どの表象もそれぞれの実在だとした場合、鏡像もあの存在とあの存在のひとつの関係に過ぎない。実在の意味?それは僕にとってはもっと手前の問題であって、0か100かの問題であり、『どの表象も』という部分に還る話である。
自己認識や鏡像認知という能力が人類を人類たらしめているとしても、それが良い面ばかりだとは僕には思えない。その負の側面を味わっているような気がする時があるから。
主体が揺らぐのは順序のせい?
全てが表象であるなら誰が実在を証明できるのかと考えると、表象という概念の外からか、もしくは内側において(その中での)実在でなくなるかしかないのでは?
おまけ:イケニャン
彼らはどんな世界を見ているのだろう?
少なくとも僕よりは確かな(確かに)世界を見ているのではないだろうか。