感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

最期は安らか? から

先々月だっけ、入院するきっかけになった高熱。手足が硬直して不思議な感覚だった。熱で思考が上手く回らない中、ヤバいかなって思いつつも、その硬直と麻痺の感覚がちょっと面白くもあってそれが頭の中でぐるぐるって渦巻いた。ヤバいかなって思ってはいるんだけど、気持ちは安らかだった。前にもそういうことはあった気がする。

 

外から見れば呼吸も荒いし辛そうって見えるんだろうけど、弱ってる本人からしたら肉体的な辛さをそこまで感じる気力もなければ、不安になるようなことを考える思考にリソースを割く余力もない。だから辛い最中の辛さはそこまで辛く感じないのかもしれない。それを後から、元気になってから思い起こす場合、例え本人であっても元気な自分の感覚を当てはめてその時の経験を見るならば「あの時は辛かった」って経験になって上書きされるのかもしれないけど。

 

抗生物質だか何だかの点滴が強かったのか、それは凄く寒く感じた。手足の末端から芯まで冷える感じ。寒いのは本当に苦手だからとても辛かった。でもそれはその点滴に対する反応であって、本来は感じなかったものなのだけど。本来っていうのはそういった薬剤による対症的な治療。

因みに左腕の血管は3日間同じ点滴が入りっぱなしだったんだけど、血管が硬くなったまままだ元に戻らない。腫れは徐々に引いたんだけど。これ治るのかな。

 

話がずれた。何が書きたかったのかっていうと、病気か何かで弱って死ぬ場合って、自分の番になってみると意外と安らかなのかもしれない。少なくともその瞬間は。痛みや苦しみをそこまで感じるのは生きるためなのだし、それがもう必要ない段階ではそこまで機能しないのかなって。

 

僕が昔ふらっと死にそうになった時も、別の意味で全く不安や恐怖はなかった。思考が全く機能しないから風に吹かれて消える蝋燭の火のような感じ。本当にふらっと。でも何の因果かハッと気づいて、思考も感情もばーっと動いた。結果消えなかった。

だから僕はそのまま消えちゃう人の行動をどうこう言おうとは思えない。悲しい事故のようなものだと思う。そういう価値観を育めた分、あの風に吹かれような感覚は貴重な体験だったと思うし、今は生きてて良かったとは思ってるけどね。

 

だからたとえ辛い拷問の後でも、その瞬間は安らかなのかなって。

 

じゃあ12.7mmの重機関銃が頭部に直撃とか、爆発とかで瞬間的に意識が消えたらどうなんだろう。元気な状態のまま突然突き落とされたりとか、突然の事故で即死とか。よく分からないけど、もしかしたらこっちの方が怖いかも知れない。立ち眩みでそのまま倒れる時とかのサーって感覚が引いてスーって意識が落ちていく感覚もないままに突然消えるってなんか怖い。

 

そういって僕は、あの子を自分の過失で2週間苦しませた挙句殺してしまった自分を正当化しようとしているのだろうか。だとしたら許せない。確かに僕はあの子が苦しんでいるのを見たことで罪悪感が強く育ったのかもしれないけれど、苦しんだ度合いなど関係がない。僕の行為が一生責められるべきなのは、不注意という行動に対する戒めだから。そうでなければ合わす顔がない。

 

一体何を書いてるんだろうか。僕はこういう思考の時、僕は最期は苦しんで死ぬべきだろうなって思うのだけど、苦しんだところでそれが贖罪になるかと言われれば、それで割り切れるほど僕のこの思考の根源にあるものは軽くもないと思う。でも、重ければいいというわけでもないとも思う。いつ折り合いをつけられるのだろう?それを許すのは何なのだろう?

 

暗くなっちゃったなぁ。明日平日なのに申し訳ないから、お詫びに最近保存した画像を貼ります。ジャンル不問ね。

 

シーツの端が合わない

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かっこいいドッペルゾルドナーフィギュア

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ハロウィンおばけ

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火力万能論

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ラニアケア外視点

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おばあちゃんの知恵

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Be yourself

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はい。お疲れさまでした。

楽観と懐疑の海 苦痛の肯定 軸

ところで、人生を見つめる視点って沢山あると思う。意味だったり、目的だったり、関係だったり、個々集団様々な存在そのものであったり、色々。

その中で例えば、目的を通して見た時に個人レベルでの目的として挙げられるのは、相対的なものと主体的なものがあると思う。その中で主体的な目的のための価値として何らかの向上とかって聞く。でも自分という絶対の中で、向上は何を意味するのだろう?不完全な人間という存在にそんなことが可能だろうか?それとも自らに確信的な信念や理想があれば、それに従うことや近づくことを向上ということができるのだろうか?でもそれは追及であって、それ以上でもそれ以下でもない気がする。

