感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

空への憧れ 残すこと・表現 コミュニケーションに対する苦手意識 

空、特に雲が好きで時々写真を撮るんだけど、僕はあんまり撮った写真を大切にできる人間じゃないんだよなぁって思った。

何で写真を撮るかっていえば、やっぱりその瞬間を残したいから。ある種の表現の欲求もあるのだと思う。

でも写真になっちゃうとやっぱり違う。綺麗に撮れたなぁとか、ここもう少しああしたいなぁっていうのは思うんだけど、数日経てばもうただの写真になってしまう。何でだろうなぁって思ってたんだけど、ちょっとわかったかもしれない。

 

 

写真ってどう足掻いても平面で、感想が綺麗とかいいなぁ止まりになるのはそこにあるのだろうと思った。勿論構図とか光とか、目で実物を見るのとは別の美があるのも分かるのだけど、それは僕が求めてるものではなかった。僕は見たものを見たままに残したい。虹を掴もうとするような我侭だけど。

 

雲を見てる時、写真と全く違うのは奥行きがあること。手前と奥の動きの差で認識できる奥行きもあれば、経験や知識で認識できる奥行きもあれば、実際に目で見てるものとは別の奥行きもある。その奥行きも一部なら写真で見て取れるだろが、実物の奥行きは見るだけでなく感じるものだ。その違いが僕にとってはとても大きいことに気付いた。

 

全天に広がる限りない壮大な奥行きの中で流れては瞬間瞬間に光を浴び、影を作り、形を変え、そうやっていろんな顔を見せる雲。

その限りない奥行きのある空間の中に僕は存在していて、五感と、もしかしたらそれ以上のもので広がる景色と繋がっている。視覚だけではない。知覚が絡み合う。だからこそ空の表情にこんなにも感情移入できるのだろうし、その空に包み込まれるのだろう。

 

わぁーっていう気持ち。ワンダーといわれたりするけれど、それが引き出された時の感じ。僕が写真に残したいのはその感情を引き出した空の表情で、だから見たままを写真にしたいけれど、いざ写真になると気持ちが薄れてしまうのだと思う。だってそれはもう切り取った小さな平面で、感動を生んだ風景を元にして作った写真に過ぎない。

Rawで残しても調整する気力が起きないから大体無駄になる。画像になって画面通す時点で解像度すら適度にあればいいやっていう気持ちになっちゃう。

 

じゃあ風景そのものを残せるだろうかって言うと無理だし、構図とかも好きだから写真もまだ撮るのだろうけど、前ほど熱心に残そうと思えないかも。

まぁ、残せないからより大切にその瞬間を感じられるのだろうし、そういう意味ではもっと大切に空を感じられるようになるかな。

 

そういう意味では僕が撮ろうとしてたのは空を見た時の自分の感情、気持ちだったのかもしれない。そりゃ写真に出来ないよね。自分の内面を反映してかやたらと光を落として撮ったりすることはあるけど、逆にそういうアプローチもいいのかな。

残すこと、表現すること。残したいのが気持ち・感情が混じったものなら、視点や構図よりさらに自己表現の領域に踏み込む。でもそれで出来上がるのも結局写真だしなぁ。

 

そういえば昭乃さんが音声動画で似たようなことを言っててそれが妙に頭に残ってた。
待ってね…

youtu.be

あった!

そう、情景を見た時の気持ちの表現。だから好きなんだろうなぁって思った。

 

僕は趣味で撮ってるだけなんだけど考えさせられる。僕は気持ちを表現したいの?一番苦手な部分。人に気持ちを見せるとか絶対無理。自分が描いた絵を人に見せたくないのもそこ。上手い下手の問題じゃなくて、気持ちって乗るじゃない?描いてる時も気持ちってあって、それを見せるのが無理。小学校の時から作文が苦手だったけどレポートや論文は大丈夫だったのもそれ。ここはほぼ自己対話で書いたものを匿名でポイ捨てしてる感じだからまぁ。

でも「嫌なものほどやりたいこと」「無理してでもやった方がいいこと」って教わったから、まぁそうなんだろうなぁとも思う。ここ数年趣味が減ってしまって悩んでいたけど、人に見せる見せないは置いといて、感情が表現できる趣味をやってみるといいってことなのかな。空の写真には自分の中でその点で限界を感じてるってことだろうし。

確かに、全天の無限の奥行きがあって移ろう空を空間ごと表現しようとしても到底無理だけど、その時の自分の感情を残すような表現ならハードルは下がるかも知れない。歯痒い思いはいっぱいしそうだけど。

 

そんな趣味あるだろうか。少なくとも空に関しては難しそう。すぐそうやって決めつける。気楽にいこう。

 

ところで、そもそもなんでそんなに自分の気持ちを人に知られたくないんだろう。気持ちなんて伝えたところで理解され得ないというのが僕の基本姿勢なのに、それじゃ矛盾してるのではないか。伝わらないなら知られたって関係ないじゃん。

 

コミュニケーションの苦手意識も近いものがある。僕自分のことコミュ障だと思ってたんだけど、自分がコミュ障というより、自分をコミュ障だと思いたがっているということに最近気づいた。合わせることはそれなりに出来るから、コミュニケーションでストレスは溜まってもコミュニケーションに支障が出るような場面ってあんまりない。これでコミュ障を名乗るのは本当に悩んでる人に対して失礼かもしれないと思った。

でも何でそうなったかと言えば、そこにあるのは苦手意識を覆い隠すための自己欺瞞。苦手なのは多分トラウマがあるから。そこに触れようとすると複合感情が働くから分かる。

そういう意味ではコミュ障というよりコミュニケーション・コンプレックス的な感じ。よくいう劣等コンプレックスじゃなくて、もっと広義な意味でね。

やたらと相手を傷つけてないか心配になるから、多分無意識の加害を恐れてる。っていうことは無意識に加害したような経験があるのだろう。まぁすぐに思い浮かぶのもあるし、元々周りとは感覚とか色々ズレてる意識があるから、幼少期から色々積み重なったんだろうなと想像がつく。

 

ズレに対する意識。

気持ちだってそうだよね。生きるために外に出しちゃいけないものって沢山あって、周りとのズレが大きければそれも多くなる。ほら、小中学校時代の色々な場面が頭に浮かんでる。道徳とか疑問だらけだった。でも疑問を持つことすら許されないムードってあるじゃん?そりゃ隠すよね。

それは周りがある中で生きるためでもあり、内側の世界を守るためでもあって。

 

でもそうやって処世する中でもやっぱり傷になってる体験っていうのは沢山あって、その都度枝分かれして置いてきてしまった自分っていうのが居る。コミュニケーションに対する苦手意識だって多分、本心を置き去りにしてきたからそうなってる。

複合感情を解消するというなら、それを見つけて、どうやってもう一度取り込んでいくかってことになるだろう。

 

ズーンと感情の中に沈むのは潜水して傷口を見つけるイメージ。それはとても具体的な視点。体力を使うもの。複雑に絡んだ感情を解いたり、膿出し、そして感情的な理解にはこちらが必要。

広い意識は人工衛星の視点。リラックス、心地良いゆるさ、軽さ。そしてインスピレーション。気付きや受容に大切なのはこっちだと思う。

双方があって初めて置き去りにした自分を取り込むことができるのだろうし、他者に寄り添うにも双方が必要なのかなと思う。

 

 

僕が憧れるのは空。雲も日も月も星も、光も闇も包み込む空。海に憧れる空。

空になりたい。空に還りたい?

重力や距離、視界に縛られなければどこまでも空。時空を超えても空。この宇宙に果てがあるのなら、空はそれより広いのかもしれない。