかということだと僕は思う。

感染者が入ったからどうのとか、入れた側の責任とか、そういう話になると、ん?ってなる。そうなったことは結果であっても、予測できることと防げることは別なのだし。

何でも他人の責任にしたい姿勢はいつも現れるけど、それはいつも建設的な結果に繋がっていないと思う。

人災を見るにしても、個人や特定の集団に押し付けるための人災なのか、自らの集団のある種の過ちを戒める為の人災なのか、それは大きく意味が違ってくると思う。疾病を前者の人災に仕立てようという意識はどこを向いているのだろう?

 

多分僕は、状態に対して起こって然るべき現象が起こっているという感覚が強いのだと思う。自然災害と同じ。

僕自身選択して都市部に居るわけで、かかったらかかったでしょうがないかなぁと思う。ほら、関東大震災くるよって言われてても住んでいるような感覚。

 

まぁ、何が良いか悪いかわからないけど、大事なのはそれぞれがそれぞれの守るべきもののためにしっかり考えて対処していくことであって、それ以外にあるのでしょうか。

 

不安なのはわかるし、誰かのせいにしたいのもわかるし、何かを信じたいのもわかるけど。

 

 

そういえば普段、老人は長生きするべきではないと言っている人はこういう時こそチャンスな気がするけどどうなんだろう。感染力が強く身体の弱い人の死亡率が高いウイルスの蔓延を社会の新陳代謝に例えたりしないのだろうか。

やはりその辺は『弁える』ものなのかな。それとも、現実的に人が苦しむ姿に対しては彼らの内面の優しさが勝つのだろうか。