 

経験による学びを一つの意味として捉える時、例えば経験に対する意味付けに意味がないとした立場を取ったとして、でもその外側では意味があると捉えることもできるし、その逆もできる。経験に対する意味付けに意味がないとした立場をとった経験に意味があったと。

例えば運命というものがあったとして、その中でそれを信じずに生きたとしても、それが運命だってことなのかもしれない。 運命というものが無かったとして、その中でそれを信じて生きたとしても、それは運命になるのかもしれない。 同時にそれらの逆も言えるし、その外側でずれてるかもということもできるし、例外というのもあるかもしれないし、etc...

 

結局は自分次第なのだろう。

 

僕は軸がないから、その楽観的で懐疑的な思考の中で自分の取るべき立場が分からなくなってしまう。

 

少なくとも2兆個はあるとされる銀河の中の1つの内側の、千億くらいあるとされる恒星の中の1つが作る太陽系の中の、数百万以上とされる生物種の中の1つの、77億人以上現存する人間の中の1人って考えた時に、銀河や宇宙の外側や、100億年以上の生物の営みや、宇宙的な時間や動き、生物の枠の外側を同時に想像した時の気分。

 

 

はー。って。

数字は大体でいい。全部ふわっとしていて、その3次元的な外側に更にふわっとした可能性があって。全部がふわっとしているのは、自分さえもふわっとしているのは、そういう見方しかできないからかもしれない。目の前にあるコップだって今この瞬間はその形を保っているからコップであるだけなのだし、サルに渡せばもうコップとして機能もしない。だからふわっとしてる。どんな可能性も捨てたくない(どれも一部事実は内包している筈だから)から、頭の中はごみ屋敷より酷いことになってるかも知れない。

 

それでさ、そこに僕は確かに(?)知覚を持っているわけで、脳内にはさっきの銀河の数に勝るとも劣らない神経細胞があって、それが一個体として思考している(のかしてないのか)。それがどれだけ不思議なことであるか。っていうようにどうしても大きい方から見ようとするから、しかもそれが不確定なものも沢山詰め込まれているから、よくわからなくなるのかな。~からって言った。そんなものは少なくとも僕自身には分かる筈がないのに。

でもこの思考(というよりは認知かな)パターンが基礎になってるからどうしようもない。

 

楽観としての体を成さず、広大な懐疑の海に溺れ窒息する。懐疑の先にある結果さえもも楽観視して曖昧な不安に蝕まれる。でもそれが心地いい。

 

楽観と懐疑、この2つの相性はあまりよくないと思う。少なくともこの比率では。

どっちが根底にあるのかわからない。恐れという部分から察するに懐疑は後発なのかも知れないけど、割ってみると中から出てくるのはやはり大切なもののようだ。

 

自分の軸という意味では、信念が大切なのは分かる。ここ数日それを思い起こされる機会が多かった。信じる強さ(両方の意味で)への憧れもある。

信念はどこに置けばいいのだろう?僕が納得できる範囲に置けばそれは僕の中で意味を成さない。外側に置こうとすれば疑念がそれを許さない。

どこまで捻くれているのだろうか。妄信をどこかで蔑みながら妬いているのだろうか。いや、その辺は人の勝手だと思うけどね。ただ、どこかで淡い感情が浮いている。

 

 

自分次第。

でも僕が仮に信念を自由に置いていいとされたら、多分それを置くのは外側になる。楽観と疑念を守るために。でもさ、軸のない自分に軸を持ちたいと言っているのにその考え方は滑稽だよなぁ。

軸がない自分という存在を広大な空間の中に放った上で、その外側を固定して軸を置こうとする。何度やってもそうなってしまう。この場でも何度も繰り返してる。

銀河の中を彷徨う自分を見ながら、銀河団に軸を置くような感じ。彷徨うのが苦痛だと言っているのに、それじゃ何の解決にもならない。でもそれが僕にとっての唯一の解決策になる。少なくとも今見える中ではね。

 

 

それが恐らく僕が苦痛だと言いながら苦痛を肯定している部分であって、結局のところ価値を見ているものであって、やはりある意味ではそうまでして守るのは信念でもあるのかもしれない。

考え方が滑稽というより、そもそも滑稽な存在だと思ってもらった方が正しい。全く卑下してないわけでもないけど、滑稽だからこそっていうのが僕にとって大切だから。

 

