感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

Z世代 から 仕切りとラベリング 群衆に対する苦手意識 自意識と一線 "Starry Night" Jordan Critz

Z世代って言葉が最近よく出てくるけど嫌い。世代間で一定の特徴があるのかないのか知らないけど、結局「最近の若い奴は」っていう感情の捌け口としてしか使われてないラベリングじゃん。世代の特徴云々というのなら一方的な価値観云々で貶めるのはおかしいと思う。価値観が違うという前提に立つ(その前提に立つからこその~世代という言葉だとして)なら、その価値観の違いを理解する方向に持っていかないと意味がないでしょ。何でも世代世代って言って叩いてたら自分たちの目ばかりが曇っていくんじゃないの?上の世代の同じことをしている人たちには老害って言いながら、自分たちも同じことをしているのでは、ただの同族嫌悪じゃん。

 

虐待の連鎖とも似てる。こんなこと何でずっと繰り返すんだろう。

違いが怖いのかな?それとも優越感が欲しい?

そもそも何で世代なんてよくわからないものに帰属して優越感が得られるんだろう。帰属意識ってなんでわざわざ敵を作るんだろう。敵がいるから帰属するのか、帰属するから敵を見るのか。

群れと群れの友好ってどうなるんだろう。あまりに友好状態が続けばその仕切りもあやふやになって崩壊する。逆に独立した群れが出来るときは、自分たちっていう意識が生まれてるわけだよね。

 

世代が群れなら、~世代って言葉が出る時点で仕切りを作ろうとしてるわけだから、そもそもこの言葉を受け入れる時点で個々の中で「自分たちとあいつら」って意識は持ってるわけだよね。そりゃ幼稚園保育園から生まれた年で学年を区切られてるのだから当たり前の意識なのだろうけど。教育システムっていう部分からすれば致し方ないのかもしれないけど、この世代意識っていうのはある意味酷い副産物だと思う。

学校って学年に限らず、本当にいろんな帰属意識を植え付ける場だよね。それを利用してクラスを保とう、競争意識を高めようっていうのがあるんだろうけど。『団結』とか好きな教員は多かったしね。

別に団結や競争意識や帰属意識が悪いものとは言わないけれど、同時に個というものを育まないと、群衆心理の世界になっちゃうんじゃないだろうか。でもよくよく考えなくても、盛んにそれを利用しようとしていた時代の名残が今の学校教育の基盤になってる部分も少なからずあるのだろうから、教育の目指す方向が集団意識側に傾くのも仕方ないのかな。この辺は国による教育というもののあり方の違いが大きく出るのだろうけど。

 

団結にもいろいろあってさ、例えば同じ志の為に団結するって言った時に、自分の意志が柱になっている場合はいいけれど、そうでないといつの間にか団結のための団結になってしまう。その状態の意志や認識能力って外から見るととても不安定に見える。

 

とかなんとか、かくかくしかじか指が打った文章を見て思うのは、僕の群衆に対する苦手意識なんだよね。このブログでは同じことを何回書いてるんだろう。何でこんなに苦手なんだろう。怖いのかな。害されるのが怖いの?抑圧なのかなとも思ったけど、理解できない感覚だからちょっと違う気もする。

でもどこかで憧れがある気はするんだよね。ゾンビに襲われる夢を見て、自分が逃げ切れなくて食べられてる時の感覚。それが絶望の中の安堵。ディストピアものが好きなのもそういう部分がある。ロボトミーとか受けたら苦痛なく『良い子』になれるんじゃないかとかね。勿論想像しただけで反吐が出るのだけど、相反するものが同時に存在してる。

辛いんだよね。ある意味抗ってるのかな。自分で在ろうとするだけで何かに抗わなきゃいけないみたいな。ある種の執着なのはわかるんだけど、そういう部分で執着しないっていうのもどうなんだろうとも思ってきた。

 

この感覚。Spiritual Pathっていうのを意識した時もそうだった。この先どこまでも独りの道っていうのを目の前に突き付けられた時の感覚。世界は迎え入れてくれるんだけど、やっぱり寒いんだよね。独りが。だからって誰かといれば温まるわけでもないのに、その道を見なかったことにしてしまえばどうだろうって考えちゃう。出来るわけがないんだけど。でも仮に全てをひっくり返してしまったら。そういう風に思い浮かべた時に感じる微かな背徳感。この一線を越えちゃったらっていうところに生暖かい、ほのかな甘味がある。

これはどっちなんだろう。本当はどこかで望んでいるのか、それともただの破滅願望なのか。わかんない。

あれだよね。死の先に何があるか見たいけど、後戻りできないから試せない的な。でも何で死と直結させるの?自分であることをやめるって本当に後戻りができないの?そんなことはないとは思うんだよね。多分。だって自意識なんてものが出来る前から生きてるのだし。

 

それを取っ払ってみておかしな人になったら困るけど、でもそれは多分方向性が違う。取っ払うのではなくて、自由にして眺める。そうすれば外側に出られるのではないだろうか。何かずっと前に見たインドのヨギの人の動画で、うろ覚えだけど、「寝る前に傍らに置く」って表現をしていた気がする。自分という存在を脱ぐってことだろうか。

そんなことをして何になるのだろうとも思うけど、少なくともこの力みは辛い。靄が好きなのに、靄に混ざって溶けてしまおうなんて気のない部分があるってことだしね。ちょっと意識してやってみようかな。

 

とも思ったけど、明日(というか14時間後)からちょっと大切なお仕事。一緒に居ると疲れる人も来る。その前夜にそんなこと思い立ってしまってどうしよう。

どっちが大事かなんて決まってるよね。お仕事なんて生きてれば割とどうとでもなる。生きているうちに新しい見え方を見つける方が大事。何かを見ている時、感じているときは色があって、生きているから。お仕事をしてる時は色がない。だから生きているかわからなくなる。

後ろで「そういうとこだぞ」って茶々を入れる自分も相変わらずいる。元気そうで何より。

 

これ大好き。


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僕の中では曲名からゴッホの絵のような景色や以前見た夜空が浮かんでたけど、曲名とはちょっと違う方向性のこの動画を見ながら聴くとまた違って聴こえてこっちも好き。

というか単純にこの景色が好きなのか。中に入りたいというよりも空気の中に溶けてしまいたい。

 

破滅?回帰?

破壊なくして創造なし 創造なくして破壊なし 創造あれば破壊あり

キャンバス視点なら、描いてある絵を真っ新にしないと新しい絵が描けない。描いてある絵は消されたくないの?真っ新が透明に抱擁されているなら、消されない限り孤独。あるという孤独。

「ある・ない」を二元の外から見たらどんな「ある・ない」の世界なのだろう。優しいのかな?寒くもない?