記憶の中の感覚について、気になってどうしようもないので以前ブログで交流のあった方に相談してみた。とても広い方。
内容自体については僕自身が確かめることができるものではないから何とも言えないのだけど、こういう自分より広い尺度の見方に触れると何かしら気づきがある。というのは多分、何かに囚われている時は普段よりも更に狭いものの見方しかできなくなっているからだと思う。今回も呆気なく引っ掛かりが溶けてくれた。あんなに深く悩んだのに。
温かい姉のような存在の感覚意的な記憶。僕はその記憶の扱いに困ってたんだなって思った。事実かどうかわからないのに何でこんなものがあるんだろうって。そして何の根拠もないこの感覚がどうしてこんなに大切なんだろうって。
引っ掛かりが溶けた時に思ったのは、それでいいんだと思った。その記憶は僕が必要な時に守ってくれたし、小さな頃家庭で上手く育めなかった愛着の片鱗を与えてくれたし、それを通して姉さんと僕を繋げてくれた。
僕にとってはそれが事実であって、この記憶に客観的な根拠なんて求めるのはそれこそ無意味だと思った。記憶が朧気ではっきりと見えないのは歯痒いけれど、それはそれで儚いものが好きな僕にはぴったりじゃないか。そう思えた。
だからすーっと、今はもう必要のなくなったこの記憶、感覚に囚われる必要も感じなくなったし、感謝と共に記憶のアルバムの片隅に大切にしまっておこうって思えた。
手放すのは性に合わないしね。
戸惑いもあったけど別の場所で心理的なサポートもあったし、一瞬で整理できた。後押しが欲しかっただけかもしれない。
感覚は囚われなければ形を変えることができる。この愛着も次に繋がるのだろう。そう思えた。泣くこと、感情を解放することの鍵に、力を抜くことの鍵に、委ねることの鍵に、この感覚が必要だと思ったのだけれど、仮にそうだとしても姉だのという概念に縛られる必要はないなと思った。ただこの感触と香りを覚えておけば、次の何かに繋がるはず。そう思った。
これが解決しないと次に進めないような焦りから前のめりになってしまっていたけど、今は大分穏やか。そもそも今までハードモードでやってきてここで色々解決しちゃったらこの後の楽しみが減っちゃうかなと思う程度には迷子エンジョイ勢だからね。
自分は一向に分からないけど自分の性質は大分わかってきた。
ということでこの課題は『一旦』お開きかなと思う。姉さんありがとう。
愛着に関しては、特にそのスタイル・性質については、やっぱり自分の個性として捉えるの心地良い。それだけ深い欲求を生むものだし、変えようとするよりは受け容れる方向が僕には合うと思う。
愛着の形も依存も、問題になるのは無意識、無自覚の場合だろう。これって自覚し、意識した時点で徐々に形が変わるものだと思う。そうならざるを得ない。自覚してても繰り返すなら中身がしっかり見えてないだけではないだろうか。すり替えや欺瞞ではなく自分が本当は何を求めているのか、自分が目を逸らさず見つめてあげればいい。自分以外に誰が理解してやれるというのかという話で。薬物依存とかになるとちょっとあれだけどね。
これは僕の感想で一般化できるものとは言わないけど。
お腹が空いてる時に水を飲んでお腹が膨れても一時的に少し満たされるだけ。本当に身体が求めるものを食べればこの上なく満たされるし長持ちする。だからって満たされようとし過ぎてお腹が空く前に食べ物入れてもあんまり満たされない。それと同じ。
本当に満たされたいなら自分が何を求めているかをしっかり見つめた上で、満たす機会が溢れる現代では、ちょっと我慢して身体がそれを求める感覚を味わうことも必要なのだと思う。だからって我慢ばかりしてると我慢の達成感に味をしめて別の欲望にすり替わっちゃうのだろうけど。
だから無自覚に欲求に流されることは問題を生むし、負のサイクルやスパイラルに陥るし、報酬の質的な意味でも勿体ない。
それが本当に生を楽しむために自己理解や内観が大事ということだと思う。僕が快楽主義者なのに自制的なのはもっと上の快楽を目指してるからなのかもしれない。
僕の場合は、お姉さん願望的なものがあることに気付いて、そこから自分の人間関係を振り返って、そこには年上の女性が多いことに不安に駆られ、また姉さん役になってくれたあの人との記憶に繋がり、その幼少期の記憶にそれらが繋がって、愛着を意識することになって、でも知り合いに年上の女性が多いのは単に僕の性質上波長が合いやすいだけだと気づき、愛着には与えられた強い優しさや温かさ、感触があって、結局求めていたのはそれに包まれた時の安心感であり、その安心感が欲しい理由は身を預けることでコントロールも何もなかったから。そしてそれは今解けないコントロール、緩まない緊張に翻弄されているからで、泣けない現状を抜け出したい、感情をどうにか解放したいと思っていたから。という風に要約すると短いけど結構な時間をかけて繋がっていった。
捉え直しを意識すれば、お姉さんである必要はないし、この安心感に対する欲求は現状必要なものだし、っていう風に集まったピース使ったパズルゲームが始まる。これはご褒美の楽しいミニゲーム。
愛着の投影と依存の問題は僕は捉え方の問題だと思ってる。
そもそも依存を恐れて忌避する理由が分からない。依存そのものを恐れるよりその形が健全か不健全かを自分、そして関係の二つの視点で評価して健全ならそれでいいし、不健全ならどうするかを摸索すればいい話だと思う。投影なら自己理解を通して形も変わる。
欲求や健全な関係と言うと同性カップルや変態文化に関してのエマ・ワトソンの言葉がやっぱり僕はしっくりくる。
A lot of the healthiest relationships I’ve seen have been between same-sex couples because, I think, they have to sit down and agree [on] things. They agree [on] things between them as opposed to [accepting] certain sets of assumptions and expectations that are made.
