靴を修理した。
左右両方のかかとの部分がぱっかりと開いたまま暫く履いていたのだけど、歩いていると中敷きが舌のように出てきてしまう。さすがにだらしないなぁと思って直してもらうことにした。
市場に並ぶ修理職人のおじちゃんの一人と交渉し、両方で日本円にすると約850円で妥結。
結局のところかかとの部分が切れたというより、磨り減って限界を迎えた形だったようだ。だから縫うだけでは直らないため、ちょっと高くついた。
内側に布を足し、靴底のかかと部には中古の靴から取ったであろう靴底を当て、接着剤でくっつけた上太めの糸で縫いつけてくれた。追加した靴底は少し削って調整してくれているのであまり気にならない。少し高いからどうしようか迷ったけど、直してもらってよかった。
僕は人生で自分で靴を買ったことが一度もない。サンダルは磨り減りが早いので3年に1度くらい日本に帰ったときに買うのだけど、靴は長持ちする。
この靴も10年くらい前に母が買ってきてくれたもの。母は僕があまりにも同じものを履き続けるので買ってきてくれてしまう。この靴も人工皮革っぽかった部分の表面が剥げ、みすぼらしいからと新しいのを買ってくれたのだけど、履き替えるとまた買ってきてくれてしまうかもしれないからそのまま日本に置いてある。
好意を無下にはしたくはないけど、靴も服もパンツもズボンも、やっぱり履き慣れ、着慣れたものがいい。本当にダメになったら買い換えるけど、多分周りから見てだらしないというのが僕の中でダメという基準ではないのだろう。昔からそう。別に会社か何かの名前背負ってるわけでもないし。
今は日本よりも服装の感覚がゆるい場所にいるので、その性質が更に助長されているのだろう。
身に着けるものは特に、着心地、着け心地、履き心地が大事。それは材質云々もなくはないけれど、結局のところその物が僕に馴染み、僕がその物に対して慣れることが必要なのだと思う。ジーパンを『育てる』という人がいるけど、それに近いのかもしれない。多くの場合それは見た目上のことを言うのだろうけど、それとは別の面で育て、育てられている。そんな感じ。
愛着っていうのとは少し違う。違和感がなくなるくらい一体になる。ただそれだけであって、それが心地いいから着け続ける。変化が嫌いなのも大きいけど、根本は同じだと思う。
毛を捨て服を着るようになり繊細な肌の感覚を得た人間が、再び求めるものはやっぱり毛なんだと思う。服として着るものではなく、肌を日光や寒さ、傷から守る着脱可能な皮膚の一部みたいな。
靴にしてみても、足の角質を捨てることによって繊細な感覚を得たけど、歩くのに必要なのは履物ではなく角質。靴は着脱可能な角質になってくれれば一番でしょ?的なのが僕の身体の訴えなんだと思う。
勿論人によって何を優先するのかは変わる。
僕は真似できないけど、繁殖期の鳥や魚のように身を飾り異性を誘うのもまた生のさせることであって、それを優先する青春の情熱を体現するような人々もまた見ていていいなぁって思う。女性の場合はちょっと何か辛いものを感じるときがあるからあれだけど。
高価な物で身を飾るのも、金が力であるヒトの世界において何もおかしなことではない。価値観は合わなくても清々しいほどの人は付き合ってて楽。
社会人の規範!的なのは僕は個人的にはお断りだけど、それもまた皮からユニフォームとして同質を体現するという意味において、その人達にとっては意味のあることなのだろう。それに救われる人もいるんだろうね。
僕はその群れの本能が他人を攻撃して自らを保とうとする限りにおいては嫌いだけど。
冠婚葬祭の服装もまた、その規範、同質性を求める本能に根ざしたものばかりが残ってると思う。そこには既に本来的な意味はなく、おちんちんの皮を切らないと仲間として認めないっていうのと何も変わらないものだけが残っていると感じる。
身に着ける物との付き合い方も色んな在り方がある。
僕の物との付き合い方もまた、人によっては不快に感じるのだろう。お互い様とはいえ面倒くさい。
修理後の靴。
ちょっとサイボーグ感があって好き。また暫くは足を預けることが出来る。