感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

直感 連想 コンプレックス

昨夜、とあるグループで回っていたこれが目に付いてやってみて、面白いことがあった。

www.idrlabs.com

 

16問のプチテスト。気になったらどうぞ。

 

性格は表情や雰囲気では分かり得ないし、分かったつもりになってはならないという謎の信条のようなものがあるんだけど、その瞬間の気持ちというのは雰囲気やしぐさに出るというのはよくわかる。それは瞬間的な多重な多面の一部として。

性格的特徴となると顕著に出やすい部分だし、表情の積み重ねが顔を作るというのはあると思う。テストなら尚更分かり易く選んであるだろうからわかり易い。

 

伝えることもそうだけど、自分の気持ちを隠したり偽るためにはどう相手が自分を見るか読まなきゃいけないから、それを繰り返して感情のやり取りを洗練してきたのが人間だと思う。高度な情報戦は既に本能レベルで組み込まれている気がする。(それでいて生まれ持った素直さも誰もが経験しているから、きっとそれを追い求めるんだろうなぁとも思う。)

 

これをやっていて思ったことは、僕がこのプロセスでしているのは内的な自分の表情のリファーであって、ただ相手を見たいと思いながらやはり自分を見ているんだなぁということ。

相手の感情が入ってくるから疲れるんじゃないかと言われることがあったけど、ただこの余計なプロセスに労力が勝手に流れる分疲れるだけだと思う。

 


今回僕が面白いと思ったのはそこじゃない。

 

直感的に選ぶというのは、この場合単語のイメージで浮き上がった自分の表情と似ている雰囲気(全体像の場合これが大事)の方を頭空っぽのままポチっと押すだけだ。パッパッと進む。数秒のプロセス。

結果にすごく納得がいってるのは、女性の顔の方はそれに全く難がなかったから。それは僕が女性を沢山知ってるからだ。えっへん!とか言いたいところだが残念ながらそうではない。寧ろ逆に近いと思う。

 

結果貼ってなかった。

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問題は男性の方の間違えた箇所で、それがどこかも見当がついてること。

2箇所迷ったところがあった。(その他は正解という前提で書いてるけど、大体こういうテストは当たるからそういうものだと思って。簡単に言えば色覚テストみたいなものです。)

 

その迷い方っていうのは、思考の介入、別のイメージの混入。そして混乱。

ユング心理学の言語連想検査って多分これを捕えるんですよ。単語からイメージを連想して、その内容と回答に掛かる時間がずれるものを洗い出すやつ。詳しくは知らないけど、あ、これなんだって感じがした。

 

アロガントで計算高い男性像。その表情を連想したとき、あいつの顔が介入してくる。

確かに彼はアロガントだと僕は思うけれど、同時にそうではない部分も認めてしまっている。それでアロガントの印象が分からなくなり、一種の混乱状態になって、結局思考の判断で選んだ。顔そのもの、雰囲気、空気ではなく、部分で選んだ。もしかしたら無意識に逸らしたのかもしれないけど、それは勘繰り過ぎだと思う。それが2回あった。もう一個はマニピュレーティブな男性像。まぁ僕の中ではあいつらの中の数人の代名詞のようなものだよね。

 

文字にすると大げさだけど、10秒はかかってないと思う。それでもプロセスとテンポは大分ずれた。

 

 

だいぶ前に、高校時代暴行を受けていた頃、そしてその後、ストックホルム症候群のような状態だったと書いたと思う。事後かなり後になってだけど、CPTSDとして治療も受けた。記憶の消化という意味ではEMDR療法は良かったけど、様々な情報を含んだ記憶をそのまま手の届かないところに仕舞い込んだみたいで、よくわからなくなった部分もある。それは当時は必要だったことなのだけど、今になって困ってる。

 

さっきあいつの顔と書いたけど、あいつらのことをあいつらと結構頑張って思い込もうとしてる部分があるんですよね。恨みきれないから。

アロガントだしマニピュレーティブだけど、そうじゃないその隙間の人間的な部分、例えば弱い部分とかも見せられた(彼らは見せるつもりはなくても)から、どうしても憎みきれないし恨みきれない。家庭環境がああだからかわいそうだとか思わないけど、でもそこに彼らが感じる寂しさは見せられたし。つくづく卑怯だなぁと思う。

片棒を担がされたこともあった。最悪。恐怖に負けて片棒を担いだ自分がね。

まだ波立つなぁ。もう外の時間では僕の人生の半分の位置まで遠ざかったのに。

今はその辺は置いとこう。

 

 

