感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

"Kin Fables" ショートフィルム、CLANN

いつの間にか、気付いたら聴くようになってた曲、そこから好きになったそのアーティストのアルバムがあって、凄く好きでよく聴いてたんですよね。寝ながら聞いてるとどんどん深く根源的なところに吸い込まれていって、ぱっと開けた所に出るような。

 

それがCLANNKin Fables (sound track)だったんですよ。夕食後散歩してる時にふと、サウンドトラックってことは映画かなにかかなぁと思って調べたら、ショートフィルム3部作が出てきた。というか、作品プロジェクトの取っ付きとしてショートフィルムを作ったようで、公式サイトによれば映像作品やビジュアルノベルも制作中のようだ。ショートフィルムの何か(適当)で賞も取ってるみたい。Netflixか映画として出るかもってことだけどよく分からない。

さらに言えばCLANN自体もその作品プロジェクトの音楽部門的な位置づけみたい。

 

ショートフィルムは1つ追加されて、現在4つ。

それでさっきそのショートフィルムを観てたんですよ。それが凄く良くて。3部作の方はほぼ映像と音楽だけなのだけど、何度も涙が出てた。そして繰り返し見てしまう。

貼っておくので是非見てね!一番長いPart3でも16分くらい。

 

Part1


KIN (part I of the KIN Fables Trilogy)

 

Part2


SALVAGE (part II of the KIN Fables Trilogy)

 

Part3


REQUIEM (part III of the KIN Fables Trilogy)

 

The Stolen Child


CLANN - KIN Fables: The Stolen Child

 

 

 

何だろうなぁ。ストーリー自体は古典的でありスピリチュアル的な感じだなって思ったけど、誰もが内側に(?)持っている象徴的な存在たち、世界という感じがする。深層心理的な。だからか内側から抉られる感じがする。

とても美しく、特にそれぞれの絶望も、すべてが繋がった時には救いがあるなって。いつもの迷子感からすぐそうやって救いを求めちゃうんだろうね!でも本当に、温かい気持ちになれます。

語彙ヤバいけど、言葉とかそういう部分で見るものじゃないと思うから気にしないでね!

 

サウンドトラックで一番好きなのはこれ。Part2に出てきた。


Her & the Sea

 

最初のショートフィルムから時間は経っているけど、プロジェクト的には進行中とのことだから、気長に楽しみに待ちたいと思います。BenとSeb McKinnon兄弟が作り上げてきたプロジェクトらしいのだけど、4つ目のやつ、最後にFor Benって出てくる。2人の世界がしっかり表現された作品になるといいなぁ。

 

また運命的な出会いをしてしまった。という話でした。最近そういうことがとても多い。何だか少し、流れだしたような感じもする。

Personal Values test から

これ面白い。

personalvalu.es

似たようなので日本語のないか探したけど見つからなかった。説明ではCore valuesとあるけど、その時によっても大きく変わると思うし、その時の自分にとって大切なPersonal valuesってことでいいんじゃないかと思う。自分のステージが変わったと感じたら、もう一度やってみるといいかもしれない。

 

最初に自分の大切なものを10個以上選択すると、次は優先度が低い順から2択になる。パソコンだと左右の矢印キーで選べるので直感的にすいすい進む。10個以上ならいくつでもできるけど、結果は上の5個がでるだけなので沢山選び過ぎると大変かも。

 

僕の結果はこうだった。我ながら凄いわがままな価値観だと思う。

 

意味が一部重なるようなものもあるけれど、それはそれで自分の中でどう捉えているのか、優先順位や捉え方の順番をどうつけているのか、それぞれがどう関わっているのか見直すきっかけになると思う。

 

例えば僕の場合はInner HarmonyがPeaceの上に来たけど、この2択の時の思考のプロセスでは、とにかくInner HarmonyがなければPeaceはないし、逆にPeaceがなければInner Harmonyもない。でもInner Harmonyが手に入ったのなら、ある種のPeaceは見つかるかもしれない。この2つは本当に複雑に絡まり合ってることが分かる。

因みにこのPeaceも僕は『自分にとっての』という意味で選んだ。何を以て自分にとってのなんだかは知らないけど、取り敢えずこの写真のPeaceはちょっと違う。

イメージの中ではフワフワと、中から外へ、外から中へ、相乗的に作用するようなその2つが浮かぶ。

 