軸がないとまずいとまで思うようになったのは、最近体調を崩す原因がその辺りのストレスにあるような気がするから。地に足を着けようとすればするほど根が腐っていく。人生というものが上手く捉えられなくて、全体が内外から霞み薄れていく。このまま薄れて存在自体が思考の中に消えていってしまうんじゃないかとか、ちょっとした危機感があるのだけど、中々うまくいかないね。

最近はこうしてまとまった文字になることも減ってきたし、文字になっても前以上に支離滅裂な気もする。まぁいいんだけど。多分今は踏ん張り時。いつまで似たようなことを続けるんだろうか。

 

何ていうのかな。僕は自由浮遊惑星とか、恒星間天体とか、銀河間天体とか、そういう存在なのだろう。

僕から見ると、多くの人々はまとまって近づいて来ては、まとまって離れていく。それはいつもちょっと寂しいけれど、だからこそその瞬間を大切にしたいとも思う。宝物は孤独の中振り返った時にあるものだとも思う。

 

人が離れていったか僕が離れていったかは見る位置の問題に過ぎない。離れたということは近くに居た時期があったということが事実だし、それは素敵で奇跡的なことだと思う。

だから去る者は追わないし、来るものは来るだろうというスタンス。

仮に去る者を追っている時があれば、それはまた、そういう時なのだろう。という態度。だってそれでまだ離れないのなら、去ってはいないということだから。逆も然りで。

 

孤独は孤独だけど、それももっと遠くから見れば僕の軌跡が描く弧も、離れていった人達やまだ来ていない人達と同じ影響のもとに作られているのだろうしね。そういう意味ではやはり、どこまで離れても共に流れている。

不思議だね。

生きてます から Ghostly Kisses

こんばんは、生きてます。今日も何もしないで終わってしまった。うーん。

 

最近も相変わらずという所ですね。最近文章投稿がめっきり減ったけど、全く書いてないわけじゃないんですよね。書き始めると前と同じでバーッと出るんだけど、結構すぐ途切れるというか。うーんってなってやっぱ今はいいやって思って下書きにポイして放置みたいな。

 

思考が内側に溜まってるっていう状態じゃないんだと思う。それはそれでいいのかなって。

何ていうんだろうなぁ。何かを思い浮かべて考えたとして、色んなところからそれを見るのは変わらないんだけど、理由や答えをどうにか見つけようとかっていうのが和らいだかな。結局どこにも理由や答えはあるし、それは無いということでもあるし、軸がない僕がそれをしてるとどうとでもなってしまう。そしてズームアウトを繰り返していく内にもうなんかいいやってなる。

いかに地に足がついていないかということなんだろうけど、もう何かそれでもいいのかなぁって。地に足がつく必要があればその時はそうなるのかなぁとも思うし。

 

人生を考えても、例えば、幸せにならなきゃって思うよりも、今ある幸せと共に流れていけばいいんじゃないかなって思う。苦痛は苦痛でも、そこにある幸せを見れば苦痛も和らぐんじゃないかな。そうしている内に苦痛も愛おしくなるかもしれないしね。

あ、僕の場合はその方が合うのかなって思うだけで、大きなゴールとか目標を目指す人はそれはそれで素晴らしいと思うし頑張ってねって思う。

 

僕は何だろうなぁ。長期的な目標とかいくら考えても見つからないんだけど、それが無きゃいけないってわけじゃないよね。長生きするとも限らないし。

現実に生きているのかさえわからなくなることもあるけど、生物として確実なのが生きていることであって、いずれ死ぬことであるなら、生き方なんてとやかく言われたくないね。

とやかく言われるから生きているのか分からなくなるんだもん。って書くと人のせいにしてるみたいだからとやかく言われるのを気にするからって書き直しておこう。

 

ということで今日も精いっぱいぼーっとしてご飯食べて昼寝してネットサーフィンして生きました。

ぼーっとしてるっていうのは客観的な見方だよね。主観的にはそれはもう色んなことを思考したりトリップしたりを繰り返してるわけで、だからいつも疲れてるのだろうし。

プーやイーヨーもぼけーっとしてるようで脳内を視覚化したらもの凄いものが駆け巡ってるかもしれない。夢がないね。

はい。

 

そうそう、最近Ghostly Kissesっていうのを知ったの。カナダのMargaux Sauvéさん。Youtubeのおすすめのアルゴリズムがどんどん的確になってる気がする。

