「違和感を感じる」っていうのを誤用とされることがある(許容される場合も多いようだ)が、「違和感がある」、「違和感を覚える」ではやっぱり微妙に違うんだよなぁと思うことがある。
文法云々の話ではなく、感覚の話。
「違和感がある」と浮かんだ時、僕は外側にフォーカスしている。この椅子の並びには違和感があるだとか、この配色には違和感があるとか。なんか違うなぁって外を見てる。この場合は確かに違和感を感じるだと二重表現かもしれない。
「違和感を感じる」と書いた時、僕は内側にフォーカスしている。違和感(を象徴する感覚)という塊が僕の内側に存在し、それを感じている。違和感があるのを実際に感じているから、感じるという表現以外あまりしっくりこない。この場合は感じるが違和感というものにかかっているだけで、二重表現とは感じない。
これは上の「違和感がある」の時のような状態に対してそれを感じる時もあれば、明確に何に対して自分がそれを抱き、感じているかすら分からない時もある。あくまでこれが浮かぶときに見ているのはその塊であり、それを感じている。
「違和感を覚える」というのは僕の場合中々浮かぶ場面がない。「覚える」は感じるに近いのだろうけど、これはもっとぼんやりしてる気がする。例えば殺意を抱くと殺意を覚えるでは濃度が違うというか、その殺意の明確さが違うのだと思う。僕の手が違和感を感じるとタイプする時、違和感という塊はもっと明確に存在している。
意識的ではないけれど、○○(感)を感じると書かれているのを見る度に、僕はあれのことかな?これかな?と自らの感覚を精査していたりすることに気づく。そういう意味で、「感じる」という主観的なものを伝える、受け取るというのは、ある種特別な意味があるように思う。そういう風に捉える僕が「○○感を感じる」という言い回しに対し肯定的なのは当然のことなのだろう。他人がどう感じるかなんてわかりっこないと思っている分、それを受け取って自分の中で再現することが好きなのかな。
造語症なんていう言葉を耳にすることもあるけれど、僕はそれを言われる側に親近感を抱く。多分、僕にとって言葉とはそういうものだからだろう。言葉を浮かんだイメージから組み立てたり、型に合うように詰め込んだり、切り貼りして成型するのはとても大変だから。かといってこうして思考を薄めてタイプしている時も、指が打つ文字列が日本語としての形を保っているのか不安になることが多い。
感覚をその通り文字にして伝えようとすればする程ぐちゃぐちゃになったりするものだ。だからよりその人に合う表現法として絵画や作曲等の芸術が重要になるとも言われる。
単語にしても文章にしても、感覚的に造形されたものは僕の中にすーっと入ってくることが多い。伝えるという部分において、誤用であることは僕は些細な問題だと思う。伝えたいように伝わらないのでは伝えるという意味が薄れてしまう。
文法の正しさは科学のように広く、誰にとっても正しく伝わるという部分が大事であって、それには向き不向きがあると思う。そもそも同じ物を食べた2人の感想が伝わったり伝わらなかったりするくらい人の知覚からアウトプットまでのプロセスの違いは幅が広い。口に入れたときに情景が広がるのか、材料が思い浮かぶのか、それがイメージで残るのか、それとも言葉で残るのか、前評判に左右されるか、ほとんどされないか、本当に幅が広く、そのグラデーションは3次元的。
そういった感想を多くの人に伝わるよう型にはめ込む努力、そこには一種の価値がある。多くには伝わらないかもしれないけれど型にはめる前の形をできるだけ残したまま伝えようとする努力、そこにも一種の価値がある。
そういう違いなのだと思う。