感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

「執着を手放す」から 言葉とイメージ 自分の言葉に翻訳すること 執着と依存 ちょうちょ

執着って言葉をよく見かけるけど、その度に手放すって言葉がセットになってる。

多いのが直球で「執着を手放す」って言葉。でもこれって端折り過ぎじゃないだろうか。

大切なのは自分の感覚に根差した言葉、そこから生まれるイメージだと思う。だからその都度外から入ってくる合わない言葉は自分の言葉に翻訳した方がいいのかなと思う。

 

執着の僕の中でのイメージはそんなに悪いものではない。恐れだったり、そこから得られる何かだったり、何か理由があって手を放せないでいるものがある状態を執着というのだと思う。ただ、手放せないという部分がトリッキーで、日本語には手放すには複数の意味がある。握っていた状態を緩めて自由にするものも手放す(手を放す)だし、捨てるに近い意味の手放すもあるし、遠回しに誰かにあげるという意味もあるし、etc..。

 

執着に関して手放すという場合、僕は手が放れるイメージが一番合うのだけど、よく見かける「執着を手放す」って言葉はやっぱり端折り過ぎというか気持ち悪さがある。だって手を放れる対象は掴んで(縋って)いる何かであって、何故手を放せないのか、その理由が見えていないからこそ執着という形で存在していて、その結果手が放れないのだろうから。手を放せない、力んでいるのは恐れや不安、または求めている何かがあるからだろうし、そこでその対象から「手を放さなきゃ」って思うのはやっぱりなんか違う気がする。厳密に言うなら、僕の場合は、「手が放れるように促す」っていうイメージ。だから手放しとか手放すって言葉はあんまり好きじゃない。

 

日本での手放す観が捨て去る的な意味で使われることが多いのは、「~を手放す」の形で使われるからなのかなとふと思った。

英語ではLetting goになって、これはやっぱり自由にするという感覚で多く使われていると思うけど、日本で多く見られるような捨てるに近い感覚ではあまり使われてない印象。制御を解いて放出するみたいな感覚の使われ方(FrozenのLet it goみたいな)やリリース的な使われ方は見かけるから、やっぱりイメージは言葉に引っ張られるのだろう。

 

例えば「思い込みを手放す」っていう言葉。これも捨てる的な意味になってる場合が多い。だから余計に混同するんだと思う。似たような言葉で別の用法がされてたりするから。

「思い込みを手放す」も僕が気持ち悪さを覚える言葉。だって思い込みは思い込みだと気づけないが故に思い込みとして存在するのだから。気づけば勝手に組み変わって消えるものにわざわざ手放すなんて言葉を付ける必要があるだろうか?って思っちゃう。だから上手くそれをイメージできない。見え方が違うのかな。

それとも「手放す」って言葉に商業的な価値が付いているのだろうか。そういう類の流行り方。断捨離と同じ。

 

10年以上前だけど日本語教師のコースを受けた時、あり得ない状況の例文を作っちゃだめって教わった。「これはペンです。」という文を使いたいなら、無理にでもその前後の状況も作らなきゃいけない。普通のペンに対してこれは何ですか?って聞く人はいないから、特殊な形のペンに困惑して「これはなんですか?」って聞いた人がいるとか。

それだけ一連の(自分にとって)自然な流れとしてイメージすることは理解のために大切ということ。

 

内的なものを表す言葉ほど、誰かが作った言葉は誰かの感覚の土台に作られた言葉だということを肝に銘じておかなければいけないと思う。自分の感覚で他人の感覚の入ったままの言葉を無理やりイメージすると色々とエラーが起きるしね。

 

僕が受容と統合という言葉が好きなのは、それがとても色んなことを包含できるだけ器が大きな言葉だからかも。シンプルだけど結構強引にイメージしても何でも当てはまるし、そこに気持ち悪さが湧かない。それは自分に合うということ。

 

執着というものの僕のイメージを書いてみる。

先ずは何かに必死で縋って掴んでいる状態をイメージする。手を放そうとしても放れない。何故それから手を放せないのか、どういう感情があるのかを見つめる。

そこにそれを自由にしてしまうとどうなるか分からないという不安や恐怖があるなら、または欺瞞の空気があるなら、それは執着と言われる状態の場合が多いと思う。その場合は先ずはその不安や恐怖を認めてあげることが大事なんじゃないかと思う。「そうなんだね」って。そうするとその感情に一歩深く踏み込めるようになるから、より内側を繰り返し見つめていればいずれ思い込みを思い込みという形で認識できて、「あ、じゃあ手を放しても大丈夫なんだ。縋らなくてもいいんだ。」って奥底から思えた時、その不安や恐怖の対象からは自然と手から力が抜けて放れる。手を放れて自由になったものはちょうちょのようなもの。自分の中を勝手にひらひらと舞飛んでいる状態で、また飛んできて肩にとまっても微笑ましく思えれば、それはもう執着と呼ばれる状態ではないのだと思う。(でも自分の肩にそのちょうちょをとめてる状態を、自分のそのちょうちょを抑圧してる人に見せるのは避けた方がいいのかもしれない)

