感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

相対的視点の拒絶

例えばある人は僕のことを引っ込み思案とか言うけどさ、そうやって人のことを相対的に見る人と分かっている相手に僕がどうやってアクティブになれと言うのだろうか。

少なくとも僕は君の前では引っ込み思案と『評価』される人間で構わないんだよ。

 

その相対的な評価自体が僕の世界の見方とどれほど溝が深いかがわかれば、会話を深化することの不毛さは分かるだろう。僕が話すことを僕の真意のまま君が理解しないのは明らかだし、君が話すことを君の真意のまま僕が理解しないのは明らかなのだから。

それも認めないことも分かる。だから僕は口を噤む。

 

君が見るものは数値化できるし、比較できるし、通分できる。

リンゴとカキならフルーツとしてまとめようとする。

 

でも僕はその見方を頭で理解できたとしても肯定することが出来ない。

極端な話リンゴ2つですら怪しい。それが目の前にあるのなら僕にとっては「そのリンゴ」と「そのリンゴ」だから。(僕の書く文にやたらとあの、あれ、その、それが頻出する原因はそこにある。)

それを本当に2つのリンゴと言っていいのか、という点から論点がずれ始める。

 

ふじりんごとジョナゴールドでなくともだよ。同じ木になった実だとしても別物でしょ。それをひとまとめとして考えることに抵抗があるということ。事実としてそれとそれでしょ。君にとっては事実として2個だとしてもだ。

 

なぜそれが起きるのかと言えば、それは君のものごとの捉え方と僕のものごとの捉え方の違いでしかない。でもそれが決定的で、会話を進める上では致命的。

 

君が相対的に世界を捉えるということは、君自身が相対性の中の存在であり、君が見る僕も相対性の中の存在であるということでしょ?僕と君の関係さえもその1つの土俵の上にある。大きな土俵の中の小さな土俵。

僕が絶対的に世界を捉えるということは、君という人は僕とは別の存在であり、僕が見る僕は僕であって僕ではなく、僕と君の関係は別々の世界を繋ぐ線のようなものだ。すべての存在はそれぞれの球体。

 

この根本的で決定的な違いの上で対話するとして、僕が訴えるこの違いは君に届いた時にはもうすでにその土俵やこの土俵の上の問題になっているのだから、君によって、他の何かによって比較できるのは当然なのだろう。

 

それは認めよう。そこにある種の正しさはあると。でもね、その視点で見たその評価の中での批判やアドバイスを僕が拒絶するしかないことは伝わるかな。

それを受け容れることは、肯定することは、『土俵』の概念を肯定することになるから。僕にとってはそれは存在してはならないものだから。そしてその価値観上のアドバイスなり批判は、ほら、君の見るその土俵の中の僕に対するものだから。

 

それは本当に僕だろうか?

 

僕から見た君は別の世界にいる。僕の価値観は君に見えることはあり得ないし、そこに影響する『助言』は、少なくとも君がその土俵の上に居る限りはできる筈がない。それが大前提である以上、その基準の中の正しさや意味付けは僕からしたらどうでも良いのだ。

君のその土俵の中の僕に対する助言や批判は、仮に、土俵の中に生きる僕が居ればとても有用なものになるだろう。でも『この』僕はその存在ではない。

 

僕は球体の価値観に生きている。

好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、それだけ。

僕にとって有用なのは別の球体の世界の話だけであって、要するにその世界が何を好きと言っているか、何を嫌いと言っているか、そういうことである。

 

ではなぜこの僕に『土俵』の概念が分かるのか。

…だからこそその助言や批判を『拒絶』しなければならない。肯定すればまた引き戻されるから。『あの』僕に。君に。

 

 

 

おまけ

だからね、例えばマイリトルポニーを観て、ピンキーちゃんしゅき!レインボーダッシュちゃんしゅき!トワイライトちゃんしゅき!って言う人とは仲良くなれるってことなんだよな。

結局のところ僕もポニーになりたい!それだけ!