感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ジェンダーの議論から 正解の範囲 近況 Andrea Vanzo

ジェンダーの議論を見ていると色んな主義主張があるなぁとは思うんだけど、個人的に特に腑に落ちないものがある。

雌雄の形体的な違いや特に生殖における役割を理由にして、生物学的なとか生物的にこの違いは当たり前でしょって態度の主張。もっと分かりやすく言えばちんちんがあるから男でおっぱいが大きいから女って態度。これがなんか僕は気に食わないようだ。

最近の議論にも線引きとして手術で形体を変えた人のみトランスジェンダーとして認めるっていうものがあった。そこでの議論を見てると上のような態度の主張がとても多くて、なんかこう僕は嫌な感情を覚えるのね。議論としてはいいんだけどね、何だろう。あれなんだよね、それが当たり前でしょって態度が嫌なのかな。

 

だって先ずさ、うーん、雌雄の形体の違いについてはいいよ。哺乳類は単為生殖しないとされてるし。ヒトの生殖に関しては、それを生物学的にと言っても過ぎるものはないとは思う。

でもさ、それは個体レベルの生殖に偏った主張とも言える。

特に重大なのは、ヒトは社会性を持った動物ということだ。持ったって言うと社会性抜きに存在できるみたいだからあれなんだよね。社会性が組み込まれた、言い換えれば社会性に支配されている側面のある動物。社会性を持った動物の多くは個体の性の在り方さえ属する社会のために適応という形で変えながら進化してきたものが多い。出産担当の女王がいたり、社会のために自らの役割のために生殖の本能、時には機能そのものを放棄したり、社会的ポジションによって生殖どころか肉体的な特徴すら変化させたり。人間だって社会的ポジションによってテストステロンのような内分泌系が変化するのは言われてる。

個体レベルの雌雄はあるけれど、社会性の中でヒトの性がどうなっているのか。それはとても複雑怪奇で曖昧なものだと思う。この観点も生物学的でしょ?

だから前者だけで生物学を語られた挙句当たり前って言われるのにイラっとするのかもしれない。だって固定観念は科学の敵でしょ。少なくともクリティカルな思考を排除しない科学においては。

 

この、雄雌はこれ、動物のオスはこうでメスはこう、だから人間の男はこうで女はこうっていう固定観念はどこからくるんだろう。小学生の頃にはこれ感じてたんだよね。だから尚更嫌な感情が湧くのかな。

なんかさ、性教育もこの男、女の形体的な正解っていうのを助長というか、固定してる気がするんだよね。いや、その範囲では正解でいいんだけど、正解があるってことは範囲があるってことだからね。自らの主張の論拠がもつ範囲に無自覚な正解ってほんと攻撃的だと思うの。だって無限の範囲の正解を押し付けてくるんだもん。

何でそんなに自分のちんちんとおっぱいに対する拘りだけでそこまで言えるんだろうって思っちゃうわけだよね。別にそれはそれでいいんだけど。

 

だから、生物学を根拠にするなら先ずヒトとは何か、ヒトにおける社会とは何か、ヒトにとっては雌雄とは何か、その辺を例外も含めて明らかにしないと、じゃあ人間の社会にとっての男と女とは何かってならないでしょ?文化的にどうこう、政治的に、行政的に、倫理的に、その他諸々どうこうっていうのもしっかり別に考えなきゃいけないでしょ?

それをちんちんだのおっぱいだので当たり前って言われて…もってところなんだよね。もちろんそれも一つの指標であれば大切に扱えるものだと思うけど。

 

逆の主張もそうなんだよ。その当たり前に反射的に反発しちゃうから結局ちんちんとおっぱいに拘る土俵ありきで議論しようとしちゃう。

社会にとっての性はそればかりじゃないっていう段階に社会的な意識が変化しつつあるからごちゃごちゃっとしてるってだけで。神話が崩れかければ誰しも不安になるから。

 

