感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

受け止めること 無垢の追求 感じる側の責務

例えば人の言葉や表現を、気持ちを、聞く時、読む時、見る時、感じる時、思う時、考える時、僕は僕だけの感覚を通して感じ、僕として向き合いたいという思いがとても強い。

どうしてここまで拗らせたのかは知らない。

 

それらの込められた想いを本物として受け止めるためには、極限まで僕に混じり込んでいるものを削り取らないといけない。勿論僕自身のフィルターを通して受け取る事は前提で、そのフィルターが問題。

だからより純粋に、純粋だけど僕自身のフィルターにしたい。いや、『僕の』捉え方、感じ方を追及すれば自ずと不純物が煩わしくなる。

 

純粋な感覚を求めて、僕の中に入り込んで僕を作り上げてきたものを削いでいく。穴を掘り鏡に映るものと内面にあるものを対比させ、その要素を見つけては擦り落とし、見つけては削り取り、色々なものが後ろに出来上がるのを感じながら極限まで削る。積みあがってきたものを崩し、配線を組み替え、感情を濾過し、過去の感覚を頼りに掘り進める。

 

どこまでが僕でどこからが僕ではないのか、そんなのは解釈によるってことは分かる。

でも僕は、違うものが沢山混じってしまったと感じるからそれを続ける。だって違うんだもん。親和性がないのに混ざってしまったから溶け込まない。それは僕ではない。

いや、僕なんだろうけど、僕が求める僕ではない。

そう思ってるのか…まぁなんとなく分かってた。

 

Purityの先に静寂があるのか、そう聞かれるとそれは分からない。でもその溶け込まないものは何かと邪魔だから取り除かなくちゃいけない。

知識でも内外の経験でも、作られた記憶でも、溶け込む要素とそうでない要素がある。選別して溶け込まない要素を剥ぎ取り、再確認する。これじゃない、これじゃない、あ、これかなって。

僕はこの時、清掃員であり、作業員であり、彫刻家であり、エンジニアであり、科学者であり、領主であり、狂気でもある。

 

より動物的で、より子供のような無垢さ。それは知らず知らずに僕が捨てきれず、知らず知らずに求めてきたものだった。だからより自分が荒み、汚れたように感じる。

純度が増せばそこに戻るという単純なものではないけど、少なくとも僕はそれを求めている。

 

それは僕として受け取るために必須なものだ。ある人の苦しみ、悲しみ、怒り、嫌悪、喜びであっても、そこにある気持ちを。

僕が知りたいのは球状と感じる僕と似通ったものであって、一つの世界と感じるものであって、この共有される現実という世界の干渉を受けながらも『その形を保っているもの』。

でもね、そこに見るのはやはりどうしても悲しみや苦しみ、怒り、辛さ、そういったものが多くなる。なぜだろう?

 

興味の対象はそこなのだ。何故そうなってしまうのか。

 

その探求にこの人生を費やすのだろうか。それは僕は過程だと捉えている。全てが過程の連続だと。

今はその探求が必要なのだろう。それ無しには僕の僕としての成長もないだろうし、退化もない。流れ、変化の方がいいな。

そして僕はその先にある静寂を信じている。包み込むような温かさを、柔らかさを、水に浮くような軽さを、強さを、揺るぎなさを。優しさを。

なんで?そりゃ、結局いつも思索の果てにはそこに行き着くから…

 

色んな人たちの色んな気持ち。はっきりとしたものも、ふんわりしたものも、そこには訴えがある。ちょうど僕の中で口論している僕たちのように。

 

僕はそれらを僕として直接の関係の中で感じたい。知りたい。その人と接点があるかないかは関係がない。そこに落ちている、流れている、残されている、目の前にある、訴えかけてくる、伝えようとしてくる、それらの気持ちが本物であることが僕にとっては重要なんだと思う。

それらを直接的に感じるためには、この比較で成り立つ世界の、その要素を捨てなくてはならない。そこに人の想いがあったところで、その要素は『僕とその人』という直接の関係の中では邪魔にしかならない。

