感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ストレスに対して目を瞑ること

昨日ストレスについて書いたけど、ストレスそのものについては、辛いには辛いけどそこまで悪くは捉えていないのです。

 

ストレスというものがある環境や状況からある生物が逃れることを促すよう発展した生理的な反応であるなら、僕がストレスを受ける状態を避けることは僕が僕としてこの生活をする限り不可能だという事はハッキリしてるわけですね。

 

それ自体は僕と連動するかなり正直な反応であって、僕にとっては信じるに値するもの。僕が今生きているのもストレス反応の結果の結果に他ならない。

 

ただ、現状でストレスを指針にして生きれるかといえば、そうもいかないわけだ。ストレスを受け続けるのがこの状況下での必然となる。

 

では認識を変えてストレスを軽減しようと言いたい所だけど、それは僕にとっては、ある種妥協の側面があるわけです。

 

変える、合わせるという方向性は僕にとっては大切なものから僕自身を遠ざけるっていう感覚がある。

僕は得ることで失う人間で、なによりも失ってきたものを大事だったと思う人間だからだと思う。

物事の捉え方であっても、スキルであっても、知識であっても。昨今重視される自信や自己肯定感というものさえそれが僕にとって、僕が大切にしたい僕自身の持つ部分にとってプラスに働くかと言われればかなり疑問が残るものだから。

 

特定状況下でのマイナス思考、自己否定、自己矛盾、自罰体質、その辺りが良くないってどうして言えるの?それらについて僕が納得する答えは見当たらなかった。これらの性質は僕が僕自身を掘り下げる中で、少なくとも僕の大切にする部分の一要素は担ってる訳です。それを否定するのは難しい。

少なくとも誰が言い出したのかわからない、僕に適用できるかもわからない理屈よりは僕は自分の価値観とそれに対する感覚を優先すると決めた。

 

そうなったらもうストレスという1つのコンパスは頼りにならないわけです。本来的な意味でそのコンパスに従えるのであれば、自然の中での生存戦略として作用し、僕が見つけ、身を置くべき環境において、僕が生を賭けてでも群れに果たすべき『役割』を担うことができる可能性を高めるものだ。という確信があるわけだけど、その前提は少なくともここ数百年の文明社会では崩れているというのが僕の中での今見えている答えであって。

そういう意味で『迷子』という感覚を覚える人は多いのではないかと思う。特に主観が大事な人の中には。

 

じゃあどうしようかなって考えたとき、やっぱり僕の場合は譲りたくない部分は譲りたくない訳ですね。セカンドベストの選択としては、やはりストレスは受けつつも見過ぎないことなのだろう。

見過ぎないというのは、その二時的で曖昧な反応よりも、主体としての感情や気持ちをより深く読み解いて重視するということになるのかな。

 

怒りであっても嫌悪であっても憎悪であっても、悲しさでも嬉しさでも充足感でも孤独感でも、そっちをコンパスとして使えればストレス反応にはある程度目を瞑っても、自分としての方向性を間違えることはないのではないかなと思う。仮にそれでストレスに死んでもあまり未練はないと思うし。(性格型から見ると早死にが多いらしい。とってもよくわかるよ!わがままで頑固だからね!)

死ぬ気もないけど死んだら死んだでそこで僕の寿命の全うだし、いいと思う。

 

しょっちゅう迷子だから、そういう自分が納得できる方向性が見えるだけで嬉しいものなのです。どうせまたすぐ迷子になるだろうけどね!

 

感情や気持ちを重視する、そのためにはより自分自身の感覚への理解を深めないといけないだろうし、より自制的でありながら情動や衝動を受け入れていかなければならないだろう。

 

敏感な衝動性と深化させた情動の感受、そしてそれらに“飲まれながら”も『先入観抜きで』読み解く冷静さ、その大きな反応に耐え得る忍耐、それと判断を通す意志の強さ。

正にぼくのかんがえた2ばん目にさいきょうのぼくの前提条件な訳だ。かなり難しいと思うけど、多分これを身につけることを避けては通れないのではないかと思う。

その為に必要なのはより高度な統制というか、統率というか、より一般的に言えば統合なのだろう。僕は統合してない訳じゃないし、内面がバラバラなのも悪いとは思ってないから、やっぱり表現的には統率ぐらいがいいかな。

 

足軽部隊ぐらいの連中だから、近衛擲弾兵連隊くらいにしないといけない。

レッドコートが好きなだけだろって思ったでしょ?黒い軍勢の方が好きだよ?

 

あ、なんか今日はもういいや!ちょっとワーテルロー行ってくる!(妄想の世界への旅立ち)