感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情、イメージの先行

違和感って僕はよく書くように、僕はそれを感じることが先で、その理由が分かっていないことが多いのです。その、時に僕を蹂躙するような複雑な感情が何に起因するかを突き止めることって僕には重要なんですね。

靄のような、大海のような、そんな中に居る中で更に抽象的なイメージばかりが先行するからすぐ迷子になってしまう。

 

でもそれって簡単な作業ではなく、とてもエネルギーを使うこと。氷山が崩れるように単語やそれに付随する記憶や感情が濁流となって押し寄せてくるし、自分の状態によっては深く深く沈み込むし。

でもなにも悪いことばかりではなく、何かを突き止めたと実感したときの上昇というのもあって。

 

 

こういうことを書いていても、ぼやけた色んな感覚に根差したイメージとか、まとまりのない単語ばかりが出てくるから、それを文章としてひと繋ぎにするこの作業って結構重要なのかなと思う。意図した意味付けではないけど、文という纏まりにすることでいったん消化することが出来る。バラバラのイメージだったものが、「こうである」と思い込むことで。

容量的には圧縮されるのかな。

 

だとすれば、難なくその合理化の作業をしている人達にエネルギッシュな人が多いのもうなずけることだ。

思い込むことと忘れることの力というのかな。人間らしさの根源。

 

それはまた、判断というものに繋がるのかもしれない。

僕にとっての一つの難しさであって、同時にあまり好きでないものでもある。

それは何故か、僕の中では割り切るということと同義になっているからなのだけど、決断というものに美しさを感じないわけではなく、素直に素晴らしいなと思うことでもある。

 

 

ただ、こうやって難を感じながら意義を見つけてやってみる言語化のプロセスなのだけど、それを何故信じることが出来ないのか、その消化が僕にとって完全な消化を意味しないのかといえば、そのプロセス自体を僕は完全に信用できるものと実感していないということなのかもしれない。何を言ってるんだろうか。

いや、言語化する時に優位な僕と、濁流にのみ込まれている時に優位な僕というのは、根本的に違いがあって、趣味が違うのかわからないけど、同じものを見ながら全然違うものをピックアップするということ。それを明確に感じていて。

 

僕は文章をここに書いて投げ捨てている。メッセージとしての意味もあるけれど、僕自身は読み返すことのないものだから。書いてる時の僕は一生懸命繋いでいくのだけど、あとから読み返すことに抵抗があるのは、それが僕にとって普遍的なものではなくて、あくまでその時の僕がその瞬間に思ったことに留まるからであって。

例えば、書いていて時間が無くなってしまった時、下書きにしまっておくのだけど、9割方書いて「わーい!よく繋がった!」って思った文章であっても、数時間も経てばもう読み返す気もしなければ完成させる気力もない。それどころか書いている最中に気移りすることも多いから、投稿した数の2倍近くは下書きに残っている。

 

自分の書いた文章を読み返すのは本当に苦手。昔からそうなのだけど、なんというか、録音した自分の声を聞くような、ムズムズするような違和感と嫌悪感、そしてその過去の自分の書いたことに対して恥ずかしさを感じる。だから投げっぱなしになる。

 

ほら、この文章の前半と後半でも明確に違う。見ている対象が違うし、その主体もズレている。

 

だから、こうやって文章に書いて繋いでみるのは消化という意味ではとても有意義な作業なんだけど、それを完全に信用することは出来ない僕は、やっぱりRAW画像を信用するわけですね。だからそれを残すというある意味では無駄なことをする。でもそれすら絶えず作り替えられていくものだとわかっているし、読み込む僕の状態によっても変化すると分かっているから、何を信用していいのかもわからなくなる。

そしてそんな僕だから、絶えず変化する自分自身の感覚を通し、フィルターを通し、プロセスを通し、同じ対象から別の感覚を得ることに何にも代えがたい快感を得るのだろうなって。

 

ということは、結局のところ冒頭のような僕の様々な戸惑いの根源は、結局はそう在るからそうなんだということに繋がるもので。

まぁ、それを絶てばいいのか、別の回路を入れればいいのか、っていうその考え方はもう訣別したものであることは明確なのだけど…

辛いものが辛いと感じる時は辛いんすよ。なぜならば辛いから。結局そう感じてそれに行き着く。

 

でもその辛い中に居る時が一番活き活きしているのかもしれないということは否定しない。