感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

時 から 時間、日付、クロノタイプ

時は刻まれるようになる前はただ流れていたのだろうか。空を見ていたのなら時の中を回っていたのかもしれない。過去を今と区別し始めたのはいつからなのだろう。未来を感覚ではなく予測としたのはいつからだろう。

時の進行は線なのだろうか。範囲だったり場だったり細切れだったりジグソーパズルみたいだったり、全く別のものだけど人間がそう知覚するしかなかったり、円環っていう人もいるし、円錐で表す人もいるし、どうなんだろう。オーバーラップし続ける経験的な意味では3次元で表現するのはやはり不可能でって話になるのかな。でも表現できないのは表現方法の問題なのだろうか。

そもそも、時という概念は本当に必要なのだろうか。本当に妥当?

知識として導入されない場合人はそれをどう知覚し習得する(しない?)のだろうか。

 

カレンダーを見る度に年という365日と1/4の区切りや、それが12個に分けられた月や、1日を7回ごとに区切った週や、それぞれの日に与えられた日付や曜日に閉じ込められている感覚になる。

暦が月や季節と共にあり、もっと大まかだった頃はどうだったのだろう。それより前は?

 

今日は本当に土曜日なのだろうか。頭では2021年7月17日の土曜日であるということは分かるけど、でもそんな概念が本当に必要なのだろうかと抵抗を示す自分がどこかにいる。それは自分には合っていないという感覚からくるものなのだろう。

人々が当たり前にその中に居ると思いがちな時間や日付だけど、一番近くて確実なところでは僕自身が30年前くらいまではその外側にいたはず。(でもその頃の視覚的な記憶が自分のものなのかよく分からない)

極端?そうだろうか。時間であってもその流れという捉え方であっても日付であっても、捉え方が実在論的すぎるのではないか。僕は別にそれらが無いって言ってるわけじゃなくてね、道具のはずの概念ありきになってるせいでそれらそのものに目がいきづらいってことであって、なんて言うの?わかんにゃい。

 

勿論社会的に、現代文明的に様々な概念を共有することが必要なのはわかるけれど、でもそれが当たり前、当然とされるとちょっと偏狭すぎではないかと思ってしまう。

これはちょっと極端だとも思ってるけど、そうなんだもん。

 

だって概念ありきで今日が7月17日だと思い込んでいることで見えなくなっているものは少なからずあるはずで、時間がチクタク進んでいると思い込んでいることで感じられない何かも少なからずあると思うし、実際にそれを朧げに感じている。ほんとに?あー、だから嫌なんだ。もっとはっきりそれを感じたいのに、既成概念が邪魔をするからだ。今日の収穫。

 

どうしたらそれらをもっとはっきり感じられるのだろう?傍から見たらとても馬鹿らしいことなのかもしれないけれど、人生というものを考えるとそういうものを探求することって僕にとってはとても大事なことな気がする。だってそれ抜きには死にきれない気がするから。

これは別に普遍の何かを見つけたいとかそんなんじゃなくて、単に自分の感じ方でってことだと思う。普遍の何かなんて求めたところで、主体の僕が僕である限り人間の僕として普遍に見えるものでしかないだろうから。そんなことより、そこにある自分の感覚より導入された自分に合わない概念を優先しなきゃいけないのがやっぱり違うと思う。

 

自己弁護ついでに書いておくけど、早寝早起きが善いものとされる時代はもうすぐ終わる気がしてる。僕は根っからのフクロウ人間だから結構生き辛かった。

でも今は概日リズムや生体リズムの研究も進んでいるし(一日三食きっちり神話も崩れかけてる)、クロノタイプという捉え方も浸透し始め、夜型が夜眠れないのは当たり前という流れが強まっている。リモートワークで働き方も幅ができれば早寝早起きしてお仕事しなきゃという刷り込みからの自己緊縛も緩むと思う。職種にもよるだろうけど。

パフォーマンスを犠牲にして合わせるのはどこまでの意味があるのだろうか。シエスタだって導入すればいいのに。仕事もそうだけど、学校ももう少しフレキシブルでいいと思う。今思うといつも居眠りしちゃう子は可哀想だった。

僕は居眠りしなかったよ?眠気に耐えるので必死で何も頭に入らない時間は結構あったけど。そういうのは社会に適応させる訓練という意味では必要なのかもしれないけど、半ば無理やり適応させなきゃいけない社会でいいのだろうか?とも思う。

 

で、これだけ固定観念から脱却する動きは起こり得るし、起こり続けてきたのだから、時間やカレンダーの現状での捉え方も僕が生きてる間は無理でもいつか必ず人類は抜け出していく気がする。って無理やりそこに繋げるのか。でも無理矢理でもないでしょ。時間や日付に対する別の認識が根付けばいいのだから。仮に僕が生きていたら、それを見て「ほれ見たことか!」って言ってやりたい気持ちを一生懸命抑えつつ、これもまた塗り替えられていくものなんだという、どこか虚無感に近くもこれでいいのだ的な気持ちを抱ければ万々歳。多分そうはいかずにまたその新しい通念に辛くなってる。

 

 

時間ついでに感覚時間的なことも考えたいと思ったけどもうこんな時間だし壮大過ぎて眠れなくなりそうだからやめとく。

 

皆さん良い日曜日を♪