でも寧ろ、昔は近現代ほどきっちりしたセックス=ジェンダー的な見方ではなかったと思う。特に世界的に見れば、アダムとイブが広めたきっちりした男女の観念っていうのは大きいと思う(日本の場合はヴィクトリアニズムの影響が大きい気もするけど)。ジェンダーロールも。そういう意味ではやっぱり根本にはまだ神話があると思う。

 

ツイッターみたいなのも怖いのは、エコーチェンバーとかも言われるけどさ、あんな短文で主張して肯定否定し合えるところだと思う。ただの事実であってもサイドのある主張に巻き込まれて言って、挙句飲み込まれたりね。議論がどんどん簡素化するよね。怖い。何で怖いんだろう。思考が簡素になるならハッピーなはずなのに。自分がそうなれない自覚でもあるんだろうか。

 

ジェンダーに関しては僕は別に特別な主張とかがあるわけでもないけど(当てはまる気も議論に参加する気もそもそもないし)、社会という尺度においては、ちんちんおっぱいはやっぱり近視眼的過ぎるし、それが当たり前になり得る(現になってる)社会はどうなんだろうなと思う。

意識的にね、自らがそうだと思い込んでいたら外側もそう見えるわけで、逆も然りで。それってとっても手枷足枷ではないだろうか。

 

そういう意味では科学は、色んな可能性も提示してくれる。でも思い込みの眼鏡を通したまま作り上げられてきたのが科学ということもできるし、そもそもその思い込みの眼鏡は外しても外しても内側に連なっている無限の眼鏡と言うこともできるだろう。人が人である限り。

 

だからこそ常に自分の見え方の範囲や、抱く意見の落とし所っていうのは、正解の外側から見据えておいたほうがいいんじゃないかなと思う。内側においても、外側においても。そういう意味では、正解というものが自分にある時、それは固定観念や思考停止の目印としてこそ役立つのかもしれない。そしてそれを否定するのではなく、一つの見方における正しさ、数あるうちの一つの解として見ることが出来れば、観念の壁が崩れて景色は一気に広がっていく。そういう見方が合うけれど自分がそうだってことを知らない人も多いのかなって。

 

久々に書いたら少し毒が出た。

 

 

最近は体調は良いし、仕事もほとんどストレスない日々。今月は車の不調続きでちょっと困ったけど。

ストレッチと筋トレを習慣化して筋膜の癒着のリリースみたいなのもやるようになって、関節なんかの可動域を意識するようになった。そのおかげかほとんど腰や背中も痛めなくなったし寝違えることもなくなった。前はほんとに日常茶飯事だったのでこれはすごい変化だと思う。単純に、可動できない部分があると別の部分に負担がかかるということなのだろう。そんなのも意識できるようになったのは、精神的な変化も大きいと思う。

 

久々だから写真も貼る。

近所の昼までしかやってないお店。朝子供送った後にこの辺散歩してお菓子とか果物買ったりする。

f:id:hasriq:20231125011659j:image

スターフルーツの横にあるお豆腐のデザート美味しい。

 

f:id:hasriq:20231125011712j:image

ここはシーズンになると果物がちょっと安く売ってる。自家果樹だからちょっと安いし新鮮。

 

f:id:hasriq:20231125011718j:image

ここはスーパーよりは割高な個人商店。あと数日で駄目になるようなバナナを格安で売ってたりするのでそれ買ったりする。揚げバナナ用に買う加熱用バナナだとそのくらいが丁度いい。おろしココナッツもここで買ってる。

 

なんていう日常を書いても話が広がらないね!前ずっとカメラ壊れた携帯使ってた時は、携帯変えたらもっと写真撮ったりアップしたりしようって思ってたけど、いざカメラ使える携帯になったらあんまり撮らないんだよね。そんなことを思いながら朝撮った3枚。はい。

 

 

あとねあとね、最近よくAndrea Vanzoの曲聴くの。

とってもいいよ!


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

この人の曲、ほんと好きなのいっぱいある!

ずっと聴いていられる。おすすめ!