沈みゆく繊月。
それは空に薄く開いた傷跡のようにみえた。新月明けの闇地についた切り傷。その薄く白い光は、心地よく包み込み、全てを覆い隠してくれる闇夜の深い優しさについた傷のようで。闇は白い血を流すのだろうか。
しかしその痛々しい光もその白さも、闇夜のもつ寂しさ、孤独、寒さからすれば、そんなものをも包み込んでくれる温かさでもある。すべてを照らし、曝け、対局的な不安の元を拭い去ってくれる。人々が光に見出した希望、その名に相応しい温かさ。
存在には常に双極の、闇と光の、陰と陽の痛みと優しさ、寒さと温かさ、孤独と抱擁があるのだろうか。一見相容れないように見える双方が混じり合い、そのバランスで物事は形作られているのだろうか。
空に浮かぶその線は閉じた瞼のようでもある。
それは、その目は終わりか始まりそのどちらかの象徴で、その双方が希望と絶望で。
そんな突拍子もなく浮かんだイメージも、高い飛翔の為には深く沈まなきゃいけない僕にとってはしっくりくるものだった。
希望がなければ絶望もないし、絶望がなければ希望もないし。より深い温かさを感じるためにはより深く冷えなければいけないし、孤独と抱擁もまた、その味、その実感と深く混じり合いながらも反発するものであって。
僕の中ではどうしてその括りに痛みと優しさがあるのかはわからないけど。それを超えたいんだろうな。
レンズで像が逆さまになるように、僕の内側の世界にこれら全てが存在していて、そこから反転している自分が外側を見ているような気分になる。どちらが逆さまなんだろう?僕はどちら側を見ているのだろう。どっちが僕なのだろう。
この瞼は開き、希望と絶望の光に包まれるのだろうか。それとも閉じ行きて絶望と希望の闇に包まれるのだろうか。
月齢考えればわかるだろうとか、そんな野暮なことは今はなしだよ!僕の中の理屈屋くん。今は我慢しなさい。
瞼は、傷口は開くのだろうか?閉じるのだろうか?
でもそれは結局そのまま何も語らず地平線の彼方へ沈んでしまう。
もし明日が今日までと同じ理屈で動くのなら、明日、その月はまた形を変えて上ってくる。でもそれを見るのは、答えが欲しい今の僕ではなく、全く別の、明日の僕であって…明日の僕もそれを見て答えを次の夜に託して…それが人類の営みなのかなとまた飛躍する。
お散歩していた昨日の夜、じりじり沈んでゆく月を見ながら、そんなことを思っていた。