例えばLGBTでも、発達障害でも、ある種の精神疾患でも、ポリアモリーでも、HSPでも、内向型でも、概念そのものは僕は感覚的にはとてもよくわかるわけです。
でもそれら、マジョリティに対する二項対立的な位置になる概念として認識されることは、マイノリティ側の感覚を持った人たちにとって本当に良いことなのだろうか?ということをよく考える。多分前にも似たようなことは書いてるけど。
そういった概念は提唱される段階ではより幅広い意味を持つ場合が多いけれど、使用されるうちにどんどんと狭量になっていく。この言い方がふさわしいかは分からないけど、広がる内に反発的な排他性を持つようになる。
それはLGBTQ++の迷走からも感じる。だけど、概念の中に身を置くこと、その安心感を求めるなと言うことは出来ない。程度の差こそあれ、人はそうやって認められることを必要とするものなのだと僕は思う。
それは元を辿れば、狭量で排他的で無意識的な暴力性を持った社会の在り方と多様性を認めるという全体的な流れとの摩擦によって起きているものだろう。
でもその『認められる』ということは、社会に求めるものでもないと思う。
問題の根源が社会に絡まっているから、社会全体の認識の変化は必要だと思うけれど、それを社会に求めればどうなるだろう。LGBTQ++を見ても、グラデーションそのものが認められることがないから概念という枠ばかりが増えていくのだと体感してる。
その社会にその概念を以て認められるということを考えてみて欲しい。それは認められるのではなく、枠の一つ一つが腫れ物として扱われているに過ぎないのではないか?
それは新たな反発を生み、枠を強固にするばかりか、マジョリティ側の、それらすべての『違う人たち』に対する否定的な感情も強化されるのではないだろうか。
これは双方が排他性を持つことによる結果なのだと思う。マイノリティ側はマイノリティ側で、アイデンティティを盾として身を守るばかりでは本当の理解からは遠ざかるという意識が必要なのではないだろうか。勿論盾は必要だし、ある意味で常に認められる側にある主流側を認めることは、一方的な理不尽を感じることとなると思う。でもそれは全くの無意味ではない筈だと思う。
理不尽を感じる側だからこそ、同じことを繰り返すのではなく、それを超えなくてはならないのではないだろうか。
酷なことだから強く訴えることは出来ないけれど、僕はその先にしか協調は無いと思う。
僕から一つ言えるのは、どの個性においても、事象においても、マジョリティ側が無意識の暴力を行ってしまうのはそれが無意識であるからだと思う。通念の中では当たり前だからそうなってしまう。それは仕方ないし、彼らもやりたくてやっているわけではない。
ならば先ずはその彼らの状況を、彼らの無意識の暴力をも認めることから考えた方がいいのではないか。そこで重要なのは、全てにグラデーションがあることを忘れないことだと思う。
全ての集団に、一人一人の中にもグラデーションがあることを認識してもらうことが重要だろうと思う。その為にマイノリティ側は、自分たちもそのグラデーションの一部に過ぎないことも、そしてマジョリティ側にもグラデーションがあることを、彼ら一人一人にもいろんな色があることを常に心に置いておくことが必要なのではないだろうか。
色を否定されたから色の近い別の集団の色に身を置く。それはいいのだけど、あまり長く身を置くとそこに染まってしまうのではないだろうか。そうなれば、別の人々の色も単調に見えてしまうだろう。集団と集団の関係というのはそういうものだから。
僕がボランティアをしていた頃見た発達障害と定義される子を持つ親たち。親は子を発達障害と認められ、初めて自分自身も認められる。腫れ物を持つ親として。その親たちと発達障害界隈の学会に漂う宗教臭さ。それが本当に気持ち悪かった(暴言でごめんね)。
社会に認められない子を認められないのは親自身に見えた。赦しを与えてくる学会、先生を崇拝する。
その親も痛みを持ってる以上、誰が責められることでもないけれど、でもそれは子供たちにレッテルを貼ることに正当性を持たせるものではないと僕は今でも思ってる。
例えば狩人としてなら認められるような素質を生まれながらに持った子供が、薬を飲まされて学校でお勉強をする世の中。向精神薬を飲んでいる時の自分は自分であって自分でない。それが強要されてしまう世の中。その自分であって自分でない状態の子供が親に認められ、自分そのものの子供は認められない世の中。本当に辛く苦しく気持ち悪い世の中。
勿論、程度やそれに伴う難しさ、辛さも置かれた環境もそれぞれあるし、見方によっていろいろだから一概には言えない。でも辛く苦しく気持ち悪いと感じるのは本音。世の中がね。
『認められる』という点において、特に個の色を認められるという点において、重要なのは集団でも社会でも権利でもないのではないだろうか。どこか一つでいい、その『失ったもの』を僕らは探しているだけなのだろうから。気の遠くなる年月、部族というものに頼ってきた僕らが失ったものを。
グラデーションについては、多様性を認めていくという流れがあるから僕はそう捉えている。これ自体は時代の流れだと思う。
一色に揃えたいなら有無を言わさず、違いなど端から認める姿勢を示さずに押し込め、反発の猶予すら与えないことが必要だろう。そうでないから、中途半端だから余計に人が苦しむのだと思う。どちらかにしろと言いたい。
でも多様性を認める社会と、表面だけでもそう在りたいというのなら、僕はそれを表面でばかり取り繕う痛みを断たないといけないと思う。それが進歩とも発展とも言わない。ただ、その流れに居るんでしょ?それに乗るんでしょ?それならこの不毛な二項対立の繰り返しを超える以外に何を見ればいいのだろう。
本来的にはそんなもの、認めると意識するまでもない単なる僕と君、僕とあの人になれば一番だと思うのだけど。
虹を目指すなら虹を見て欲しい。虹は7色でも人の名付けた色の一つ一つでもなく、ただ虹であるのだから。