凄く惹かれて、今日色々ビデオを見てたの。とても落ち着きのある歌声、楽観的なメランコリックっていうのかな、なんだろう、日が出る前の朝霧の中に居るような曲。どれもとっても好き。ミュージックビデオも好き。

 

でね、初めてEmpty Noteのビデオを見た時に、この人の中に引き込まれるような感覚があった。とても見覚えのある顔なのに、どこで見たか分からない。この人知ってるなって。

記憶の中の誰かに似ているのか、表情のせいなのか、よく分かんないけど凄く不思議。こういうのって楽しい。滅多に味わえない特別な感覚。それって僕にとっては、とても生きているということなんだよね(いつものように無理やり前半と繋げて締める)。

 


Ghostly Kisses - Empty Note (Official)

 

Ghostly Kisses - Empty Note

 

How could I ever know you?
When everything lies in disguise
How could I ever forget?
Those eyes looking for my weal

 

How could I ever know more?
When everything is held by threat
How could I ever feel you?
Once again, without losing my mind

 

Oh empty note
Shadows of my past
Made it to the end

 

How could I ever know you?
When you are miles and miles away
How could I forgive myself?
How blind and scared I was

 

Oh empty note
Shadows of my past
Made it to the end

 

インタビュー動画


Ghostly Kisses Interview | Stingray PausePlay

 

表情の動き、話し方、仕草、とても人柄が出てる。とても曲のイメージとしっくりくる人。

やっぱりなぁって。

幸せの感覚

ふと思ったのだけど、幸せってどういう感覚なのだろう?幸福感っていうの?時々「超幸せなんだけど!」とか、「幸せ過ぎていつ死んでもいい!」とか聞くけど、自分の感覚と結びつかないから想像がつかない。

マイリトルポニーのピンキーパイとか幸せいっぱい感じてるんだろうなって思う。

 

何なんだろう。作りが違うのかな。僕は別に不幸ではないし、寧ろ恵まれているのだけど、感覚的に幸せって感じることがない。頭でこれが幸せなのかな?とか、この状況は幸せなのかな?とか考えることはあるけど、幸せだなぁっていうのは感じたことあったかな。美味しいものを食べて「幸せ」って言う人もいる。僕は美味しいものを食べて「美味しいなぁ」とか「綺麗な味だなぁ」とか「落ち着くなぁ」って感じるのだけど、幸せを結び付けようとすると「これを食べることができるのは幸せなんだろうなぁ」みたいに長ったらしくなってしまう。

お風呂で「幸せ」という人もいる。僕は「気持ちいいなぁ」とか「落ち着くなぁ」とか感じるけど、「落ち着くのは幸せだなぁ(なんだろうなぁ)」ってなる。結びつくことは結びつくけど、別の感覚にその言葉が付随してるだけで直接幸せを感じてるわけじゃない。

 

脳内物質の出方の違いなのかな。それとも心理機能の順序?興奮か何かと関係があるのかな?直情的っていうのと関係あるかな?幸福な空気を放ちそれが伝染するように、言葉に出される類の幸せって外向きの感情なのかな?

色々考えてしまう。

 

僕が一つ分かるのは多幸感。これは脳内で出るのが分かる。報酬。淡い光に身体全体を包まれるように感じる絶対的な安堵というか。ある種の薬はこれなんだろうな。

多幸感は幸福感の一種らしいけど、多分これは最初に書いた『幸せ』っていう感覚とは質的に異なる気がする。わかんないけど。

 

でもこういう幸福感を普段から感じる人はいいなぁって、少し羨望もあるけれど、それはそれで大変なんだろうなぁという気もする。僕が普段幸せを感じていたら、絶望に耐えられなくなるような気がするから。だって幸せという何かを感じるということは、それを失うことも感じるということでしょ?

多分、憂鬱に入り浸って躁を知らない僕が、双極な性質の人を見る時に感じる「大変なんだろうなぁ」っていうのはこれに似たものだと思う。

 

だから、『幸せ』っていう感覚が分からないことも一種の幸せなのかなぁと思ったり。それは捻くれてる?

