感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

イクメンへの違和感 婚姻と子育て 父親の自覚

イクメンという言葉に凄く違和感がある。

子育てに父親が積極的に参入するのは、『核家族』という現代的かつ特殊な家庭環境において、母親の育児負担を軽減するという目的においては正当性があると思う。前提が核家族というのも、流れ的には致し方ないのかもしれない。

でもそれを前提として、そういったブームとしてヒトの動物的な生理、本能を無視した役割作りを推し進めることにどの程度のリスクがあるのかは考えられていない。

 

父子手帳というものも配られて、親子、家族の在り方を作り上げようとしているようにも感じられるが、父親にどこまでのことを求められるのだろう。今まで求められてきた父性という父親の役割ですら怪しいのに、母性的な役割の一端をその父親に担わせることになる。

 

父親という存在の在り方は文化によって大きく異なる。文化的な群れの形態による『役割』に就く人間の面白いところだと思う。それでもその役割は本能的なものを含んだものになっている。イクメンというのは、それを超えた部分を父親に担わせるという社会的な試みだと思う。それ自体は悪いことではないと思うけど、それがスタンダードだという意識を植え付けることによる社会的、精神的、生理的な弊害は無視できるものなのだろうか。

そして、その父親の在り方がスタンダードという意識を広めることに、副次的な問題、例えば男女というものの認識の違い、価値観の変容はどの程度意識されているだろう?そういったものの積み重ねもまた、レッテルの張り合い、男女間のヘイトに繋がるものだと思う。

 

父親の役割は文化によって大きく違う。近代的な価値観の多くは欧米文化の影響もあり、キリスト教的であり貴族的でもある単婚の核家族が元になっているが、それでもまだ父親にその役割を求めない文化も多く残されている。

子育てにおいては男は単なる生殖の道具でしかない(女性が種を選び共同体の力を借りて育てる)形態も稀ではないし、妻問婚のような形態が残ってる場所もあるし、夜這い文化が残る場所もあれば、逆にイスラム圏のようにより強固な父親の役割による女性・子供の庇護がベースになる場所もある。子育ては共同体の文化、そして婚姻が密接に関わってくるものだろう。

 

この辺は僕の勝手な想像だけど、現代の子育ての価値観は、父系の財産管理によって育まれたものであり、その相続を自らの血筋に行うために作られた妻・子供も財産の一部という男性による社会的な価値観がベースになっているのだと思う。

子供を財産と判断する上で、(複数の目的のために)それ以外の財産の将来的な相続者を自らの血を受け継いだ子供に限定するためには、単婚によってその母親となる妻の行動を抑制する必要がある。そしてその妻もまた、それを甘んじることで子供を確実に育て上げるというより上位の目的を達成できるため、婚姻という契約を許容するのだと思う。

この価値観がベースにある上に核家族という最小の群れがベースとなる現代社会において、父親にとって何より重要なのは子が自分のものであるという認知だろう。女性に対して生まれる多くの偏見が、この無意識的な社会的、文化的価値観がベースにある男の様々な本能的な『恐れ』に端を発しているのだと思う。

 

対となる女性はどうだろう。女性の場合は何人の男と性交をしたところで自分の子供の母親であるのだから、強い母性が変わることは中々ないのではないだろうか。重要なのは子供を育てるための男の力(財力・権力)だ。共産圏のように経済的な子育てのハードルが低ければ離婚率は上がることからも、女性が婚姻という契約を甘んじる本能を生むものは、子育てにあると言えるのではないだろうか。

女性がこの社会形態下で男性にそれを求めるのは至極当然のことで、それはいくら包み隠さなければならないとされいても隠せるはずのない本能に根ざすものだ。男はそれを感じ取って更に恐れを増し、この事実を良しとしない男女の中で、互いのヘイトは深まるのではないだろうか。

ヒトのメスは生殖においてオスを騙し、惑わすことで確実に子育てを行ってきたとまで言う人もいる。(でも僕は、それは最近の話なのではないかと思ってる。少なくとも万年単位の話ではないと思う。)

