コロナウイルスの話で野生動物食が原因というニュースがSNSで回ってくるのだけど、それを率先してシェアしているのは野生動物好きの人であったり、そういった食事を文化的に劣っている(遅れている)と捉える人であったり、もともと中国が嫌いな人たちだったりする。
免疫力の高い野生動物からウイルスが人に感染し、突然変異を起こして人から人への感染力を持つようになる、元々人間が抗体を持っていないから拡散し易いって話だったと思うけど(違ったらごめんね。)
その一要素に過ぎない野生動物食を取り上げるのは、『鬼の首を獲ったように』という言葉以上の何があるだろう。人権意識というのも似た物が混じるけど、食文化の否定はそれ以上にドロドロしたものばかりになる。
生の感情、ヘイト、それが嫌いなだけだろって言われればそうなんだけど。
何でそんなに見下したいのか。何を恐れているのだろう。
確かに中国の野生食、漢方信仰は確かに目に余るものがあるけど、一要素だけ切り取って攻撃するのは理性的ではないと思う。
野生食が原因なのか、食文化が原因なのか、そういうものが流通するのが問題なのか、人がクリーンなところに住むようになったのが原因なのか、人が自らの体内も殺菌するのが原因なのか、感染が拡大しやすい人口密度が原因なのか(養鶏場みたい)、エキゾチック食として耐性のない金持ちに渡るのが問題なのか、調理法が問題なのか、衛生意識、管理が問題なのか、というように単体で見れば、どれも理性的に反論が可能なのではないだろうか。その反論が可能な、連鎖的に起きた過程の要素一つ取って騒ぐのが感情的である以上の何なのか。
この場合言われる野生食が原因なら、家畜食には問題ないのか。
草食の牛にトウモロコシを与えることでO-157株が発生したという説が有名なのにそれを持ち出すのは自爆行為なのではないか。
畜肉や養殖魚に残留した抗生物質が人体に入ることによって体内の菌が耐性を持つって話も使えるし、農場の排水が川に流れることでどうのこうのとか、それこそ不毛な言い争いが始まるだろう。
食文化だとして、クジラの話になったらどうだろうか。日本人は一部しか食べない?中国もそうでしょ。犬食を叩いたり、これが一番不毛だと思う。
流通の問題、ということを言うなら野生動物密輸の管理を日本は出来ているのかって言われるだろう。
一般、正常と言われる人たちがフィリピンのゴミ山で食べられるPagpagを食べれば体調を崩すけれど、それはフィリピンの貧者が強健だからだろうか?それともそれ以上がその強健さを失ったからだろうか?
まぁいいや。要素一つの問題じゃないのにそれだけ引っこ抜く意味は有るのだろうかということ。どれもどんぐりの背比べ的な程度の問題だと思うけれど、そこまで優劣を主観的に決定づけるのは感情的な優劣の意識であって、それは集団・群れの感情なのだろう。だから恐れが混じっているのかなって思った。
特にSNSのようなオープンでありながらクローズドな場では、そういう情報が拡散され易いし、交友関係によっては偏って自分に届くことになる。
良く言えば人の『伝えたい』という気持ちだし、何かを『変えたい』『守りたい』という気持ちなのだろうけど、言い方を変えれば『扇動』にもなる。それに感化されるのが悪いとは言わないけど、冷静ではないと思う。
情動的なのが悪いとも思わないし、扇動と感化と流行と迎合が悪いものだとは言わない。
結局は趣味趣向の問題で、個人的にそれらに伴う生の感情が嫌いなだけなのです。
それらに嫌悪を抱くということはそれらを自分も持っているということだし、自覚する所でもあるんだけど。
僕がここに書くことは大体そう。自分の中での右翼と左翼の論争であるし、その時の瞬間的な好き嫌いの感情の結果であって、全て感想。だから『是非』はあまり書かない。というのはそれは分からないで終わるし、どうせ書いても変わるから。
好き嫌いは書く。気持ち悪いとかも書く。そういうことが何故書きやすいかって、攻撃的な言葉って認識が薄いんだろうね。是非や一般化に比べて、『気持ち悪い』や『嫌い』や『卑しい』は自分に見てから思うことだから、半分以上自分の一部に言っていて。
読んでくれる人からしたらたまったもんじゃないだろうけど、そこに注釈を入れるのも違う気がするし。まぁ、それは追い追い。
これはね、嫌い!大っ嫌い!
感情を理屈で上乗りしただけでただのヘイトじゃん。そんなのまき散らさないで欲しいしこっち見ないで!気持ち悪い!ばーか!
ばかって言ったら自分がばか。そうなんだよなぁ。思った時点でそうなんだろう。僕もヘイトの塊なのは知ってる。知ってるから嫌い!ばーか!