感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

イランのメタノール中毒から

例えばメタノールの集団中毒で多数が死んだイランを見て、土人だと言う。知識があれば防げた。知らないのは土人だって。

でも先ずこう、アルコールに対する見方が違う別の文化圏をそう断じるのはどうなのだろう。化学的視点もそうなのだけど、一般常識的にメタノールが区別できるのは飲酒文化があるからでもあると思う。あ、でもロシアを見るとそれも違うかな。でもあれはあれで別でしょ。酒を求めて同じアルコールだからメタノールも同じっていうのと、表向きには酒を薬の一種としてしか見ていない人達がエタノールとメタノールを混同するのは別。

その辺は結構どうでもいいのだけど。

 

メタノールを使わなきゃいけないのはエタノールが手に入りにくいからだろうし、作って売る側はともかく、薬用の酒として売られてたら買う側は気づき辛いと思う。普段飲まない人なら尚更でしょ。僕だって酒飲まないから見分けがつくか自信ない。

それを土人と言ってしまうのなら、ほぼ糖分でできていて酵素が入っていても製造の過程で変性しているであろう酵素飲料を、宣伝文句のまま受け取って買い、経口摂取するのも似たようなものでしょ。

他国人をそう見たくなってしまうだろうけど、日本人も見方によっては大差ないと思う。そう見せるのはバイアスでしょ。ところがどっこい両者は実際は全然違って、僕のバイアスで同じに見えてたりして。それはそれで笑える。

 

他文化圏の人間を土人と言う前に、先ず彼らがそのメタノールを飲むに至った経緯として、例のウイルスへの不安と恐怖があるじゃないですか。(酵素飲料は太ることや不健康に対する、不安とか恐怖でしょ)

でもそれはウイルスや感染自体への不安や恐怖とは別物で、集団が、それも国際的に人類が作り上げたと言っても過言ではない像に対する不安と恐怖であって、感情的な流れ、それも鉄砲水じゃないですか。群衆という現象はこれだと思う。(ファクトはファクトで点在するけど、点を線で繋いだ像が戦隊ものの悪役よろしく巨大化したものはもうファクトじゃないでしょ。だからそれは一旦置いといて。今は怪獣大戦争状態だと思う。)

 

濁流の感情的な作用は離れて見ていても引っ張ってくるから、僕は自分が関与していないというのは難しい。ということはほら、ある意味で皆で作った物じゃない。そうじゃない人もいるのだろうけど、そこで自分は違うと言える人は僕は超越してると思う。

で、自分が素粒子レベルでも構成要素になっている怪獣が人を殺していると見た時(飛躍してる?僕はそう思わない。)に、土人が勝手に死んだと言えるだろうか。

 

言い替えてみる。

ビルの火事でさ、人混みの流れとなって逃げた時に階段とエレベーターがあって、たまたま開いていた故障中のエレベーターに乗った人たちが死んだとして、非常時にエレベーターに乗るのは馬鹿だと言えるだろうか。それは結果論だろう。結果的にそっちが助かったかもしれない。

それに我先に逃げようとする人たちの流れに押されていて、気づけばエレベーターに乗ってたなんてことは普通にある事でしょ。気づけば階段を下りていた人たちと何ら変わらないし、窓から飛び降りる人もそんなに違いはない。違いがあると言い得るとすれば、誰も向かわない先にある非常階段や避難梯子の存在をその状況下で覚えていてそれを選択できる人くらいだと思うけど、そういう人は中々居ないと思う。

 

不安や恐怖が作用し合う集団の流れの中で生まれた幻像が原因となったのなら、そこに関与してないというのは難しい。反対の意見を持つ人たちの流れだって、別の像を生み出して共有しているに過ぎない。

僕自身は流れの外に居るつもりでも、僕が実際にその幻像を感じてしまっているとしたらある意味同じだと思う。漂う感情に触れて不快と感じれば、向きが違うだけで同じく影響を受けているということでしょ。残念ながら影響されたくないと思っている僕も影響は受けていて、それでも巻き込まれたくないと感じて多分自分を差別化しようとしてる。傲慢だよなぁ。何がって、差別化するのも同一視するのもどっちも傲慢に感じる。同一視の方がかろうじて柔らかめだからそっちを選んでるだけなんだろうなぁ。一体どうしろと言うのだろうか。

 

何と言うか、その死んだ人たちを土人と言うのなら、僕の価値観からすると人類皆土人になってしまう。

 

土人というのは嫌な言葉だ。それは否定の念が混じっているからで、その否定は自分の属すグループを肯定する為のものだから。と僕はいつも感じる。

それは見方を変えれば、単に僕が群れに拒絶反応を示してるだけかもしれないのだけど。ものにもよるけどサル山に見える。でも僕はサルを見下すつもりはないから誤解しないでね。果物を荒らすサルは僕にとって仇敵だけど、だからこそ尊敬してる面もある。そういう意味で、土人という大元にあった言葉はここまで差別感情が混じってなかったのかなとも思う。戦時の本ではナチュラルに土人表記があるけど、筆者はその人達を尊敬もしてるんだよね。

 

それは置いといて、僕のこの群れに対する拒絶や嫌悪も自己投影なのだろうか。誰よりも羊だから外に居たいのかなぁと思うことはある。出られなくなることが怖くて。

あ、何度も同じこと書いてるかも。

いや、でもさ、出られなくなることが怖いってことはやっぱり中に居たくないのかな。

まぁ少なくとも、中に居たことがあるからそう感じるんだろうな。

 

まぁいいや!

取り敢えずほら、みんな仲良くできればいいのになぁと思う。結局それ?まぁほら、定型句みたいなものだと思って!