3番目のAuthenticityはなぜFreedomより優先度が高いと思ったのだろう?何でだっけな。でも僕がそれに並々ならぬ憧れを持っているのは事実だろう。どんどんそうではなくなってしまった(と感じている)から、その反発なのかなとも思う。

似たようなものとして選択肢にHonestyもあったけど、それは僕にとってAuthenticityの一要素なのだと思う。だからHonestyは大切だけど、それは追い求めるなら土台であって、わざわざ上位に位置づけられるものではないと思ったのだと思う。

何だろうな。Honestyはsuch a lonely wordと誰かが言ってたけど(あの歌大好き)、Authenticityはそんな言葉が介入できないレベルでそれそのものだから、そんな空しさを超えた所にあるのかなって。

 

説明にあるこれ。

They do not find themselves in an environment where lying or lack of honesty often occurs.

 

僕は自分が正直者だとは思わないけど、やっぱりこう、心にもないことを言わなきゃいけないのは辛いし、それが当たり前の場所に居ると何が何だか分からなくなる。

 

Authentic、この画像が分かり易かった。

https://cxwithsoul.files.wordpress.com/2017/07/screen-shot-2017-07-07-at-14-34-17.png

http:// https://cxwithsoul.com/2017/07/07/honesty-and-authenticity/

 

これはカスタマーエクスペリエンスに関してだから、そのまま個人には当てはまらない。でも僕は僕の中でのこの種の不和をよく感じていて、その度に大きなストレスを受ける。でもどうしても、外の世界で生きるにはそうなってしまう。色々な不安がそうさせるのだろう。というのは、その時の僕は外に合わせるために嘘を吐き、自分にも嘘を吐く。それが本当に不快で辛い。空気を乱したくないというのは見捨てられ不安なのだろうか?不快にさせたら悪いって思ってしまうのは何なんだろう。僕が不快な分には丸く収まるという意味の分からない妥協もあるのだろうけど、変なものが染みついてる。煩わしい。

 

ただ、こういう記述も別の所にある。

Being honest with others is trickier. We’re not always going to say exactly what we’re thinking. I’m not going to say “This tastes terrible” to someone who just cooked me a meal, even if that’s the first thing that comes to mind. That would just be rude.

 

External authenticity isn’t being honest at the expense of all other considerations. Rather it’s a sincere attempt to represent one’s feelings, desires, and motivations accurately to others. Practical considerations are relevant, yes — an authentic person doesn’t need to be honest when doing so would just be a bad idea. But authenticity does require a sincere attempt at honesty.

 

http://www.miketuritzin.com/writing/authenticity-honesty/ 

 

これを読むとやっぱりHonestyよりAuthenticityの方だなって思う。でも実際こういう状況になるとやっぱり難しい。例えばその言動が人を傷つけない為のものである場合でも、それを自らの傲慢と捉えないためにはやはり一致する必要がある。一致、そう、一致。

 

だからこそ色んな人が書いているように、True Selvesを見つけ、本当の意味で理解し、それに帰ることの問題であり、その自分に対しての、そしてすべてに対してのHonestyの問題でもあるのだと思う。そしてこれは、Inner Harmonyや僕にとってのPeaceとも、単純に順番をつけられないくらい深い繋がりがあるものに思う。 

 

 

4番目はFreedom。これは大事。僕はこれがないと窒息死してしまう。単純!

 

5番目のCompassion。同情なら糞食らえって思ってしまうけど、その中に位置づけられてるEmpathyやSympathyはやっぱり大切にしたいのだろう。それがなかったら、人々の苦しみの意味も消えてしまうような気もする。そんな世界なら生きる意味もないとまで思ってしまうしね。そこに僕は何かを信じたいんだと思う。

 

 

まぁなんか、色々見直す材料になるので楽しい!という話でした。

あ、因みにこのテスト、終わった後にクイズで自分の価値観の種類と順番を覚えるっていう機能があるけど、凄く不要だと思う。まぁでもそれが合う人もいるのかな。

地に足がつかないわけじゃなかった Kalandra - Concrete Landscapes から

先週からよくKalandraの曲を聴いていた。ノルウェーのバンド。

でね、このミュージックビデオなんだけどね。


Kalandra - Concrete Landscapes - (Official video)

 

[Verse 1]
This place was never meant to be our home
This land was in possession of no one
We settled in belief that seeds would grow
A promise that we’d harvest what we’d sow

