これ、Twitter上で回ってたものの拾い物。上の文言は無視して少し眺めてみて欲しい。
人によって色んな見え方があるのだと思う。
僕にはこの絵の感覚が凄く良くわかるの。これを見た時なんだか少し安心した。
でも概念に押し込められるの嫌いだからこのAgefluidやTransageやClovergenderというものが『そういう人を表す名詞』になるなら、というかそうなりそうだから僕がそうだとは言わない。それは嫌なの。
概念が当て嵌まっても僕がそうだとは言いたくない。そこには色々なものが紛れ込むから。HSPとかも同じ。
それはまぁいいや。
でね、この画像をペドフィリアだと叩く人たちもいる。
僕にとっては結構タイムリーだった。
僕はこの画像のようなことは僕にとって当たり前であって、ほんの数年前までは多くの人に理解されるものだと思ってた。でもそうではないようだ。その理由について考えることが最近多かった。
これってオートマティックなんですよ。子供と遊ぶ時は僕も感覚的に子供。だから指導とか凄くやりづらい(放課後児童クラブで指導員やってたことがある)。そこはどうしても上下、優劣の関係になるから苦痛。僕はその立場ではないというストレス、反発が内的に起こる。一緒に遊ぶのは凄く楽しいのだけど。
子供好きだけど教師にならなかったのはそれが理由。教える立場になるべき人間ではないことは早期に気づいてた。指導員やガイド的な立場ならいいのだけど、それと身を律することを教える教師とは話が違う。
年齢。対象年齢とかあるけど、例えばさ、セーラームーンを観ている時ってどんな自分で観てるだろう?ウルトラマンを観てる時は?ネバーエンディングストーリーを観てる時は?マイリトルポニーは?
僕は自動で大体ターゲットにされてる層になっている。
より細かく言えば仮面ライダーBLACKと仮面ライダー555では観ている時の僕の年齢が違うのだ。
年齢ってなんだろうか。それ相応の様々な態度?知識?なんか嫌だな。まぁいいや。
僕の場合は思考態度というか、知能指数は合わせるもの。というか勝手に合うもの。
多分だけど、だから子供向け番組を観ているととても解放された気持ちになる。
性別というものの曖昧さも、この年齢という概念に対する感覚と同じく流動的というか自動調節的なものになる。心理的な性差は僕にとってはよりわがままなものだ。
男の子らしさ、女の子らしさでいくら固定されようとしても壁を突き破ってゆく。
上の絵で問題なのは、大人の男性の中に小さな女の子がいて、相手が男の子な点なのだろう。だからある種の見方、捉え方の人にとっては別の見え方になる。
子供であれ男女の性差が先に見え、そこから性的な関係を連想するし、それを抱いているのが成人男性であればペドフィリア。とっても理屈的だと思う。それもまた理解できなくもない。
でもそう思うことと、その知的な、自分にとっての正論を振りかざして他人の見え方を決めつけるのでは話が違う。
捉え方の違いというのは難しい。自らの捉え方が固定されていれば、別の捉え方があることにも気づかないことがある。
僕にとってのこの絵には、そうではない、描いた人自らの苦悩がにじみ出ていると感じる。
だから恐らく作者である成人男性の部分は譲れないし、内面が女の子なのは年齢と同じく性別も同じく流体のようだという想いも譲れなかった、いや、伝えたかったからだと思う。そして相手の子供が男の子であるのは、内的な性と対象の性別の無関係さを表したかったのだと思う。(女の子にしたらそれに合わせて内的な性を女の子にしていると思われる。それは予想され得る中で最大級の不本意だから)
なぜ性差の無関係性を表したくなるかといえば、性差に囚われた観念ばかり押し付けられるのが苦痛な人間にとっては当然な思考態度なのだ。
そして性の多様性がある意味で煩さを増し続ける今、この絵の中の性別を統一したらしたで、いかに沢山の種類の誤解の目で眺められるかは容易に想像できるはずだ。そしてその種の誤解こそ、これを訴えたい人にとって煩わしいものだということも。
これもまた僕の勝手な感想なのだけど。
捉え方、これもまた心理的機能の順序っていうのが一番楽に説明がつくだろう。(ユングはどうやって体系化したのだろうか。)
だからこそ、思考優位で見るヒストリーチャンネルなんかはこれとは違うことが起こる。ある種固定された自己、積み重なってきた自分を見つけることになる。
これってそっくりそのまま人との関係に重なるものだ。
例えば知識レベルが低い人(凄く嫌な言葉)と高い人では会話にならないと言われるけど、それが僕はよく分からない。(ある意味では分かると言うこともできる。でもそれには感覚が伴わないどころか、ストレスがかかる。)そちら側の捉え方を優位にするには。
でも固定の自分がある人にとってはそうらしい。そういう目で見るというのは、そういう捉え方をしているということであって、そういう自己を『作り上げる人』だ。自己像(理想像があれば必ず出現する現在像的なもの?)に押し込むともいう。
その善し悪しの話ではなく。違いがあるということ。
この絵を見てペドフィリアだと思った人がいるということ、僕はちょっと衝撃を受けた。意図せずとも関係をそういう目で捉える人はやはりいるのだなって。それを悪いとは思わないけれど、その目で、その見方でこちらを見ないで欲しいとは思う。
理解してくれとは思わないけど、ペドフィリア以前に年齢や性差という後付けでカチカチな概念の外に居るのに、それを前提としたを捉え方で見ないで欲しい。
それにしてもその偏見を生むヘイトはどうして湧くのだろう?なぜそこには恐れが入り混じるのだろう?これはさまざまなところで起こる。だからこそこういった概念も生まれざるを得ないのかもしれない。概念として重なりながらも乱立する。
捉え方の違いはもしかしたら、ある過程に過ぎないのではないだろうか。
とりあえず、「そう思った人こそ気を付けた方がいい」と書き残しておく。それが見えているのだから。そこまで恐れ憎むのは、どこかにその自分が居るのを知っているのかもしれないよ。