 

逆にそれを乗り越えた感覚、群れの感覚に身を置くことができる人は、性差による感覚の原因に違いはあるものの、群れの本能に従って自らの血を受け継いでいない事が確定的である子供も、群れの中の1人として愛情を感じ、育てることが出来るのではないだろうか。

 

群れの本能、チンパンジーもまた、オスが自分の子供を認知しない動物だ。それでも群れの中の子供に対し、子育てに参画することはある。それが社会性なのだと思う。

メスもまた別のメスの子育ての手助けはするが、自分の子供を最優先する。自らの子を守るためなら他の個体をも殺す。それが母性なのだと思う。

 

人とチンパンジーが近いとはいえ全く同じに扱うことは出来ない。それでもその本能を人が持ち合わせていると僕が主観的に思える程度に、人の社会、文化の多くが同じような本能に根ざして出来たものであるという共通点は様々なところに見られる。明治以前の日本もまた、そういった要素が多分に見受けられるものだと思う。

 

 

という観点からすると、『イクメン』というものを推し進めたい社会の求める『父親の役割の変化』による『子育てにおける家族形態の変化』とは、結局のところ1つの問題を解決するという短絡的な目的であって、イクメンはそのために作り出されたブームなのではないだろうか。

 

僕はそれを悪いと言いたいわけではないけれど、問題解決のために強引に綱を渡してそこを渡らせようというなら、危うさも意識したほうがいいと思う。これが現代的に正しい子育ての在り方だとしても、将来的にそれが正しかったと判断される保障はない。他の施策同様、簡単には後戻りできなくなる可能性もある。

例えそれを政府や自治体が推し進めているとしても。彼らの打ち出す政策の短絡さは少子高齢化をはじめ様々な社会問題に嘆く現代人なら分かって然るものだと思う。渡れと言われて綱を渡るのなら、あんまり文句は言うなとも思うけど。

 

 

この社会環境の中のこの家族形態における母親の負担軽減のため、先ずは『父親の自覚』を必死に植えつけようとしてる。

母親に比べて父親になる自覚が生まれづらいと不思議がってるけど、そもそもそんな自覚がヒトのオスに備わっているのだろうか?それがないのなら、他のどんな本能、衝動、情動を基礎にその自覚を作り上げさせる気なのだろう?基礎もない欠陥建築じゃないだろうか。

少なくとも今まで求められてきた父性というのは、チンパンジーのオスとの共通点もある、オスの本能に基づいた伝統的な価値観に基づくものだった。それは父親としての自覚が薄くても可能だったものでもある。それを逸脱した領域に踏み込ませる概念がイクメンだと思う。

 

社会的な責任としてその自覚を持たせることは可能だけど、そんな個人の感覚に丸投げすることを育児という場面に押し付けることに、正当性はあるのだろうか。新しい社会問題をばら撒くこと、既存の問題を複雑化させることにならないだろうか。育児に積極介入することで、精神的、生理的、更には肉体的にも変化を与えるのではないだろうか。疑問が尽きない。

 

 

そもそも何故いつまでもその核家族が基本にあるのだろう。今更変えられないと踏んでるのか、それとも変えたくないのか、変える必要性を感じていないのか。この大きな日本という社会の中の核家族という作り上げられた基本構造こそが色んな問題の根底に近い部分にあると思うのだけど。その問題だらけの土台の上で問題解決を図ることの意義が感じられない。それについては今は置いておく。

 

 

積極的に育児に関わる父親が居て、母親の負担が軽減される家庭もあるだろうし、それはある種の理想かもしれない。でもその父親たちにどんな父親の自覚があるか、その原動力は何かを聞いてみて欲しい。ベースにあるものは全く別のものである場合が多いのではないかと思う。

 

『イクメン』、なんだか嫌なもの、気持ち悪いものを感じる。勿論育児において女性を助けること、子育てを共同作業とすることは大切だとは思うけど、それとは別の部分で何か気持ち悪い。