 

[Verse 2]
This place was never meant to be our home
This land was in possession of no one
From fields of green grew towers made of stone
It breaks my heart and all that I have known

 

[Chorus]
Silently I walk among these concrete landscapes
Rupturing our roots so we will leave or fade away
Watching my surroundings being ravaged by their greed
Replaced by someone’s vision to create the concrete dream

  

KALANDRA – Concrete Landscapes Lyrics | Genius Lyrics

 

すごくこう、僕がよく散歩している時になる感覚に似てる。コンクリートやアスファルトは僕らが所属する文明の現代的な象徴だと思うけど、それに囲まれている時の感覚。そこにあるはずの土を、この固い瘡蓋のようなそれに阻まれて踏むことができない。どこを見ても人工物が聳え立っている。匂いも音も、全てが支配されてる。それが本当に辛い時が多くある。ここまでじゃないけど、散歩の終盤では結構ふらふらになる。

これだけだとただの外部からの再経験というか共感なのだけど、そうではなく。

 

この曲が絶望というか嘆きと、どこかで知っている希望の感触を行き来するようなところ。この絶望はここが自分の居場所ではないというところからきていて、それは居場所を頭ではない部分で知っているから。

大事なのは、ここが帰る場所でないということではない。帰る場所を知っているからこその迷子だ、ということだと思う。それを改めて思い出させてもらった気がする。

 

人には向き不向きがある。文明社会的な生活が好きで、その中でそれを作り上げていくのに向く人もいれば、僕のように中に入り浸ると色々と分からなくなってしまう人間もいる。関わり方をもう少し見直した方がいいのかもしれない。

 

歌詞のこの部分

Silently I walk among these concrete landscapes

Rupturing our roots so we will leave or fade away 

根が張らないとか、地に足がつかないとか、グラウンディングが~とか、僕も結構気にして色々頑張ってるつもりだけどうまくいかない。正にこのままここに居れば消えてしまいそうな感覚。

 

グラウンディングって検索して最初に出てくるのはこれ

精神世界やスピリチュアルな世界でいうところの、グラウンディングとは「地に足をついて生きる」ことを意味します。 それはシッカリと、「心」と「意識」を現実的な社会に根差して、今この瞬間を生きることです。

引用元

ふと、 現実的な社会って何だろうって思った。

僕は日本での生活、ここでの森の中の村生活、そして都市生活を経験してきた。これら全て現実的な社会であるなら、そしてグラウンディングの定義がこれなら、僕は村ではグラウンディング出来てるんですよね。それなりに行き来が多くて、軸をそこに置いてる時も。

それこそその瞬間に生きていて、現代都市圏の社会生活とは少し違う意味になるものの生産性もある。

 

でも都市に入り浸って社会に縛られている時は全然違う。今はテレワークだから幾分かマシだけど。

 

もっと地に足をつけなきゃってずっと思って焦ってたのだけど、今の環境だからだめなのかも。でもそれが今の僕にとって然るならって思うと凄く気持ちが楽になったし、ちょっと開けたかもしれない。

 

あと、Concrete dreamが意味するのはConcrete realityの中での具体的な夢だと勝手に解釈したんだけど、そっちの意味でのConcreteも僕は苦手。不向き。

 

↑ここまで昨日 

↓ここから今日

 

地に足がつかないというのも思い込みがあるのかもしれない。そもそもは現実的な社会というのが、よくいう社会生活的な意味で解釈されているところにあって、僕はそれに対して地に足がつかないことを、気付けば僕自身が地に足をつけることができないと同義になっていたことに気付いた。

違う。地に足はつく。また固定観念に振り回されていた。

 

自分というものを意識するようになって、それでも何とかこの社会の内側で地に足をつけなきゃという意識があった。でもそれはこの感覚、自分にとって本当に大事なものを否定することと引き換えになっていた。

僕が地に足がつかないのではなく、ここでいう通念的な地に足がつくっていうのをそのままやると、僕にとって大切なことから自分自身を遠ざけることだ、だからつけられなかったんだってこと気づいた。

 

この自分を認めることは何も文明社会の中で地に足をつけることを諦めることを意味するわけじゃない。それが今はなぜだかよくわかる。

『今まで』が一つ外側から全体として見渡せる時、その段階での全てを認め、初めて一歩進めるような気がする。

単に順序の問題だけど、それが入違っていたら次には進めない。自分が一致して初めて、その自分としての次があるのだろうから。 

 

