寝誕生日。
なんか色々消耗してる。
横たわりながら何か考えては、流しっぱなしの音楽に意識を移したり、微睡みの中に入ったり、その繰り返しで夜になった。
心地良さと焦燥感が微妙に混ざり合いながら不安を掻き立てる。でも音楽はそんな気持ちを宥めてくれて。
週末の半分は大体こうなる。それが無駄ではないと思おうとしても、考えてしまうのはいつまでこれが続くのかということだ。
出口が見えない迷宮。
立ち止まるのが悪いとは思っていないはずなのに。
疑問ばかりが絶えず、足元の沼ばかりが広がり、もうなんだかよくわからない。
這い出ようとすればするほど足を取られる。この焦燥感は日が沈む焦燥感。でも何を焦る必要がある?
せめて出口が見えてくれたなら。何かを信じることが出来たなら。
それができる人はやっぱり強いなって思う。 すごいなぁって思う。
目標に向かって頑張っている人、何かに向かって前進する人、信じる成功を掴もうとする人。その人がその人なりに幸福を感じている姿を見るたび、僕は本当に嬉しくなる。そこに偽りはない。はず…
でも僕はいつもガラス越しに見ているような感覚がある。何というのかな、そこに自分の姿を重ねることが出来ない。そりゃ自分じゃないからそうなんだけどさ。上手く言い表せないや。言葉って難しいなぁ。
どんどん色々なことがわからなくなる中、自分の立ち位置もうまく掴めなくなってきた。うぅ…
どんな顔をして、どんな自分として、あの人と接していたのだろう。あの人とは?あの人とはどうだったっけ?
段々と自らの存在感を薄めていく中、閉じっぱなしにしていた殻をどうやって開けるのか思い出せない貝のように戸惑う。まぁ貝なら開けたら死ぬんだけどね。じゃあそのままでいいじゃん。あ、僕は貝じゃないか…いや、貝なのかもしれない。 さすがにそれはないか。なんて。
そんな中fbにはお誕生日お祝いのメッセージが届いた。もう何年も会ってない人からも。それが例えfbのお知らせから踏んでチョロっと書いてくれたのだとしてもとても嬉しい。皆優しいなぁって思う。温かい。その中の半分以上は僕はお誕生日にメッセージを書いていないのだ。そういうこと考えるとまた自責が始まりそう。今はやめよう…
常にこう、間違ったことをしているのではないかっていう疑念の霧に包まれているのだけど、その霧の怖い所は僕の存在さえ不確かなものになることだろう。信念を持ったつもりが、その土台が偽物のような気がしだす。立っている地面も、意識も、全てが。
焦燥感。
ひとりで夕方の森の中に居てさ、太陽が雲で隠れて方角がわからず、帰るにも日が暮れかけてしまっている時の焦り。懐中電灯は持っていない、視界は色を失っていく。あの焦り。
または、月のない夜の森の中、懐中電灯が消えかかってきている時の焦り。
あの焦燥感、それと同じ種のものだ。
それはどこからきているか。
森の中で死ぬ焦り?その恐怖心?そんな筈がない。ここは熱帯だよ。秋や冬の日本の山ならともかく。
それは自分が帰らないことで誰かを心配させること、手を煩わせること、迷子になって自分のメンツが潰れること、そして晩御飯がなくなってしまうことへの恐怖、それに対する焦りだ。そうでしょ?
それらがなければ夜の森を堪能することが出来るではないか。星空も、急に降る雨も、夜の空気の質感も、ヒルや蚊も、動物の気配も。
何を焦る必要があるのか。そうでしょ?気づいてるはずなのに。
まぁ、泥沼にはまってることは、それはそれできっと僕にとっては前進なんだよね。
そう信じて自ら入ったんでしょ?そう信じて掘るんでしょ?迷宮に死ぬことを怖がってたら見つかるものも見つからないでしょ?僕にとっての静寂はその先にしかないと確認したはずでしょ?
霧の中でパニックになるのは関係性に囚われるからだ。
そうではなく、森と一体になる。そうすれば霧も自ずと晴れるものだ。
その為に必要なのは引き込まれないための軸、信念。
ガラス越しでいい。
見ている先が違っても、今は。その先で互いに笑えれば。
そうでしょ?そうかな?そうだろうか…