何事も一長一短だね。

アンドレイ・タルコフスキー 『鏡 / Зеркало』、精神世界と現実世界

今日はアンドレイ・タルコフスキーの『鏡』を観ました。

とっても良かった。今も映画の余韻の中で、ジェットコースターに乗った後みたいにフワフワしてる。ジェットコースター乗ったことないけど。

 

youtubeさんのホームフィードから同じくタルコフスキーが監督したノスタルジアのトレイラーを見たの。あ、観たいなって思って調べてたら気づけば鏡の方に興味が移ってた。amazon primeにないからやっぱりノスタルジアにしようかなとも思ってたけど、検索してみたら鏡はyoutubeに製作元のmosfilmが直々にアップロードしてた。

 

日本語字幕は用意されてないけど、台詞はそこまで多くないからプレイヤーの自動翻訳でも十分かも知れない。知らないけど。

この映画は細かい台詞の意味はそれこそ夢や記憶のように薄いと思うし、字幕に集中し過ぎると逆に入り込み辛いと思う。タルコフスキー自身が朗読する詩(父が書いた詩らしい)の場面は何回か戻して見た。何度も見るとより深く入り込める映画だと思う。

 

何ていうんだろうな。ストーリーはともかく、記憶と夢と現在、精神世界と現実世界、時間軸の中の自分、自分の中の自分と他者、そういったものの関係がとても身に覚えがある。

特に生まれてからずっと、現在に至っても内的にも外的にも繰り返され続ける母との関係、その中でより大きな意味を持つ、子供時代の記憶とその中の生きた母親像が作る自分の中での関係。その部分がとても重なるものがあるのだと思う。この感情移入は、単純に似ている部分もあるのだと思うし、深層で人々が共有している何かが所謂共感という形で働いているのだろうと思う。その感覚が凄く不思議。

そしてそれを外側から見つめ直すと、この映画の中で語られる、アンドレイという人の記憶を元にした物語が僕の経験に入り込み、記憶と戯れ、それがまた現実世界に干渉し、精神世界を彩り、記憶がさらに形を変え、ってまたそれが繰り返されていく。

僕の書いたこの文字をもし共感をもって読む人がいたのなら、僕の知り得ないところで似たようなことが起こっていく。ってことを考えると不思議だなって思うと同時に、何と当たり前のことなのだろうとも思う。

 

どこか悲しげに遠くを眺める母親。僕もその記憶を持っている。それも母親像の中心として。ただ、その記憶が実際に見て感じたものなのか、作り上げられるものなのか、ある時の自らの感覚を反映して記憶として残った副次的なものなのか、その辺りが僕の中でははっきりしない。その曖昧さが作り出す記憶の中の(だけど現在も自分の中で何か意味を持っているのであろう)母親像がとても僕の中でマッチした。

そこに永遠があるかどうかは分からないけれど、現実と干渉しながらも僕の中で記憶は更新され、繰り返され続ける。その更に深層の、見えているような見えていないような光景と、現実といわれる同じく繰り返され、曖昧になり記憶に溶け込む光景はどちらがより現実なのかと考えると僕は分からなくなる。

 

もしかしたら、現実と非現実という区別がおかしいのかもしれない。プロセスとして互いに繋がり干渉し合う以上、双方が繋がる現実であるか、もしくは共に非現実であるか、それかその両方でいいのではないか。そうでなければ深層での精神的な何かの共有は現実と区別されなければならなくなるし、経験的事実、例えば僕の中でイメージが見えると内的に知覚したこともスパッと現実から切り離された上に現実ではないと否定されることになる。スパッと切ることに異議を唱えたくなるのは、例えばその内的な知覚が現実の知覚よりもより鮮烈なことが少なからずあるからで、主観的な感覚というか、実感が大事な僕にとってはその濃淡による感覚的な逆転が容易に起こり得るからだと思う。その上で現実が大事だ、妄想のような非現実は忘れろと言われれば、より重みを感じるのに否定される非現実側に合わせて現実も妄想の延長にしか感じなくなる。(実際どうなのかは知らない)

 

アンドレイについて調べると、亡くなったのは僕が生まれる1ヶ月ちょっと前らしい。同じ世界を同時には生きていないのに、こうやって一方的にでも何かを共有した気持ちになれることも不思議。彼の記憶は物語を通して僕の中に存在し始めることになった。実際の彼から見ればそんなのは彼ではないのだけど、僕にとってはこの像だけが彼になる。(もう本物が存在しないから)

 

もう2時半だよ!寝なきゃ!やばい、眠れなさそう。まあいいや。

 

最後の場面、とても印象的で泣いてしまった。何で泣いたんだろう。

僕の主観なのだけど、朽ち果てた家は美しい少年時代の記憶の破壊。でもだからこそ、その精神の中に生きている小さな自分と妹、そしてそこには不釣り合いな年老いた母は、時を越えて新しい形で歩き出せるのかなって。

その破壊の悲しさより、牢獄となっていた記憶からの解放、それも自分の中の小さな自分だけでなく、大切な記憶の中の家族も共に新しいスタートっていう風に見えて、それがとても救いに満ちてるなと感じて泣いたんだと思う。