この曲の中で、前半が僕が陥る迷子の感覚であるなら、間奏から後半にかけての部分が本当に大切なものを思い出させられる、そして思い出し、浸る感覚にあたる。それが希望に満ちていればいるほど、切り離された時に辛くなる。

何て言うのだろう。大切な部分を無理やり文章化するのなら、森や自然との繋がりの中での自分を知っている声が僕の奥底から呼び掛け、それに対し芯の方から何かが呼応した時の感覚。かな。昂り、身軽さ、躍動、生きていることの実感としての力強さ、ろ過されたように澄んだ自分。

 

ミュージックビデオの中で、注意して見ると所々にボーカルのKatrineが出てくるのだけど、彼女は知っている側で、語り掛けている側なのだと思う。役者さんは苦しみの中、何も分かっていない僕のようで、その表情に僕はまた別のある人を見るのだけど、それはまた別の話。多分。

語り掛けてくるものが存在なのか感覚の断片なのか記憶なのかなんなのか、僕には分からない。分かりたくないだけかもしれないけど。でもその語り掛けられる感じはとてもよく分かる。少し前は混乱の源だった。でも今は少し違う。

 

ということで、今はこの歌のおかげで何かを受け容れ、何かが認められ、そして一つ外側に出られた感じがする。夢や錯覚なら醒めないで欲しい。

 

Kalandra、とても僕が共感する曲がいくつもあるので、あと2つ貼っとくね!

 

 

これ好き。このLive版の方が音が好き。


Kalandra - Brave New World (Live at Kulturkirken Jakob)

 

Close your eyes and sleep
Ignore all the burdens that you keep
Come whatever may
They could never harm you anyway


Stirrings in the wind
Resonates a whisper from within
Warnings from afar
Telling you to heed the morning star


Waking from the dream
Witnessing the smoke that's rolling in
The end is what you fear
The scent of embers lingers in the air


It's like a web there is no escape from
It's got you trapped and you long for freedom
Every wish every dream was granted
Never knowing what they demanded
You see the wall how it's getting higher
You want to fight but you're all divided
It's not a world anyone could thrive in
Is this the world we were meant to grow in?
Somebody tell me where are we going?


A brave new world will rise
If we do not act upon its lies
Hold your tongues no more
Learn from all the ones who came before


Catch the wind and fight the storm
Through the fury we're holding on
Take your time but not too long
Make it worth the time you own


You woke a fire inside of me
Fanned the flame and made it breathe
You woke a fire inside of me
Inside of me
Inside of me

 

Musixmatch

 

この歌が好きな人はオルダス・ハクスキーによる同名の小説『すばらしい新世界』を読むといいってコメント欄にあったから買ってみた。今読んでる本が終わったら読もうと思う。ディストピアだよ!楽しみ!

Katrineは目線がブレずに何かを見つめてる時がある。僕はこういう人は本当に何かを視界に重ね合わせて見ているのだと思う。本人が意識しているかにかかわらず、視界の向こう側に何かを見据えていたり。それが存在している力強さというのかな。

 

 

これも好き!


Wonderland

 

{Verse 1}
Far out, away from man
I find my wonderland
I fall asleep beneath the trees
Close my eyes as if to leave

 

{Chorus}
And if you wonder where I've been
I have retreated to scale the mountain
Don't worry about me or where I am
I'm in my wonderland
In my wonderland

 

{Verse 2}
Deep down I am at ease
Past the edge of my beliefs
'Cause there's no story without me
I {?}, set them free

 

{Chorus}
And if you wonder where I've been
I have rеtreated to scale thе mountain
Don't worry about me or where I am
I'm in my wonderland
In my wonderland

 

{Bridge}
Inside my mind
I leave it all behind

 

{Chorus}
So if you wonder where I've been
I have retreated to scale the mountain
Don't worry about me or where I am
I'm in my wonderland
In my wonderland

 

And if you wonder where I've been
I have retreated to scale the mountain
Don't worry about me or where I am
I'm in my wonderland
This is my wonderland

 

Lyrnow

 

 僕はずっと僕のワンダーランドに居たいです。

ストレッチとか

最近ストレッチをするようになって、意識している間は大分姿勢が維持できるようになってきた。

猫背でXO脚気味なので、畑仕事とか投網したり、椅子に長時間座ってたりしているとどうしても腰にきやすい。これから故障が増えていく30代でこのままだとまずいということで。

