ダイエットというものに思うのは、それが痩せるという目的のための苦行として存在しているから心が折れるし、反動があるのではないかということです。
弟がよく極端なダイエットを始めては心を折り、反動でリバウンドをするを繰り返していた。
勿論この辺りは人それぞれ食べ物に求めることや感じ方、体質、性格までも違うから一概に言えるものではない。それは前提。
ここから先は全ての人に勧めるわけではなく、僕の持論を参考にできる人も居るのではないかなと思って書きました。特に、最近聞くHSPという概念に当て嵌まる人はその傾向がある人が多いのかなと思う。
感じることを楽しむこと。僕にとってはそれが悦び。
全ての感覚がそう。味や匂い、触感などの五感もそうだし、それに伴う色んな気持ち、感情もそう。痛みも意識の持ちようによって全然違うものになる。それはある意味で楽しいものだ。
気持ちや感情もそう。内面で乱反射するのは、それを楽しんでいるからなのかなぁと思うことがある。悲しみや哀愁も、決して悪いだけのものではなくその内側に色々なものが潜んでいて、それを掘り起こすのは辛くもあり悦びでもある。
喜びや快感もそう。より楽しく、より気持ちよくを感じるためには、表面的に感じることでに留めるのではなく、それを内面で意識することで深め、増幅させる過程が必要となる。
嚙みしめ、味わい、想いを馳せ、深め、感じ、見つめ、高まる。
それらの利点は、感じることを通し、生の歓びや悲しみがより深く湧き上がる実感へと繋がることにあると思う。
食べ物について思うのは、現代は味にもセオリーができてしまい、僕らの味覚は既にバイアスの中にあるのではないかということ。既製の食品であっても、レシピに従った料理でも、自分で作る料理でさえも。
持論を言えば、味わうことは生きることだ。僕にとっては自分の感覚のみが事実なのだから。他人の感覚で味わうことは自分を生きることに繋がらない。
よりクリアな生を実感する為に、自分の感覚を研ぎ澄ませたい。
ここまで強迫的にならなくてもいいとは思うけど、食べることの目的は栄養を摂るだけではない。生命の行動原理としてあるのは悦びだ。根源欲求が「食べたい」と僕を衝き動かすのは、悦びに満たされたいからだ。それは満腹感と対を成すものではない。
満腹に伴うのは幸福感であるが、それが幸福であるのは満腹になることが珍しかった時代に根差した感覚だと思う。甘いものや脂分に幸福感を感じるのと同じ。食べ物に溢れている現代にそればかりを求めることは、あまり健康的ではないと思う。その現代に感謝する意味でも、悦びに立ち返ることが必要なのではないかと思う。
食の悦びを追求することは、食というものを自分の中でよりニュートラルに戻すことに一役買うことになると思う。現代はセオリー、通念によって自分の感覚でさえ偏ってしまう。
バイアスや既成の価値観抜きに味わうこと。香り、味、食感、その調合。情景。
素材そのものを味わい、複合としての料理を想う。料理を味わい、素材一つ一つのハーモニーを味わう。調理者の想いまで味わうつもりで。
オーケストラの中の一人の奏者に意識を向けるのと似ている。料理として見れば単体であっても、それは奏者の個性一つ一つがあるからこそのハーモニー。ソロイストだけに目を向けてもそのソロイストの本当の良さは見えてこない。それぞれの演奏者の個性があって初めての協調であるし、その中でこそソロイストの本当の良さが見えてくる。と思う。音楽家でも批評者でもないから本当のところは分からないけど。
指揮者たる調理者のその時のコンディションも、料理には如実に表れるものだと思う。何事もそういうものな気がする。
食から見出される情景を深めることは、その人にとって食そのものの持つ意味を変えるものでもある。味わうことに意識が向くようになれば、量はあまり関係なくなってくる。
空腹感はより深く味わうためのスパイスになるし、腹6分で終わる事さえ余韻を楽しむ過程になる。その悦びを前にして、満腹感は力を失う。
刺激や調味料にばかり頼った食べ物への興味も失うだろう。それらは感じることを強要するものであって、そこに見出せるのはむしろマイナスのものが多いから。
それらに頼る食べ物は、そうしなければならない意味があるものだろうし。
食の悦びを追い求めれば自然と、質の良いもの、味の薄いものにシフトするようになると思う。僕はそうだった。強い刺激よりも柔らかい刺激の方が深められるものだ。
手を触ってみる。引っ掻いたり抓ったら一瞬の感覚に麻痺してしまうけど、フェザータッチはより感覚を高めてくれる。それは微かな感覚を捉えようと意識がそこに向くからだ。それと同じだと思う。
抑揚はあっていいと思うけど、料理の場合初めからパンチがあるとどうしても最初の快感から右肩下がりになる。それってなんか寂しい。
そうではなく、意識を通し、外側、内側を円状に回って回って深められ、高められていくというか、それが一番僕は悦びを感じるのです。
悦びを求めれば自然と食は健康的になるし、苦行をしなくても自分のコンディションに合ったものや自分のコンディションに合った量を好むようになると思うのです。そうするのが一番悦びを感じるから。
勿論一朝一夕ではいかないし、僕たちを取り巻く消費社会はそうさせてくれるかわからないけど、ダイエットという苦行に身を置いて生そのものの色を失うのであれば、より深い色の鮮やかさを求めてみるのも良いのではないかなぁと思う。
特に現代ではHSPという言葉が流行るように、自らの感覚自体に苦しみを感じる人も多い。僕も日本にいる間はそうだった。
僕は雑多な味の食べ物を食べると疲れてしまうし、色んな強い匂いもそれが混ざるのも苦手。というか辛い。それは誰が何と言おうと自分の中では事実であるのだから認めるしかない。学校や集団ではそれは封じ込めるものとしてある意味で訓練、調教されるのだけれど、冷静に考えて無理なものは無理でしょ。
レビューが溢れる世の中だけど、レビューは別の星の摂理に基づくものだと思えばいい。外の世界の人の感覚を知る指標にはなっても、自分の世界に当て嵌めるものではない。
自分の持って生まれた感覚を呪いで終わらせない為には、自分の感覚を封じ込めるのではなく、それらを認め、深め、主軸にしていくことが大切なのかなと思う。他人の感覚に生きるのをやめ、バイアスは捨て、自分の感覚を深めていけば、生はより鮮やかに色を取り戻していくのではないかなと思うのです。
「何でも美味しいと食べる子が良い子」と思って四半世紀は生きたけど、美味しくないものを美味しいと思い込んだり、美味しいと感じてないのに美味しいというのはやっぱり騙し、嘘を吐いているも同義。
くれた人に正直に「美味しくなかった!」と言うことが良いとは思わないけど、せめて自分の内側では正直になって良いと思う。自分の感覚を肯定してあげられるのは自分自身だけなのだから。
食べることだけではなく感じること全般において、自分の感覚を認め、それを楽しむことは大切だと思うのです。自分自身として、自分の世界を生きる為には特に。