否定は(肯定と一緒に)外から入ってくる
それに抗うのが肯定(であり否定)
肯定と否定は表裏一体の二元
表裏一体の二元は片方が存在する為にもう片方が必要
肯定が生まれれば否定が生まれるし、否定がある所には既に肯定があるともいえる
肯定に生きようとすれば同時に否定にも生きることになる
肯定も否定も後から消せるようなものではない
今に生きる、(何も知らぬ子供のような)ただ在るという状態では否定も肯定もないが、その状態で生活することは不可能
ただ在るという状態を優位に立たせれば他の状態を蔑ろにする
個性化のためには否定による肯定、肯定による否定で個を切り離す期間が必要
二元は双方内包するのだから折り合いをつけない限り苦しみは続く
ポジティブに吹っ切れて生きる事ができる人もいるから、これまで書いたことが万人に当てはまるのかは分からない
受容は肯定も否定も(その他も?)包み込む
受容は二元の外側に出て絶対的な肯定や絶対的な否定を生む一つの手段
無理に肯定・否定できないもの、それができないこと自体も受容は包み込むことができる
受容の生む楽観的な落ち着きは苦痛の中の当事者にとって受け入れ難い(不理解に映る)
投影は鏡を使って自他を構成する為の一つのシステム
否定的な投影だけでなく、肯定的なものも、受容的なものも投影
否定性の投影は脊髄反射的なので目立つが、受容性のものは受容的な穏やかさや余裕という形なので見えづらい。
仏陀の姿勢を見下しと捉える本があるが、それも著者の投影ではないか?
双方を受け容れている受容の姿勢は母性に似ている気がする
受容ベースの自分は前から居る 。人は元々持ち合わせている?
みたいな感じのことを最近落とし込みかけてる。
先週から自分崩しが始まり、今も真っ最中なので不安定。びっくりするぐらいの希死念慮を溜め込んでいたことを思い知り、流石に危なかったので以前アドバイスをもらった人にお願いしてやり取りしてもらったりした。
自分崩しが必要になったのは建て替えのため。簡単に言えば、色々あった人生の中で第1、第2、第3の人生と区切りを設けているのだけど、その区切られた自分ではもうだめだということだと思う。
この区切りは必要だったから出来たもの。
第2と第3の区切りはCPTSDやその他の症状が治まってきたことで、これ以上症状やそのラベルに振り回されるのはやめようということで故意に区切ったもの。
日本を離れたこともあって、心機一転という意味で長らく書いてた当時のブログなんかも消して。すり減らす減薬も経て1年かけて断薬し、森の中というとても恵まれた環境の中で癒すことができた期間。そうすることで新しい自分を生きる期間となったし、新しい価値観も生まれたし、色んな捉え直しを経て個性化も進み、自己否定なんかも無くなった。
第1と第2の区切りはもっと根深いもの。これは外傷体験の時の解離で自分が自分から切り離されてしまったところから。生存本能というのは時に残酷で、生きるためには自分なんてものはいくらだってバラバラにする。今の僕はこの時の産物で、だから自分の記憶の中でもアクセスできない部分がいっぱいあるのだと思う。それ以前の僕と連続性を失っていると言って差し支えないと思う。自分なのに自分についてわからないことだらけだし、それ以前の僕の記憶に他人感があるし、間借り感だってある。感覚的に過去の自分と繋がってない人間がどうして自分を生きることができる?そうしないともっと壊れていたのかもしれないけれど。
こっちはいずれどうにかしなきゃいけないものだけど、先ずは第2の部分を取り込まなきゃ自己受容という意味でも、これ以上どうしようもないってことなんだと思う。
第2の人生、フェイズは言わば闘病期で、支配されていたと言っていいくらい色んな症状に翻弄されていた僕なわけだけど、第3の人生ではそれをある意味徹底的に否定してきた。新しい自分を肯定する為に。
でもまぁ、このところ凄くそういった症状というか、後遺症の大きさを意識させられていて、あぁやっぱり逃れきれないんだなぁっていう感覚がある。でもその諦めというか、これが出た時って自分なりの極まで行ったということなのかもしれない。極地に着いて初めて湧く感情。抗うのは無駄という理解というか。