 

Youtubeはとてもしっかりポイントを押さえてストレッチを解説している動画がいっぱいあって凄いなと思う。取り敢えず整体師系とかピラティスとかヨガとか、使えそうなのを色々見て、似たような動きのものは自分に合いそうなのを選んでる。ピラティスいいっすね。

 

先ず僕の場合猫背をどうにかするには仙骨座りと巻き肩をどうにかしなきゃいけなくて、先に意識するようになってた巻き肩の方はここ1年でかなり改善されたと思う。まだ腕を後ろに回した時の可動範囲がかなり狭いのだけど。

仙骨座りの方は骨盤後傾なのだけど、今までは骨盤を立てて座る姿勢がどうにも耐えられなかった。筋力が足りないのかと思い疲れてしまう部分の筋トレをしてみてもうまくいかないし、続かず。

 

先週色々調べてみて、背中が曲がってきてしまうのは股関節周辺が原因だと知り、なるほどなと思った。僕は股関節が体勢によってかなり固いのです。そしてその原因は主に太もも裏のようでした。

長座で座るとどうしても背中が丸まってしまう。壁に背中をつけて腰にタオルを入れ、その状態で足を伸ばすともも裏がかなり辛かった。そんな状態から前屈しても全く動けず。今までの前屈で曲がっていたのは、股関節じゃなくてもっと上だったと知った。これだと殆んど効果がないそう。

 

お尻から太ももにかけてが固いのは小学生の頃から。水泳やってたからかなと思うのだけど、昔からそこだけ太かった。今は太さはそうでもないのだけど、やっぱりカチコチですね。

 

そんなこんなで太もも裏や臀部を伸ばす運動を取り入れて一週間、かなり姿勢を保てるようになってきました。ちゃんと座骨で座ってる感が励みになります。

ストレッチ、夜しっかりやるのはいいとして、朝や姿勢が崩れ始めた時にちょっとやるといい感じに骨盤を立てていられる。少しずつだけど、目に見えて股関節の可動範囲が広がってきました。もう少し柔らかくなったら、新しい姿勢を維持するためにバランスよく筋肉がつくようにしたい。

 

僕、昔から身体は全体的に結構柔らかいのだけど、股関節周辺はどうしてもだめだった。だからそれが打開できそうなのがすごく嬉しい。モチベーション高め。筋トレは飽きちゃってどうしても続かないのだけど、これは続けて出来そう。気持ちいいし、何より腰は大切だからね。腰痛は辛い。

あわよくば、最近調子悪めの泌尿器周辺も改善されないかなぁとも願っていたり。

 

 

このあとちょっと別のことを書いたのだけど、やたらと長くなったし(未完)、僕にとって大事なことなので分けることにした。ちょっと発見というか、気分がいい。

ということで今日はここまで!

軽い事故、義姉の離婚

昨日軽く事故ってしまった。駐車場から出るところだから、双方少し凹んだだけだったけど。すぐ近くにダブルパーキングされててお互い見えなかった。悪いことは重なるなぁと思う。

お金のことで揉めるのも色々考えるのも面倒くさいから、修理代こっちが出すことにしてその場で示談。お金がない人間のやる事じゃないと思うけど、まぁ日本に比べれば安いしいいやって。精神衛生上その方がいい。

 

まぁ何とかなるでしょの精神。悪いことがあると楽観的になる。元々そうなのが表に出るというか。まぁ実際そんなことで悩んでも仕方ないから。嘆いたところで起きたことは巻き戻せないし、壊れた物は元に戻らないし。

 

僕が懐疑や迷子の末時折悲観的にもなるのは、この場のように内面で過ごしている時が多い。そっちの方が僕にとって根本的な問題であるからなのか、内面と外面、向かう方向によって捉え方や考え方にも違いがあるからなのか、よくわからないけど。

だから外で起こる出来事っていうのは、避けられないイベント(運命論者じゃないよ。感覚的な問題)であって、それはその瞬間から内面を振り返るための出来事になって、結局内面に帰着する。

現状、結局はこっちがメインステージ。

 

事故自体は事故というのか微妙なくらい全然大したことはなかったし、相手と会話していてもとても余裕があるように感じていた。でも家に帰ったらどっと疲れて4時間くらい寝てしまった。それでも起きるのが辛いくらいどろんとしてた。

