感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

復活の喘息 アレルギー 生きてる感不足 至らない感と他人軸

昨夜は蕁麻疹と喘息のツープラトンにあえなく轟沈。重ねたクッションに前向きに寄りかかる感じで寝たり覚めたりを繰り返した挙句、久々の寝違え…

蕁麻疹は全身の発疹が2日ごとに出てた1月よりはマシになってきた気はするけど、ここにきて喘息が復活してきた感じ。喘息さんは村に住むようになって徐々に出なくなって、もう多分8年以上出てなかった。それが今週2回出て今も気管支が変な感じ。

先々週辺りにコロナっぽいのに罹ったからその影響もあるのかなぁとも思ったけど、どちらかというと環境とか精神的なあれな気がする。

今は街に住んでいるしね。

 

眠れないのは辛いんだけど、でも今更喘息の薬を買うのも何かなぁって思うし、クリニックにかかるのも面倒だなぁって感じ。

幼少期からアトピー、鼻炎、喘息とはとても密接な関係にあったのだけど、思い返してみると喘息って息苦しいから辛いのは確かに辛いんだけど、個人的には結構恩恵も受けてきた気がする。恩恵と言っていいのか知らないけど。

慣れっこだとそれが当たり前という感じで辛いけど辛くないというか、それがニュートラルな状態。運動誘発型の発作が多かったから、運動したり笑いすぎたりすると喘息が起きるのだけど、楽しければ喘息になっても楽しいから笑うし、子供だから発作が起きるのは分かっててもお構いなしに走ってた。苦しくなれば気分も強制的に落ち着いてじっとするし、当時は吸入薬も持ってたしね。あんまり苦でもなかった。

 

むしろ喘息の場合は言い訳に使えることも多くて、周りも「じゃあしょうがないね」って感じだったのが結構よかったなぁって今は思ったり。小学校の長距離走の練習とか、中学の部活とか、喘息を理由に見学してたことが結構あった。発作自体はあったからずる休みではないけど、やろうと思えば全然できたっていうライン。

あんまりのめり込めない運動やチーム行事に無理せず付き合わずに済んだし、発作が起きれば落ち着かなきゃいけないっていうのは、言い換えれば一人の時間に引き戻してくれるということで、それはやっぱり今思えば恩恵だった気がする。一応周囲も認める病気だから自責なんかもなく、ある意味で気持ちよく休める時間だった。

 

僕はアレルギーは検査によれば色んなアレルギー物質にも過敏らしいけど、どちらかというとこの運動誘発型の喘息とか、寒暖差や寝不足で出る血管運動性の鼻炎とか、物質的には何やっても効果がなかったアトピーとか、季節関係なしの結膜炎とか、原因物質どうこうっていうのじゃない感じのアレルギーが多かった。最近は蕁麻疹。

この中で一番辛いのは鼻炎かな。くしゃみし過ぎると頭がぼーっとして何も考えられなくなる。

こちらに住むようになって何年か経ってからは、どのアレルギーもあんまり出なくなってた。虫刺されから慢性の皮膚炎になったりはあるんだけど。やっぱり街は合わないのかな。それとも仕事、というか生活が合わないのか。うーん。

 

何となくだけど、アレルギーというのもメッセージ性があるような気がする。ここにきての喘息は特にそう感じる。でも身体は何を訴えてるのだろう。

症状が出てる時って不意に昔同じ症状が出てた時の感覚に繋がる時がある。そこに何かあるのだろうか。

 

 

最近も相変わらず低調な日々。低空飛行と思ってたけど既に墜落してる感。

先週は意識して食べたいものをお金のことを考えずに食べてみたりしてみて、多少生きてる感があった。でもやっぱりそんなの続けていられないし、続けてると効果も減ってくる。そりゃお金持ちも心を病むのだから当たり前だろう。

生きてる感?生きてる感。生きてるのに生きてる感が少ない。生きる屍状態。それを紛らわすだけで過ぎていく日々。

幸せな生活は既にある筈なのに何が足りないのだろう。幸せな生活?そんなのはただの客観的な尺度での幸せな生活で、主観的に幸せだと言えるだろうか。足りてるから幸せというのはお粗末。そもそも幸せとは何なのか。わからないけど、生きてる感というのはそれに直結するのではないだろうか。

 

僕は幸せという感覚があまり分からない。頭ではわかるんだけど、何か色々伴っていないというか。前にも書いた気がする。孤独はこんなにも身近なのに。

でもこれは気質的なものなのかも。僕が幸せの感度が高かったら双極みたいになってるだろうし。逆か、双極みたいな自分だったらもう少し幸せの感度が高かったかも。

であるなら、自分なりを摸索するしかない。幸せというものの在り方、感じ方。もしかしたらもう既に自分の中にある感覚が、幸せという概念と結び付いてないだけかもしれない。無いなら無いでそれなりに生きるしかない。

 

そういえば今日ふと、生活は一応維持できてるのになぜやらなきゃいけないことをやってない感覚、至らない感覚が付きまとうのだろうと車から夕焼けを見てる時にふと思った。一応最低限はこなしてるから維持できてるのに。

何を求められてると思ってるの?何を自分に課しているの?

わからない。

一応最低限って何が基準になって一応の最低限なのだろう。

 

頼まれごとも期待も評価も受けるか受けないかは自分次第なはずなのに、そもそもやる気がないものなのに、自分の中のどこかでは勝手にやらなきゃいけないものに分類されているものがあるのかもしれない。親だから、大人だからっていうのもそう。どこかで勝手にラインが引かれてる。

だからやってない感に苛まれるし、ゆっくり休んでる時にもそんなことしていていいのかって思う自分が居るのではないだろうか。

そんなことを思ったら急に腹が立ってきた。勝手な他人軸で何でそんな思いをしなきゃいけないのか。

一体こいつはどこに隠れていたのだろう。今の今まで気づかなかった。

生きてるだけでも十分やっているのではないかって思ったら、なんか意外と頑張ってるんじゃないかと思えてきた。

十分ってなんだよ。よくやってるということにしておこう。いいよね?

 

とりあえず自分にとっての生きているとは何なのかをまとめてみようかな。色々なものを整理し直さないといけない気がする。喘息の記憶なんかもヒントになるかも知れない。

丁度、明日から2週間以上一人暮らしになることになった。図ったようなタイミング。

色々と整理する時間になりそう。執着の芽のようなものも意識してしまったから、それも向き合わないとなって。

 

子供が長期休みに入って家族が久々に妻の実家に里帰りすることになったのだけど、確定したのは三日前だった。僕はお仕事があるからついて行けず。森に帰れないのは残念だけど、でも今の自分により必要なのは一人の時間なような気もしてる。何より、帰省が確定したのを聞いた時に何だか気持ちが軽くなった。静かな時間、一人の時間。雲の絵が描きたいな。

 

明日は家族を送りに片道5時間の往復。明日中に帰ってこないといけないからちょっと大変だけど焦らず急がず運転しようと思う。道路も穴やひび割れだらけだろうし。

ということで今夜は珍しく早寝さんです。また蕁麻疹出てるけど、もう今夜は薬飲んじゃおうかな。

おやすみなさい。良い週末を。