感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

探しもの から / アニマ から

何かを探してる。見えそうで見えないもの。そこにある気がするのにそれが何なのか分からない。分からないのに、何故それを必要だと感じるのだろう。順番があべこべだぞと言いたい気もするが、そういう時は大概本当にそれが必要なのだ。

 

今日はあんまり調子が良くなくて、午後Zoom会議以外はずっと横になってた。横になってずっとそれを探していた。掴めそうで掴めないもどかしさ。意識の奥に沈んでは浮いてを繰り返す。そういえば昨夜も気づけばそんなことをしていた。もう少しな気がするのに求めてる収穫がない。だからこうやって際限ない自分の内側の電波が届くギリギリのところ、意識と無意識の狭間を狙ってバンジージャンプを繰り返す。

時折意識が飛んだ後もイメージを抱き抱えたまま浮き上がってこれる時がある。色々拾い上げたけどなんだかよく分からないものたちばかり。大概、ぼやけているものは割とすぐに消えてしまう。はっきりしているものは1つ。絵画のような、会ったことはないけどどこか懐かしい女性の顔くらいだった。どこかの民族衣装を着てる。

 

無意識が不思議なのは、こういう訳の分からないものが沢山沈んでいることだろう。これが僕の記憶の中から出てきたのかも分からないし、ぱっと作られた悪戯的なものなのか、それともずっと大切に仕舞い込んできたものなのか、そもそも僕のものなのかも分からない。

サルベージ船で宝探しをするのに似ている。目当てのものではないけど何かが出てきた感じ。

 

この作業はまるで、宇宙の中で自分の見ている世界の小ささに気付くように、自分の意識というものがどれだけ小さくて曖昧で儚いものなのかを思い知らせてくれる。それがどこかで嬉しいのだろう。自分という存在の根幹であろうとするこの意識がどれだけ曖昧で不確かなものなのかを証明してやりたいような欲求。だってそれさえしてしまえば…

 

 

などと昨夜の僕が下書きに残していたので見直しもせず続きから今日の分を書くね。

 

最近またアニマについて考えてる。何かそこにあるような気がして。

僕が最後に見たアニマと思しきものはセリカと名乗る中性的というよりちょっと武闘派な感じの人だった。この名前が頭に浮かぶたびに車かよって思うんだけど、語源のスペイン語だとちゃんとした意味があるらしいと今知った。なんかイメージとぴったりでビックリする。不思議。

彼女が姉御肌というか男性的だったのは僕の正反対が出てると考えればいいのだろうか。それともそういう願望があるのだろうか。似たようなものだとも思うけど。

 

前にも書いたと思うから端折るけど、彼女とは握手をして共闘の約束をしたんですね。それから出てこない。それについて考えてたんだけど、もしかしたら統合したのかなぁとも思う。

 

元々僕は性別、特にジェンダーロールに関して周りとは捉え方が合わなかった。何だか知らないけど子供の頃から男がどうだとか女がどうだとか刷り込まれるのに腹が立ったしあんまり根付かなかった。そんな自分と周りの間で揉みくちゃにはなったけど、そのおかげでより自分なりに捉えなおせたとは思ってる。

性自認についてもそう。男に囚われることもないと思ってるし、色んなコミュニティに潜入してROMる中で、僕はパンセクシャルやノンバイナリーな人の投稿に共感を持つことが多いことに気付いたのが2年位前になるだろうか。価値観的な意味でね。

 

ユング系の本や人の解説を読んでてもちょっとしっくりこない部分があったのはそのせいかもと思った。彼の生きた時代なんて今よりもっと無意識にジェンダーがスパッと分かれていただろうし、その中でのアニマ、アニムスの在り方が書かれてるんだと思う。

って考えるととてもしっくりきた。

河合隼雄の"無意識の構造"に出てくるアニマ男性、アニムス女性という言葉も、そのジェンダー観の中での話であって、今ほど性の在り方が多様化の中で自認され肯定されていれば、アニマやアニムスの在り方もより多様化していて当然だと思う。

 

セリカが武闘派なのはジェンダーやジェンダーロールどうこうではなく、当時僕の中で内戦状態にあった思考ベースの自分と感情ベースの自分、その思考側の性質が反映されたのかもなぁと思う。共闘の前に休戦だったから。

あ、共闘っていうのはね、過去の自分、子供の頃の僕を助けるため。取り戻すため。その子を彼女は愛おしそうに見ていたし、話しかけていた。

少し前なら「思考が?」と思っていただろうけれど、今は「そうなんだよなぁ」と思える。発達の残酷さの結果というか。

 

でね、アニマに戻ると、アニマには段階があるという。これについても多分しっかり当て嵌めることは出来ない。その時僕が彼女に対して感じたのが安心と友情だった。多分あんまり異性として見てない。でもそれってなんかこう、とても反映されてる気がする。

最近よく思うんだけど、相互の関係において性愛や与える愛よりも深い結びつきは友情に近いものだと思う。友情っていうのも一般的な友情とは違うかもしれない。

 

男女の友情は成立するかって質問に対する見方も、その人にとっての男女や友情が何を意味するかによって違ってくると思うんだけど、僕はすると思うのね。別に友情が性愛の下位互換ってことはないと思うし、だから男女も性愛も超えてしまえばいいっていうよく分からない感覚なんだけど、そこにおける友情って親愛に近いものだと思う。最近の僕はそこに価値を見てるようだ。

だから性欲が落ちてるのか、性欲が落ちてるからそこに価値を見るのか知らないけど、多分前者な部分が強くて、それも受け入れられるんだけど、この前書いた通り健康面で実害があるとね…

 

長々と何書いてるのかよく分からないけど、アニマだっけ、統合したのかもと思ったのはこの辺りから。だって仲直りして握手して友情的な融和を感じるんだもん。そして何より、自分の性に対して良い意味でどうでもいいというか、自分は自分という感覚、これに尽きると思う。

 

はい。

まぁなんかよく分かんないけどよく分かんない。そんな感じの最近なのです。