感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

旧正月、月と人と感覚

いざ書こうと思ったら書きたいことが浮かばない。何書こうかな。30秒頭を空にして浮かんだことを書こう。

森喜朗…

時事問題書く気分じゃないなぁ。まぁみんな鬱憤溜まってるんだろうなって思う。全員が深呼吸してから対話すれば大分マシだと思うんだけどな。以上!

 

 

そういえば旧正月ですね。花火がいっぱい上がってます。

太陰暦って月と人の営みの関係がどれだけ密接だったか、そして今はそれがどれだけ薄くなったかを思い起こさせてくれる気がする。

太陽は確かに季節を考える上では重要だけど、カレンダーが印刷されるようになるまでは月の満ち欠けがそれを伝えていたんだろうなって。

 

それは村の生活で思っていた。あそこの生活では僕は時計もカレンダーも見たくないからあんまり見ないのだけど、どのみち月の周期で大体の日数の経過はわかるし、漁には潮汐が、狩猟には夜の明るさが重要だから結局そっちに生活が合っていく。月のリズムは生活そのものであると言ってもいい。

だから旧暦のような太陰太陽暦は現代の生活でも使えるものなんじゃないかなって思う。太陽の暦の季節感に加えて、より密接に生物、地球そのもののリズムと関わる月の満ち欠けが考慮されているのだから。夜の明るさ、潮の満ち引き、引力。殆どの生き物はその周期の中に生理反応や行動がある。

いくら自然と関わりの薄い営みが人の生活になっているとしても、電灯の下で月の明るさを感じなくなっているとしても、自然の中の存在であることは変わりないのだからって書こうと思ったけどやっぱり関わりそのものが薄くなってるんだもんね。

 

月の下で生まれて月の下で育まれてきた人類はやっぱり月から遠のいたのかな。

でもそれは何千万年という連続を通して僕らの内側にあるのだから、また人が意識するようになれば呼び覚まされるものでもあると思う。それは僕が月明かりの下の生活で感じたもの。

呼び覚まされるって何が?って、わかんないけど、なんかそういう感覚があるわけですよね。森の中で自分の位置を認識する感覚も似たものがあると思う。頭で考えるならとことん頭で考えないと迷う。でもその逆に、森と一体となったような感覚の時は考えない方が迷わない。これも説明しづらいんだけど、なんて言うんだろう。feelじゃなくてsenseなの。でも中途半端はダメ、下手すると逝く。

動物の帰巣性には磁力が関係するって話もあるけど、環境中の色んなものを利用しているのが動物なのだから、ヒトにもまだわかってない何かが色々あるのだろうと思う。その中でも月が知らせる変化の多さから、月の満ち欠けに関わる何かがヒトの中に内蔵されていると考える方が妥当だろうし、なら何かしら生理的な反応を起こさせるものであってもおかしくはないと思う。そうであればそれが薄れた状態は何か失った状態なのかも知れない。

だからではないけど、僕が村の生活で感じたのはそういったリハビリ感とそれによる充足感も大きい。

 

何が言いたいのって、やっぱり月はいいなぁって事なんだろうね。

繋がりが薄れているのは最早人類にとって必要ないからなのだ、月など忘れてしまえ。っていうのもディストピア的展開で好きだよ?どっちも自分の中にいて両極端。はいまたいつもの流れ。カット。

 

去年の春節はちょっとウイルスのあれで寂しくなり始める頃だった。もう一年。早いねぇ。

無理に人と会わないで過ごせるし、出入国とか地域間移動が面倒じゃなきゃずっとこのままでいいんだけどなぁ。なんて言ってると人と全然会わなくなっちゃうから、多少無理に人と会わなきゃいけない状態も有難いということなのだろうね。

 

去年ほど絶望的な迷子感がなくて割と過ごしやすい今日この頃。何であんなに辛かったんだろうなぁ。またなるのかな?それはそれで…って思っちゃうあたりMだよね。でもあれはあれで意欲的だったんだと思う。その辺はいいなってね。