 

その溶け込まないものたちが僕に入ってきたことを、僕を作り上げてきたことを、僕は恨みながらも感謝しなくてはならない。その存在が無ければ削り取ることが出来ないから。そしてその削ったものは、一つの苦しみの要素であり、一つの悲しみの要素であり、たまには喜びの要素なのだ。そして僕はそれらを嫌悪する。なんでだろうね。

 

本物の気持ちと対峙するのであればこちらにも責任が伴う。受け止めるという側において、際限も取り留めもない感覚の世界にそれを受け容れ、もてなす為には、僕が僕として、限りなく僕として対峙するのは責務なのだ。

 

限りなく先入観なしに、限りなくバイアスを除き、限りなく僕のムードに作用されず、文字でもなく、言葉でもないもの。音なのか、イメージなのか、感触なのか、味なのか、匂いなのか、それと様々な感情の掛け合いの中で生まれる何かなのか。結局はその感覚を取り戻す事。

取り戻す?培うではなく?やっぱり。

 

僕は何か負目を感じて生きてきたのかもしれない。今までそう対峙しきれなかったという意識があるのかも。

 

 だから僕は見つめたいし、聞きたいし、読みたいし、受け止めたい。そう、受け止める。誰も受け止めないから。投げ捨てられるから。無視されるから。

だから僕は受け止めなければならない。

 

それが望み?受け止めてどうするのだろう。どうせ干渉はしないでしょ。

声をかけることや手を差し伸べることはあるのだろうか。うーん。

 

でもこの領域において、 干渉は大きな意味を持つのだろうか?

地球と火星のように見つめ合う。それは既に干渉し合っている。引きあっている。それぞれの公転、太陽の引力、太陽系全体の公転なんかと比べれば本当に微弱かもしれない。でも比べなければ、そこに他のものを入れなければ、火星から見た地球と地球から見た地球において干渉は干渉でしょう。

 

それなら、そう考えるまでもなくもう既に干渉しあっているのでは?

 

その次に行動が起きるのなら起きるのだろう。トリガーは必ずある。あらかじめ型を作る意味はあるのかな。ないと思う。

型を作りそこに知らず知らずにはまり込むのは考える者の悪い癖だと思う。それは望まない。

そんなこと言って誰よりも型を作ってははまってる癖に。

 

でもさ、エンパシーがあるとして、その役割は手を差し伸べることなのだろうか?

例えばある救われない存在が、『その存在として』救うことができるのはそれ自身だけではないか。そして初めて本当の意味でその存在は救われるのではないか。なら干渉も、あの干渉やあの干渉も正しさが褪せるだろう。

 

辛いものを、悲しいものを、孤独なものを目にすると抱擁したくなる。それは憐れみではなく、勝手な共感の一種で。

もしあの世か来世があるなら、救われる場があるなら、互いに子どものような、無垢な姿で笑いあいたいなって。そういう祈りのような抱擁。

意味わかんない?僕も!

 

救われない人が何故救われないのか、僕の興味は常にそこにある。

1つ言えるのは、彼らは救う救われるという概念の外に居るはずなのに、救われない存在になってしまうのだ。

でも概念の外に出ることも、それが仮にできたとしても、この軸の中では計り知れない辛さが伴う。

超越でもしない限り。

 

超越って書くと某彰晃が頭から離れなくなる。救済するぞ!救済するぞ!救済するぞ!

彼もある種の人に対してある種の救済はしていたのだろう。でも僕が言いたいのはそれではなく…

 

かといってツァラトゥストラが説くようなことも僕には難しい。よくわかるけどさ。

ある人が橋として生きるとしても辛さは消えない。僕はそればかり見てしまうし、そこしか見れない。その先などどうでも良くなってしまう。僕が橋になる分にはいいんだけどね。

何でだろう。

 

 

無責任に感じたくない。

それは責務だから。投げ捨てられてはいけないから。

 

責務かぁ…まぁ、気持ちや思いを受け止めるなら妥当かなぁ。本物だもんね。

限界まで削るか!