なぜ生まれてきたのか、なぜ生きるのか、この常態化した疑問がいかに捻じ曲がった回路が生み出しているのか、ということ。
しかしそれは最早珍しいものでもないのだ。
生きる意味の喪失は、そもそも意識する必要もない生きる意味なんてものに迷わなくてはならないのは、集団の中でいかにそれが求められているか、ということに起源がある。そしてそれを完全に断ち切ることができていないのが僕なのであろう。
フィットイン出来るのであればそう生きればいい。でもそうでもないのにどこかで縛られているから、宙ぶらりんのまま足が付かず、満足に息をすることも逆に窒息することもできず、灰色の未来を数えるのである。
ミスフィットならそんなもの捨ててしまえばいいのに、何故それを拒否しながら這い蹲るのだろう。
責任?ではなぜそれを全うすることに全力にならないの?なぜどれに感謝できない?
ほら、従いながらも「何が責任だ」と思ってる。
お前はマトリョーシカだ。どれも違う顔をしている。色すら違う。我が強く裏で舵を取りたがる。
仲良くなれないのなら、片方が死も降伏も選ばないというのなら、せめてこの体が二分できればまだまとまるだろうに。
順番に主張してくれたのなら、交互に操舵してくれたのなら。
何故いつも同時に逆のことを言うの?いい加減にしてくれないとおかしくなってしまう。誰が?僕はなんなのだろう。
彼らの個々であり、彼らのまとまりの一部であるフリをしながら、単なる隙間なのかも知れない。
知覚の束と言った人がいたね。その相反した価値観を持った束はひとまとめにするべきではないのに。
でのそれが相反してしまうのは、外側の別の知覚が大きな因子になっていて、それを意識するとますますわからなくなる。
それは、ある眼鏡を通すと噛み合わないルービックキューブが揃うのだけど、でも眼鏡を外すとぐちゃぐちゃ、というような関係性なのである。
で、どれが答えなの?答えはきっと、ルービックキューブの面の色ではなく、全体をそのものとして見ることであろう。究極的には、色が意味を持つルービックキューブなどというものではなく、何か単に良いものである、という見え方だろう。
でもそれはまた無い物ねだりだね。
分かってるけど、それは君が野次を入れるくらいしかできないぐらい相対的に力を落としたということかも知れない。何が無い物ねだりだ。
お家に着いた。お散歩はやっぱり大事だと思う。
全体として矛盾したマトリョーシカも、別々にしてあげれば矛盾はなくそれぞれ全うなのである。
しかし僕は、そのそれぞれであると同時に全体であって、だから矛盾したマトリョーシカなのである。
でもそれが矛盾するのは、飾る場所を間違えているからかも知れないけれど、そこに飾られる「べきだ」と一部のマトリョーシカがマトリョーシカとしての責任を主張する。
でも本当にその責任は責任なのだろうか。そう思い込んでるだけだろう?とまた別の一部が主張する。
矛盾した束と束。
で、この知覚の束は何故生きるの?(振り出しに戻る)