それを見つめる、彼が知るはずのない子供を産む前の母親もまた、その世界の中で新しい未来の関係を見たことで、幸せであり苦痛であり不安な記憶の繰り返しの先にある別の可能性に対する笑みを浮かべ、それが彼自身の気持ち(というより彼の奥底にある彼そのものの表情)を映し出してるのかなって思った。

老いた母との変わってしまった関係にこそ見る幼い日の自分と母、そのある意味で現在の関係を説明する為に誇張された若き日の母もまた、記憶の中にしか生きない存在。その像が反射を繰り返す内に現在や未来という現実を越えたのかもしれない。しかしそれさえも、約束されていたとも言えるのではないだろうか。

 

僕はそういう部分に抑圧があるのかなぁ。

 

そうそう、他者の中に自分を見るのか、自分を通して他者を見るのか。それは内外という向かう方向によって逆転するのかも。片方に向かえばもう一方にも返ってくるから、それは意識しなくとも常に対として作用している。ただ、それは内外という関係においてであって、僕が乱反射と時々書いているようなことは、僕の内側の様々な断片的な存在を通す度に、プリズムを通る光のように屈折を重ねる意識の視線なのかもしれない。

 

本編

https://www.youtube.com/watch?v=CYZhXm02kN0&t=18s

 

Mosfilmチャンネル、他にも大量にソビエト・ロシア映画がアップロードされてるよ!ロシア映画あんまり知らないけどいいもの見つけた気分!日本から見れるかは分からないけど。

アンドレイ・タルコフスキー作品も彼がロシアを出る前の『僕の村は戦場だった』『アンドレイ・ルブリョフ』『惑星ソラリス』『ストーカー』がアップロードされてるみたい。

暫く生きる楽しみになってくれそう。

何か違う から

また始まった。「なんかこう、違うんだよなぁ」っていう感覚。 でも何が違うのか分からない。いや、多分どこかではわかってる。わかってるから違うんだもの。でもわからない。

やっぱり生きるの向いてないんだよなぁ。いや、生きること自体は向いてると思う。半分ぐらいが死ぬような状態でも生き残る自信はある。その気があればの話だけど。その気、というのは重要だ。それが湧かないのが今なのかもな。

ほら、惰性で生きてるでしょ。そりゃ湧かないよね。今まで見ていた価値がことごとく、瓦解する氷山のように崩れ去った。新しく向こう側に見えている、多分これも価値なのだろうけど、それは今のこの生活の中にはない。言い切る?強気だねぇ。でもそうやって頑固だから僕は困るわけですよ。

 

まぁほら、どっち付かずなんだよね。現実問題としてこの生活しなきゃいけないし。まぁ多分それも思い込みなんだけどね。安定を手放す不安の問題だって書いてあるのをよく見るけど、別にそこまで執着する程安定した安定でもないし、独り身ならぱっぱっと捨てると思う。優柔不断だけど決まれば早いから。独り身じゃないことを言い訳にする?結局そこになるから考えたくないんだよなぁ。それを言い訳と言う態度。だから辛いんじゃないですか。でも実際その生活が必要というのは思い込みで言い訳じゃん?楽に生きたいなぁと言いつつ間に挟まって喜んでるのは自分じゃん?喜んでないけど。

急ぎ過ぎなんだよ。焦るのも分かるけど。そりゃ焦るよね。何も手につかないんだから。それも分かるけど。

大体こうして指に任せてタイプしてても君は僕の成分が薄い。君も。他のもそう。何で僕はそんな曖昧な自分の中で板挟みにならなきゃいけないの?抜けないからじゃん。そうね、言いたいことは分かってるわけ。でも無理なものは無理じゃん?無理だっていうのが思い込みなの。それも分かってるんだけど…分かってないよね。五分五分かな。そりゃ五分五分になるよね。堂々巡り。

 

休憩しよう。

 

抜けた人はさ、心理学方面でも、スピリチュアル方面でも、キリスト教界隈でも、仏教界隈でも、抗わなければいいという。*1 変化は抗えるものではないし、受け容れるのが近道だって。それは分かる。分かってないのかもしれないけど、多分分かってる。でも身動き取れないから仕方ないって思うとすれば、やっぱり分かってないじゃん。って。またそれ始めるの?ちょっと落ち着こう。お互いフラストレーション溜まってるよね。僕だって同じよ。誰のせいだよって話だけどね。先手を打って否定しないで欲しいね。ロジハラだよ…))

