感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

リラクゼーション効果 ストレスと癒しと自然

興奮やパニック、緊張や不安な状態の時、多分交感神経が優位な時、僕はその環境の中の存在ではなく、外界との接続を遮断した状態なのだと感じる。

 

リラックスした状態はその逆で、周囲の環境の一部となっている。そして、そこには自然の要素が重要になってくる。音、匂い、視界、感触、風味、それらが繋がりを持つと感じさせるものはやはりここ数百年以前の僕らの生活に根差していて、人工的な環境にそれを求めることが出来ないのは当たり前なことなのだろう。

アロマ、ホワイトノイズ、植え込みの緑、ある種の風味(体内である種生理的に作用するものは別として。別ではないのかもしれないけど)などがもたらすものは、それらを感じることによるリラクゼーション効果であって、そこで得られる癒しは癒しを超えることが出来ないものだ。(多分、マイナスイオン発生装置というものが目指したのもそこだったのだと思う。)

自然環境を支配し、自然環境から隔絶された僕らが癒しを求めるのは、とても当たり前なことなのであろう。でもそれは癒しを求めているのだろうか?そこに癒しを感じるからそれを取り入れているのであって、求めているものは別なのだ。

 

僕の問いは『なぜ癒しが必要なのか』。それに尽きる。

それはとてもおかしなことではないだろうか。癒しと呼ばれるもの以上のもの、例えば五感全てが癒し効果のあるものたちに包まれ、その環境の一部として繋がりを持ち、自らの存在が明確であり明確でない状態というものは、ある種の環境では当たり前のものである。そしてそれは都市生活を始める前の人類が当然のように感じていたものなのではないだろうか。それは僕が森の中で実感するものである。

 

時間、流れ続けるこれも、60秒刻みのすべての人が共有しなければならない強迫的な流れと、川の流れ、太陽や星の流れ、風や様々な音の流れ、空気の質感の流れ、それらとでは同じ時間という流れを騙っていても全く別のものなのだ。前者は実感という環境と僕との接点がないのだから。(実感がない=)存在しないものに縛られるストレスなのである。

 

例えば前者が、時計の時間の流れが支配する空間におけるストレスを、後者を疑似的に感じるものを利用することで『接続先を切り替える』というものが癒しであるとしたらどうだろうか。

僕はとても納得できるような気がする。

 

例えばミニマリストという人たちが、少なくともその源流が目指していたものは同じではないだろうか?ストレスの発生源を物質に見ているだけなのではないだろうか?

同じようなものは沢山ある。

 

みんな本当はそこから逃げたいのではないだろうか。本当はあの場所へ帰りたいのではないだろうか。

癒しの渇望、物質に対する疲れ、流れからの逃避、病んだと思い込まなければならないとても自然な感覚を持った人たち。

自然への回帰とか言うとなかなか受け入れられないのだろうけど、僕には多くの人がそれを望んでいるように見える。

 

この流れの先が正しいのだろうか。それが正しい向きに流れるとしても、その流れを肯定することは正しいのだろうか。

 

癒しもそうだし、ミニマリズムもそうだけれど、それを肯定することは、僕にとってその大元にある流れそのものを肯定するに等しい。だから僕はそれを求めたくはないし、それそのものだけを肯定することはしない。でも実際その流れの中に居るから、癒しというものには縋ってしまうのだけど。

 

 

何が言いたいのかといえば、この流れの中に居る以上、僕にとっての静寂はないのかもしれないということだ。

だから僕は言う。生まれる時代を間違えたと。

多くがこの生活に正しさを持つ世界だから、個人の感想として、時にふざけた振りをしながら、思いを込めて言うのである。