僕の中で受容というのはいつもそうだ。肯定、否定の両方の極を経てやっと訪れる。これは僕にとっては必要な段取りなのかもしれない。そう思えればこそ肯定する自分も否定する自分も受容できるのかもとも思う。
統合というものがあるなら受容の先なのだろう。でも今は、統合という概念が僕に必要なのか分からない。そのぐらい受容がしっくり来てる。だって人格すらどこか統合しきれていないからね。
受容、今回少し違うのは、それを意識的に認め、落とし込み始めてることだろうか。
少し前に嫉妬という人生でほとんど縁がなかったものを短期間で受容できたのもそうだし、なんかこう、順を追って説明されてる気分になる。
僕は頭でっかちだから精神っていうのはどうしても後付けみたいな感覚があるのだけど、こうしてみるとやっぱり後付けにしては良く出来てるなぁと思う部分もある。
意識なんて知覚の結果、残渣でしかないのかもしれないし、同一性のある自己というのはアイデンティティというコンセプトによってバラバラな自我の内どの自分の意見を採用するかということを無意識に選んでいるに過ぎないのかもしれない。なんてことを、ただでさえ脆い自己というものを崩していると思ったりする。
その反面、全然違う捉え方を許容している自分も居る。
以前ならそういった意見をまとめて自分なりの見方を定めようとしていたけれど、今は割とどっちも認められる。それはなんかこう、以前はバラバラな自分のそれぞれの視点という点と点を線で繋ごうとしていたような感じだったのだけど、今は何だか、どっちも違う点でいいんだよねって〇で囲える感じ。頭ではわかってたのにずっと出来ていなかった。
その見方で捉え直す様々な価値観、そしてその鏡を通して見る世界、それらが何だか、とても新しくて心地よい。
今は崩れた自分のまま受容に向けて軸を移し始めている。
これは僕の中では割と大きなパラダイムシフトで、やっぱりそのために崩したのかなとも思える。
今思えば長らく望んでいた感覚なのだろう。
自分の外でも内でも、肯定には否定をぶつけ、否定には肯定をぶつける。そうすることで自分なりのバランスを保とうとしてきた。虐殺に関わる肯定的な側面を探したり、死刑の正当性を否定してみたり、挨拶の否定的な面とか、狂気の肯定的な面とか、本当に色々。理解したい欲はそこに繋がる気がする。
でもだからか、今はさらっと、肯定的な面も否定的な面も、そしてそうでない面も受け入れられる。
そう、別に肯定を否定したかったわけでも、否定を肯定したかったわけでもない。ただその二元を持ち出されるからそう反応するしかなかった。土俵に引き込まれていた。
ネガティブを否定するのは嫌だし、ポジティブばかり肯定するのも忌避感があった。
絶対的に肯定するなら、ネガティブもポジティブも一体であるのが自然だと思った。全容を重視したい。
でも今までは二元の軸線上でそれをやろうとする(本人はそのつもりはないのだけど)から、ネガティブを肯定しポジティブを否定する、その否定と肯定の強弱でバランスを取ろうとするという歪な形になっていた。仕方のないことなのだろうけど。
否定も肯定もあってもいい、これが僕の中で落ちてきたのは、バラバラな自分達がより自分に近づいたから、そしてそんな自分たちが同時に存在することを認められたからなのかもしれない。自分だけでは到底無理なことだった。
このmeme大好きなんだけど、結局求めていたのはこれだった。自分というものでさえ、一つ選ばなきゃいけないわけじゃないんだよって。
好きなものってそうだよね。無意識に求めているものを集めてる。
受容、もう少し意識して受容性を投影していきたい。少し安息に近づいた気がする。
ここから第4の人生、フェイズと区切れるのかもしれないけど、それをする意味を今は感じない。自分もゆっくり再構築していけばいい。
大丈夫。
これ大好き!
下の方が好み。
短過ぎて少し物足りないと感じつつ、それも儚くていいかなという気もしてくる。
あとこの人の曲ではこれも好き!
この人の放つ空気もだけど、ロシアのこの雰囲気って好き。