ぼんやりとしたものの中から現実世界を眺めているのだけど、同じくその窓から見えるマインドワンダリングやデイドリームって言われるものは本当に魅力的。
ある程度ランダムに点いては消える鮮やかな光に、意識は目を奪われ、心を躍らせながら懸命にその光を追う。クリスマスツリーをずっと眺める子供のようにじっと眺めながら、光を追い続ける。
それが消えるものであることは分かっているけれど、その鮮やかさに見惚れずにはいられない。
同じ窓から見える現実世界といわれるものの刺激は、そこに直接的に繋がっている物だ。それがあってこそクリスマスツリーは鮮やかさを増す。それが僕がその世界に求めるものであって、僕にとってのその世界の存在意義となる。
それが逆の人達から見ると僕は地に足がついてないと言われるのだけど。現実世界というものに住んでいる人達にとって僕というちっぽけな存在が外の世界に生きないことは、現実逃避とか引っ込み思案ともいうらしい。
でもそういった人たちが主導する現実世界というのは、そこに出来てしまう社会というのは、クリスマスツリーを鮮やかにするどころか色を失わせるものであって。それも、勝手に色褪せるとかいう類の物ではなく、色を塗り潰すことで成り立っているもの。それって逃避以前に僕にとって接する意味がないどころか、苦痛でしかないものだ。居るだけで苦痛。
それは確かに接し方の問題でもある。世界との接し方は色々ある。
でも僕が求めるその接し方を、『現実』というものに住んでいると主張する人たちは認めるだろうか?
その答えを僕のような人間は思春期までに身をもって学ぶことになる。
例えばその、クリスマスツリーでも内的世界でもなんでもいいけど、そちらを中心に生きる人間にとって、その順序は決定的なものであることは考慮すべきだろう。そしてその順序の問題が、逆から見れば存在そのものの意義に至ってまで反転するレベルの物であることを。
既に片側に偏っている世界の住人が、その片側の視点で手招きすることが苦痛を助長することが何故わからないのか。
塗りつぶされれば光は点かなくなってしまうことが何故わからないのか。
それは彼らが自分に内在するもう片側を否定し続けるからだろう。分かりっこないのは、彼らにとってそれは分かってはならないからなのかも知れない。
相容れないことが当然なのかも知れない。それが可能な個と個が存在するとしても、個と群では話が変わるからね。
それを乗り越えることが出来るとするならば、矛盾という淵を飛び越えた先の人間かも知れない。その今はまだ存在しない意識に築かれた人間達の築く世界の温かみを夢見ることを、この社会の苦痛が人間という種のヒューマニズム的なブレイクスルーを見つける為の実験の場であることを夢見てしまう僕はまた、現在的な人間存在の否定者でもあるのだろうから。
何故相容れると思った?何故相容れなければならないと思った?
相容れないことを認めた先の模索でいいんだよね。
それが許されるかはまた別の話。
ともかく、内的な世界の意義、外的な世界の意義までひっくり返るのが人間だとすれば、現実と言われる世界が中心の世界に『引き戻そう』という意識がまかり通るのが宜しくないのだと思う。
コンクリート・リアリティがコンクリート・リアリティ足りえない存在と実感している人間に対し、「現実世界が生として、存在としての主体の場だ」と説くことは、相手の見る世界を端から否定する行為だということ。
それぞれの存在を、それぞれの感じ方を尊重すると言うのなら、その意識そのものが既に壁であるという認識を土台に据えることが必要だろう。
クリスマスツリーに見惚れる子供相手には、「そんなものは置いといて雪合戦の方が楽しいから来なよ」ではなく、「僕のクリスマスツリーは雪合戦の後に見たらもっと綺麗に見えたよ」とアプローチした方がいいと思うのだけど、では、彼らにとってクリスマスツリーを綺麗にすることは無意味なのがそもそもの問題なのだろうか?
そう捉えて『だからクリスマスツリーの大切さを教え、雪合戦の大切さも教えよう』というのが繰り返してきた過ちであるのだと思う。
それはクリスマスツリーが大切な子がそう在って然り、雪合戦が好きな子がそう在って然るというのではなく、単に一つの新しい価値観で塗りつぶす動きに過ぎない。
それが僕が昨今の『多様性』に関する関心の高まりの中で中心的な流れに感じる違和感。大体なんでもそう感じるから生き辛いんだろうけど。
そんなことを考えながら、僕のこのクリスマスツリーの電飾に例えたクリスマスツリーの電飾の光は消えていくのだった。先日、「マインドワンダリングは雑念だからコントロールすることが重要」と言いたげな、向こう側から見た記事を読んでから光始めた、反感に基づく電飾が。
次の光に移り変わり、忘却されてゆくのだろう。新しい光が常に一番美しいのだから。その瞬間の僕の目には。