I’ve also kind of become slightly fascinated by kink culture because they are the best communicators ever. They know all about consent. They [understand] that stuff because they really have to get it — but we could all use those models; they’re actually really helpful models. Emma Watson
健全な関係のための対話の重要性、そして後半の変態文化の部分では自己理解の重要性も説いてる。自らの欲求を満たすためには自己理解が必要で、それを満たせる健全な関係のためにはコミュニケーションが必要。
以前から僕は赤ちゃんプレイに興じるおじさんについて似たようなことを思っていた。赤ちゃんになりきるおじさん。そのおじさんにミルクをあげる女性の動画。アメリカ人だったかな。そのおじさんを馬鹿にするような内容だったと思うけど、僕はただ凄いなぁ、幸せそうだなぁとだけ感じた。その理由はその時は分からなかったけど、後々物思いに耽っている時に上のエマ・ワトソンの言葉と同じような結論に至っていた。
社会通念的な価値観を通して見ると不健全なものが、その人やその人達にとって不健全かは別の問題。そして大概前者は自らは健全側の一員でありたい、不健全になって弾かれたくないという類の恐れがあって、それに根差した単なる表面的なジャッジメントだと思う。
だからある意味、そういったアブノーマル(僕はそうは思わないけど)と言われる欲求を合意の上で満たし合えている人達は、社会的に見て健全とされるモデル的な関係の中で深い欲求を抑えている人達よりも健全と言えると思う。
これもエマ・ワトソンの他のインタビューなんかで似たような文言を見かけたような気がする。この人、僕とは全然違う人生なのに同じようなものを見てるんだなぁって思った。
幼少期の愛着に端を発する欲求もこれらと同じだと思う。欲求や欲望も満たされるために必要だから在るもので、忌避するものではないはず。何故それを恐れるのか、そこにある不安や恐れだって自覚すれば形が変わるものだろう。社会的にはその不安や恐れの源を認識してるはずなのに、なんでそのものを避けようとするのだろう?でも多分、そうやって避けるという行動が合う人も居るんだと思う。キラキラ(チクチク)したある種のスピリチュアル系の人とか(叔母とか)も、ある意味そういう突き抜けた部分的な肯定で幸せを感じて生きているのだから、それはそれでいいのだと思う。
ただ、受容とか統合っていう方向が合う人がそっちに巻き込まれると災難だろうなとは思うけど、結局はそこも自己理解のためのステップなのだろうから…
長々と書いたけど、今は大分気分が晴れてる。また自分の方向性が、流されてる川の流れが見える範囲が広がった。
それにしても今日は『形が変わる』って何度も書いてる。多分今はそこに何かを求めてる。長州力になりたいのかな?
っていうのは冗談だけど、こういう時はまだ本当の意味で理解していない。落とし込んでいないけどその言葉にどこかで必要性を感じていて、それで使ってる。いつもそう。
投影なら受け容れる方向に意識をすれば形が変わるのは当たり前だけど、もっと根本的なものな気がする。いずれにせよ、新しいキーワード。
それにしても、非物質的なものに対してかなり受け容れることが出来るように気がする。今回も物質的・客観的な事実への固執が結果的に負けたという側面があると思う。
あの人の死に対するどうしようもない悲しみも少し薄れた。妥協したいわけではないのだけど…でも少しぐらい可能性を想うことは、悪いことではないのかもしれない。