これは何なんだろう?余裕があったというのは自己欺瞞であって、ある種のホルモンが出てたりとかしたのかな。興奮してた感じはなかったけど、実は興奮してたのかな。そういう時頭はとても回るから、久々のそれで消耗したのかもしれない。相手夫婦との会話でもずっと出方を窺ってたから。嫌な性格だと思う。でもだから、嫌な思いはさせないように応対したつもりだけど… 一体何を恐れているのだろうか。諂いはしない。ただ、対等って考えると何をもって対等と言っていいのか分からなくなる。

 

知人はこういった場面でも常に強気で、少しでも優位に立つように立ち回る。今回一緒に居たらどうなってたことだろうか。面倒くさいなと思いつつ、凄いなぁとも思う。

 

人はそういった場面でも、自分の中の道徳と戦わなければならない。何と不憫なのだろうか。自分にとって何が大事か。それを当て嵌めて相手にとって何が大事かを天秤にかけて。

その瞬間の平和?より客観的な対等?何らかの勝利?気持ちの折り合い?義理?色々あると思う。何が大切?何でもいい気もするんだけど、それはやっぱり強がりだと思う。

まぁいいや。

 

 

そういえば義姉が夫に捨てられた(彼女の言葉)らしい。出稼ぎばかりしていた夫は外に家族が出来ていたとか。それなりによくありそうな話。

 

二人には子供が3人居て、一番下の子はまだ1歳になってない。夫は所謂不法入国者で書類を通した正式な結婚でもなかったので、何もできることがない。

こうなると僕は彼らの結婚前に予感していた。そして他人の関係をそういう風に感じる自分が嫌だった。

 

まぁ実家は家族多いし、あまり健康的でない夫婦関係(色々見ていて)に縛られるよりも、その方が彼女にとっても子供達にとってもより温かく過ごせると、関係のない所から見ている僕は勝手に思う。そんなこと言えないけどね。まぁ、元々強い人だし大丈夫だろう。

 

義理の姪っ子1人と甥っ子2人、もうちょっとお土産やプレゼント豪華にしてあげなきゃな。でもそうすると、隣の家に住む他の甥っ子と姪っ子5人にフェアじゃないって思われるかもしれないから悩ましい。物ではないとは思いつつ、でも貰えば嬉しいからあげるんだよね。

 

結婚や離婚の形というのも考えさせられるけど、そのことで周りは憐れんだり悲しんだり怒ったり、恐らく嘲笑ったりもしていて、その様子がとても人間らしくて、どこかドラマチックだなって思う。そしてそれが何になるのだろうともどこかで思う。

僕はその元義姉夫のすぐ感情を外に出すところ、マニピュレーティブなところ(でもそこまで上手くもない)が苦手で、ちょっとせいせいとした感はある。と、ここでは正直に記しておこうと思う。

 

彼、うちのアパートの来客用駐車場に車を置きっぱなしにしてるし、その車もバッテリー切れになってるから、まだ会うことにはなると思う。でもまぁ、僕はその夫婦関係とは直接的には関係ないし、今まで通り接すればいいかな。こういうのも面倒くさいよね。

 

まぁ、後になってみればそれでよかったと思えるのなら、そんなに悲観することもないと思う。そして大抵のことはそうなるんじゃないかなって。

新しい局面、皆が幸せに向かうよう願いたいな。

競争 から、エンジョイ勢

前にも書いたと思うけど、競争は昔から苦手だった。競争が当たり前になってからも、やらなきゃいけないからやるってだけだったんだよね。順位や点数になぜそんなに躍起にならなきゃいけないのかよく分からなかった。

小学校に入る前から7年間通ってたスイミングクラブ、泳ぐのは好きだった。級審査はまだ良かった分かんなかった。速いと受かる。でも1級の次になると競技コースとダイビングコースに分かれて、僕はダイビングコース選んだ。何で競技を選ばなかったかって、そのコースを選ぶ人たちがやる気満々な人たちばっかりだからか、行っちゃいけない方だと思った。ダイビングはどうだったかといえば、足ひれつけて普通の水泳コースで練習するの面白くなくてやめた。

 

小学校のクラブ活動は楽しかった。4年の時は料理クラブ、5年の時はゲートボールクラブ、6年の時は卓球クラブ。料理クラブはフルーツポンチ作ったり手打ちうどん作ったの今も覚えてる。とても楽しかった。懐かしい。