例えば、彼をアロガントだと思わなきゃいけないというのは強迫的な僕の思い込みであるということ、それは僕も理解している。正直そこまで恨んでるわけではないのかもしれないとも思う。恨む『べき』、憎む『べき』、忌む『べき』存在であってね、所詮べきなんですよ。思考の産物。理性的な顔をして理性的ではない僕の片側の言葉。そう、側と側の問題。いつものやつ。

 

僕だって色んなグラデーションを持った沢山のレイヤーを内在していて、その中でアロガントだったりマニピュレーティブだったりする一面(それどころか数面!)も確かに持っていて、それはただ単に外に出さないよう抑制しているだけだから、それを素直に外に出す彼らが悪いと感じないのも無理はない。僕だって内側では凄いかもしれないよ(わたし脱ぐと凄いの。的な)っていう感覚。

片や、もう片方の僕がそう思う『べきだ』と論じるのもまぁ無理はないとも思う。

 

 

問題は、あの地方ヤクザ見習い集団とその延長が作り出した犠牲者は沢山いるわけで、その連鎖は今も続いているのだろうと思う。その行動を認められるかといえば、それを認めれば僕はその犠牲者たちに合わせる顔がないわけですね。そして僕の地元だけじゃなく、その世代だけでもなく、どこにでもそれが発生する素地があるのを見た。

いじめや犠牲に僕が過剰反応するのもこれなんだろう。僕のあった状況がいじめとは性質が異なるものでも、それは見てきたいじめと結びついてどこか自分の経験になってるんだろうね。する側とされる側のシミュレート。目的も分からず何をしているのだろうか。する側もされる側も理解したいっていうのは目的じゃないの?わかんない。

 

彼らのような集団が生まれる社会構造が悪いか、そうとも言い切れない。別に同情したいわけじゃないし。彼らは彼ら一人ひとりという存在だから、その構造の中でそうなってしまった存在として見るのも違うと思う。その集団という存在が彼らにとって救いであることも認めなければならないだろう。

ただ、例えば奴隷扱いしたりサンドバッグにしたりする対象の正しい扱いを、彼ら自身は知らない。今思えばまだまだ子供だし、それでいて変に外面が大人びるからなのかな。不器用だなぁとも思うけど、まぁいい迷惑だね。

 

存在否定ではなく彼らの行動だけを間違いだといえばいいっていうのも、正直安易というか、単純すぎる発想だと思う。どこをどう見てどう区切るんですか?って。

そう思ってしまうのは、ただ単に僕がそう割り切ることができないからで、それは結局自分の問題なわけです。まぁ、だからコンプレックスはコンプレックスなんだと思うのね。

 

 

コンプレックスって何だろう。

CPTSDのCがコンプレックス。僕の内側で多重エラーを起こしている一部の回路の漏電部分がコンプレックス。

執着や偏愛のようにも使われるけど、それは浅く受け取られ変質した観念だろう。

 

つまるところ、漏電、エラー、病巣、それそのものが見えればそれはもうコンプレックスじゃないんだろうなと思う。だからコンプレックスはコンプレックスとしか言いようがない。

 

この簡単なテストでその影を見ることができて面白いなぁと思ったけど、文字にしたら嫌な気分になった。まぁ面白いけど。

 

そういえばさっき、これを書きながらCPTSDについてちらっと調べたんですよ。僕はもう完全に脱したと思っているから、いや、そう思っているということはそう思ってないのかもしれないけど、ともかくもうその概念は捨てようと思って久しく、内容もあんまり覚えてなくて。

 

それでwikipedia先生のこれが目に入って。

今その情報要る?って思った。そこで結び付けられるとまた混乱しそう。いや、もうしてる。

また鶏と卵の順序整理とヒヨコの選別を始めさせるの?頭おかしくなりそうになるから一番苦手なんだけど…。

 

過去を見ないで今を生きろって言う人もいれば、過去と対峙してトラウマを解消しろって言う人もいる。

僕は顔を見ないと捨てるか捨てないかの判断もできないから、後者の選択しかないのかな。というか、前者はもう10年やったのだし。嗾けられるというのは、段階というか、そういう時期なのかなとは思う。

それにしても多重自己ねぇ。自覚の有無に限らずみんなそうなんだと思ってるけど、じゃあ解離状態と正常の違いをどう判別するのだろう。なんとなくはわかるけど。

 

自己たちの網目。世の中の人達と同じで、皆苦しいんだろうけどね。それは代弁?自弁?

そこをハッキリさせる必要はないって何度僕は主張すればいいことか。仲良くして欲しいのにな。