不安定モードに突入中。
僕は抑鬱の強いタイプで、今日は涙もろいモード。無気力モードは脱しかけてる。
今日は入管の移送トラックに詰め込まれた不法入国者たちを見ても涙が出た。
いやね、何がおかしいって、彼らがたとえここで一緒に過ごす家族と一時的に引き裂かれたとしても、半年もすれば帰って来れるんだよね。出入国管理なんてしてないことで経済回ってるから。
どこかに向けたパフォーマンスの劇みたいなものだけど、やっぱりあの中に居る人たちは一時的にでも絶望を感じているだろうし、家族も悲しいだろうし、少なくとも数カ月は会えないだろうし、何よりそれを見て笑ってる人たちを見るのが辛かったの。
ドキュメントがあるか無いかの違いだけだよ?どうしてそんなことが出来るんだろう。
普段なら涙までは出さない自信があるけど、それがこのモードの弱点ではある。
我が闘争を読んでいてもヒトラーの感性に涙が滲んでくるし、ドラえもんを横目で見ていても理不尽やら何やらで悲しさをこらえるのに必死になるし、ヴィヴァルディの冬とかはもうダメ。
それでも他人に、たとえ家族であっても生の感情を見せることは僕にとっては絶対にありえないこと(天と地がひっくり返っても!)なので、必死にこらえてやり過ごしてる。
感情を完全に切り離せばいいのだけど、もうなんかそれはしたくないというのがあって。
それよりもやっぱり、不安定な時のこの感じ方そして思考というのは、同じものを別の主体(僕にとっては)として体験するという意味でも、別の捉え方、見方、考え方を得るという意味でも、とても大きなものなのかなと思う。
なぜならばそれは、より本来的と感じる時の僕の物ごとの捉え方に直接的に影響するし、浮き上がった後もそこで感じたものは、溶けるように僕の思考と同化してその対象の見方をよりクリアにしてくれるというか。
行動や生理現象を見る時に、『その存在にとって意味を失ったものはあっても、意味のないものはない』という考え方をするのなら、この精神状態、そしてその波こそ重要なものだと僕は捉えたい。
陰鬱な世界の見え方も、脱力感や無気力も、こらえようのない寒さや孤独感も、辛苦も、反動の怒りも、自己否定さえも。これらを否定するならそれが晴れた時の、クリスタルクリアな世界も同じく否定するようなものだと思う。
リベリオンのような世界は嫌だし、それは体験したところでもあるしね。