 

中学の部活は剣道部だった。なんで剣道選んだかって、優柔不断だから最後の最後まで決まらなくて、結局友達が選んだところにしただけだった。背も低かった(相手の背が高いと面打ちが頭頂に突き刺さって拷問だった)し、力もなかったし、正直どう動いていいのか、何をしていいのか分かってなかった。というより自分が何をしているのかもわかってなかった。部活中も頭にあるのはいつも別のことだった。

そんな僕は公式試合で勝ったのは1回だけ。上級生にはパワハラ紛いなこともされたし、楽しいと思ったことはなかった。

 

友達は幽霊部員になってやめていくけれど、僕は辞めるとか言い出しづらいから中々やめられなかった。2年の中盤ぐらいで喘息が酷い時期、タイムとか計る係やったら楽だったから味を占め、その後は半仮病(喘息があるのは本当)でずっと補佐役やってた。そっちは楽しかったな。いや、楽だった。

 

そんなこともあって、高校は部活に入らなかった。

 

競争と言えば小学校の徒競走、僕はいつも真ん中より遅いくらいだったと思う。走る時の姿勢について教えてもらったのは中学2年の時だったから、それまではいつも前のめりでバランスを保つのにばかり必死だった。

徒競走で一つだけ思い出に残ってるのは、小2の時の50m走。

10秒99という凄く微妙だけど語呂だけは良い数字が妙にツボで、しかも同じタイムの子が一人いて、ずっとそれを話題にしてお互いを10秒99と呼び合ってた。そういう楽しいことしか記憶に残ってないというか、順位の要素は割とどうでもよかったんだと思う。というより、なぜ皆高い順位や成績を目指すのか理解していなかったかもしれない。

 

テストもそうだった。高い成績を取らなきゃいけないと言われても、何故かを理解してなかったし、何より楽しくなかった。好きな教科の点数だけ良い子だったと思う。

 

高校は無理せず行った所だったから、授業聴いてれば上位だったのが楽だった。でもそこではテストの順位が公表されるシステムがあって、勝手にライバル視されるのが嫌な感じがした。何で勝手に測られて勝手にライバル視されなきゃならないんだろうって。指定校推薦とかあったから必死なのもあるんだろうけど、それなら尚更自分の順位だけ見てこっちは見ないでくれればいいのにって思う。結局僕は色々あって転校したけどね。

 

ネットゲームも色々やったのだけど、僕はいつもエンジョイ勢。ゲームだから勝ち負けはあるのだけど、それよりも印象に残るプレイや自分の中でドラマを演じたりするのが好き。

 

シミュレーション系が一番好き。再現の体験そのものだから、自由度が低いようで色んなことができる。その過程がいろいろ楽しい。

 

アクション系のゲームだと、孤立した味方を助けに行ってやられるプレイとか大好き。周りにとっては無駄死にでも僕にとっては無駄ではないし、それどころか一番楽しい瞬間。1人ロールプレイ状態で頭の中ではいつもドラマが展開されてる。

 

ストラテジー系では相手の想定外のことをするのが好き。

勝ち負けを意識せずともそれなりに勝つのは、結局そういうプレイの為に一生懸命になる所があるからだと思う。下手だとそういう一瞬をものにできないし、そういう機会も減ることになる。

正攻法を知らなければ裏もかけない。大事なのは相手にこちらが何かを意図していると関係ない所で思い込ませること(突拍子もない作戦というのは虚を衝かなければ成功するはずがないということ)だから、色々な定石を把握しておくことはより重要。

それが成功すれば、結果的に負けたとしても気持ちいい。普通にやって普通に勝っても楽しめないのだから、やりたいことが成功したという精神勝利は寧ろ主目的である。だって、ゲームは楽しむためにやるのだから(と言うと勝たなきゃ楽しくない人達に怒られる)。

 

 

エンジョイ勢はエンジョイした方がいい。勉強もそうだし、趣味もそう。自分がそうであるなら、先ずはエンジョイ勢だと自覚した方がいい。

大事なのは、それを快く思わない勢力に屈することのない気持ちだと思う。屈した時点で彼らが見ている競争原理に組み敷かれ、エンジョイが消えてしまう。そうなれば本末転倒だし、色を失うだろう。

