手足の傷が化膿して熱があったけど何とか運転して街に帰ってきた。今も化膿が治らず熱が出たり下がったり。二年前の入院の時よりは軽いし、抗生物質を飲み始めて腫れも引いてきたから良いのだけど。
そういえば二年前のそれ、悪寒と共に口の筋肉が引き攣る、身体が反る痙攣があったのだけど、今日破傷風についてちょろっと調べたらまさにそれだった。単なる化膿からの熱性けいれんか何かかと思ってた。あの時病院行って良かったね。
村にずっと居る期間は抗体があるけど、今みたいに街主体の生活で時々ジャングルに入って土壌細菌に触れるからなるのかな。次からちゃんと消毒して抗生物質入りの軟膏早めに塗るようにしようかな。なんて言ってしないんだろうけどね。
やっぱり街には帰りたくなかったなぁ。やっぱり、もうずっとあそこに居たい。そもそも8日間じゃ足りない。草刈りして投網して草刈りして釣りして食べれる野草探してなんて続けてたら傷が治る暇もなく新しい傷ができるし、身体も常に筋肉痛だった。
コロナがあって、その後仕事の関係で村には2年以上帰ってなかった。でも全然そんな気がしなかった。森の感覚、人の温かさ、時間の進み方、日々の営み。何をとっても僕がより人として生きられる場所はあそこなのだという確信。
ここまでコミュニティに認めてもらえていることも喜ばしいことだろう。今回は別れ際にしか会えなかったけど、村の中で僕が特別な思いを寄せる人が力強くハグしてくれた。森の中で何でもできるとても強い人。もっと色々なことを一緒に過ごして教わりたい。兄がいたならこんな人が良かったと思っていて、勝手に兄のように思ってる。
電子機器からほぼ解放された一週間でもあったけど、ここまで自分が煩わしさを感じているとは思わなかった。あそこにいる限りは現実逃避の必要もないからね。そういう意味では、ここの現実はそういう類のものということなのかな。身体にとって、感覚的に現実足り得てない。
今自分の中にある内的なランドスケープが、どうして何もない、ただ広いだけの空間なのかもわかった気がする。このどうしようもない孤独は街に居る時の問題。自然の中に居る時は常に何かが語りかけてくる感覚がある。風一つとっても、肌に触れる感触と共に運んでくる香り、揺られて擦れる木の葉の音、雲の流れ、何かを予感して鳴く虫や鳥、空間そのものが動く。それを身体は告げられているように感じる。だから常に包まれている。
そういったものが一日中絶え間なく続くのが自然の中で、ここの生活にはそれがない。
たまに気持ち良さを感じるのは、人が少ない山側から吹く新鮮な香りの風。居場所をそっと伝えてくれるのは少ししか見えない星。そして内面を写してくれる、建物の隙間からしか見えない雲。それ以外にここにあるものは自己主張が強いものばかり。
多分、何もない空間は自然との隔絶も含んでるのだと思う。それが明白な分、広いのだろう。
僕は本当に街(といっても郊外だけど)での生活が向いていないようだ。
再確認させられた気分。再確認。今ホットなテーマ。
アナスタシアはまだ2巻。村でも時々読んでいて、森の中でこの本が読めるのが少し特別な感じがした。文明観とか、この作者結構僕に似ている部分があって、なんかこう、やっぱり再確認している気分になる。光の勢力とか闇の勢力っていうのは正直合わないけど。でもこれ二元的な部分は置いといて、勢力がForcesの訳って考えると少し印象も違うのかな。
この本は隠遁に意義を見出している。僕は本格的な隠遁というものに憧れがあるし、それに近い生活は村での7年間でしていた。
そこで一つ思ったのが、サレンダーについてだった。サレンダーというのは自分の置き方、意識の在り方について、特に宗教やスピリチュアル界隈で使われている言葉(適当)
自然の中での生活においては意図せずとも自然に対するサレンダーの連続になる。足ればいいのだから、生活の中で自然に対しては基本的に抗わない。抗えないというよりは、抗わない。抗いが生むものに相応の価値がないから。そういう意味で、サレンダーというのは基本姿勢になってる。現地の住民に現代の思想的なスピリチュアルを理解しろと言うのは難しいと思うが、彼らは根本を知っているし、伝承なんかを辿れば過去の知啓に触れることだってできるだろう。それは聴き手、読み手次第。
文明社会はそれぞれ程度の差はあれ別の軸を行く。価値そのものが転換されていて、歯車ばかりが人を差し置いて回っていく。人はそれに適応するばかりだから、自然に身を任すことすら個人で学ばなければならない。それだけでなく、人は自分自身を自然を超えたものだと思い込んでしまう。環境の改変なんかはそういった無意識の現れだろう。畏敬の前に躊躇するラインを、文明にとっての価値のために平気で踏み越えていく。
これだけだと文明批判みたいになってしまうけど、知識を蓄えたり、文化を生んだり、融和に進んだり、文明が集合としての発展を生んでいるのも事実だと思う。
ただやはり、現代においてどうしても自然が切り離された、一つの単なる分野になってしまう部分は集合としても個としても、どうにか意識的に立ち返らなければいけない部分だと思う。
例えば「夜だから寝よう」と言うけれど、結局時計に従って電灯を消して床に入るという動作のどこに自然があるのだろう。それは外側の自然も内側の自然も無視しているのではないか。
「いつも眠る時間だから眠くなってきたから寝よう」というように、生活リズムに従うことは単なる調教ではないか。
ヒトは鳥目ではないから、新月周辺でなければ夜だって行動できる。射幸心に駆られて夜間猟に出る人たちもいれば、その帰りを待って解体や料理をする人もいる。分担して寝たい時に寝て起きたい時に起きるのが集落の人たちで、そこに時計に従うようなリズムなんて無い。あるのは太陽と月と地球が生むリズムに合わせる人のリズム。
隠遁の意義は二つあると思う。一つは自らを社会、文明、世俗といったものから切り離し個の存在として見つめ直すこと。
もう一つは自然に身を任すことで、人間存在の根源に立ち返り、五感やその他を育み統合していくこと。
この双方をもってある意味で一人の人間としてニュートラルな状態を確立する。
現代の文明社会の中で知識を積み重ねるからこそ、先ずは一番大枠のバイアスである文明のレンズを外してあげることが必要なのではないだろうか。そういう意味でもある程度の期間の隠遁というのは、現代に生きる人にこそ必要なものなのではないかと思う。
そして結局のところ(内外様々な)自然と文明の統合も個々人の内で行われていくしかないし、そこでも結局ベースとなるのは自然の側でしかないのは、文明が自然に対する非自然というような類の存在ではないということなのだろうなぁとか思った。
Cicadaはこれも好き
森のミスト。森の空気の重厚感を思い出す。どっしり。生クリームソフトみたいな感じ。
お気に入りのイヤホンが断線しかけてて悲しい。結束バンド2つ使って何とか音が出る位置で固定できたけどいつまで持つだろう…修理は前回失敗したからなぁ…