感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

境界

月が出てない夜の散歩はやっぱりいいな。全体が暗いから電灯に照らされた部分が浮かんでるように見える。雨の後だったから、微かな光に照らされる濡れた地面や揺れる水たまりも綺麗だった。

暗い夜は色んなものを見なくてもいいし、僕自身も暗がりに溶け込むことができる。

照らされて浮き上がっている部分も端の方はぼやけていて、闇と光の境界がはっきりしない。それにとても安心する。

 

f:id:hasriq:20201111001853j:image

 

物と物の境界はいつでもとてもはっきりしている。脳がそうさせているのもあるのだろう。

でも僕自身はそんなにはっきりしていないから、自分が見ている世界の中なのに自分だけが場違いな存在なような気がする時がある。まるで責められているように。

だから全体がぼやけてくれる闇夜の中では、中から外まで意識がぼんやりと繋がるようで、溶け込むようで、空間にワンネス的な一体感というか、ゆるい所属感を覚える。それが心地良い。

 

f:id:hasriq:20201111002022j:image

 

閃電が照らす空間の瞬きは、鮮明に浮かんでは消える記憶の中の景色のよう。僕の辿った道筋も、シリーズ化されたそれに他ならないのかもしれない。

 

残念なのは雑音や異臭だろう。環境の中にできた環境のような、この人造物が支配する場所は、自己主張しかしない音が席巻している。

周りに溶け込まない雑音は、未熟な僕にとっては直接揺らされてしまうようなものであって、だからこそそれは雑音にしかならない。それが耳に入っても何も揺れないくらい強靭になれば、この文明の支配下であるような空間や時間に惑わされることもなくなるかもしれない。僕には無理だろうけど。

だから僕は散歩の時は常にイヤホンをして音楽を聴いている。でも本当は、こんなに素晴らしい闇夜の中ではそれは必要のないものだ。

 

f:id:hasriq:20201111002116j:image

 

人は音楽を既に内面に持っているのだと思う。だから静かで色々な音が調和した空間では、内側にある水面が揺れない状態では、耳を澄ませばそれが外からともなく、内からともなく聞こえてくるのだと思う。それはいつも、明るい所でも真っ暗な所でもなく、その境界の曖昧なところにいった時だけ聞こえるてくる。暗ければ暗いところほど僕たちにとっては曖昧だけど、より本物になる。でも真っ暗なところでは僕たちにとってはそれは消えてしまう。

 

f:id:hasriq:20201111002202j:image

 

モモにとって円形劇場の外に座っている時間が大切なのは、それに触れることで彼女が純粋さを増すということであって、僕はそれを森の中で経験していた。そして今それをまた、より自らが追い求める形で必要としている。

だから僕は、イヤホンで音楽を聴かなくてもいい時間をこの散歩のときによく求めるのだけど、やっぱりこの喧騒(という程ではないにせよ)や臭気の混沌の中では無理なのだった。

 

外から聴いて満たされる音楽というのは、僕らはその断片を内側に既に持っているのだと思う。だからまたその音色や旋律、楽器や声の奏でる音の感触を求めてまた聞きたくなるのだと思う。それは気づいて欲しいと呼んでいるのかもしれない。

 

 f:id:hasriq:20201111002309j:image

 

外から提供される音楽は、既に作った人にとって洗練された仕上がった形だけど、それは断片を組み合わせて整えたものであるなら、惹かれるものであるという時点で必然と僕たちの飢えを満たし、渇きを潤し、絡み合い、そして導いてくれるものなのではないだろうか。

それは何も音楽だけでなく、芸術というものはそういう要素があると思う。特に創り出されたというよりは、生まれたという感じのアウトプットというものはそんな感じがする。賜物なんだなって。

 

f:id:hasriq:20201111002255j:image

 

音楽でも、光景でも、文章でも、それに心を動かされるということは、内面のどこかでそれを望んでいるからなのだろうか。それは僕が望んでいるのだろうか?

 

今日のお散歩BGM


Agnes Obel - Smoke And Mirrors (Official Audio)

 


Parliament Of Owls

 

この2曲の繰り返しは飽きない。断片が僕の内側にもあるなって感じる。何度も取り込み、深い部分で確認しては反芻する。その過程で、否定され続ける何かが肯定されるのだと思う。貴重な救い。