感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

海外支援でばらまき から 伝わらない人に伝えること 解離のこと 欠片の辛さ

うーん、海外支援でばらまきって何かの記事で見かけたけど、僕はよくわからないなぁ。

国内の開発があらかた終わって技術はあるけどパイがないから支援名目で国外に出してるんでしょ。ODAのプロジェクト自体が日本企業のためにあるようなものなのに、その点はあんまり広報しないのだろうか。企業は持ってるもの売らないと技術も人員も維持できないし、研究もそこで止まってしまう。勿論それ一辺倒ではないけど、日本製品を導入させる場になってたりするわけで。例えば機械を導入させれば部品やメンテナンスも継続的に売れるしね。ある意味大航海時代の宗教と同じで開拓の場になってたりする。

支援による関係の醸成や市民レベルでのインフルエンスの増大はどちらかというとおまけ。でもそのおまけのおかげで国際的な地位や信頼を維持してる側面も大きい。それがいつまで続くかは知らないけど。

まぁ、クールジャパンよりちゃんとクールジャパンしてるとは思うんだけどね。事後評価のシステムも割としっかりできてるのだし。

 

天下りや談合は別だよ?それが巣食っちゃうのは問題だと思う。でもまぁ、天下りもさ、それが必要なものかただの害悪にしかならないものか、評価が難しいというのはあると思う。人脈なり知見なりが特に重要になる場だから、必要性も大きい。談合だって一概に悪いとも言えない。横から撃たれるような隙のあるものをやれば悪いと思うけど。まぁ、国内と他国の狭間でやるわけだから、色々難しい部分もあると思うしね。

 

ただほら、海外支援でばらまきってなんで同じことずっと言われてるんだろうと思って。政府が説明を怠ってるのか、上手く伝わらないのか。あー、でも上手く伝わらないっていうのはよくわかる気がする。日本のNPOの人がこっちの熱帯雨林保全のプロジェクトやったりするけど、その人たちに説明したりする時に、こっちの行政のこととか歴史、文化的、気質的な背景とかは勿論、国際的なこととかビジネス的なこととか、全然伝わらないんだよね。僕だって一般常識くらいのことしか分かってないつもりだけど、だから困ることが多い。だから前の仕事やめたっていうのもあるし。

 

諦めなのかな。あ、伝えるのは無理だなって直感するんだよね。僕が口下手なのもあるんだけどさ、ベースが違い過ぎる感じ。非自覚的なコンテクストな部分というかさ。

何事もそうだけどさ、S極しか知らない人はS極が世界でしょ?N極しか知らない人にはN極が世界でしょ?両方経験して初めてSとがあるって腑に落ちてる状態になる。頭での理解ではなくね。

S極しか知らない人にN極のことを口で説明しても、S極の世界観でしか解釈して捉えられない。だから間に入らされると地獄なわけ。だって無理だもん。

だよね。書いてみて心底辞めて良かったと思った。

 

直感するのは逆もそう。この人は理解とまではいかなくても伝えた言葉が入っていくなっていう感覚。空気なの。その流れというか。よくわかんないけど。

 

伝わらない人に伝えないっていうのはさ、こっちが勝手に伝わらないって勝手に断じて伝えないっていうのもどうかなとは思うし、こちらの意図とは別の受け取り方でもその人なりに意味が生まれるかもしれないとも思うし、いつかそれが伝わるような変化があるかもとも思うから、前は伝えてたのね。でも今はそこに自分なりの意味を見出せないでいる。

 

よく見かけるいがみ合いとかもそういう、ただの見え方の違いを無視した先にあったりするしさ、虚しさが先立っちゃう感じ。どうせ違うものを見てるんでしょっていう。独りっていう感覚が強まってからそうなったかな。通じないのが嫌とか、間違って伝わるのが怖いとかじゃなくて、単に価値を感じない。結局この寒さが根底にあるわけだから、あんまり無理にインタラクトしてもね。ある意味断絶された自分という世界が前提になってしまったのかもしれない。

