うーん、オーバーフィッシングというのかな。刺し網はその辺が上手くコントロール出来ないのがなんかこう、罪悪感というか。
ある魚が沢山獲れたって聞いて僕も少し離れたところに仕掛けたのだけど、全然違う魚が大量にかかった。
釣りでは狙ってない魚のことを外道というけど、僕はそれが嫌いで日本で釣りをしている時もクサフグ以外は持ち帰って調理して食べていた。大体は人間の勝手な先入観(釣り師は変なプライドを持つから)で、しっかり調理すれば美味しいものばかりだ。
今回沢山獲れたのはフナの仲間2種。綺麗な清流なので美味しいけれど、何分Y字型の小骨が背側に多くて人気がない。それでいて中流以上では一番沢山いる魚。
しかも結構なサイズなので、1人1匹でも多いくらい。その上その日はたまたまもっと人気のあるメッキやハタの仲間、貰い物のシカの内臓が食卓に登壇し、僕の魚たちは見事手付かずのまま腐ってしまった。
翌朝、というか今朝、狙っていた魚がかかっているかもと期待して回収するも、昨日腐らせたよりもかなり多いその2種ばかり。
仕方なく死んでいるけどまだ状態の良いものと、死が確実なものだけ持ち帰り、残りは逃した。持ち帰った魚は日持ちするように素揚げにした。
かなりの数の魚を1匹1匹網から外している時、僕は一体何をしているんだろう?という気持ちが支配的になってきた。清々しいはずの朝の、よくわからない作業。
逃したとはいえ刺し網なので、消耗し、鱗が剥げていたり内臓が圧迫されていたりして、どの程度生きられるかわからない。
僕は普段リリースはしないし、リリースするぐらいなら獲らなければいいと思うのだけど…
氷があれば数日は冷蔵できるけど今はない。塩干しにしようにも悪天候が多く作っても塩が無駄になるのは目に見えてる。売ろうにも仲買してくれる人が出かけていた。
とはいえ僕が獲らなければ腐らないで済んだのは確実だし、逃した魚も痛め付けずに済んだのは明白。
少し大きな目で見れば腐った魚は循環に戻ると見ることもできるかもしれない。
例えば腐った魚はオオトカゲが食べるし、残りも川ならエビや小魚、プランクトンが食べ、陸ならウジやアリが食べ、それを食べる魚や虫や爬虫類にと回っていく。
弱った魚も大きな魚や子ワニ、オオトカゲ、鳥のエサになるし、死んでしまっても上の循環に戻っていく。
だけど、やはりそれは自分の手から目を逸らすための都合のいい解釈だと思う。いや、その解釈をする人はそれでいいのだけど、僕個人が選んではいけない解釈というか。過程と結果として見る前に、僕には主体があって、僕の行動の責任は僕にあるわけで、無駄に魚を殺したという点は変えようのない事実だから。
これがどういう価値観からくるのかは置いといて、この価値観はこういう生活、狩猟採集に近い生活とはとても相性が悪いとは思う。
与えられた恵、それが過剰であっても感謝に徹するのがこういう生活では精神衛生上最も自然な捉え方だろう。だから何かを崇拝し、畏敬し、御供えをし、祈る。
でも僕にはどうしてもそれが難しい。自責から生まれる感謝は質が違うというのはわかるけど、どうしても根付いてしまっているものがある。
大量廃棄される弁当を買っても買わなくても、どちらにしても責苦の矛先は自分に向く。別にそれが良いとか思ってるわけでもなく、なんかこう、回路がおかしいのだろうな。いや、回路がおかしいせいにするのも違うだろう。手を見ろと。
漁業や畜産に関わる人たち、殺虫剤の会社やサプライチェーンでそういう破壊に関わる人たちはどう解釈して仕事と向き合うのだろう。
こっちの人達も魚や余剰食料はポイポイ捨ててるし、無駄になった魚を見て言うのは決まって勿体ないだ。感覚は物に近い。いや、虫や魚に対し痛そうとか苦しそうとか申し訳ないとか感じる方が異端なのだろう。これは文化の違いもあるのかな。
蜘蛛の糸で地獄から這い上がるやつ、小さな頃から頭に残ってる。天国や地獄の存在を信じているわけでもないのに、刷り込まれ、染み込み、積み重なったものたちが形を変え、価値観となってこのドロッとした血糊のような罪悪感を生んでいる。
焼きついた魚達の目。彼らの目は苦痛も感情も映さない。だからこそそこに映るものがある。勝手に僕が見ているだけなのだろうけど、それは僕にとっては映っているということであって。
普段はルンルン気分で魚を捌いてる人間なのに。捌かれた魚に対して不公平だとも思うね。いや、そもそも魚をそういう目で見るのは賤しいし、魚に対して不敬だと思う。
このモード良くないなぁ。でも必要なのかな。
暫くは大きい網目の網を使おうかな。でも獲れないとおかずがないんだよなぁ。それを家族に押しつけるのも良くないし…
生きるって難しい。ただ生きるだけなのに難しくなってしまうのは何故だろう。
こんなもの捨ててしまいたいんだけどな。
今朝の川