純真さを求めるということが、混沌の沼を作り上げそれに足を取られ、身を浸すことになってしまうことを、どれだけの人が理解してくれるのだろう。
そうして出来上がった出来損ないの純真が「それではない」という苦悩と、不純物として削り取ったおぞましい物が自分の後ろで新しい何かとして存在感を増すことの恐ろしさを。
マッドサイエンティスト的なのだろうか。何かが欠落していて、それでもやめることができずに同じことを繰り返す。
その創造が創造であり、その域を出ることができない以上、満足できるはずがないと分かっていながらも何故それを繰り返すのだろう?
分かっているはずなのだけど…
気高さも同じだ。
どんなに卑しさを見つけ出し、取り除いたとしても、それそのものがなくなるわけではない。むしろ同じ皮の中に、より卑しいものが築き上げられていくことを体験することになる。
追求したい対象のはずの気高さは、時と場所を選んで発現させる類の、作られたものではないはずなのに、そうなってしまう。そしてそれは、卑しい存在としての自分を認識しながら押さえつける行為であって、より偽りを増し、求める気高さから離れていく。
僕によっては正直さ、素直さも同じく難しい。
『好き』と『嫌い』を同時に感じた時、片方だけを伝えるのは嘘だし、片方だけ見ないふりをすることも欺瞞だと思うから。
それがそう輪郭がくっきりしたものであればいいけれど、そうではない場合が多くて自分の気持ちすらわからなくなる。
そこで「わからない」で済ますのは、色々なものの気配を感じている以上後味の悪いものになる。嘘の味が残る。
追求が無い物ねだりである以上、それは避けることができない現実だとわかっているはずだ。
僕はその存在ではないのだと。
そして後ろに出来上がったものを見て否定することで否定される。
例えば美を求める人が、その自分を意識する人が、その一方であられもない格好をさせられ、ブタと罵られ、その自らの姿に陶酔する。
でもそれは本当に単なる陶酔なのだろうか。
自ら認めることのできない、認められることのできない対極であり内包する自分自身を、唯一認め、認められるのが屈服という状態なのではないだろうか。追求するがために認めることができないから、自分の意思とは切り離した、強制されているという状態のみにおいて認められるのではないだろうか。
それは取り除かれ、否定され続けた自己が再び融合すること、その許可に対する歓喜なのではないだろうか。
滑稽。でもそう言い切れない。
僕は純度の低いものが生粋を名乗ることに嫌悪感を感じる。
笑顔で見つめながら「微笑ましい」と感じている。そう、恐らく見下している。その節穴と傲慢さを。
でもそれこそが唯一、僕の求めるその在り方にたどり着く方法なのかもしれない。だからと言ってそれを肯定できるほど僕はできた人間ではない。
お久しぶり鈍重な世界。
昨日まではその到来の予兆にいつ床が抜けるかと不安で仕方がなかった。
いざ落ち始めれば実家の中で酸のバスタブに身を浸けるようなもので、懐かしさとどこか心地よささえ感じている。雲ひとつない朝の太陽の日差しが痛く、胸を締め付けるような息苦しさと、穴があいたような寒さ、例えようのない眠気のような気だるさで座っているのも辛い。でもだからこそ見えるものがある気がして。そういうときに見るこの画面が、そこに繋がる脳との間に出来る陰鬱な世界が僕は好きらしい。
苦しみは紛れもない苦しみでありながら、今回もまた制御下の余裕がある。
ここには冬もあの空気も無いからね。お前は僕を引き込むことはできない。その余裕なのだろう。