感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

縁が切れたこと 自己開示の難と"Poetry is untranslatable" アウトプットのフォーマット "Everything"

んー、一人縁が切れた。と言ってもその人が友達なのかと問われると微妙なんだし、寧ろ肩の荷が下りた感じもある。

僕は前々から気づくと相談相手みたいなポジションになっちゃうことが多い。お節介する気はないんだけど放っておけないっていうのもあるんだよね。自分が色々あったからなのか、近しい人をそれでなくしたからなのかは分からないけど。

この人は割と長くやり取りしてた人だけど、僕が自己開示することはほぼなかった。でも向こうは自己開示するから一方的に色々知ってたけど。そんなにこう、僕はやり取りしたいなと思ってたわけでもないんだけど、なんだろう、結局放っておけないからやり取りしてたってことに尽きるのかな。

それが結局負担になって、暫く放置してしまっていたら居なくなってた。正直ほっとしたのが一番先に来た。放っておけないっていうのは心配だからっていうのはあるんだけど、あんまり頼って欲しくもないんだよね。必要な時は頼ってくれていいけど、僕は結局自分ができるのは見ていることだけだし、そこで自分で立ち上がれる人じゃないと精神的に近くなれることはないんだと思う。手は貸すけど、貸した手を頼りにされると何かこう、やっぱり、僕と同じ孤独を持ってる人ではないなってなるのかな。

別に引きずってるわけではないと思うけど、20代の初めに年下の子とお付き合いしてた時と同じ構図だなぁって思った。この人とは付き合ってたとかではなくて、ただ好意は伝えられてた感じ。僕は話し相手以上に思ってないから、そうなんだねって流してた。別に好きと思ってくれるのは向こうの勝手だしね。

 

ほっとしたのは多分二重の意味なんだよね。肩の荷が下りたって意味と、ちょっぴり申し訳ないと思いながらもその決断をできる強さがあるなら大丈夫だろうっていうのと、僕から切らなくて済んでよかったというのと、三重だね。その強さがあるなら大丈夫だろうっていうのは別に上から目線じゃないと言いたいけど、ポジション的に保護者的な目線も混じってるから多分上からでもあるんだと思う。元気に生きてくれるといいなぁ。

 

自己開示、この人に限らず僕が自己開示することってあまりない。通じると感じる相手には話すけど、そうでない人には全然自分のことは話さないから。話せないわけでもないけど、話す意味が見当たらないという感じだろうか。そして今は通じると感じる幅がどんどん狭くなってるから、もっと独りになっていくんだけど。

 

伝えてさ、違う意味で受け取られても困るし、大概そうなるし。気持ちのままに話すと大抵誤解される。でも偽って話したくないじゃない?誤解が怖いわけでもないんだけど、あ、伝わってないなって分かるから、うーん…ってなる。

受け取り方は相手次第ならそれでもいいのかなとも思ったけど、誤解はやっぱり違うんだよね。だって発したものが受け取られてもいないのだから。

 

じゃあこっちのアウトプットの問題なのかなとも思うんだけど、そういう言葉って翻訳しちゃったら別物なわけですよね。タルコフスキーがノスタルジアの中でアンドレイに言わせた"Poetry is untranslatable, like the whole of art."と同じ感覚だと思う。僕もこの映画を翻訳でしか観れないのがまた滑稽なわけだけどね。

それは置いておいて、別に自分のこと、特に内面のことをPoetryとして伝えたいわけじゃないんだけど、Poetryが何故Poetryとして存在しているのかと言えば結局はそういうことなんだと思う。そう表現するしかないから生まれる。情景であったり感情であったり(極端な話自分が知覚した世界全ても言語のフィルターを外してしまえば)、個々が共有していないものを自分の知覚に忠実に表現するには、受け手に受け取り方を委ねるしかなくなってくる。

別にPoetryを伝えたいわけじゃないけど、言葉の型枠にはめてしまえばもう別物って感覚があるし、それを発すれば嘘って感覚もあるから、極力フィルターを弱めて感覚に根差した言葉のまま発したくなるわけだよね。選り分けたり組み立てたら別物だから、型枠にはめてクッキーの形にする前のバラバラの状態を発したくなる感じ。それをコネコネして綺麗に何かを造り上げる人もいるけど、僕はそれをしてるとどんどん別のものになっちゃうから。ぐっちゃぐっちゃなものを見てるから綺麗にしたらやっぱり嘘だし。

これはさ、その傍ら、型枠に綺麗にはめることができる自分が居るから認識することでもあるのだけど。でも彼にはもう論文とかそっちを任せればいいわけでね。

 

要するにフォーマットなんだよね。自分なりのフォーマットで発するとなんか別の形で受け取られる、でも別のフォーマットにしちゃったらなんか自分の見てるものと違うって。

アーティストならそれが創作の源泉にでもなるのだろうけど、僕は別にアートを作ろうとも思ってないし、そんな気力や努力する自信もないから、かといって伝わる形にできない頑固さから何とも言えない孤独感に苛まれてるだけなんだろうね。うーん。

そもそもなんで伝わらないものを伝わらないと諦めきれないのだろう?そっちだよね、多分。最初から最後まで孤独が当たり前だと割り切れれば、いや、腑に落ちていれば、こんな感覚は生まれないだろうに。温かさなど知らなければ…って思ったけどそれもそれで寂しいや。

 

steamで大分前に買ってあったEverythingっていうゲーム、やっとダウンロードしてやってみたけどすごく良かった。


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オープンワールドでただひたすら目的もなく探索するゲームはいっぱいあるけど、このゲームは視点を大きな『もの』、小さな『もの』にどんどん移動することができるところが新しい。しかも原子から銀河まで。簡素だけどどこまでも美しく、何とも言えないワクワク感とリラクゼーションを感じられる。自分で好奇心に任せ操作していってもいいし、オートプレイを眺めててもいい。

ゲーム中色んな思考が現れるだけでなく、なんとアラン・ワッツの講演がナレーションのように流れる。アラン・ワッツとゲームという何とも言えない異色な組み合わせなのに、偏見を捨ててみると異色でも何でもなく完全に融合してる。講演を耳だけで聴くのと、視覚も合わせた(しかも調和した)一つの世界として感じるのでは破壊力が全然違う。

人間の視点、自分の持つ通念による呪縛というものが自然と解けていくような、そんな感覚を味わうことができるゲーム。どことなくせがれいじりを感じるのは、せがれいじりがおバカで通念の外側を攻めてきたからで、Everythingはおバカではなく真面目に『視点』で通念の外側を攻めてきてるからなのだろうと思う。

 

まだ1時間しかやってないけどなんかすごく感動した。上に書いてたこととかどうでもよくなる。

なぜか日本語がサポートされてるしPS4もあるみたい。人は選ぶかもしれないけどとってもおすすめ。

 

僕ワッツは敬遠してた部分があった。っていうのは彼の思想的に感情を否定的に捉えてる部分があると感じてたから。でも今回彼の語る世界、特に物質や視点、存在、意識についてとても惹かれたから、部分的にでも得るものがあるような気がする。タイミングもあるのかも。本買ってみようかな。

 

 

あ、そうそう、鳩君は足が地面に着けるようになった。

元気も出て早く外に帰りたいみたいだけど、羽が直って飛べるようにならないと離せないや。