感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

直感・感覚の信頼、感情の肯定 伝えること 

ここ数日直感というものを意識させられている。

直感というのは僕にとってなんだろうか。森の中での生活では直感に繋がる色々なことを学んだ気がする。受け容れられるようになったのはパウロ・コエーリョのアルケミストを読んで自分の中で経験と融合することで具体性が増してからだし、それを受け入れ始めた自分を肯定してくれたという意味でも、当時出会った友達の存在もとても大きい。

今となっては直感というものは以前よりも鮮明さが増し、そこにあるものとして捉えてはいるようだ。でもそれを信じる、となると途端に自信がなくなってしまう。

だからそれを信じて生きることができるという態度に、僕は憧れとその裏返しの嫌悪を抱いてきたのだろう。嫌悪感はもう消えているけど、そうやって生きられるかどうかとなるとやはりまだ難しいかもしれない。まだと書くからにはいつかそうではなくなるような気もしているのだろうか。

 

順序的には先ずは感覚の肯定からだろう。自らの感覚をそのまま肯定することは、実際に意識して行動に移そうとすると本当に難しいと痛感する。どれだけ自然に思考が介入しているか。すり替えられているか。

そうなってくると実感ばかりを見て生きてきたのに、それすらも薄くなってしまう気がする。どちらを見ればいいのか。

違うよ、感覚をそのまま肯定しようって話なのにどちらを見ればいいのかって、そういうとこだぞ。回路の問題なのかな。難しいを通り越して苦しさもある。でも一度その先を見てみない事には中途半端を受け入れる以外に方法がない。やっぱり受け入れてもいないんじゃないか。

前のように思考を排除するということがしたいわけじゃない。ただ順序を組み替えたいだけ。でもそれが難しい。本当に深く見つめていないと思考の存在に気付くことも出来ない。気付けなければ思い込んだままで終わってしまう。どのみち思い込みなのかもしれないけど。ほら。いいから黙ってて。そういう話じゃないのは知ってるくせに。

でもなんか懐かしいな、これ。何を恐れてるの?君が出る時はいつも恐れがあるよね。まぁいいや。

 

例えば感覚にも色々あって、その中で僕が受容できるものの幅は広がった。でも頭が介入する以上どうしても常識的な範囲で収めようとするし、それより外側のものからは目を逸らさせる。それを一度取っ払ってみたい。そうしないと直感だって全体を受け取ることは出来ないと思う。小さい所からなんだろうけど。でもやっぱり常識も既成概念も観念も全部取っ払ってみたいという欲もある。

この懐かしい煩わしさ。頭を潰したいってよく思ってた。そんなこと本当にしたら元も子もないんだけどね。

 

 

抑えきれない気持ちというものはあるもので、抑えれば抑えるほど苦しい日々を経験した。外に出せればいいのに、それが難しい。自分の内側の抑えた感情の中で溺れ、窒息しそうになる。以前なら抑えられていたものが抑えきれない。中のものが大きくなっている分抵抗した時の苦しみも増している感じ。

抑えきれないというのは、少し前の自分なら自己否定に繋がるようなことだけど(何でだろう?)、自分にとって感情がどれほど大事なものかということに気付き認めはじめてからは、思い悩むことはあっても否定に繋がらなくなった。寧ろ頭が抑えきれないことに微かだけど双方の意味で嬉しさを覚える。

癖になっている抵抗は強いけど、結局は抑えきれないと分かってしまった分、そしてそれを良しとし始めている分、気持ちの面でも楽かもしれない。

 

アウトプット、伝えることに関する苦手意識はダイレクトに感覚の不信、感情の抑圧に繋がってる気がする。

アウトプットしないことと不信や抑圧はイコールではないけれど、アウトプットしないという選択肢を選ぶ意識に問題があるのかもしれない。否定ほどではなくても、疑念や不安がそこに生まれるのは自分の感覚を信用しきれていないからだろう。

何故かと問えばそれは結局過去の失敗や不理解、常識によって否定し切り離してしまった自分がいるわけで、記憶の奥深くに取り残した自分の感覚を肯定してあげるしかないのかもしれない。

 

昔の自分を振り返ってみれば、恥もそうだし、上手く伝わらなかったことも、傷つけてしまったことも、アウトプットはしたということだ。そこは寧ろ今の僕からすれば褒めてあげられる部分。結果に関しても外側以外の価値だって今では見ることができるのだから、それをもって昔の自分と対峙してみたらどうだろうか。

 

 

伝える不安と伝えなかった後悔があるけれど、明日僕が死なないとも限らないのがこのモータルな世界なわけで、そう考えるとやはり抱いてる思いは少しずつでも伝えていった方が良いのかなと思う。

今回は、全てではないけど、一番伝えたかった人に一番伝えたかった感謝を伝えることができた。恥ずかしくもあり、どこか自分勝手だなぁとも思い、でもよかったと思える。

 

情けは人の為ならずというけれど、それと同じで伝えることも人の為ならずな部分も大きいのかもしれない。色んな意味で幾重にも自分に返ってくるものなのだろうし、根本的な部分ではアウトプットすると同時に自分へのインプットになっている部分もある。だからこそ素直に偽りなくが大事なのだろう。これは最初の直感や自らの感覚に対する信頼にも繋がるものだと思う。

そんなことを思い、素直に気持ちを伝えること、改めて努力していきたいなぁと思ったのでした。

 

言霊っていうのもよく分かんないなぁって思ってたけど、僕の中での認識が改まるかもしれないなぁとも思った。