Fitting inとBelongingについて知りたくて、Brene Brownの本を読んでる。
合わせることと帰属することになるのかな。僕は前者はなんとなく出来る(ステルス性は高いからね)けど後者に難がある。だから辛い。
特にSense of Belonging、帰属意識というものが上手く持てない。
Belonging to myselfっていう方向ならいけるのかなって思ったけど迷子にそれは出来ない。多分その辺は繋がる。
そもそも帰属するというのがよくわからない。僕が帰属するのは森であって海だっていう方向に行ってしまう。だってそうでしょ?そうなってしまった。
それは群れの形態によるものなのだろうか。
学校のクラスは合わなかった。よく分からない。もしかしたら初めは、僕は帰属意識を持っていたのかもしれない。いや、微妙だな。
小学校低学年の時は幼くて帰属も何も分からなかったと思うし、3年生の頃には嫌気が始まっていた。中学校の頃、彼らがOne for All, All for Oneと言いながらクラスメイトの知的障害のある子を汚物のように扱っているのを見た時、転入生を容姿を理由に排斥しているのを見た時、その集団への嫌気はより決定的なものになった。
集団への嫌気ね。個々は好きだったよ。概ね。でも多くは集まると変わってしまう。
まぁいいや。
例えばある集団と僕の目的意識が同じだったらどうだろう。
でもそうならない。集団が集団になってしまうとどうしても僕は合わなくなってしまう。
例えば自己肯定感という概念があって、それを重視しようとするグループがあるとする。初期にはその理念も集団の中での意見も僕は凄く共感できるのだけど、人数が増えてくるとダメになる。
そこにいつも僕が見てしまうのは型枠に入り込もうとする意識の存在で、それが集団の中で支配的になり、ある種の強制、強迫の空気を強めること。それはいつどこでも現れるものであって、それは僕が本能的に嫌悪を感じるもので、アーリーマジョリティが紛れ込み始める頃には僕はその中に居る事はできなり、段々とその概念自体から目を背け、距離をとるようになる。臭気とかそれに対する吐き気って表現し始めた人はすごいと思う。そのぐらい生理的な感覚。
本当に無意識で、小学生の頃にはその行動は始まっていた。
無意識下の僕は自意識が強くて傲慢だから、一緒にされたくないという無意識的な裏返った意識なのだろうかって思うくらい。だからその吐き気を感じる僕は自らの傲慢さに苦悩するわけですね。
イドに対して超自我だかなんだか知らないけど、それがイドさんをそれはもう強烈に否定する(僕も含めて)のだけど、間に挟まれた僕はどちらかというとイドさんの肩を持ちたいなぁと思いつつも、それはダメだという呵責の中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
ある種集団で生きること、合わせること、協調(笑える)することは小さな頃から叩きこまれる。いろんな概念を取り込む中、その中に紛れ込んでいるものだから。僕自身の内側はその両者のぐちゃぐちゃでもの凄いことになっているのです。
ともかく、いろんな意味で僕はもうそこから離れたいわけです。
これは何回も書いた気がするけど、それは、ある概念の意味していたものが多くの『集団』の中ではすり替えられてしまう(僕にとっては)ことに対しての「あ、違う」であって、そしてそのすり替えて作り上げた観念を信仰する集団の『中の人』特有の強迫であり、その行動や思考の根底に見える、彼らがその概念のすり替えを自らを肯定するために実行する際に生まれる条件付肯定に対し必ず生まれる排他性に対する嫌悪なんだと思うの。
最初の理念、概念は理解できるけど、集団の手に落ちてからは段々と理解できない同じものに根ざした観念に支配されていく。手に落ちてってまた酷い言い方。でもそう感じてるんだもん。
でもその人たちが『正しいもの』として捉え、訴えるものって、僕からすればもうずれていて、理念への冒涜なわけですね。そう感じてしまうの。だって自分たち『だけ』のための都合のいいものでしょ。そのどろどろな空気があるの。
それは、それを認めることは僕にとって、その概念を作り上げた人、練り上げた人の苦労や苦しみの経験やそれを生み出したときに込められた希望を踏み躙ることなんですね。でも僕の捉え方は許容されない。そして彼らが要求するのは踏み絵であって、僕はいつも排斥される側にありたいと思いつつも時々踏むわけです。そう、踏み絵を踏まされたって思ってる!だから段々と距離をとるようにして、遠くから眺めるようになったの。
だって見てごらん。『自己肯定感』というものは特にそうだ。このどろどろした自己肯定感は既に自己肯定感として機能しないものではないか?機能していたとしても、それは思い込む力のおかげではないかな。でもその思い込みは負の連鎖を生むものだ。いつものように!
ふぅ…。文章書いて息切れするってどれだけ僕はそこに怨恨を持っているのだろう。そうだよ!同類!ある意味では…だから一緒にされたくないんだろうね!…それはもう歪んだ捉え方をしているんだろうな。
ちょっとまって、踏み絵を「踏まされた?」踏んだんだよ!そこに意識を介在させ差別を図ることは逃げ道を残す意図があることに他ならない。『自分だけは』その意図がなかったと言い逃れるつもり?踏んだのなら踏んだことを、その責任から逃れることを合理化の名の下にすることは許されることではないでしょ?いじめを傍観するのは共犯と同義だと習わなかった?そしてそれは、その深く刻み込んだ言葉は今でも大切にしてる『つもり』でいるんでしょ?許容されない?結局はそれが根本なんじゃないの?ねぇ?
ってまたこういう戦いが始まるわけだ。落ち着こう。休憩。
うーん、コーヒー一服したらなんかもうどうでも良くなっちゃった。今は。
要約するとですね、なんかよくわかんないけどやだ!ってことかな。咎める方はなんかいつもこんな感じだから気にしたら負け。引きずり込まれる。バランスって難しい。
でもこの人格否定生徒会長的な僕も大切なんだと思う。なんとなくだけど、時々僕が言う自己否定の肯定というのは多分それが言いたかった。その僕が言うことも僕にとってはもっともで、僕の指針としては大事だから。
怒りなのかな、内的な癇癪が自己攻撃になる。あ、ほら、そういうのはターゲットにし易いところを嗅ぎつけてそこに向かうって言うからね。外の攻撃だけでなく自分の攻撃も引き付けてる。攻撃性においても結局同類なんだよなぁ。滑稽。
まぁいいや。久々に膿みが出た。いい感じ。
でもちゅかれた…
Fitting inとBelonging、概念自体が混同されてる場合もあるのだろうけど、Fit inの方が肯定、否定、様々な立場で解説が多い。Fit inはあからさまに外からも見えるものだから、例えば本人以外でも親が困って解決法を探す場合がある。それに対しBelongingの方はかなり見えづらい概念で、自分の中で整理しないと見えてこないからだろうか。
因みにBreneはこのBelongingの大切さを説く立場なのだけど、色々と捉え方が合わなくて読んでいて辛い。とても良い本だと思うしお勉強になるのでもう少し頑張って読むけど、細かい所で引っかかりまくってしまう。
彼女は比較社会に警笛を鳴らしつつも、彼女自身が比較で物事を捉えて育ってきた立場だ。そこに難がない人の視点の本なのだ。
The Priceless Benefits of Not Belonging
僕はこっちの考え方の方が合う。
コメント欄が面白い。とても共感してしまう。
herdって言いたくはないけどさ、これ以上適切な言葉ってないんだよね。