これはさ、感覚世界の話ではないんだよね。自然との繋がり、人との関係、その中のいろんな尺度の自分(達)は感じるわけで。でも物事の捉え方とか、見え方とか、そういう部分においては、前提的な部分が違う者同士がそれを共有しようとする意味がどこまであるのだろう?って。だって、共有って近いからできるのであって、全く違うものを共有したつもりになるのは見誤りか妥協だし、無理に共有しようとするのは強要でしょ。棲み分けと同じで違うものは違うんだからそれでいいじゃないってした方が、尊重にもなるし、より広い目で見れば活かし合うことにもなるのではないか。

対話も大切だとは思うんだけど、対話の限界っていうのを意識するのも大切なのかなとも思うしね。クリスチャンとムスリムが神は同じって共通認識を友好に用いて、それ以上踏み込まないように。

 

まぁ自分の中での、何かしらの固執もあるのだろうけどね。でもそれはまだ自分でも分からないからどうしようもないなぁって感じ。

 

 

固執。内面的な部分では、今僕が必要としてるものは解離した別の僕が持ってるんだと思う。でもそこにどうやってアクセスしたらいいか分からなくて半分詰んでる。

最近見かけたPTSD患者の解離症状の追跡調査を読んで、統合に至ってる人が想像よりはるかに少なくて「あー…」ってなった。実際僕もこれに関しては無理なんじゃないかという気はしてる。割れてバラバラになったガラスはそれぞれのガラス片であって、元には戻らないじゃない?これに関してはそんな感覚がある。スパッと割れてるんじゃなくて粉砕骨折状態だし。

二元や抑圧は元々一つでしかないものが認識というか非認識によって分割されてるだけだから、外に出て全体を見つめればいいだけだけど、これはさ、ある意味トラウマによる枝分かれなんだよ。勿論統合できる場合もあるんだろうけど、トラウマを解消すれば統合かって言うとそうではないし、そもそもトラウマを解消なんて生半可なことではないよね。トラウマは言い換えれば強度の経験的な学習なのだから。生物的には生きるために必要なものとして、反応の鈍化はしても解消するようにはできてないでしょ。ましてや人格や意識なんてもっと脆くて曖昧なものなのだし。それを元通りに戻そうとしても無理だよね。

 

せめてこの感情の詰まりがどうにかなれば、その原因になってる記憶さえ共有してくれればそれ以上は要らないのだけど、それも贅沢なことなのだろうか。

もう誰にも話せないからここに書くけど、自分に固執するつもりもないのに自分が分からなくて本当に辛い。分からないから固執するしかないとも言えるのだけど。

だってさ、僕は僕として生まれて、当たり前のように一人の僕として扱われるけど、でもその度に僕って誰なの?って思いに苛まれる。だって、僕は僕であって僕じゃない。記憶すら繋がってないし、バラバラになった僕の中身の限られた範囲しか僕はアクセスできない。僕よりも僕のことを知っている僕が居るような気がする中で、自分のことを僕だなんて思えるはずがない。泣いてる僕がどこかにいるのを感じてるのに、泣くこともできなくなった僕が僕自身を僕と感じることができるだろうか。皆が見てるのはガラス瓶であって、僕はガラス片でしかない。自己同一性を失った人間が上辺ばかり自己同一性を取り繕っても、結局一部のそれでしかなかったってことだよね。

 

取り乱すなよ。怖いね。誰の人生を生きてるのかすら分からないなんて。生きているのに、生きていることを肯定しきれないなんて。

でも、だからこそ、じゃあどうするかなんだよね。まだ足掻くか、一度諦めてみるか。

きっつ。

 

でもさ、曖昧なだけガラスのように固体ではないのだから、スライムとか雲のように、バラバラがくっつくこともできるのかな。一番の問題は、必要な欠片たちがどこにあるかすらわからないことなんだけどね。そりゃ迷子だわなぁ…

きつい。寝る。