なんか性格変わったよね。前より仲良くなったから構成が変わったのかな。前は単純に世間一般で言う頭と心とか、思考と感情の板挟みだと思ってたけど、今は混ざってる。そんな気がする。変化しなきゃいけないって感覚に思考が追いついたとか、そういう単純なものではないと思う。寧ろもっと単純なんだけど。そう、その言いきり方。もうちょっとこう、優しくなれないかな。優しいからこうしてるんでしょ。そりゃそうなんだけど、ん?そうなの?そうだよね。はい、ありがとね。そういえば今一対一かな。珍しい。さっきはもっとばらばらだったのに。音楽聴きながら書くこと書いて落ち着いたからかな。

なんかもういいやってなりそうだけど、折角だから何か考えてみようかな。

チューリップの花、美容院の花壇。懐かしい光景。黒い自転車だから小学校低学年の頃だ。自転車置き場の物置、色んな用具の匂い。裏口の貯水槽、プロパンガス、いつも通り過ぎてた。3階の家、電話機、2階に入っていた塾、この先生の顔思い浮かべるのいつぶりだろう。こんな人いたなぁ。よく保存されてたね。記憶って不思議。開かずの踏切、八百屋、これ思い切って遠く行けるのかな。スイミングクラブの近くのドブ。ザリガニの穴場だった。I君、居たなぁ。凄い、色々想い出せる。T君とそのお母さんの喫茶店、元気にしてるのかな。追いつかないからいちいち書くのやめる。

 

必要そうなものは見つからなかった。記憶って懐かしいけれど、思い出さなくていいものを思い出すのが怖かったりする。思考や記憶やイメージの中ばかり彷徨ってる癖に臆病なことだよね。宝探し感覚。パズルのピースを探していて、でもパンドラの箱に当たっちゃったらどうしようと内心ドキドキしながらもワクワクする。その不確かで正確性も分からない記憶も、一度探り当ててまじまじと見てしまえば固定されてしまう。だから何も見つからなくても、ガッカリしながらもちょっとホッとする。

最近想い浮かぶ記憶は小さい頃のものが多い。何故唐突にそうなったのか分からない。20代の頃はずっと同じ時期(高校時代)の記憶に囚われてそれどころじゃなかったからかな。今は寧ろその頃のことはあまり考えないで済んでいる。というよりあまり必要性も感じなくなった。

僕は子供の頃の感覚を捨てないまま大人になったような部分があるとは思う。それを認めてからは以前よりももっとより自分らしい物事の捉え方を取り戻せたし、大人ぶるだけで否定されてしまうような部分も戻ってきたのだろうと思う。

感覚が戻ったから記憶が開きやすくなったということもできるかもしれないけれど、そこに置き忘れてきたものがある。ある?分かってるくせに。だからさっき長々と言い訳したんじゃない。パンドラの箱が怖いって。そうなのかな。まぁいいや。よくないけど。いいってことにしよ?

まぁ必要のないことはないのだろうし、その頃の記憶が浮かぶのは何か必要があるからなのだろう。野次は無視。だったら必要性に駆られれば、それが必要な時になればそれは起こると思う。焦らなくてもいいのではないか。って言いながらもまだ記憶がちらちら浮かんでくる。今は見ない。怖いんじゃないけどね。多分。いや、怖いんだよね。

まぁ一回目じゃないから躊躇するのも仕方ないよね。何で記憶にばかり振り回されてるんだろうか。今に生きろって誰かに怒られそうな人生。今に生きたいから欠陥を正そうとしてるだけなのになぁ。

 

区切ろう。解散!

久々に乗りが良かったな。最近は思考が続かなくていくつも途中で下書き送りになってたけど、そういう時は思考を切り離して書くと乗るんだよね。

合わせ鏡。唐突なキーワード。なんかね、2日くらい前から色々と合わせ鏡なんだなぁって思う。僕はその中に映る自分の、精々2、3人の中に居るんだなって。外に出てもそれが増えるだけな気がする。

 

いつも意味不明でごめんね。そういう芸だと思って嗤って!

