感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

反動と固定観念と圧と結果、そして全体 エネルギー 振り子 均衡と質的な変化

性自認の広がりもその他の自認というものの広がりも、根底にあるものは別として原動力として働いてるのは反動だと思う。社会的な固定観念や圧の中で、それに当てはまらない、当てはまりたくないという自己認識を持つ人たちが別の観念を採用することによるものだから、押し付けられる観念が強くなればそういう人たちが増えるのは当たり前。個人としての揺れ動きがあって、揺れ動きが束になることで社会的に混乱になったりもするけれど、長い目で見れば行ったり来たりしてる。

イデオロギー全般も同じだと思う。反動が原動力になって勢いをつけて反対に行ったりするけど、長い目で見れば行ったり来たりする。

進歩進歩って言うけど何も変わってないじゃんって見えちゃう。

 

そういうのがなんかこう、少し前まではとても不毛に見えてた。今でも不毛に見えるけど、僕の中で少し変わったのは、人間とか社会というものはそういう性質を持ったものなんだとある意味自分の中で認めたことだろうか。嫌だなぁ、どうしてこうなんだろう?って感じてたのが、今は、まぁそうなるよね…しょうがないね…ってなったくらいの変化だけど。でもまぁ、幾分か楽になった気はする。

 

まぁそれは置いといて、例えば性自認の話に戻るとして、新しい自認という側が旧来のものを責めたり、旧来のものが新しい自認を責めてしまうのは仕方ない部分があるのだと思う。自分が当てはまってた枠が崩されかけたりすれば、不安に駆られたりもするのだろうし、嫌悪として感じる人もいるのだろうし、枠と枠による敵味方っていうような、より原始的な感情が支配的になる人もいるだろうし。反発を繰り返していくうちにやがては振り子と同じように落ち着いていくのだろうけど、でもその落ち着きっていうのは長い目で見ればやっぱり一時的なもののようにも思う。

 

人にとってはこういう帰属意識が伴うものというのは、自分の側っていうのがあって、同じか違うかで判断するのが一般的かと思うのだけど、それが一番この振り子的なエネルギーを生むわけだよね。フランス革命が劇薬と言われたりするけれど、それと同じで。ナショナリズムとかも。

そして自分の側がなかなか見つからないと「これじゃない、これじゃない」ってLGBTなんちゃらかんちゃらって色々乱立したり、それが過ぎれば複数のものがクィアといってまとまろうとしたりするわけじゃない?これも葛藤が生むエネルギーだよね。

 

なんだろうな。色んな概念が乱立する中で否定と肯定があって、認めようじゃないか、やっぱり何かに反してるのじゃないかってごちゃごちゃ混乱があるわけだけど、大事なのは本当にそこなのかな?って思うんだよね。さっき出たように、どの運動も反動があって、いろんな流れが起きるわけだけど、どの運動も、例えば戦争の引き金になるような国対国のものであっても、スポーツファンの衝突であっても、イデオロギー闘争であっても、社会の中の自認というものであっても、エネルギーの流れとしてみればとても似通ってると思うのね。

で、多分これを自分の中でまとめたいが故の前書きがここまでなんだけど、何が書きたかったのかといえば、どちらかの側に縛られた当事者の視点で争うのはまぁそれはそういうものだとして、まず見えなくてもそこに『反動』があると仮定して、最初に書いたような固定観念や圧というものを含んだ全体を意識してみたらどうかってことを思ったのね。そうすればこう、敵っていう風に思っていたものの見え方も変わるだろうし、自分の側って思っていたものも見え方が変わって、質的な変化になると思う。

大事なのはその変化であると捉えるなら、劇薬や混沌も少なくて済むし、省エネで変化も早いでしょ?劇薬が必要ないとまでいわないけど、傷が大きいだけ根深いトラウマになるのは個人であっても集団であっても変わらないとも思うのね。

 

様々な運動が複合的に起きるわけだけど、大枠で見たら揺れ動くのは変わらなくてさ、結局いつかはある位置に落ち着くんじゃないかとも思ってね。例えばイデオロギーとして広められている多様性にしたって、今までの同質性強要の反動で大きく左側に動けば、そこでまた右に大きく動いて(多様性など要らないという)、ある意味でバランスを取ろうとする。そしてまたそこでという具合に、力が強いほど逆に時間がかかるのではないか。ヘイトをあまり生まないやわらかい運動というのはそういうごたごたも少なく済む。

仮にそうなら敵ばかり見てヘイトを大きくして争いを繰り返して、暫くしてからふとこうだったんだって全体を意識するまでもなく、反動やその原因、結果を含んだ全体を先に意識できれば、そして自分の位置を自己認識できれば、結局はそのエネルギーが目指す均衡の位置に早く辿り着くんじゃないかとも思うの。

そして均衡っていうのは、疲れか何かで全体を見渡した時に質的な変化が起きるもので、程度はどうあれ今より枠の外側から見れている状態だとも思う。

それが多ければ多いほどヘイトは少なくなるし、ということは必ずしも運動にヘイトは必要ではないのだろう。大事なのは何がヘイトを生むのかということ。ある意味互いがヘイトを深め合ってる状態というのは互いに敵味方という感情に縛られ、幻想を見ている状態ではないだろうか。双方の外側から見た状態では。だからより省エネで実効的な運動を目指すなら、反動や全体を意識して、互いが互いを俯瞰できるように持っていくのがいいのではと思う。(なんてことをいがみ合ってる当人に言っても変に刺激しちゃうから気を付けなきゃいけないけど)

 

勿論そんな簡単なことではないから人は憎しみ合うのだし、憎しみが何かを生むことだってあるのだし、それも含めて人間なのだとは思うのだけど。

 

なんてことを今日年齢自認だか何だかっていうのを読んで思ったのね。

自分をどこに置くかによって見え方が変わる問題だと思う。僕はそもそもAge Fluidity とかInner Ageとかってものに触れてて、自覚的に肯定側なんだけど、否定側はどんな人たちなのかとか、肯定側はどんな人たちなのかとか、反動の手前にある圧は何なのかとか、全体的にはどういう動きなのかとか、そういう風に眺めていると、肯定も否定もそんなに必要なのかなと思ったのね。圧の部分を社会がどう捉えるか、そこから始まる流れにどう均衡を与えるのかって話だと思う。自分の『側』も相手の『側』も単なる観念なわけだけど、『側』がある限りある種の感情に無意識的に引っ張られる。その状態で語る理性はやっぱりかなり曲がって見えるわけですよ。別にいいんだけどね。

 

 

はい。

取り敢えず忙しいのが終わったけどお客さんが来てるからまだ休まらない。来週はゆっくりしたいなぁ。

最近熱波で熱いんだけど、毎朝巻雲が綺麗なの。雲を眺めてる時は生きてる感じがする。