感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

衣食住と時間

自給自足に近い生活をすると、衣食住に関する行動に割く時間が多くなる。

 

文明はある意味、文化や勢力の拡大、そして交易や経済に関する豊かさを重視するために、基本的な衣食住の確保に割く時間は極力削りたいのだろう。

効率を重視するということ、無駄を省くということは、そういった活動に労力を割くためには必要なのだろう。

 

でもその省いた無駄、省くことが当たり前になっている無駄は本当に無駄なのだろうか。

そもそも無駄なことなどあるのだろうか。

 

自給自足的な生活は確かに衣食住に使う労力が多くなる。でも衣食住がそうやって確保されるのだから、生活と仕事と生が密着する。これは僕にとっては焦りがない。

家族や共同体もその分大きく、密着し、作業は各々の好き好きに自然と分担されるので、言うほど苦労もない。

だからゆったりと一つの作業に時間をかけることができる。『時間を意識せずに』と言ってもいい。

 

時間を意識せずにとは、ただノロノログダグダやるというわけではない。思うように、丁寧に、たまには手を抜き、そして没頭できる、その自由がある。

ノロノロやる人やグダグダやる人もいれば、何をやっても丁寧な人は丁寧なものだ。

 

(締め切りとか作業時間とかノルマとか、それらは何の為にあるのかと今一度問うこともできる。

本当にそれが必要な場合もあるだろうけれど、何事にもそれらが必要なのだろうか。)

 

ということを、貰ったシカの頭を処理して思った。

僕は欲張りだから余すところなく食べたい派なのだ。皮を剥ぎ、頰、舌から喉、首回りの肉を取り、顎を外して内外の骨に付いている肉を削ぎとった。

耳や鼻や唇は皮を剥ぐのが難しいので、毛を焼いてから削り取り、スープにする。

今回は脳を含め、残りは頭蓋骨ごと愛犬にあげた。

 

気づけば4時間経っていた。

余すことなく捨てずに食べるのはとても時間がかかるけど、作業から食べるまで有意義だ。

 

何より美味しい部位は時間がかかる。時間をかけるから美味しく感じるのもあるのだろうけど。

効率や時間を重視するなら舌から喉だけとってポイだ。足りない分は他の部位を貰えばいい。

でも僕は欲張りだから。それは潤んだ目に対する感謝の気持ちもあるし、捨てられやすい所をもらいたいというのもあるし、ただ取れるだけたくさん取って食べたいというのもある。

 

この前は寝る前にチェックした刺し網に9匹魚がかかっていて、冷蔵庫もクーラーボックスもないので悪くならないように塩を多めに下処理をした。睡眠時間は自由なので食糧を優先できる。

この生活は規則正しくなりそうなイメージがあるけれど、実際はそうではない。規則正しい必要はない。

寧ろ、自然と生活そのものであることは、規則正しくないことなのだと思う。

明日の食糧は大切だし、お魚さんへの敬意でもあるし、自然への感謝や満たされる射幸心まで全て含めて喜びであり生活なのだ。

 

ところで、真心という言葉があるけど、それを込められるのもまた『時間』の外でのことなのだと思う。

美味しいスープには手間や時間がかかるものだ。それは、かかった時間は時間ではないし、だから手間は手間ではないのである。

 

さて、様々なところで時間や効率が大切と聞くが、その時間という概念は本当に存在するのだろうか?

少なくとも、ここではその影は薄い。そしてそれ自体、僕の内側に巣食っているに過ぎないように思う。

 

この気持ちになる度に、エンデと話してみたいと奥底から思う。