 

 

*1 例えばこれとか


The Art of Loneliness

 

これとか


The Dark Night of the Soul (Losing Who We Thought We Were)

 

内的な変化を受け入れたが故の変化(再構築?)の過程で、外側の置かれた状況が変わらなければまた引っ掛かってしまうという焦りはどうしたらいいのだろう?今まで通り寝て待ちたい自分とそれじゃだめだっていう自分。正直今書いてる自分はどっちでもいいと思うんだけど、これじゃ身が持たない。

クラスメイトの夢 秘密の花園

昨日夢に小学校の時の友達が出てきた。夢は中学生という設定だったと思うのだけど、高校の時の担任が出てきたり、小中学校の同級生がごちゃごちゃに出てきたり、間取りは小学校高学年の時の教室だったり、結構めちゃくちゃ。内容もかなりカオスだった。

 

ここに文字化しておきたいのは、僕がその夢の中で小学校の同級生2人と再会した時の感覚。

 

その2人は親友とかでもなく、単なるクラスメイトよりは近かったかなぁくらいの女の子2人。そこまで印象が強く残ってるわけでもない。

Tさんは小学1年からよく遊んでいた子と近い友達で、小3でクラスが同じになる前から遊んだことはあった。いつも一緒に居たMgさんは夢には出なかった。夢に出てきたもう一人、Mさんはいつ知り合ったか、いつ同じクラスだったかはっきり覚えていない(小5かな?)。時々会話するくらいだった気もする。

 

夢の中では普通に会話しただけだったけど、凄く安心した感覚が目を覚ました後も残ってた。表情に安心したのだろう。逆に、何が不安、後悔だったのだろうか?そこまで意識したことはなかった。

 

でも起きて暫くぼーっと考えていて、Tさんに関しては思い当たることがあるなぁと思った。うちの小学校は9割方同じ中学に進学した。この2人も中学まで一緒だった。

 

中学くらいになると友達付き合いって急に変わるじゃないですか。今までの感覚は取り残されたようで寂しいけれど、皆がそうなっていくから合わせていく。その子達との関係も、中学に入ると枝分かれした新しい自分の中で薄れていった。顔は見るけど声をかけることもなくなった。それが本心からだったのかと聞かれると分からない。

 

中3の時、Tさんのお父さんが亡くなったと聞いた時のことをはっきり覚えてる。あの子は少し前に母も失ってて、僕はとても動揺した。小学校中学年の時にクラスメイトの母が皮膚がんで亡くなった時もそう。保育園の時によく一緒に遊んだ子も母を失ってた。僕はそういうのにとても弱かった。彼女たちが徐々に受け入れていくのを、少し遠くから僕は半ば信じられない気持ちで見ていた。皆外には気丈だった。

 

Tさんは祖母と弟と暮らすようになったようだったけど、1、2週間休んでいた。僕はその時、何回かTさんの家の前まで行ったの。今でも自分をそうさせた感情が分からない。心配か、同情か、なんだろう。居ても立ってもいられなかった。人が落ち込むのを見るのに弱かった。シミュレートしちゃうからだろうね。そのシミュレーションの基盤が僕だから、いつも皆の強さに驚くことになる。

 

結局僕は呼び鈴を押すこともなく、何度かTさんの家の近くを通過して家に帰った。何年も話してないんだもん。急に顔合わせて何て言っていいか分からないし、こんな時に急に現れるのもおかしい気もしたし、結局はいつもの自己嫌悪で終わったかな。その後Tさんが学校に戻ってから見かけたけど、意外と大丈夫そうで安心した。でも暫く心配だったかな。

20過ぎた頃かな。駅のスーパーでレジ打ちしてるTさんを見かけたけど、遠目に見て別のレジに並んだ。それが最後かな。

 

だから僕が昨夜夢の中でTさんと会話をするのは、小学校の時以来だった。Mさんもそうだと思う。その時にね、昔のままの表情で話してくれたから、とても安心した。顔の筋肉は、相手が緩めてくれれば緩むものだから。ずっと、どういう顔をしていいか分からなかった。それが解けた気がした。枝分かれする前の自分が許された気がした。

まぁ夢なんだけどね。

 

 

今バーネットの秘密の花園を読んでるからそういう夢を見たのかもしれない。3人の子供達も丁度そのくらいの年頃で、僕にとっては枝分かれする前の感覚のやり取りをしている。

 

今度読み終わってから書くかもしれないけど、とても良い本。自然と人の関わり、子供にとっての秘密、出会いと変化、表情や気持ちの主観的で時に内観を通した描写。そして穏やかに、連鎖的に変化していく人々。登場人物の内5人に感情移入したのは初めてかも知れない。(しかも内4人は間接的に)

僕も、森に居る時は偏屈な気持ちじゃないからね。とてもよく分かる。

影響を受けた本というよりは、一生を通じて僕の確信を支えてくれる本になると思う。

 

行ってみたいところが増えた。ヨークシャーのムーアで季節を感じてみたいな。