感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

内包する性質たちの根源、 〜らしさ

大体の人の性質というのは、根源的には皆が内包しているものだと思う。そしてそれに程度があるなら、それは両極を内包しているということではないだろうか。それを色んなものが引っ張りあって、空間的に瞬間の性質を作り上げている。

 

例えば男性らしさ、女性らしさ(このワード嫌いだけど便宜的に使う)というのは、器の性に必ずしも合致するものでもなく、寧ろらしさというのは、男にはそういう傾向を持った人が多い、女にはそういう傾向を持った人が多いという部分から築き上げられた一種の幻想であると思う。器の性別と〜らしさというのは、大小社会的な役割だけでなく内分泌の関係もあるのだろうけど、実際の所それが如何程のものなのだろうか?例えば個と個の違いの中で、ある個の辿る流れの中で〜らしさを見た時に、他の要素と比べてどれだけそれが意味を持つだろうか。

 

多くの場合器に合った方を追い求めることが正しいとされるけど、性質として見るならば根源的には誰もが双方を持ち合わせていて、いろんな経緯でどっちが強く出るかに過ぎないと思う。

 

例えば運動としてのフェミニズム的な感覚を引っ張っているのは男性的な部分が強いように見える。権利を叫ぶことが男性らしさとは言わないけれど、その人を駆り立てる感情の部分にはそれが見える。特に冷静さを欠いた場合は顕著に。(この辺怒られそう)

だから自らの内面で乱反射し増幅した憎悪を生むし、それは男も然りで、男と女という性の狭間で互いに反発し合うのではないだろうか。

での結局は内包しているから、器の違いに固執せざるを得ないのかも知れない。

 

違いを認め、その上で個々が関係を作ればそういった問題は問題にならないと思ったのだけど、実際のところその男性らしさ(性別限らず)という部分が渇望するものが闘争や何かを勝ち取ろうとする部分であるとするなら、やっぱり解決はないだろうし、ある意味では解決しないことが次の問題や憎悪を生まないことになるのかなとも思った。欲望は活力であるし、それはそれで良さなのだろうから、個々に対し寛容であろうとするのなら闘争や憎悪を必要な現象として認めなければならないのかな。だから母(概念的な)は認め癒すことに徹するのだろうか。

 

憎悪は嫌だ、闘争は遠ざけたいと思う時点で、僕はそういった欲を持っているのだろうし、どこかで否定感情を振り回している。現実に浮かべ、創り出したイメージ内では僕は破壊神であることが多いしね。丁度、Sim City4で自分で作った都市を災害や兵器で自ら破壊するような欲求。

外と内の関係のあり方もまた性質によるものなのだろうけど、だとすれば僕は嫌だなぁと思うトゲトゲした攻撃的な人に見る部分を、結局の所僕自身の内側で満たしているに過ぎないし、だからこそ嫌だなぁと思うのだろう。

 

人の性質、とくに疎外感を感じることが多い僕から見る人々の性質は、大体が内外の狭間でそんなような関係にあると思う。

 

だから声を上げるのも億劫だし、というか声を上げる権利が僕にあるだろうか?ってなる。だって僕も多分どこかで同じだもの。求めるものやその方向、強度が違うだけで。

嫌なものは根源的には内包している。それがまた自己嫌悪を生み自らの否定に走っていくことになるのだろうけどね。他者否定したくない部分を自己否定で満たしたり、結局否定感情は一緒なんだよね。最近は幾分かマシになった気はするのだけど、それがまた怖い

 

〜らしさ。

どれも個々の幅に比べれば大したことはないと思ってしまう。それは経験によるところからで、性別が違っても同じでも似てる人は性質的にとても似てる所があるし、似てない人は当然似てない部分が多い。国や人種が違っても同じことだったし、世代もまぁ関係なかった。

 

国家や社会、チームという群れのアイデンティティとしてはそれは必要なのかもしれない。(僕はあんまり好きじゃないけど)

 

でも性差にまでそれが必要だろうか?いや、まぁ必要なんだろうけどね。わかんにゃい。

 

生殖機能の違いを別にしてみれば、人間という生き物を外側から見たとき、器としての男女の違いなんてそんなに大きいものかなぁと思うことはある。おちんちんとクリトリスだって元は同じなんだし、そんなに気にしないでいいと思うんだけどな。と思ってしまう僕はそれはそれで偏ってるのかも知れないけど。

そんな僕からしてみれば男らしさ、女らしさなんて押し付け以上の何でもないと感じるのもまぁ無理はないと思う。個人的なあれ。

 

だからまぁ男女の不平等については平等を是とするなら男性側がもう少し気づいた方が良いと思うし、もっと言えば男女の先入観を取っ払って、人類愛的な観点でも共有しないと本当の意味で認め合う、違いも含めて活かし合うことは難しいのかなって思う。

理想主義的?夢想家の僕にリアリズムを求めないで頂きたいね!

 

年齢、世代別の〜らしさというのは、時代背景による経験的事実が難しくしてしまうけど、そんなもの見なければ、過ぎ去った年齢の時の自分はみんな内包してるのだろうし、年なんてそんなに気にしなくてもいいと思う。ただ年上だからって敬語使われると物凄い違和感に襲われるからやめて欲しいという感じまである。壁を作るために敢えて敬語を崩さない僕が言うこと?

 

あと自分らしさかな。そんなもの定義しなくても自分が自分で在れればいいはずなのに、なぜ自分らしさを見つけて定めて追い求めなければいけないのか。その狭間の苦しみ。

そう、狭間。なぜそれが生まれるのだろう。これに関しては問題はそっちじゃないだろうか?