最近は体調崩しっぱなしなんですが、ここ数日は左手の親指付け根が痛いです。多分CM関節っていうのを痛めたんだと思う。
勝手に治るかと思いきや、どうしても使ってしまう部分なので悪化の一途。仕方なくサポーターをネット通販頼んだけどいつ届くことやら。
不具合が出る度に人体の構造の凄さと繊細さと脆さを実感しますね。このCM関節というのも物を掴んだり離したりという動作に大切なようで、左手で何かを押さえつけるという動作が制限されるだけでいかに大変かを体感しているところです。
魚もろくにおろせない。皮剥がすのも無理。瓶の蓋も開けられない。両手で何かを持ち上げることもできない。キーボードタイプも気をつけないといけない。腕立て伏せのような体勢はグーにしないとできない。
無意識の動作でどれだけこの関節さんに頼ってるかを痛みが教えてくれる。健康な時は見向きもしないのにね。
と前置きを書いていたら何書きたかったか忘れちゃった。
うーん、まぁいいや。
全然関係ないんだけど、日本学術会議の件。
学問の自由を訴える側が学問を定義することで学問の在り方を制限している。それを当たり前だって顔をしながら主張するから、外から見るとダブルスタンダードになる。その姿が色んなものと重なる。学会に権威主義を感じるのも、そこで猿山ができてるからこその態度からなんだろうなって思う。
そこで中の人々が固執するのは学問そのものでもその自由でもなく、山としての学問だから、その自由を盾にしようとする。
小さな社会はどこでも生まれるけれど、中の人にとっては自分の言い分を俯瞰できない程に立場が大事なのかなって思った。拠り所なんだろうな。
僕は色んな意味でそれが苦手というか、嫌悪を抱くのだけど、さっきも書いたように色んなものに重なるようなどこにでもあるものだから、遠くからポップコーンでも食べながら見てようと思う。
学問の自由が大事というなら、その在り方に目を向けるという意味では今回のことは良い機会だとは思う。変わらないのだろうけど。色んな意味で。
なんかなぁ、この辺のこと考えると気分が悪くなる。なんかあるんだろうね。裏切られたような気持ちになる。学問とか科学とか好きだったからね。今も好きなのかも知れないな。本当に自由なら。やっぱりそこかな。
調子出ないなぁ。雨の音が心地いいことだし、夜更かしやめてもう寝よう。
おやしゅみ☆