"Love is Acceptance"ってそうなのだろうなぁと思う。
愛には様々な形があるのだろうけど、どれにも言えることは、そこに受容があるということだと思う。
例えば、深い部分で共鳴するような愛を人は求めがちだけれど、ある種の、互いを認め合った風通しの良いドライな関係というのも、それは相手をしっかりと受容しているから成り立つものであったりするし、それもまた唯一無二の愛がそこにあるからとも言えると思う。
感情が動くからその愛が強いとも限らないし、比べられるものでもなくて、色んな花があるようにただ違う形のもので、共通しているのはどこかに受容の温かさがあるという部分なのだろうなって。
どれが本物の愛でどれが偽りの愛であるかとか、そういう測り方をしてしまうと自分の中での愛というものの在り方を制限してしまうばかりか、その眼で内外を見ることになってしまう。それって残念なことなのではないだろうか。
だって彼にとって全てが愛であるならば、彼は様々な愛を目にし、包まれている状態にある。
でも彼にとって愛とは彼が理想とする本物の愛だけであるなら、彼は様々な偽りの愛を目にし、愛というものを理想という手の届かないところに追いやってしまう。それはある種の貧しさ。
自分を愛せるかって聞かれると正直微妙なのだけど、それが何で微妙と感じるのか考えてみるとそこに掛かる「愛する」っていうのが重いからなんだよ。その言葉の中の愛するには自らを愛せっていう人たちの感覚が乗ってるから。そもそも愛するって能動的な感覚を僕はあまり持っていないし。愛にしたって何にしたって、僕は在るものを眺めてるだけだし。だから自分を愛せるかって聞かれたらうーんってなる。
受容に置き換えると今は割とすんなりいける。そこには確かに自分に対する受容があるし、その形の愛なら自分に対しても沢山あると思う。だってここで沢山続けてきた自己弁護なり捉え直しがそこに繋がってるしね。否定や拒絶すら温かく。
そう考えると自己否定は産みの苦しみ。あまりに難産だと母体が危ないのも似てる。
愛って何だろうってよく考えてきたけど、割とこう、今は自分なりのそれが見えてきてるのかもしれない。はい。
来週からちょっときつい日が10日間。そのあと久々に日本に帰ることになった。1カ月だけど。冬は嫌いだしお正月もあんまり好きじゃないんだけどね。でもお風呂と食べ物は楽しみ。栗きんとんと数の子食べるの何年ぶりだろう。食べたいものはいっぱい!
お正月は妹の夫は来るのだろうか。だとしたら初遭遇になるから髪も髭もこのままでいこうかな。第一印象ですぐ舐められるからせめて見た目だけでも威圧感を大切にしよう。
色々買い替えなきゃいけないものがあるんだけど、物価上がってるんだよね?円まだ高いし。うーん… まぁいいや。
体調は最近悪め。先週は熱も出したし、今はまた下痢してる。多分ストレスで色々弱ってるんだと思う。体重も折角57kgまで増えてたのにまた元に戻ってしまった。
蕁麻疹も先週の発熱と下痢から復活して定期的に出てて、さっき薬飲んだ。抜け毛も増えるし色々良くないよね。
環境を変えないとだめだなぁと思ってるんだけど、引っ越しって家探しから相当気力が必要だと思う。まぁするにしても日本から帰って来てからかな。
嫌なイベントが控えてるし色々大変だけど、最近また友達とオンラインチェスやったりしてそういうのは楽しい。
それと週末は久々にCossacks2をやってオーストリアでクリアした。このゲーム色々と残念な部分が多いけどシステムは当時としてはとても斬新で今やってもとても面白い。たまに無性にやりたくなる。もう発売から17年とかやばくない?(年月の経過速度が)
敵兵を殺すのではなく士気を削いで敵戦列を崩壊させるのが主体とか、こんなに戦列愛が深いストラテジーゲームが他にあるだろうか。
動かしてるだけで楽しい。
はい。
そうそう、RIOPYのこの曲とっても好き。
なんかこう、とっても刹那的。
この人も好きな曲いくつもあるなぁ。同じアルバムの"Wyden Down"とかも好き。