理解されようとも思わない方がいい。それよりも、別のものを見ていることを自分が理解することが大切だと思う。

 

仕方なしに競争の中に生きるなら、その中で自分に合った楽しみを見つけるのがいいと思う。それか、潰れないように一歩引き、他の時間に何かエンジョイに徹するか。ただその場合、潰れないことが主目的になってしまうんだけどね。

境界

月が出てない夜の散歩はやっぱりいいな。全体が暗いから電灯に照らされた部分が浮かんでるように見える。雨の後だったから、微かな光に照らされる濡れた地面や揺れる水たまりも綺麗だった。

暗い夜は色んなものを見なくてもいいし、僕自身も暗がりに溶け込むことができる。

照らされて浮き上がっている部分も端の方はぼやけていて、闇と光の境界がはっきりしない。それにとても安心する。

 

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物と物の境界はいつでもとてもはっきりしている。脳がそうさせているのもあるのだろう。

でも僕自身はそんなにはっきりしていないから、自分が見ている世界の中なのに自分だけが場違いな存在なような気がする時がある。まるで責められているように。

だから全体がぼやけてくれる闇夜の中では、中から外まで意識がぼんやりと繋がるようで、溶け込むようで、空間にワンネス的な一体感というか、ゆるい所属感を覚える。それが心地良い。

 

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閃電が照らす空間の瞬きは、鮮明に浮かんでは消える記憶の中の景色のよう。僕の辿った道筋も、シリーズ化されたそれに他ならないのかもしれない。

 

残念なのは雑音や異臭だろう。環境の中にできた環境のような、この人造物が支配する場所は、自己主張しかしない音が席巻している。

周りに溶け込まない雑音は、未熟な僕にとっては直接揺らされてしまうようなものであって、だからこそそれは雑音にしかならない。それが耳に入っても何も揺れないくらい強靭になれば、この文明の支配下であるような空間や時間に惑わされることもなくなるかもしれない。僕には無理だろうけど。

だから僕は散歩の時は常にイヤホンをして音楽を聴いている。でも本当は、こんなに素晴らしい闇夜の中ではそれは必要のないものだ。

 

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人は音楽を既に内面に持っているのだと思う。だから静かで色々な音が調和した空間では、内側にある水面が揺れない状態では、耳を澄ませばそれが外からともなく、内からともなく聞こえてくるのだと思う。それはいつも、明るい所でも真っ暗な所でもなく、その境界の曖昧なところにいった時だけ聞こえるてくる。暗ければ暗いところほど僕たちにとっては曖昧だけど、より本物になる。でも真っ暗なところでは僕たちにとってはそれは消えてしまう。

 

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モモにとって円形劇場の外に座っている時間が大切なのは、それに触れることで彼女が純粋さを増すということであって、僕はそれを森の中で経験していた。そして今それをまた、より自らが追い求める形で必要としている。

だから僕は、イヤホンで音楽を聴かなくてもいい時間をこの散歩のときによく求めるのだけど、やっぱりこの喧騒(という程ではないにせよ)や臭気の混沌の中では無理なのだった。

 

外から聴いて満たされる音楽というのは、僕らはその断片を内側に既に持っているのだと思う。だからまたその音色や旋律、楽器や声の奏でる音の感触を求めてまた聞きたくなるのだと思う。それは気づいて欲しいと呼んでいるのかもしれない。

 

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外から提供される音楽は、既に作った人にとって洗練された仕上がった形だけど、それは断片を組み合わせて整えたものであるなら、惹かれるものであるという時点で必然と僕たちの飢えを満たし、渇きを潤し、絡み合い、そして導いてくれるものなのではないだろうか。

それは何も音楽だけでなく、芸術というものはそういう要素があると思う。特に創り出されたというよりは、生まれたという感じのアウトプットというものはそんな感じがする。賜物なんだなって。

 

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音楽でも、光景でも、文章でも、それに心を動かされるということは、内面のどこかでそれを望んでいるからなのだろうか。それは僕が望んでいるのだろうか?

 

今日のお散歩BGM


Agnes Obel - Smoke And Mirrors (Official Audio)

 


Parliament Of Owls

 

この2曲の繰り返しは飽きない。断片が僕の内側にもあるなって感じる。何度も取り込み、深い部分で確認しては反芻する。その過程で、否定され続ける何かが肯定されるのだと思う。貴重な救い。