 

この手放しブームみたいな状態の中では、「手放す」を「捨てる」に近い意味で使われていることが多いと感じていて、それがなんかこう、歪な状態を生んでいる場合があるんじゃないかと感じる。「執着を手放す」もその一種だと思う。

SNSなんかで、この人は自分にとって大切なものを捨てようとしてしまっている(抑圧やすり替えを生もうとしている)んじゃないかなって何度思っただろう。それを生んでいるのは、何でもかんでも執着と一緒くたにしてしまう思い込みだったり、執着はいけないものという刷り込みだったり、セットの手放すから繋がる執着は捨てるものというイメージだと思う。

 

それが合う人ならそれでもいいのだとは思うけど、トレンドという強い流れは違う見方を惑わすから。人はそもそも千差万別。僕のようなタイプは、外側の捉え方がまとまっている時は特に警戒した方がいい。だからこそこういう世界で自分に入ってくる言葉は、自分の言葉に翻訳し直すということが大事になってくると思っていて。

 

執着を捨てることに執着があるように見える人。これってでも当然で、執着を持つことに恐れを抱いているから、それを持たないようにっていう気持ちが執着という状況を作るのだと思う。しかも見つめきっていない曖昧な状態だから、執着が執着のままで、それを持たない・捨てる自分をぎゅーって掴んでる。

じゃあそれをさらに捨てようとすればいいのかと言えば違うと思う。やはり必要なのはその執着を抱く自分を認めてあげることだと僕は思う。人間だものっていう気持ち。そして執着というものに対するイメージを書き換えてあげること(善悪、二元の外に置いてあげる)。執着をちょうちょに例えるなら、それが飛んできて自分のどこかにとまっている時、恐らくそこには癒えてない傷があるのだろう。このちょうちょはそういうちょうちょ。だから守ってくれているものとしても、見えない傷を教えてくれるものとしても、感謝してあげればいいと思う。もう一つは、しっかり見つめてあげること。執着かもという曖昧な状態だから執着として認識されるわけで、しっかり見つめれば形は変わって見えてくるし、そのものの在り方も変わっていくはずだから。

 

さっきも書いたけど、よく見かける手放しってあれに似て見える。ミニマリズムとか、断捨離とか。アーリーマジョリティ辺りの性質によるものなのかな。
全てがとは言わないけど、中には、物を持たないことに執着があるように見える人も居るし、捨てることに執着があるように見える人も居る。特にSNSにはその性質上そういう人の発言が目に付くことが多い。(そしてSNSはその性質上近い悩みを持った人を一つの流れに巻き込んでしまう)

断捨離と言って大切なものを捨ててしまって、その大切さに後から気付いて後悔している的な投稿を何度見かけただろう。その度に他人のことなのに悲しい気持ちになる。中でも物への愛着を執着と履き違えて捨ててしまう内容が一番見ていて悲しい。気付かれなかった思いが泣いているように見える。

物を大切に思うこと、捨てられないことは別に悪いことではないはずなのに。

 

内的な方も、執着の手放しクラスターみたいな人達(最近はもっと一般的に浸透してるけど)の中には同じ構図が多く見える。だからこそ、何かを執着と決めつける前に、しっかり感情を見つめてあげた方がいいと思う。自分の中の大切なものを執着と決めつけて、しかもそれを捨てようとしている人は沢山居るように見える。その藻掻きがいずれ気付きに繋がるなら無駄ではないのだろうけど、でもね…

僕から見てそう見えるということは、自分もそういう部分を持っているということ。僕の場合は他人のまとまった感情には反感を覚える方だから、割とすんなり抜けたけど、人々の感情と親和性の高い人は相当この隠れた他人軸に惑わされる部分なんじゃないだろうか。それを思うと心苦しくなる。

 

みたいに、ここまで書いたこと全てが僕の自分の言葉への翻訳なわけだけど、それは言葉の他人軸を自分軸に変換することだと思う。自らの感覚の土台にイメージを築くために。だからこそ、合わない言葉は無理に使わない方がいいのかも。僕は「手放す」が合わないから自分に合う「自由にする」を使うとか。よそはよそ、うちはうちでいいと思う。

 

執着について書いてみたけど、依存っていうのも色んな意味で似ているよね。

執着と同じで依存する自分を恐れている人はとても多い。対面にあるのは世間の自立観に植え付けられた、自立しなきゃという強迫観念だろう。自立が善くて依存が悪いという白黒観念。(でも自立とは?)

執着は自分が抱いている恐れや不安について直視できないが故のもので、(精神的)依存は依存している対象をなぜ求めるのかという理由に、より深い部分で無自覚であるが故のものだと思う。だからどちらも見つめれば形が変わるし、悪いものだというジャッジメントとは違う目で見ればその言葉に付きまとう思い込みも外れていくのだと思う。

どっちも綺麗なちょうちょで自然の一員だよ。