寝違えた。変な体勢で寝てたから起きた時にピキッっていって、「あっ…」って。
寝違えも腰痛も人体の重大な欠陥だと思う。人間が乗り越えなければならないのは先ずはそこからなのではないか。と思ったけど、二足歩行を始めた時、農耕生活を始めた時、そしてオフィスワークと、微妙なバランスで成り立つ人体は常に腰痛のような過負荷を適応する間もない生活の変化とともに味わっている。
これはもう個体レベルでは苦しむために生まれる動物と言ってもいいのではないか。
はい…
今朝は時間があったので髪を切った。いつもの床屋。新しいおじさん。ハズレだった。
僕は髪型の出来上がりはあんまり気にしないんだけど、鋏で切って欲しい。その床屋さんは5人店員さんが居て3人バリカンマンなんですよ。
左手で頭を押さえられながら右手でブーーーーンって刈り込まれる瞬間はどうしても毛を刈られる羊が頭を過り、それでも平静を保ってじっとしている自分に羊の気持ちを重ねているうちに吹き出しそうになって肩を震わせてしまう。
剃刀を素肌に立てられた時も似ている。首にナイフを突き立てられるシカを想像したり、時にはいつか見た斬首動画が頭に浮かぶ。剃刀が肌を這うゾクゾクに毛が逆立つような気がするのだけれど、目を閉じて身を任せ、肌を這うその剃刀の動きを追い続ける。頸部に来た時に、スパッとやられることが頭を過り、それでも成り行きに身を任せる感覚を味わう。
話が逸れた。バリカンだっけ。
実家が美容院でずっと祖母か母に切ってもらっていたからか、やっぱり鋏がいい。
その都度確かめながら鋏を入れ、整えていく。
バリカンで刈られた部分を見ていると、均一過ぎてこれもう草刈り機でしょって気持ちになる。チョキチョキチョキとビイイイイイイイイイイイインは違う。
効率っていう面では良いのかもしれないけど、僕は草刈り機より鎌と鉈がいい。気持ちを込めてその作業をする時間って特別であって、効率やお金のためといって他のもので代替できるものではないと思う。(日本語で『作業』という言葉がもはや機械作業的な空気を放つのも、何かの為の作業という単なる一過程と見做す見方が強まったからだろう。それが僕にとっての労働の苦のひとつ。)
と刈られる草のような気持ちになったけれど、床屋さんはお金のためのお仕事だし、それを他人に求めるわけにはいかないよね。バリカンでもその人なりに気持ちを込めてるのかもしれないし(今回の人からはそれを感じなかったけど)
だからいつも、好きな店員さんに当たることを祈りながらドアを開ける。
現代ではやはり、ベッポじいさんは淘汰されなければならないのだろうか?
なんてことを考えていた。
それにしても首が痛い。うぅ…